はてなキーワード: アドバンテージとは
でもその顔の一部は常に隠してショートカットでヨレヨレのTシャツ
だべってるだけみたいな感じの作りの甘い動画だと
若くてかわいいっぽい女でもこんなもんなのというせちがらさを感じるスコアだった。
メンヘラっぽい不思議女子という今では飽き飽きされた類型からはみ出す何かがなかった。
noteによれば「売れる」ことを念願としてたみたいで
しかしどのコンテンツも「あんたそれでどうやって売れる算段なのよ」という感じだった。
絵にしてもファインアートで売れるわけないしモチーフも抽象画だし
”若い女”を生かすにももっと図太い押し出しが必要だけどそれがない。
noteだって誰にも興味持たれてない段階で自分語りしたって広がるわけない。
インスタの個展のいいねもnoteのフォロワー数も「これリアル知り合いだけでしょ」という数字。
飛び降りのきっかけは予定してた路上ライブに行けなかったということで
家で泣きながら「来てくれた人がいたかも」と謝って「飛び降ります」と言ってたけど
たぶんそこまで楽しみにしてた人も落胆した人もいない。
若い女だったら来るはずの変な男すら来てないわけで
まず絵はやめる。売れるわけないから。「実はできる芸」として持っておく。
音楽もかくし芸で十分。やるときは背中丸めて下向いてないでどう見えるか意識する。
youtubeは顔を全部出して基本ノーブラで毎日川で頭を洗い
道すがらに野の生物を捕らえて調理して食う。(実は需要の高いジャンル)
さらには嵯峨だの嵐山だの近所の風光明媚な名所をノーブラ徘徊してカエルやネズミをとって喰らい
場所柄「会いに行ける鬼婆」というか廉価版酒呑童子みたいな存在感が出たかもしれない。
あらゆる活動が「現代アート」と思われた途端に一段色あせるため。
「そんな妖怪みたいな存在感で売れたくない」のようなこだわりも必要ない。
誰にも見られてない誰にも知られてない状態とはバフが違う。
面白い芸がないのに漠然と「売れたい」と考えてる人はたくさんいすぎてレッドオーシャンなので
なにか面白い芸を身に着ける方が楽なのではと思う。
ファインアートは厳しい。だれも見向きもしないしフィードバックがなさすぎる。
youtubeはノーブラするだけで増えるんだからそのアドバンテージはバンバン生かしてフィードバックを得るべきだった。
文章はどこででも書けるし増田みたいな場所ならフィードバックは得やすい。
「誰にも見られてなくても関係ない」で絵や音楽や文章をやり続けられるのは特殊な才能の持ち主で
「これを発表したらこれぐらいの反響があるだろうけどめんどくさいからやめときましょう。完成して満足。」みたいな人。
若くて余裕がなくてすぐ売れたいと焦ってる人は
誰も見てない場所でもがくと気が狂いがちなのでまずどうフィードバックを得るかと考えるべきで
そこで重要な注意点としてフィードバックくれる人達を個人として見ないこと。
見分けのつかない魚の群れだと思うことで正しいフィードバックを受け取れるし変な執着もしない。
漫画読めるサイトでもよくあるビューワーより、漫画の1話~最終話まで(※単行本単位にも切り替えられるようにする。表紙とかそういうのは該当話の後につけて、おまけは独立)、右側か左側の話数一覧から、PCなら話の表紙とかのプレビューをマウスカーソルで表示させて、なんならページ数のジャンプもボタン置いておいて全部1キーで出来るとか、それくらいのを、画像縦並びとかにして、こういう感じのを一元管理すれば絶対殺到すると思ってる
1話から最終話まで読みやすい形で、例えばあの話は何話だったか~みたいなのを、いちいち単行本とかごとに切り替えて表示したり、画面から漫画が表示されてるエリアを見失ってまで話数探したりするっていう検索性の悪さだと、単行本をひっくり返して話探してるのと一緒なんだよね
提供して欲しいのは「見たい話を簡単に読みやすく読める」、例えばアニメでああいう話あったけどあれは何話かなとなったときに探す手間を少しでも省けるようにしてあると、絶対読みやすくなるというか
そういう形で一気に読めるようにするっていうのは、単行本だとあり得ない検索性の良さっていうア上位体験、アドバンテージになるんだと思ってる
もう一つ言うと絶版漫画とかみたいに、物理書籍でもう手に入らない漫画をサブスクで読めるようになるかとか、キャラクターブックとかそういうファンは読めるけど電子書籍とかであんまり読めなさそうな話だとか、まとめて読めるかどうかっていうのが大きいと思うわ
4,5,6月生まれの子は、1,2,3月生まれの子よりも、有意に成績が良い。
では、この9か月でついた差は後者の子たちが9か月余計に勉強すれば埋めることができるのか、というと、到底埋まらない。
小さい頃に肉体的な成長度によるアドバンテージでついた相対的な差は、おそらくは勉強の好き嫌いや苦手意識などを生み、最終的には9か月の時間だけでは埋められない差になるわけだ。
こういう点を重視すると、他の子よりも早く学び始めるということはとても重要に思える。
実際、より早期からの教育は、最終的な学歴や所得の有意な差を生むことが知られているしね。
追記:
もし、早生まれの子供がこの文章を読んで「当てはまる」と思ったとしたら、私がその人に言いたいのは
「あなたは、実態以上に自分の能力を過小評価している可能性がある。努力は、あなたが思っている以上に成果を挙げている」
ということだ。
もともとの投稿は親に向けたものであり、9か月では到底埋まらない」というのも「親が子供を今まで通りにして9か月分の成長を待つだけでは到底埋まらない」という趣旨で書いた。
先取りしたからって、最終的に到達できる地点が遠くなるわけじゃないと思うんだけどな。
話を単純化する。
幼稚園で掛け算までできたとするじゃん。
掛け算は小2だから、年長で掛け算ができたら2年のアドバンテージだ。
じゃあ、そのアドバンテージをずっと保てるのか?保てたところでいいことがあるのか?
まずは、アドバンテージを保てるのか?ということを考える。
学校とは別のところで進めるわけで、とれる勉強時間は学校より短いわけじゃん?
学校で10回20回と反復練習して覚えることを、3回とか5回で覚えないと時間が足りない。
なので、先取り学習できる子は優秀というのはわかる。
でも、優秀ではない子が、先取り学習によって優秀になれる、はないんじゃなかろうか?
次に、アドバンテージを保てると仮定して、それは有利なのか?を考える。
つまり、高校3年生の時点で大学2年生の数学を使いこなせて有利があるのか?大学2年生の英語を使えて有利があるのか?
あるいは、高一で高三までの課程を修了してれば、高二高三の2年間を受験勉強に費やせるので有利なのか?
それも、そんな単純なものとは思えないんだよな。
多くの人々がポーカーというゲームに魅了されるのは、それが単なるギャンブルではなく、高度な戦略、精密な計算、そして相手の心理を読む深い洞察力が求められる「マインドスポーツ」だと信じているからだろう。煌びやかなトーナメント、数億円という破格の賞金、そしてスポットライトを浴びるチャンピオンたち。その姿は、努力と才能が正当に評価される、実力主義の世界の象徴のように見える。
しかし、その輝かしいイメージの裏で、我々が決して目を向けてはならない、あまりにも残酷で不都合な真実が存在する。もしあなたが本気でポーカープロを目指しているのなら、この甘美な幻想は、キャリアの初期段階で徹底的に打ち砕いておく必要がある。
結論から言おう。現代のポーカープロになるための必須条件、それはスキルでも、経験でも、ましてや精神力でもない。それは、常軌を逸した「強運」と、その運を試すための試行回数を他人の金で確保する「資金調達能力」である。
ポーカーのトーナメントの本質を、極限まで単純化してみよう。それは、膨大な数の「オールイン対決」を生き残り続けるサバイバルゲームだ。特に、チップ量が拮抗し、プリフロップでのオールインが頻発する中盤から終盤にかけて、プレイヤーのスキルが介在する余地は驚くほど少なくなる。
ここで、ポーカーで最も頻繁に発生する「50% vs 50%」の状況、通称「コイントス」または「フリップ」を考えてみよう。例えば、あなたのハンドがAK(エース・キング)で、相手がQQ(クイーンのペア)。どちらが勝つかは、コミュニティカードが開かれるまでほぼ五分五分だ。
さて、もしあなたがトーナメントで優勝するために、この50%の勝負を10回連続で勝つ必要があったとしよう。その確率は一体どれくらいだろうか?
そうだ、たったの1024分の1である。これは、スキルも経験も一切関係ない、純粋な確率の世界だ。コインを振って10回連続で表を出すことと何ら変わりはない。
つまり、極端な話、ポーカーを覚えたての初心者であろうと、10年経験を積んだをベテランであろうと、この「1/1024」の幸運の雷に撃たれさえすれば、世界的なトーナメントで優勝できてしまうのだ。そして、この偶然の産物であるチャンピオンは、いとも簡単に「自分は強い」と勘違いを始める。
「あのアクションが神がかっていた」「あのブラフで相手を降ろしたから勝てた」「プレッシャーの中で冷静な判断ができた自分は本物だ」
彼らは、結果から逆算して自分の成功物語を紡ぎ始める。しかし、その裏側にあるのは、9回連続でコイントスに勝った後、最後の10回目で無情にも敗れ去った、彼より遥かに実力のあるプレイヤーたちの無数の屍だ。メディアは1024分の1の勝者を英雄として祭り上げるが、残りの1023人の敗者の物語が語られることはない。この強烈なサバイバーシップ・バイアスこそが、「ポーカーは実力ゲームである」という幻想を強固に支える最大の要因なのである。
「長期的に見れば、期待値(EV)がプラスの行動を繰り返すことで収支はプラスに収束する」
これは、ポーカーを科学的にアプローチしようとする者が、まるで聖書のように信奉する言葉だ。しかし、この「長期的に見れば」という言葉の本当の恐ろしさを、彼らは理解しているのだろうか。
ここで、ポーカーの世界から一度離れて、カジノの胴元の立場になって考えてみよう。ブラックジャック、ルーレット、バカラ。これらのテーブルゲームは、すべてカジノ側(胴元)にわずかながら数学的な優位性(ハウスエッジ)があるように設計されている。つまり、胴元のすべての判断は、常に「期待値プラス」なのである。
彼らは、ポーカープレイヤーが血の滲むような努力の末にようやく手に入れるかもしれない、ほんのわずかな優位性を、ルールそのものによって永続的に保証されている、いわば「期待値の神」だ。
しかし、そんな神ですら、運の前にひれ伏すことがある。カジノの運営において、特定のテーブルゲーム部門が1日単位、1週間単位、あるいは1ヶ月単位でマイナス収支に陥ることは、決して珍しい話ではない。あるハイローラー(大金を賭ける客)が驚異的な幸運を発揮し、たった一晩で数億円をカジノから奪い去っていく。そんなニュースを耳にしたことがあるだろう。
数学的に絶対に負けないはずの胴元ですら、統計上の「ブレ」や「偏り」、すなわち「分散(Variance)」によって、短中期的には容易に赤字を出すのだ。
さて、ここでポーカーの世界に話を戻そう。胴元が持つ数%の鉄壁のアドバンテージに比べて、トッププロ同士の戦いにおける実力差(エッジ)など、一体どれほどのものだというのか。0.5%? それとも0.1%? おそらく、その程度の、誤差のような差でしかないだろう。
そんな、カジノのハウスエッジに比べれば無に等しいような僅かな優位性で、人生というあまりにも短い試行回数の中で、収支がプラスに収束すると本気で信じているのだろうか。答えは明白だ。人生のすべてを賭けても、ポーカーの収支は決して収束しない。あなたの生涯収支を決めるのは、日々の細かな期待値の積み重ねなどではない。キャリアを根底から揺るがす、数回から数十回の巨大なポットを、運良く勝ち取れたか、不運にも失ったか。ただそれだけである。
ここまで述べたように、トーナメントでの成功は天文学的な確率の産物であり、日々のプレイですら、あまりにも巨大な分散の前では個人のスキルなど無力である。
では、なぜ「ポーカープロ」という職業が成立し、彼らは破産せずに活動を続けられるのか。日々の生活費を払い、高額なトーナメントに参加し続けることができるのか。
その答えこそが、この世界の最も醜く、そして最も本質的な真実を突いている。
現代のポーカープロに必須の条件、それは**「ステーキング(Staking)」によって、他人の金でギャンブルすること**である。
ステーキングとは、投資家(バッカー)がプレイヤーのトーナメント参加費を肩代わりし、その見返りとして、もしプレイヤーが賞金を獲得した場合、その一部を受け取るという契約モデルだ。
これこそが、現代のポーカープロを支える生命線なのだ。彼らは自らのスキルを商品として投資家にプレゼンし、「私はこれだけの実績がある」「私のプレイスタイルは今のメタ(主流戦術)に適している」とアピールして資金を調達する。そして、その集めた金で高額トーナメントという名の宝くじを何十回、何百回と購入し続ける。
20回連続で参加費を失っても、彼らの懐は痛まない。損失を被るのは投資家だ。そして、21回目に、あの「1024分の1」の幸運を引き当て、莫大な賞金を獲得する。彼らはその賞金から投資家へ配当を支払い、残った巨額の利益を自らのものとする。そして、メディアは彼を「天才」と呼び、彼は再びその名声を元手に、次の投資家を探すのだ。
つまり、彼らの本当のスキルは、カードテーブルの上で発揮されるものではない。彼らの主戦場は、投資家との交渉のテーブルなのだ。いかに自分を大きく見せ、いかに自分という金融商品に投資価値があるかを説得するマーケティング能力と交渉術。それこそが、運という名の荒波を乗りこなすための唯一の羅針盤なのである。
これからプロを目指すというのなら、GTO戦略を学ぶ前に、まず投資家向けの事業計画書を書くべきだろう。ポーカーはもはやマインドスポーツではない。それは、自らを広告塔とした金融ビジネスであり、運の女神を他人の金で口説き落とす、壮大なギャンブルなのだから。
オープン型のSNSはみんなオッサン・オバハン化して新規の若い子入る場所がどの位あるんやろか。
言うてTikTokやインスタとかのような若さがアドバンテージになる所やXのようなオタクコンテンツの広報拠点はある程度の流量確保できるやろけど、交流に使う子ってもうあんまりおらんのと違うか。
早々と仲間内で繋がってDiscordとかクローズドの場所に潜って行くようなイメージがあるな。
もしそうなら、おっちゃんは正しい使い方しとると思う。
オッサンやオバハンがSNS云々騒いで規制しようとするけれど、規制するまでも無く最早只の情報ソースとしか見てないんじゃないかと思う。
規制したら規制したでまた若い子は新しい物を生み出すだろうから、そしたら昔2chやTwitterがワイワイしてた時代に思いを馳せられるような面白いものが見られるかも分からんね。
成金のオッサンの自己アピールと偏屈者同士のストリートファイトと売女ばかりの場所、おっちゃんも退屈で仕方ないわ。そら仲間内で平和にわいわいやりたいわな。
トランプのアホが戦争と脅迫と税による他国弾圧と人類虐殺と企業攻撃が好き過ぎるせいでどんどん金価格が上がってく。
トランプしねばいいのになーっておもうけどあいつがしんだ所で結局共和党の支持率が更に上がるだけだから無意味で虚しくなる。
結果的に米国内一般消費者も関税の影響で苦しんでいるから誰も喜んでない。
米帝の支配構造下での属国形成及び各属国への関税負担強要及び軍事圧力による支配構造のさらなる強化及び、全世界ネットワークの主体たる海底ケーブルの主要ハブが米国という大陸にあるというアドバンテージを利用したネットワークの支配及び、有線ネット以外の通信網として期待しうるスターリンクも政府側が支配しているということの軍事利用のさらなる加速(ウクライナに対しては既にスターリンクを脅しの材料に使っている人非人トランプなので信用に値しない)
この軍事脅迫と通信網支配の合わせ技を使えば事実上地球に米国に勝てる組織が存在しない
それでも全世界のグローバル経済活動を行うにあたり全人類はawsやらgcpやらazureやら深層学習全般やらを使用せざるを得ないが故にNASDAQの信用は揺らがないし自動的に全世界の経済活動の資金はビッグテック経由の税収という形で米国政府を育てていく。
うんちうんち
これがiPhoneの厚み一覧で
https://x.com/rjonesy/status/1567687018276163584
12のカメラを含めた厚みに統一し、カメラは1つにし、古いDockではなくUSB-Cポートにし、eSIMにすれば、バッテリーも実用範囲だろう
放熱において厚みではアドバンテージがあるけど、4Sの表面積じゃ放熱が間に合わないようなことをしたいなら Pro Max をどうぞ
なお最新のPixel 9aはほぼ出っぱりなしで本体の厚み8.9mm、カメラは2つ搭載しているので、厚みの観点ではiPhoneでも可能だろう
需要が少ないのはminiの実績が示してるけど、SEみたいに数年に一度出すくらいのサブラインナップなら固定ファンがつくんじゃないかな
今は27卒の就活真っ只中のシーズンで、本当に早い人は内定を貰っていると思う。
大学院に進学して、4月から狂ったように就活サイトに登録し、自己分析・説明会参加・インターンの調査…そして何より将来の不安を抱えてスタートを切る。理系でこれだから文系はもっと大変なのだろうか?
普通の大学生であれば、同時に研究も進めなければならない(D進をするすごい人達は置いておいて)、m1の最後あたりで国際会議を目指すとなると、夏にはそれなりの成果が出ていないとダメだし、まとまっている必要がある。
就活の早期化によって、実質的な最初の選考は夏インターンとなり、その時点で面接や自己分析がしっかりできていないと、これがまた通りにくい。
そして、ガクチカ。これが厄介で、ボランティアやサークル活動なんかではあまりインパクトがないため、インターンや大学外の活動(バイト以外)が必要となってくる。オーナーシップを発揮した機会だとか、どんなスキルを身につけたのだとか。
つまり、就職のために夏インターンに参加する必要があり、その選考のためのガクチカ、のためのインターンに参加する必要がある。このインターンに参加するためには…
どこからが就活なんだろうか、性格や経歴も大事だし、バックグラウンドとして海外に住んでたとしたら、それもアドバンテージだ。さらには、学歴フィルターも少なからずあるはずだ。これらを得るためには、何が必要?語学スキル?コミュニケーションスキル?生まれつきの能力?環境?
ただ、内容によって今後の人生が左右される以上、とりあえず職を得るでは不十分で、自分に合った職(好きでは良くない気がしている)にたどり着くことが本当の目標になる。
自分の就活の結果は、自分の専門の研究内容とほぼ関係ないところになった。研究活動を通して得たものはサーベイの仕方や発表スキルなど色々あるが、専門で学んだ内容はあまり活かされないのかもしれない。それでも、自分がやりたいと感じたこと、得意だと感じていること、またその会社の文化を、見て・聞いて・触れて、選んだ。だから、全く不満は無いし、働くのがとても楽しみである。ただ、ここまでやってきた研究活動や学会発表、論文投稿で得た専門の知識はなんだったのだろうか、と思ってしまう自分もいる。
まだ自分は若造なので、もしかしたら歳食って振り返ってみたら色々と役立つところがあるのかもしれない。それだけなのだが、今までの研究活動での専門性はなんだったのだろう…と最近考えてしまう。寝るか。
結論から言えば、「文化として浅いからだろうな」という話になります。
将棋は日夜研究が行われているためプロ棋士が「これが最新の戦術だ!」と本を出します。
ですがカードゲームは公式がぶっ壊れカードを出すたびに戦略もクソもなくなるので、その業界のプロさえ「これが攻略法だ!」と語れないんですよね。
麻雀・ポーカー・パチンコはそれなりに攻略本が出ているわけですから、それらと比較してもかなり文化としてしょーもないことがわかります。
もしもカードゲームが本当にご立派な戦術を掲げられるなら、色々本が出てるはずですよ。
たとえば
・アドバンテージの方程式 ~その「1:2交換」って実は損してるかも~
・「全知」も「閃刀姫」もコレでバッチリ!元◯◯日本チャンプが教えるコントロールの回し方!
みたいな本が沢山出ているはずなんですよね。
「本当にTCG界隈なんぞに深い文化や知性が存在する」ならね。
でもそうじゃない。
つまり、そういうこと。