《卒論》蕎麦食の風景 -山中の蕎麦屋はなぜ繁盛しているのか-
2月10日(水)におこなわれた卒論webex発表会の報告第3弾です。わたしの卒業研究は教授、会長、三年生、四年生に支えられ、なんとか論文としてまとめることができました。本当にありがとうございました。この研究の調査に協力していただいた全ての皆様に心から感謝致します。(ころっけ)
蕎麦食の風景 -山中の蕎麦屋はなぜ繁盛しているのか-
Food-scape of the buckwheat in Japan -Why are the buckwheat noodle’s restaurants in the mountains so prosperous-
SATO Akinari
研究の背景
一昨年来、研究室全体で昭和49年(1974)刊行の報告書『鳥取県の民家』に掲載された古民家の追跡調査に取り組んできた。その結果、古民家の指定解除や倒壊・撤去などの衝撃的な事実を目の当たりにした。過疎地の民家等歴史的建造物が持続可能な状態にあるとは到底考えられず、その集積として集落あるいは町村等自治体そのものが「終活」の時代を迎えつつあると実感している。ところがあるとき、鄙びた山間部に店を構える蕎麦屋が繁盛し、客を集めている事実に気付いた。たとえば、奈良県宇陀市にある「一如庵」の店主は禅寺で精進料理を修業し、いまは宇陀川上流の古民家で精進料理と蕎麦の店を構えている。一如庵はミシュラン一つ星を獲得し、日々来客でにぎわう隠れた名店である。このように地域全体が人口を減らし衰退の傾向を示すなかで、蕎麦屋だけが活力をもって営業している現象に興味を惹かれたことがこの研究の発端である。
蕎麦の起源
蕎麦という栽培植物の起源については、井上がアジア的視野から概説するので、わたしは日本に係わる問題を整理する。中国の発掘調査では、2006年に遼寧省の呉家村遺跡でソバの種が多数みつかった。呉家村遺跡は、約5500年前の紅山文化に属し、日本では縄文時代前期にあたる。いわゆる気候温暖期の農耕文化として注目される。以前からバイカル湖周辺のシベリアをソバの起源地とみなす説はあったが、呉家村遺跡をはじめとする中国北方で続々と栽培蕎麦の痕跡が発見され、その範囲は中国の東北地方にまで及んでいたと推定されるようになった。そうした栽培種の蕎麦が朝鮮半島経由でもたらされたのは、やや曖昧な言い方になるが、弥生時代以降というしかないようである。気になるのは、蕎麦と米の関係であり、なんとなく日本の主食は、蕎麦などの雑穀から赤米を経て白米に変わっていくようにイメージされているが、そうしたイメージを証明する考古学的な証拠はまだないとのことである。
救荒作物としての蕎麦
蕎麦は救荒作物として重宝されていた時代があった。日照り続きで稲の収穫が見込めない場合、蕎麦の栽培が推奨された。ここでいう蕎麦は、そば切りではなく、そば米やそば粥、そばがきなどであり、蕎麦は民俗学で分類するところのハレとケで大別するならば、「ケ」の食べ物であった。
文化麺類学-「麺」とは何か
戦国時代の終わりころ、蕎麦は細い切り麺になりるが、ここで「麺」という漢字に注目すると、「麦」と「面」が複合している。つまり麦でつくった面状の食べ物が「麺」なのである。ピザの生地などはその代表例であり、日本なら(鏡)餅にも似たイメージがある。蕎麦の場合、「そばがき」が本来の麺に近い状態だと言える。この平たいピザ生地のような食材を伸ばしたり、切ったりして、細い「麺」が誕生するのである。
精進料理と蕎麦
戦国時代信州の定勝寺の記録に初めて「振舞ソハキリ」という記録を確認できる。ここにみるように、蕎麦は山寺での修行僧の栄養源として重宝され、精進料理とも関係が深く、寺の門前に蕎麦屋や精進料理の店が多いのもよく知られているとおりである。鳥取市の摩尼寺門前の門脇茶屋も精進料理の店だが、茶そばをメニューにしている。
日本の蕎麦麺の変遷
そば切り麺が世に出てから、蕎麦は縁起の良い「ハレの食品」に変質する。大晦日に食べる「年越しそば」の習慣や、引っ越しの挨拶に「そば(傍)に参りました」の語呂合わせから蕎麦を贈る習慣は江戸時代におきたとされる。その一方で、江戸の大都市化により、街づくり職人の増加と多忙化が発生し、職人用のファストフードとして蕎麦は大量生産され、低価格化し、下層階級の人々に普及していった。
蕎麦屋データベース
蕎麦はもともと寒冷高地の栽培植物であり、そのような山間過疎地域を調査対象として選択した。対象地は主に中国山脈周辺の因幡・伯耆・美作(みまさか)・但馬(たじま)などである。これら諸地域の蕎麦屋情報をネット上で網羅的に収集し、58件のデータベースを作成した。データベースの項目は、蕎麦屋の立地環境、店舗の建築形式とインテリア、展示物、容器と盛り付けなどである。
床瀬そば
データベースに含まれる数件の有名店を訪れ、蕎麦屋経営の極意を探った。床瀬そばは神鍋高原のスキー場に近い山間部にあり、山水に恵まれている。昭和戦後の大型木造和風住宅を改装したものであり、座敷にちゃぶ台と囲炉裏をしつらえる。店内は住宅時代の面影をよく残し、床の間と仏壇があり、壺や掛け軸などを飾るが、全体的に民芸系でややキッチュな匂いがする。BGMはなく、山椒川のせせらぎが微かに聞こえる。蕎麦は竹を半割にした器に盛られおり、そばがきも提供している。蕎麦以外にも精進系のサイドメニューが充実しており、四季を通じて遠方からの客を集めている。
そばカフェ「みちくさの駅」
八頭郡智頭町福原の山中にある蕎麦屋兼カフェ兼土産物販売店。店主は約12年前にUターンし、周辺に広がる休耕田の再生活用で、エゴマや蕎麦等の栽培を始め、それらの加工品を販売するため「みちくさの駅」を一級建築士の資格を活かし自ら設計した。建具や椅子・テーブルなどは自作である。店舗の建築・家具等は智頭杉をふんだんに使用し、デザインのコンセプトは「洋風」を意識した。みちくさの駅は「蕎麦屋」ではなく、蕎麦を食べている隣で紅茶を飲んでいてもおかしくない「そばカフェ」を目指しており、BGMはカフェに似合うジャズが流れている。蕎麦粉(の一部)も自家栽培の手打ちで、器は愛媛県の砥部焼を取り寄せている。また、自家製のエゴマを用いた半殺し餅や自家製の紅茶も提供しており、地産・手作りにこだわっている。なお、この一年は来客が増えたとのこと。コロナ禍によって、市街地での外食を避けた人たちがマイクロツーリズムのようにして、山間過疎地に建つみちくさの駅に押し寄せた可能性がある。
そば切り「たかや」
山間部ではなく、鳥取市街地郊外(旧農村地帯)のそば切り「たかや」についても取り上げておく。古郡家の「たかや」は午前11時半に開店し、午後1時前後には蕎麦が売りきれる人気店として知られる。元は鳥取駅の裏手に店を構えていたが、平成12年(2000)に火災に遭い、地域おこしに係わるNPOの薦めもあって、古郡家に移転した。店舗は戦前竣工の村の農業倉庫を大改装したものである。古郡家は郊外農村エリアにあり、駅裏より不便な場所だが、農業倉庫の周辺に広い駐車場を確保できる。現代の車社会にあっては不利にはならない、との判断から、移転を決めた。店内は、民芸調に流れ過すぎないようにしつつ、「数奇」の精神を徹底させている。展示物は水墨画の屏風、昭和映画のポスター、金魚、骨董などを季節ごとに入れ替えており、客が待ち時間を退屈せずに過ごせるよう工夫しているという。容器は岩美の岩井窯の作品を多用し、また展示している。店内のBGMはバロック系が多く、蕎麦の清涼感とよく合っている。
蕎麦と蕎麦食のフードスケープ
本論文はフードスケープ(食の景観)という文化人類学の概念(河合2020)を取り入れている。フードスケープとは「食をめぐるまなざし」を意味する。ただし、スケープを視覚的・心象的な文脈からのみ捉えているわけではなく、食やそれをとりまく配置のような物質的側面を重視する場合もある。たとえば、日本の中華街は、中国の町並みを複写するのではなく、日本人のイメージする中国的な要素を集積させたものであり、こういう作為が蕎麦屋に認めうるであろうか。
まず、蕎麦屋が山間部にあることは、蕎麦の栽培地が寒冷な高地にあることや、山水の風景に恵まれており、とくに蕎麦粉を絞める水が清涼であることとイメージ的に連鎖している。また、郊外や山間部の蕎麦屋は必ず「木造」の建築・インテリアと複合している。同じ和食のうどん屋や寿司屋が非木造である場合もあることと異なり、蕎麦・精進系は民家・民芸あるいは禅・詫び・数奇などの日本の美学に近しいものとイメージされていることが分かる。ただし、木造の全てがそうした和の美学を反映するわけではなく、林業(植林)の木材活用の手段である場合もあり、その典型として智頭の「みちくさの駅」や岡山県勝山の「一心庵」をあげることができる。
日本人が蕎麦を愛する理由
福原耕は近著『蕎麦の旅人-なぜ、日本人は「そば」が好きなのか-』において、蕎麦は春夏秋冬、東西南北、弥生の時代から現代まで日本人とともに数千年の時を刻んできたことから、歴史的、風土的、気質的に、我々日本人と非常に強い関わり合いを持ってきた食べ物であることが、日本人が蕎麦を愛する理由」だとしている。納得できるような、またできないような指摘であると思うが、自分がその理由を説明するのは、なかなか難しい問題である。
なぜ山中の蕎麦屋は繁盛しているのか
一方、わたしは、なぜ蕎麦屋が鄙びた山中にあって、活力をもっているのか、について考えてきた。それを整理すると、以下の4点を指摘できるように思われる。
①蕎麦の栽培地は高地にあり、山中の清涼な水が蕎麦打ちに必要で、山水の風景も蕎麦とよく似合う。
②蕎麦は精進料理の一部として発展してきた歴史があり、山林仏教的な精神を食文化に表現しているが、現代にあって蕎麦・精進料理は体にやさしいヘルシー食品として再評価されている。
③衰退する林業(植林)地の振興策として、山間休耕地に木造の施設を新築し、蕎麦屋などに使用する例が漸増する傾向がみとめられる。
④車社会の発展とともに、郊外や山間部でも、店舗が存在すれば、マイクロツーリズムの対象となり、半日程度で楽しめる観光地の一つになりうる。
④の例をあげておく。広島県安芸太田町の月ヶ瀬温泉は、中国山脈内の過疎地にあるが、最近ブータン産の蕎麦粉を使った蕎麦屋「やぶ月」を開店させ、温泉と蕎麦屋で多くの旅客を集めている。月ヶ瀬は広島市街地から高速道路で1時間程度のところにあり、マイクロツーリズムの観光地としてコロナ禍のなかでも来客数を増加させたという(みちくさの駅と類似)。
以上みたように、限界集落化した山間部は、住むには難しいが、日帰り程度の旅行には適している。山中の蕎麦屋は、工夫次第で今後も一定の集客を実現でき、持続可能であると予想している。
《参考文献》
福原 耕(2017)『蕎麦の旅人-なぜ、日本人は「そば」が好きなのか』文芸社
井上 直人(2019)『そば学 sobalogy -食品科学から民俗学まで』柴田書店
河合 洋尚(2020)「フードスケープ―『食の景観』をめぐる動向研究―」『国立民族学博物館研究報告』45巻1号 他略
《連載情報》中国道蕎麦競べ
(1)安来「まつうら」
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-3057.html
(2)新見「やな木」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2275.html
(3)勝山「一心庵」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2276.html
(4)津山城東とうふ茶屋
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2277.html
(5)美作滝尾駅-木楽
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2278.html
(6)床瀬そば
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2279.html
(7)高中そば-名草神社三重塔
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2280.html
(8)EN-ナマステ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2281.html
(9)談山神社-橘-きみなみ
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2282.html
(10)宇陀「一如庵」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2283.html
(11)再訪-ひむろ蕎麦
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2308.html
(12)そば切りたかや インタビュー
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2302.html
(13)走馬観花-平福宿の「瓜生原」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2304.html
(14)「みちくさの駅」ゼミナール
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2305.html
(15)再訪-床瀬そば
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2322.html
(16)そば処「伊とう」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2328.html
(17)そばの店「右衛門五郎」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2329.html
(18)蕎麦と旬のお料理「ろあん松田」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2333.html
(19)摩尼寺門前 門脇茶屋
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2335.html
(20)八郷の里の猫
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2366.html
(21)そば処「井田農園」
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2377.html