はてなキーワード: 素養とは
一重で目一杯目を広げても豆すぎる。鼻や顔が大きくパーツは離れている。後頭部はやや平ら。髪の毛は1時間頑張ってもセットがうまくいかず変な方向に向く。こういう作業が苦手すぎる。
笑顔を心がけるが話し始めると声が鼻声で抑揚がおかしいのか時折「どこの土地の人?」と訊かれる。
面接や初対面で、自分が普通の人間ではなく、ちょっとおかしい側だと思われているのがわかる。
自分でも健常者ではなくグレーの素養があることは二十代を過ごす中で見えてきた。そしてそれが天然ちゃんとかそういうキャラでは許容されない側で、異常な人として扱われやすいこともわかってきた。うまいこと健常っぽく、愛想よくやりたいのだか、努力してもうまくいかず、壁を感じる。
精神科で処方されたストラテラを飲み希死念慮は和らぐが、やはりこうした社会性として加点される細かい部分は全く身につけられない。
ASDの自殺率についての記事を見て、他人事とは思えない。確実に社会とのズレがわかりそこを隠したいが滲み出てくるものが自分にはある。隠すためには自分自身を隠すしか手段がない。それを隠さず異常だと周囲に思われながら生きていくのは辛すぎる。それが自分なんだと諦めてはいるものの、ちょっとおかしいよねと思われながら生きていくのは苦痛だ。
「文系がIT系のほにゃらら(プログラムとかアプリ開発とか)やってみました」系の記事を読むたびに思うんだけど、普通のそこらの開発やSEやる上で、理系も文系も関係ないと思うんだよな。
そら先端の、例えば新規の深層学習の本体書きますとか、そういうレベルの開発なら理系にアドバンテージあるだろうけど、広く一般に求人かかっているようなアプリ開発レベルで、文系も理系も関係ないだろって毎回思う。
むしろごく普通の高校レベルまでの教育とか、物を調べる技能とか、PDCAを回すサイクルの早さとか、もっと露悪的に言っちゃえば「机に向かう態度のあり方」とか、そういうレベルが必要とされる職業だろ、と。
更にもっと言っちゃうと、日本の文系っていう選択そのものが、「なにかを調べて論理的につきつめて思考や情報を整理していくこと」が苦手な、面倒で、そういうのやりたくない人の、逃げ口上みたいになってるんではないか? っていう疑惑がうっすらある。個人的には「アホか! とんでもねぇわ! 文系にだって、いいや文系にこそ情報の整理や分析や体系化必要だろ!」って思うし、学問の素養の問題として要求能力が劣るなんてことはないとも思っているのだけれど、なんか世間のうっすらとした認識がそういう逃避になってるように感じる。
加えて言うと理系選択したやつにだって、そういう能力が劣る、他人の書いたもの(教科書でも論文でも)を写経するのが得意なだけのクズってのはいるぞ。
つまり毎年5万人以上が新たに親の介護をする羽目になるが、逆に考えれば介護士の素養を嫌でも得られる氷河期世代が毎年5万人以上新たに発生している
親の介護を一定期間以上経験した氷河期世代を介護士として雇用するのだ
親の年金と自身の貯金からお金を工面して親の介護していた状態から、お金をもらいながら他人の介護をする状態にクラスチェンジ
年収は親の要介護度と期間に応じて400万〜600万くらいの幅を持たせれば十分だろう。要介護1で半年介護なら400万、要介護4以上で2年介護なら600万、という塩梅で
介護経験や介護士としての素養の証明は、親を担当していたケアマネジャーに行わせればよい。その氷河期世代の人が介護のキーマンになるはずで、ケアマネはその人がどれくらい介護を頑張っているかを見ているはずだからだ。万一経歴詐称が出てきたらケアマネ資格剥奪のペナルティ要項を入れれば経歴詐称は防げるだろう
氷河期世代対策は非現実的なリスキリング強要ではなく、経験を活かした介護業界での活用だ
介護士なんて嫌だという無職氷河期世代もいるかも知れないが、「じゃあ何がしたいの?今からホワイト事務職で年収何百万なんてのは、今から鉄道運転士になるレベルで無理がある」と言うしかない。つまり救う手だては無い
我々は不安定な世界に生きており、時には絶望を感じることもある。
希望へと連れ戻し、より美しく、調和のとれた、より公正で、誰もが繁栄できるより良い世界を想像させてくれる人間性の特質を再認識することはできるだろうか。
数学は我々をより身近にし、団結させる。定理は、自然や宇宙についてだけでなく、自身についての根本的な真実を表しているからである。
これらの真実は永続的で不変である。技術の進歩や新しい情報の発見によって変わることはない。
数学は共通の文化的遺産の一部であり、言語、宗教、文化、生い立ち、肌の色に関係なく、全員に等しく属している。
数学的真理には民主主義と平等があり、誰であるか、どこから来たかにかかわらず、全く同じ意味を持つ。
もしトルストイが生きていなかったら、誰も全く同じ本を書くことはなかっただろう。
しかし、ピタゴラスがピタゴラスの定理を発見する前に亡くなっていたとしても、他の誰かが全く同じ数学的結果に到達していたはずである。
実際、この定理は他の多くの文化圏でも同時期、あるいはそれ以前に発見されていた。
17世紀のアイザック・ニュートンの法則は200年以上役立ったが、非常に小さな距離や高いエネルギー、あるいは重力が強すぎる場所では破綻することが分かり、量子力学や相対性理論へと更新された。
対照的に、数学の理論は変わらない。客観的で必然的、そして時代を超越している。
物理学は物理的宇宙を記述するが、数学は何を記述しているのか。
数学は五感を通じて伝わるものでも、物理的な現実から来るものでもない。
例えば、ユークリッド幾何学の点、線、三角形、円などは理想化された抽象的なオブジェクトである。
紙やiPadに描く線は少し歪んでいるし点には大きさがあるが、数学的な点には大きさがなく線には太さがなく完璧に真っ直ぐである。
物理的な宇宙は有限だが、数学の直線は両方向に無限に伸びている。
これらを五感で知覚することはできない。
ゲーデルが述べたように、「数学的アイデアはそれ自体で客観的な現実を形成しており、それを作成したり変更したりすることはできず、ただ知覚し、記述することしかできない」のである。
ダーウィンは、数学を理解する人々は「第六感」を備えているようだと後悔を込めて記した。
数学者だけでなく全員がこの第六感を持っている。
ピカソは「すべての子供は芸術家である」と言いったが、「すべての子供は数学者である」と言いたい。
数学とは、驚きや畏敬の念を持ち、新鮮な目で世界を見つめ、目に見えないものを想像することである。
物理学が外部の物理的世界を記述するのに対し、数学は内なる精神世界を記述する。
抽象的な数学的オブジェクトを同じように想像し、知覚できるという事実は、我々の心が実はつながっていることを示唆している。
これこそが希望を与えてくれる。孤独や疎外感から、団結やつながりの感覚へと移行できるからである。
ソフィア・コワレフスカヤは、「心の中に詩人としての素養がなければ、数学者になることは不可能である」と述べた。数学は我々をより深く見つめさせ、目に見えないものを見せてくれる。
ラマヌジャンは、夢の中で女神から数式を受け取っていた。これは人間の心の可塑性と、第六感を通じて数学を受け取る能力を示している。
アインシュタインが言ったように、「想像力は知識よりも重要」である。知識には限界があるが、想像力は世界全体を包み込み、進歩を刺激し、進化を生み出す。
https://jp.reuters.com/world/us/HKNST5NCDJP7BEZWBSN5273HMI-2026-03-31/
トランプは言うことが二転三転するのであやしいが、まずこれが最終的な判断だと仮定して。
負けるとはどういう意味かがもちろん大事で、前例を引くとベトナム戦争でアメリカは負けたとされている。これはおそらく一般的な認識。
なぜ、これが負けたとされるかというと、目的を達する前に撤退したからだと思う。これは俺の認識とAIの回答。
俺は別に軍事や外交の素養があるわけではないので、目的を達することなく自軍を引くのは敗戦、という捉え方が正しいのか確実には知らない。
ちなみにベトナム戦争におけるアメリカ軍の目的は北ベトナムによる南ベトナムの統一と社会主義の拡大を防ぐためで、アメリカはこれに失敗してベトナムは社会主義国として統合され、アメリカは他国への公然の軍事作戦を通じて目的を達成できなかったので負けたと言える、と思っている。
話を戻すと、イラン戦争でアメリカが記事通り「作戦を終了」したとして、どういう場合だと負けたと言えるのか? 俺はものごとの見方を理解してないので、単純に「こうなったらこうなのか」を知りたい。
まず俺の定義に沿ってよければ、アメリカが目的を達成できたかできなかったがポイントだと思う。
そもそも何が目的だったかというと(正直ニュースを見ていても全然何がしたいのかよくわからないのでつぎ合わせだが)、
②国内の人権弾圧を背景とする現政府の弱体化(のための要人殺害)
…ということのようだ。
どうしても、イスラエルがからんでいるのでややこしくて、イスラエルの目的はまた別にあるかもしれないし、アメリカが軍を引こうと「イスラエルの戦争」は続くのかもしれないし、変な話、イスラエルの戦争さえ続くなら兵を撤退させようとアメリカもまだ負けない(もしくは負けることさえできない)のかもしれないが、ややこしいのでイスラエルは傍に置く。
で、①について言えば核施設を攻撃しているので、それらがちゃんと?機能停止しており、兵器開発につながりそうな施設が沈黙しているならアメリカは①の目的を達している。逆に、もし破壊し尽くせていないなら達していない。
次に②について言うと、イラン最高指導者のハメネイは死亡しており、この損失も含め、イラン政府が政治をあらためることが見込めるなら②の目的を達しているし、見込めないなら達していない。ただ、
https://www.cnn.co.jp/world/35245781.html
を見るに、イラン政府はまだやる気に見える(誇張されたアナウンスかもしれないが)。
整理すると、「国内の核施設が兵器開発に利用できないレベルまで損傷しており」「政府が外圧をふまえて国政を修正することが見込める」ならアメリカは俺定義の敗戦をまぬがれるが、どちらかを達成できていない限り、そして、本当にアメリカがここで撤退するなら、アメリカは負けたと言えるように思う(もちろん、実際のダメージもアメリカが帰るかも、現時点ではまだわからないが)。どうだろうか。
ジェンダー平等がどうだとか全部的外れ。理系女子を増やしたければ、女子高生の気持になれ。これは文系のキラキラ学部から優秀な女子学生を奪い取るためのマーケティングなんだ。
女子枠が出来て難関大学に多少楽に入れたとしてだ。その先に待っているのがチェックシャツのオタク共に囲まれた研究漬けの毎日だったらその道を選びたい女子高生がどれだけいる?もちろん多少はいるだろうが、そんな女子はもう既に理系を選んでいる。そして大多数の女子高生は文系学部でイケイケ男子達とキラキラキャンパスライフを過ごしたい。こんなことは当たり前のことだ。
大学生の4年間、難関理系なら6〜8年は人生で一番華やかで楽しいと言われている時期なんだよ。多くの大学生は楽しい大学生活を夢見て厳しい大学受験を頑張れるわけ。でもその先に待っているのがもし1000円カット頭のオタク教員と学生だったら勉強を頑張れるだろうか。否である。
そこで必要なのがイケイケ男子枠だ、ブツブツとしか喋れない研究室の机にフィギュア飾ってるキモオタじゃなくてイケメン達との研究ライフ、これこそが多くの18歳女子の望むリアルだ。それに比べて女子枠なんてものは、元々理系に素養のあった女子を下位の大学から吸い取っているだけに過ぎない。
「男子トイレの数を減らして女子トイレの数を増やす」に文句を言ってる人達って、土地が無限に湧き出てくるとでも思ってる?
土地や建物の面積は限られている以上、女子トイレの数を増やそうとしたら他の何処かから持ってくるしかないじゃないか
マジで何を言っているのか…
ちょっとでも理数系の素養があったら絶対にこんな考えにはならないよね?
やっぱり男より女の方が理数系が得意なんじゃ?
2020年代に入り、特にコロナ禍を経てからのポップスのコード進行や楽曲構造の複雑化には、目を見張るものがあります。
コロナ禍で物理的なセッションが制限されたことで、アーティストが一人でPCに向き合い、情報量の限界に挑むような楽曲制作に没頭した影響は非常に大きいと感じます。
なぜこれほどまでに複雑化したのか、いくつかの視点で整理してみます。
かつての作曲は楽器を持って「手」の癖でコードを探していましたが、現在のDAW(音楽制作ソフト)上では、ピアノロールという画面を見ながらパズルを組み立てるように音を配置します。
非直感的な音の配置: 楽器が弾けなくても、画面上で半音ずらしたり、テンションノートを積み上げたりすることが容易になりました。
有名な複雑な進行(例:丸サ進行やIV-V-iii-viなど)をテンプレート化し、そこからさらに「裏コード」や「分数コード」をパッチワークのように繋ぎ合わせる手法が一般的になりました。
コロナ禍でリスナーの音楽視聴スタイルが「じっくり聴く」から「SNS(TikTok等)で秒単位で消費する」へと加速しました。
わずか2〜3分の曲の中に、転調、拍子変更、激しいコードチェンジを詰め込むことで、脳に強烈なフックを残そうとする「ハイパーポップ」や「ボカロ文化」の影響がメインストリームに逆輸入されました。
ライブでの再現性を無視できる環境だったからこそ、人間が弾くには難解すぎるジャジーで複雑なボイシングが多用されるようになりました。
特にJ-POPにおいては、Official髭男dismやKing Gnu、Vaundyといった、ブラックミュージックの素養を持ちつつDTMを駆使するアーティストが覇権を握った時期とも重なっています。
切なさを強調する和声が好まれ、さらにそこにブルーノートやテンションが加わることで、かつての「J-POP=王道3コード」という図式は完全に過去のものになりました。
アーティストが「内省」と「実験」に費やした時間 コロナ禍で外の世界との繋がりが断たれた結果、多くのクリエイターの関心は「自分にしか作れない、極限まで磨き上げた緻密な世界観」に向かいました。それが結果として、1曲あたりのコードの数や、予測不能な転調の多さとして表れているのは、音楽史的に見ても非常に興味深い現象です。
AIさんが「AIは、ポスト構造主義が理論で予告した世界を技術として現実化してしまった存在。」と言い出して感心した。
https://anond.hatelabo.jp/20130809115823
元のエントリより論点はズレてしまうのだが、東京で働くいち田舎者としてこんな奴・こんな考え方もあるということを書きたい。
高学歴・低学歴で人を分けた場合、私の家族や地元の人は確実に低学歴だ。私も漏れなく、一族で初めて四年制大学に進学した人間である。
だが、地元には、高学歴、低学歴だけでは括れない、東京と地方の二元論だけでは語れない価値があると私は考えている。
以下、東京や田舎という言葉が出てくるが、あくまで私の体験したn=1の東京と田舎の話です。
私の地元は日本海側のど田舎にある。集落は四方が山に囲まれて、交通量が少ないので信号すらなかった。
通っていた小学校は全校生徒が70人弱だった。今は統廃合されて、通っていた小学校はもうこの世界から名前が消えてしまった。
小学校は田舎すぎて少人数クラスになり、先生の指導が行き届いたのか比較的賢い学校だった。
田舎なのにやたら成績のいい子ども達がいると話題になり、関東の大きい大学の教育学の先生が研究しにきたほどだった。
私の小学校は同級生が14人しかいなかったのだが、そのうち3人が旧帝大に進んでいる。(私は国立大に落ちて私立に行きそのメンバーには入れていないのですが…)
定期的に周辺で熊や猪が出て、集団登下校が義務付けられていた地域の学校で、だ。
サピックスも日能研もない地域で遊んで勉強していた子たちが、田舎すぎて逆に賢くなっていた。
先生に気軽に絡めて質問もできるので、みんながゲーム感覚で勉強をしていたのもあったのかもしれない。
私が後に勉強エンジョイ勢になって大学院まで行ったのもこの時期に下地が作られたと思う。
そんな地域もあったということを知ってほしい。
そして、私の地元は田舎なのだが、田舎ゆえに一つでかいカードがある。
親が地域の伝統工芸の職人なのだ。地元ではそこまで珍しくない職業だ。
詳しく書かないが、親が歴史ある工芸の職人をしていたので田舎に住みながらとんでもなくでかい文化に接していた。
職人として知見を広めるために親が美術館や博物館に行くのにもよくついて行っていたし、色んな工芸や美術の知識を親から聞いていたので、よく言う「文化資本」的格差を東京で感じることがそんなにない。
それに、地元では小規模ではあるが車で20分くらいのところに美術館はあったし、車で1時間(田舎では普通の単位)で県庁所在地に行けたので、そこにはもっと大きな美術館がいくつもあり、そちらも大きな文化的拠点になっていた。
家族に話を戻すが、親戚がみな佐官・大工・和菓子・別の伝統工芸など職人のオンパレードだった。
そして兼業農家も多かった。
彼らは職人と言っても、アーティストではなくブルーカラーな人たちだ。
だが、彼らは大学に行っていない・行くという環境にないだけで馬鹿ではない。むしろ賢い。
賢くなければ職人業というビジネスをしっかり営むできない。農業だってそうだ。
なので私は、ブルーカラーに類される職業の人たちを学歴がないからといって話の通じない人たちと断じることができない。
それに、日本の産業を支えているのは彼らのような人たちなので、とても下に見たりとかはできない。もちろん、中には変な人もいるとは思うけど…。
このことを知れていることも、私が田舎(というより社会の下のほうなのかも)で育って良かったという一つのポイントだ。
日々山や川を見ていると、それぞれが気候に合わせて美しく形を変えていくのは、上京するまでの18年間一度も飽きの来ない風景だった。
山にはこんな動物がいて、木の実があって、山菜があって、木があって…という知識も家族に教わった。
山の保ち方、間伐の仕方、川での魚の獲り方も教わった。
地元の自然は人間の歴史と深く関わっていて、そんな中で生まれた民話もたくさんあった。
地元の地域には日本史に出てくるような人や事件が関わっていたこともあり、地域の人に話を聞いたり地域の研究本を読むと、時間の軸を深く辿ることができた。
小学校で勉強エンジョイ勢になっていたので、そういう地域の勉強はとても楽しかった。
私は多分そんな環境があったから文化そのものに興味を持って、大学・大学院でも詳しくはぼかすが文化系の研究をしていた。
ちなみに、私は案の定実家が細いので大学・大学院に行くために数百万の奨学金を借りています。機会格差って最悪だよな!
それでも、自分の熱中できる研究対象を見つけられたのは自分の育った環境があったからだ。
今はエンタメに関わる職に就いているが、それも田舎で美しい風景を見て、楽しく勉強をして、家族から文化を学んだからだと思う。
ただ、そんなにアツい文化があっても私の育った集落は本当に本当に人間が陰湿だった!
そこに関しては、東京のような人が多すぎて他人への関心を薄くせざるをえない地域が本当に楽に感じる。
かつて、私の父が重い病気に臥せった際、集落で噂になると尾鰭がついて嫌なので、絶対に口外しないよう家族で気をつけていたのだが、どこからか父の入院の話が漏れて集落中に広がってしまった。
気を遣うふりをして私たちの家にやってきて、直接父の病状を聞いてくる全然親しくない人までいた。
父親はその後死ぬのだが、その後も父の死についてヒソヒソ言われて、当時11歳の私はこの世界は本当にクソだと思った。
他にも、私が上京・進学・就職したことも色々言われているらしい。他人への興味が本当にすごい。
地元にいた頃は外の世界を知らないので、人間は陰湿ということが脳みその奥まで刻み込まれてしまった気がする。
補足すると、田舎にはもちろんいい人もいる。
だが残念だがらマジョリティは、上記のような噂好きで目立つ人や出来事に積極的に関わって言いふらす人たちだった。
人の陰湿さについては、もちろん東京でも一つの街に定住したらきっとしがらみはあるのだろうけど…
恐らく私の故郷ほど「うちらの家は江戸時代から付き合ってます! うちは昔は地主だったのに小作人の家のあんたはそんな態度でいいのかな?」レベルのしがらみはそんなにないのではないか。
それでも私は地元のことを「資本も娯楽も何もない最悪な場所」とは全く思わない。自分を形成した場所だからだ。
だけど大都市的価値観、東京を絶対とする価値観ではきっと理解されないのだろうなーとなかば諦めている。
なので東京出身の人の前では「羨ましいです〜」と言うのだが、それは半分くらい本当で半分嘘である。
なぜなら田舎の自然と文化と陰湿さの中で自分は育ったので、自分の文化的素養と反骨精神は多分都会では育たなかったと思うからだ。
東京の資本的な豊かさには憧れるものの、そもそも東京や他の大都市で生まれていたとしたら性格は全く違っていたと思うし、今の自分が好きなので、「東京に生まれたかった」とはそこまで思わない…
あと、東京の人は地方が豊かだという言説にすごく敏感な気がする…ので、ポーズでも「私は田舎者なので憧れの東京で来れて嬉しいでやんす」という態度でいたほうが楽だ。
(この前Xでバズっていた「東京の人は車がないのにシャトレーゼなどのチェーン店をどうやってハシゴするのだろう」みたいなポストに、東京の人がやたら攻撃的に言い返していたのがなんか印象に残っている…。
基本的に東京の人は、地方のほうが優れている側面がある可能性もあまり認めない傾向にある気がする)
こんなに言ってしまっているが、前提として私は東京のことが大好きだ。
好きだから働いているし、何より仕事・研究・趣味・生活などあらゆる面で圧倒的に機会が多い。出会う人も多様だ。
だから私は東京にいられて幸せだし、この場所にしがみつくし、しばらく居続けると思う。
ただ、たまに自分が芯から東京出身みたいな言動をとりかけてハッとする瞬間がある。
私のような東京で働く田舎者は東京的世界観に合わせすぎて、自分の故郷を否定するときがあると思う。
東京の感覚が間違っているのではなくて、ただ、自分を形成しているものを拒否してまで東京で生きなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。
私は、地元は最悪な面もあるが、全然最高なところもあったと断言できる。
夕方の雄大な雲の流れ、雪の降った朝の空気、眠れない夜に聴く川の流れの音、一生懸命「ホーホケキョ」を練習するうぐいすの声、初夏の稲穂の上を通り抜ける風、祖母からぽつぽつと語られる昔話、父と山で採ったびわの味、職人である家族の美しいてさばき…これは私は自分の故郷で生まれ育ったから得られたものだ。
多分「嫌なことがあったから地元から離れたんです」という人も多いとは思うのだけど…あなたを形成した場所をすべて否定するのは苦しくはないですか。
私は地元の陰湿な人間が大嫌いだったので、そんな人たちや出来事のことは肯定しません。
よくも悪くも自分のことを形成しているのが地元だなと感じます。
私は田舎者であることを自分の中に留めておいて、東京で働く中で多様な視点をもっていたいと思う。
商品を全国で売っている自分の会社では、絶対に必要な視点だから。
仕事以外でも、東京にいる人とのコミュニケーションでこの視点があって良かったなと思うことはままある。東京は多様なバックグラウンドを持つ人の集合体だからね。
だけど、私がこんな文章を書けるのも、東京に出て、高学歴に類される大学に行き、高倍率とされる企業に入って、東京で生きていける程度の余裕があるから、ということもあるかもしれない。
そのグロテスクさについては、また考えなければいけない。
それでも、やっぱり私は田舎者である自分を否定しきれないし、できないと思う。
ここまで読んでくれた方で、地方出身の人がいたら、最初から東京にいるように振る舞い消費する過程で過去の自分や経験は全部上書きしなくてもいいと思います。
あなたを構成したものが地元のどこかにあるなら、それは抱きしめてほしい。