はてなキーワード: 哲学者とは
嘘が無い「素顔」のコミュニケーションを、善だとみなした哲学者はルーマンで、
こいつは要するに、都市労働に絶望して"都会の大人は嘘ばかりだ……! 田舎で素朴な暮らしを人間はするべきなんだ……!"とヘラってた人間。
ルーマンは70~80年代にクソ流行ったので、いまでも増田のように、素直さ、を美徳だと考えたがる風潮は残っている。
まあ、田舎の人間がウソついてないわけないよな。体面とか利益とかバチバチにあるっての。
いまでは、ヒトとはどういう嘘をつくのか、どういう風にコミュニケーションをするべきなのか、という議論がなされているよ。ペルソナ(仮面)の話とか、有名だよな。
「時は来た」と高市首相、憲法をどう変えたいのか 持論は「国防軍」
――戦後日本の社会と人々の暮らしを支えてきた憲法は、地に足のついたものになっているでしょうか。
憲法が示している戦後日本の基本原則は揺らいでいないと思います。平和主義や国民主権、人権の尊重を捨て去りたいという人はごく一部でしょう。ただ、気になる点もあります。憲法学者として人権や差別解消の問題に長く取り組むなかで、昨年出した『幸福の憲法学』ではこう指摘しました。
「本来は『人権』という言葉を使うべき場面で、それを避ける例もある」「『人権』という言葉は避けられている」と。
――80年近くを経て、憲法の価値観が空洞化しているということでしょうか。昨夏の参院選では外国人政策が急に争点化し、排外的な政策を掲げる政党や政治家が広く支持を集めました。
社会経済の先行き不安や怒りが広く存在するとき、人はその原因を何かに「帰属」させようとします。何が不安や怒りの原因かは目に見えるほど明確ではないので、その帰属先はしばしば操作されます。哲学者のスローターダイクは、中世のカトリック教会や共産主義が、人々の怒りの矛先を操作して自分たちのエネルギーにしたことを論じています。怒りや不安を人の属性に帰属させれば、差別の出発点となります。
例えば、外国人に見える観光客のマナーが悪かった時、その人の問題とするべきですが、外国人差別を煽(あお)る人は「外国人観光客全員」あるいは「在留外国人も含む外国人全員」の問題とする操作をします。
――メディアも、目に見える誰かのせいにして差別に加担しないようにしたいです。
差別を防ぐには、不安や怒りを安易に誰かのせいにしないという意味での「自己拘束」が必要です。メディアが、因果の流れを丁寧に説明する必要があるでしょう。例えば、原油高に伴う物価高のメカニズムを報じることは、日常のイライラを「外国人」に向けず、適切な対策を打たない政府や、戦争を続けるロシアやイスラエルの問題を意識させることにつながります。
――不安や怒りのはけ口を探して、誰かを標的にする。そうして自分の感情を操作された結果、差別に加担するのは嫌です。
憲法の掲げる人権や差別解消の理念は、憲法学が最前線で扱うテーマの一つ。最近の研究では、プライバシー権をめぐる議論も差別の問題とつなげながら掘り下げて考えています。
プライバシー権は、個人の尊重と幸福追求権を定めた憲法13条にもとづき、発展してきました。
プライバシー権は「一人で放っておいてもらう権利」に由来します。この権利は、他者に自分を標的として認識されない状態を守る権利とでも言いましょうか。あの人は、一人暮らしの女性だ、老人だ、と認識されると、犯罪に巻き込まれるリスクが高まり、緊張します。そう認識されないことで安心する。その安心感を守ろうというのが出発点です。
その後プライバシー権は、人に知られたくない個人情報を知られずに、隠したいことを隠すための権利として発展しました。さらに、性的指向や被差別部落の出身であることなど、被差別情報を隠す権利としてもプライバシー権が使われるようになってきました。
――混乱とは?
個人情報のなかには、裸や家の中など、①認知されるだけで苦痛な情報と、認知されることよりも、②それを使った違法行為や差別が心配な情報があります。
プライバシーとは、もともと①を隠すことだったわけですが、最近では、②もプライバシーにすることで違法行為や差別を防ごうという議論になってきています。
しかし、違法行為や差別に使われる情報のなかには、公開されているものもあります。例えば、大学や新聞社の電話番号は公開されていますが、「いたずら電話をしよう」という呼びかけとともにSNSに投稿されたら迷惑です。また、性別や肌の色は、隠されたプライバシー情報とは言えませんが、それを差別のために使われてはたまりません。
これらの問題は、プライバシーとは別の権利、つまり、違法行為を誘発する形で公表されない権利や、差別に使われない権利で対応した方が明快です。ところが、最近のプライバシー権の議論は、これらの問題も隠したい情報を隠す権利の応用で対処できるとして、プライバシー権の射程を広げて対応しようとします。
――プライバシー権とは別に「差別されない権利」があるということですか。
はい。隠したいものを隠すプライバシーという概念で対応しようとすると、性別や肌の色、出身地といった公開情報での差別は防げません。
「差別されない権利」なら、公開情報だろうが、非公開情報だろうが、それを不当に利用してはならないと議論できます。プライバシー権は、個人情報を「認知させない」権利だとすれば、差別されない権利は個人情報を不当に「使用させない」権利です。
肌の色や話す言葉など、公にされた情報で外国人かどうかを推測できることがあります。ここから、「外国人お断り」のような差別が生まれます。
「外国人お断り」をする人からすれば、公開情報を使っているだけだから、プライバシー権を侵害していないと思うでしょう。しかし、外国人だという個人情報を差別に使うことは、差別されない権利の侵害と捉えるべきです。
他にも、LGBTQの性的指向や性自認などを本人の許しを得ずに暴露する行為を「アウティング」と呼びます。こうした行為はプライバシー侵害だと言われてきました。ですが本来、性的指向や性自認は「隠したい恥ずかしい情報」ではなく、当人のアイデンティティーの根幹となる情報です。アウティングが問題なのは、恥ずかしい思いをさせたからではなく、差別をするかもしれない人に情報を開示して、差別を誘発する危険を作ったからだと考えるべきです。
プライバシー権のおかげで、私たちは他の人の個人情報を認知するときに慎重になれました。ただこれだけでは足りない。プライバシー権と「差別されない権利」を区別すれば、既に認知した情報でも、「この場面でこう使っていいのかな?」と使用の場面で慎重になれます。権利を知ることで、差別を防ぐ「自己拘束」ができるわけです。
――個人情報の差別的な使用とそうでない使用は、どう違うのですか?
個人の選択の結果を、国籍や性別に帰属させると差別になります。例えば、犯罪をするかどうかは個人の選択ですが、それを国籍や出身地のせいにするのは差別だと言わざるを得ません。
雇用の場面でも、「この人は女性だから辞職する可能性が高い」とか「外国人だからこういう行動をとるはずだ」と判断するのも、性別や国籍の情報の差別的な使用の例でしょう。不安やイライラを「外国人」のせいにしがちなトレンドを止めるには、「差別されない権利」の考え方を根づかせることが重要です。
■憲法に書き込む影響力
――そうしたトレンドの一つと言えるのかもしれませんが、高市早苗首相は4月12日の自民党大会で「時は来た」と述べ、改憲に意欲を示しました。
国会の憲法審査会などの議論は始まったばかりで、高市首相が目指す改正案はまだ示されていません。
自民党のものとしては、安倍晋三政権下の2017年に示した「改憲4項目」がありますが、いまなぜ改正が必要かという根本的な理由づけが希薄でした。参議院の合区解消には実務的な必要性があるかもしれませんが、残りの3項目、自衛隊の明記や緊急事態対応の強化、教育環境の充実については、現行の憲法や法律でも不足はない。仮にあっても、法律の改正で済むような話ばかりです。
日本への武力攻撃があった場合の防衛行政は、現行憲法でも禁じられていません。緊急事態に際し、あらかじめ法律の定めた条件の範囲で政令を出すことも、禁じていません。実際、災害対策基本法には、その例があります。
――自民党の狙いは改憲の実績づくり、いわば「お試し改憲」だとの見方もあります。
もともと自民党の方々は、憲法9条2項を削除して軍を創設すると言ってきました。自衛隊明記案というのは、軍創設案の支持が広がらないため、「現状維持なら実現しそう」と出てきた妥協案なのでしょう。新しい条項ができると、「これまでできなかったことができるようになったのだ」と解釈される危険が生じ、何が起きるか不透明になります。当たり前ですが、現状維持したいなら、現状を維持するのが一番です。
――それでも、少しでもよい改憲なら賛成するという人もいるのではないでしょうか。
憲法は国の最高法規。条文に書いていない要素を書き込むことによる影響を慎重に検討する必要があります。
例えば、明治憲法における都道府県の位置づけはあいまいでしたが、戦後の憲法92~95条に地方自治の原則が書き込まれ、そのことで地方分権が大きく進展しました。もしいま自衛隊を憲法に明記すれば、国家権力を執行する警察や海上保安庁などのほかの行政組織にはない強固な地位を得て存在感を増すでしょう。それでよいのかどうか。
――日本を取り巻く国際情勢は厳しさを増しています。災害救助だけでなく有事の切り札として自衛隊に期待する世論は高まっているように思います。
災害救助や国際貢献の面で自衛隊の活動を評価する世論のトレンドは理解しますが、慎重な分析が必要です。
憲法9条は、日中戦争や太平洋戦争の反省の下で外国の領土を侵略するような武力行使を制限する「自己拘束」です。
憲法制定から80年近くが経ついま、国際情勢が悪化していても、湾岸戦争やイラク戦争、ロシアのウクライナ侵攻、米国やイスラエルのイラン攻撃などの戦地に自衛隊を派遣すべきだという世論が国内で盛り上がる気配はありません。国連の平和維持活動(PKO)で自衛隊を戦闘地域外に派遣する道はありますが、世論も、武力行使には非常に厳しい態度をとり続けています。
9条改憲を長年目指してきた自民党の保守派でさえ、戦力の不保持をうたう9条2項の削除などではなく自衛隊の明記を目指す妥協策を打ち出すようになったことは、同項の平和主義の精神が改憲派にまで浸透したことを意味しており、「護憲派の勝利」とさえ言えるのかもしれません。
――心配性かもしれませんが、そうした日本の世論も台湾有事などの危機に直面すれば、大きく転換しうるのでは。
もし中国が台湾に武力侵攻した場合、在日米軍基地や自衛隊の基地も攻撃対象になるでしょう。必然的に、日本への武力攻撃事態となり、個別的自衛権の発動場面となります。台湾有事は、海外での集団的自衛権の行使とは違う事態だと考えるべきです。
――もう一つ気になるのは、自民党の日本国憲法改正草案(12年)や「創憲」を掲げる参政党の新日本憲法(構想案)(25年)のような全面改憲の可能性です。
憲法の基本原則、すなわち国民主権と平和主義、基本的人権の尊重を廃棄するような全面改憲ができるとは思えません。ただ、逆説的ですが、そうした憲法の価値観がしっかり浸透しているからこそかえって警戒心が薄れ、「自己拘束」の歯止めが利かなくなっていることが問題だと見ています。
――どういうことでしょう。
高市首相は4月21日、防衛装備移転三原則の改定を閣議決定し、武器輸出を全面解禁しました。これは、安倍政権による集団的自衛権の解釈変更(14年)や、岸田文雄政権が22年改定の安全保障関連3文書に盛り込んだ敵基地攻撃能力の保有、防衛費の国内総生産(GDP)比1%枠超え(23年度予算)などに続く出来事です。
憲法9条に、「武器を輸出してはいけない」とか、「防衛費はGDP比何%まで」と具体的に書いてあるわけではありません。しかし、9条からは、日本が紛争を煽らないようにする「自己拘束」の原理や原則を生み出し続けるべきだという規範が導かれると考えられてきました。武器輸出の禁止などは、そこから生まれたルールです。こうしたルールを守ってきたことが、政府や自衛隊の信頼を作ってきました。
こうした信頼の蓄積は、「このルールをなくしても、めったなことはしないだろう」という方向にもつながります。ただ、信頼を食いつぶしていけば、いつかは破綻(はたん)します。だからこそ、憲法9条の下で作られたルールは安易には手を付けない方がいいし、新しい状況に対応するために変える必要が生じたとしても、別の「自己拘束」のルールを作ることとセットで変えるべきです。現状の敵基地攻撃能力や武器輸出の解禁は、ただルールをなくしただけで、新しい「自己拘束」のルールや原則が示されていません。
――敗戦直後の日本が軍国主義の復活を警戒したのは分かります。でも冷戦が終わり、米中ロなど大国の横暴が目立つ21世紀の日本にとっても「自己拘束」は必要でしょうか。
イスラエルのネタニヤフ政権を見れば分かりますが、権力者にとって、対外武力行使は権力を維持する魅力的な手段です。どんな状況でも「自己拘束」が不要ということはないでしょう。
――防衛費のGDP比2%は、25年度補正予算で達成されました。高市政権は安保3文書改定にも乗り出しています。
憲法に具体的な数字が書き込まれておらず、準備すべき防衛装備に幅があるからといって何でもやっていいわけではない。
少なくとも、GDP比率に代わる新しい財政規律のルールを考えておくべきでしょう。武器輸出についても、内閣の裁量で変えられる政令から格上げして法律化し、対象国や対象品目を国会で決めるルールに変えるなどの対応は考えるべきでした。
また、近年の防衛政策は「経済安全保障」「デュアルユース(軍民両用)」といったキーワードに見られるように、防衛省・自衛隊だけでなく、企業活動や学術活動、SNSの通信など、様々な生活領域を防衛政策に巻き込んでいく特徴があります。ここでは、営業の自由や学問の自由、刑事訴訟における適正な手続きがおろそかにされる危険があります。実際、大川原工業の経済安
年々死が怖くなる。その先に圧倒的な無があるからだ。
だから色々な宗教があり色々な解釈の救いがあるのだろう。信じることで救われるなら信仰に目覚めたいが、無宗教で現実的な考えの持ち主なので、恐らく無理だ。
無が怖い。無の先に何かあってほしい。
藁にもすがるなんとやらで、AIに聞いてみた。
以下チャッピーの回答。何の足しにもならなかった。
結論から言えば、死後に何が起こるかを確実に知る方法は、現在の科学にはありません。
科学的には、脳の活動が停止すると意識も消失すると考えられています。
つまり、現在の主流な理解では「自我」は脳の働きに依存しており、脳が完全に機能を終えれば、意識も終了する可能性が高いです。
この考え方に立つと、「無」への恐怖はとても自然です。
なぜなら、自分という存在の終わりを想像すること自体、人間の本能に反するからです。
一方で、多くの哲学者はこう考えました。
生まれる前の「無」は怖くなかった
死後も同様に、苦しみや恐怖を感じる主体が存在しない可能性がある
「私たちが存在する時、死は存在しない。死が存在する時、私たちは存在しない」
と述べました。
つまり、「死そのもの」より、「死を想像する今」が怖いとも言えます。
イスラム教:来世
現実的な人が無理に信じようとしても難しいことは多いですが、宗教が長く人を支えてきた理由は、その恐怖に物語を与えるからです。
「無」が怖い理由
自分が消えること
愛する人と離れること
意味が失われること
です。
だからこそ、人は
子孫
思い出
社会への影響
一つの救いになる考え方
「死後」に答えがなくても、
という考え方もあります。
誰かを愛する
美しい景色を見る
笑う
生きる
ことが特別になる。
最後に
「無が怖い」と感じるのは、あなたが真剣に生きている証拠です。
その恐怖を完全に消す明確な答えは誰にもありませんが、多くの人が同じ問いを抱えながら生きています。
死後の確実な答えを得ることより、死を意識しながら今をどう生きるか
なのかもしれません。
J.L. オースティンは、従来の哲学者が陥っていた「言葉の役割は事実を記述すること(真偽を判定すること)だけである」という「記述的誤謬」を批判し、言葉が世界に働きかける「行為」としての側面を明らかにしました。
・事実確認的発話: 事態を記述し、報告し、事実を述べる発話。真か偽のいずれかとして判定されます。
・遂行的発話: 何かを行うこと自体が、その言葉を述べること、あるいはその一部となっている発話。これは「記述」ではないため、真偽を問うことはできません。
遂行的発話の例:
・賭けの際の「明日は雨が降ることに100円賭ける」
これらの例では、言葉を発することによって「結婚」「命名」「譲渡」「賭け」という行為が成立しており、単に自分がそうしていることを報告しているわけではありません。
遂行的発話は「真偽」では判定できませんが、代わりにそれが適切に成功したか、あるいは失敗したかという「適切」か「不適切」かの基準で評価されます。オースティンは、遂行的発話が適切に機能するための6つの規則を提示しました。
特定の慣習的効果を持つ手続きが存在し、それが言葉の受諾や特定の状況・人物を含むものでなければならない。
b. 適切な対象と状況:
その手続きを用いる人物や状況が、呼び出された手続きにとって適切でなければならない
c. 正確な遂行:
d. 完全な遂行:
e. 誠実性の要件:
手続きが特定の思考や感情を前提とする場合、参加者は実際にそれを持っていなければならず、その後の行動もそれに従う意図がなければならない
f. 事後の振る舞い:
実際にその後の行動において適切に振る舞わなければならない
行為そのものが成立せず、無効となります。例えば、既婚者が結婚の誓いをしたり、権限のない人が船に命名したりする場合(”安倍晋三”というはてなのコメント)です。
行為は一応成立するものの、中身が伴わず「虚偽」や「空虚」なものとなります。例えば、守る気のない約束をする場合(不誠実)(「俺のいうことを聞けば、46を卒業できるよ」)などです。
重要な発見は、事実確認的発話も「不適切」になり得るという点です。
例えば、「フランス国王は禿げている」という文は、フランスに国王がいない場合には「前提」の欠如により適切に機能しません。これは遂行的発話における「不発」に似ています。また、事実確認的な「言明」も、話し手がそれを信じていなければ「濫用(不誠実)」の一種とみなせます。存在しないフランス王を禿げだと言っても中傷したことにはならない、と主張する人がいますが、フランス王はだれかのシンボルかもしれません。
このように、真偽を扱うはずの言明にも「適切さ」の問題がつきまとい、遂行的発話の中にも「事実との照合」が必要なケース(例:警告が事実に基づいているか)があることが明らかになり、最初の二分法は維持できなくなります。
「言うことにおいて」行われる行為。その発話がどのような「勢い(force)」を持つかを指します。質問する、約束する、命令する、警告するなどがこれに当たります。
「言うことによって」もたらされる効果や結果。説得する、驚かせる、怖がらせる、感銘を与えるなど、聞き手に生じる心理的・行動的変化を指します。
発話の手続き自体は成立しているものの、話し手が適切な思想、感情、あるいは意図を欠いている状態を指します。
⭐️手続きは行われるため、行為(例えば「約束」)は一応成立しますが、その中身が伴わないため「空虚」なものとなります。
「心の中ではそう思っていなかった(私の舌は誓ったが、心は誓っていない)」という『ヒッポリュトス』の例では、これが道徳的な不謹慎さを招くことを指摘できます。また、誠実さを欠いた「言明」は、一種の嘘に近いものとして機能します。
政治家が、自分にその権限がないことを知りながら、あるいは適切な状況ではない中で特定の行為を行おうとする場合、これは「誤用」に分類されます。
⭐️ 適切な人物や状況が欠けているため、その行為は「無効」となります。
・政治的例: 権限のない官僚や政治家による「任命」や「宣言」。例えば、正式な手続きを経ていないのに「私はあなたを任命する」と述べることで、既成事実化を狙うなどの手法です。
特定の言葉が「遂行的(行為)」なのか「事実確認的(記述)」なのかが曖昧な事例。
⭐️ 発話が記述なのか警告なのか、あるいは単なる意図の表明なのかを意図的に不明確にすることで、後で批判された際に「単なる予測(記述)だった」と言い逃れる道を残します。
・政治的例:
○「野原に雄牛がいるぞ」という発話は、単なる景色の描写(記述)とも、避難を促す「警告(行為)」とも取れます。
○ 政治的な場面で「私はそこにいるだろう」と述べる場合、それが「約束」なのか、単なる「予定の予測」なのかを曖昧にすることで、行かなかった際の発言責任を回避できます。
発話が、劇中や詩の中、あるいは「真剣ではない」状況でなされる場合、それは通常の言語使用から外れた「寄生的な」ものとみなされます。
⭐️ 政治においては「冗談だった」「誇張だった」という防衛線として利用されます。
・政治的例: 物議を醸す発言をした後で「あれは比喩(詩的表現)だった」あるいは「ジョークだった」と主張すること。これは言語の通常の使用を一時的に停止させ、行為としての責任を無効化しようとする不適切さの利用です。
このように、政治的発話では「真偽」よりも、発話が持つ「発話内的な力(Illocutionary force)」をいかに有利に制御するかが重要視されます。
“In every chain of reasoning, the evidence of the last conclusion can be no greater than that of the weakest link of the chain, whatever may be the strength of the rest.”
(訳:あらゆる推論の鎖において、最終結論の証拠の強さは、その鎖の最も弱い輪の強さを超えることはできない。他の部分がどれほど強固であっても。)
直接的に物理的な鎖の比喩としてよく引用されるバリエーションは:“The chain is only as strong as its weakest link, for if that fails the chain fails and the object that it has been holding up falls to the ground.”
(訳:鎖の強さは、その最も弱い輪と同じ強さしかない。なぜなら、その輪が壊れれば鎖全体が壊れ、支えていたものが地面に落ちるからである。)
リードはここで、論証や知識の連鎖において、弱い部分(前提や論理の飛躍)が全体を決めてしまうことを指摘しています。
これが転じて、現代の一般的なことわざ「A chain is only as strong as its weakest link」(鎖は最も弱い輪と同じ強さしかない)として広まりました。チームワーク、システム設計、品質管理などさまざまな文脈で使われています。
物理的な鎖の強度そのものを直接論じたわけではなく、比喩として用いた点が特徴です。
十八世紀のスコットランドの哲学者**トマス・リード(Thomas Reid, 1710-1796)**が、1786年に出版された著作『Essays on the Intellectual Powers of Man』(人間の知的能力に関する試論)で用いた比喩が、よく引用される出典です。
ジュディス・バトラー(Judith Butler)は、1990年の『ジェンダー・トラブル』以来、フェミニズムやクィア理論に革命を起こした一方で、多方面から激しい批判を浴びてきました。
彼女に対する主な批判は、大きく分けて「実効性・政治性」「身体の物質性」「文体とエリート主義」の3つの観点から整理できます。
最も有名な批判の一つは、哲学者マーサ・ヌスバウムによるものです(論文「パロディの教授」)。
「静かな抵抗」でしかない: ヌスバウムは、バトラーが提唱する「パロディ的な反復(ドラァグなど)」によるジェンダー攪乱は、象徴的なパフォーマンスに過ぎず、法制度の改善や経済的格差といった実質的な政治変革に結びつかないと批判しました。
倫理的指針の欠如: 「どの規範を覆すべきか」という倫理的な基準がバトラーの理論には欠けており、単に「規範を壊すこと」自体を自己目的化していると指摘されました。
身体は「言葉」だけではない: バトラーは、生物学的な「セックス」さえも社会的・言説的に構成されたものだと主張しました。これに対し、「生理痛、妊娠、老化、肉体的な暴力など、言葉を超えた肉体の生々しい現実(物質性)を無視している」という批判が根強くあります。
新実在論からのアプローチ: カレン・バラッドなどの「新しい実在論」の論者は、バトラーが言語や文化(言説)を重視しすぎるあまり、人間以外の物質や生物学的な力が持つ「行為主体性」を見落としていると批判的に発展させています。
社会学者ナンシー・フレイザーとの論争(「不平等の再配分か、差異の承認か」)が有名です。
「単なる文化」への偏重: フレイザーは、バトラーがアイデンティティや文化的な「承認」ばかりを重視し、資本主義が生み出す経済的な「再配分(格差解消)」の問題を二の次にしていると批判しました。
新自由主義との親和性: バトラーの「アイデンティティは流動的である」という考え方が、消費社会における自由な自己選択という新自由主義的なロジックに回収されやすいという指摘もあります。
難解すぎる文章: バトラーの文章は意図的に難解(ポスト構造主義的)であり、学術的なエリートにしか理解できない「象牙の塔の理論」であるという批判です。ヌスバウムはこれを「難解な言葉で読者を威圧し、実際には何も解決していない」と厳しく非難しました。
生物学的区別の消失: いわゆるTERF(トランス批判的なラジカル・フェミニスト)からは、「『女』というカテゴリーを解体することは、女性が生物学的な性に基づいて受けてきた抑圧を不可視化し、女性解放運動の基盤を壊すものだ」という批判がなされています。
バトラーへの批判を支えているのは、「理論は高度だが、現実に苦しむ人々の生活や肉体を救えるのか?」という実学的な問いです。
多くの人はきっと、「なんでそんなことで悩んでいるんだろう」「悩んだところで時間の無駄なんじゃないの?」と言うんだろうな。俺自身、たしかにそうだと思います。
けど、俺にとって「意味」はとても大事なことでした。意味を外部から与えられた人たち、たとえば両親や友達らから愛されることで自尊心を確立した人は意味が充足されているから悩む必要すらなかったんでしょう。俺には普通の生活とやらがわかりませんが、おそらくそれが普通の環境です。
きっと俺は普通ではなかった。
いや、もちろん「環境が悪かったからこんなに苦しんできたんだ!」などと言うつもりはないのです。人それぞれに悩みがある中で、俺にとっての悩みは環境の欠けが生み出した「生きる意味」だった。そういうことなんですね。
長く考えるうちに、「生きる意味なんてないんだな」とフリードリヒ・ニーチェのごとく虚無主義(ニヒリズム)に陥りました。しかし、この結論は何の役にも立たない。それに、世の中には「これが生きる楽しみだよ」と言わんばかりに楽しそうに生きている人がいます。彼らと自分の違いはなんだろうか、と問わずにはいられなかった。
いろいろと悩んだ結果、俺が捻り出した答えは「意味は個々人が与えるものなのだ」というものでした。この答えを出すために4年ぐらいの時間がかかった気がします。21歳の時点です。
たとえば、生まれた時点で、赤ん坊は世界も意味も知らず、ただ泣いたり笑ったりおっぱいを吸ってます。うんちおしっこも。つまり、彼らはただそこにいるだけ。自我を獲得してから意味を後付けするのだと結論づけました。
後で知ったことですが、この答えもすでに過去の哲学者が発見しているようです。世の中には同じような悩みを持ってる人がとっくに答えを見つけているんだなあ、とぼんやり感じましたね。世界は広く、俺の認知はこんなにも狭い。無知を実感させられます。
みんなはどう考えているんだろう?
生きる意味について問わざるを得ない人は、自ずと意味を獲得したい人なのかもしらない。背景には人間関係やお金の枯渇が感じられる。
だから、「そんなのどうでもいいよ」と言える人がとてもうらやましく思えてならない。
主観現実から見れば、認識していないものは、自分の宇宙には存在していない。
哲学者ジョージ・バークリーは「存在するとは、知覚されることである」と説いた。
世界は五感を通じて脳内に構成された像に過ぎない。意識のスクリーンに映し出されないものは、その人にとってはこの世のどこにも存在しないのと同義。
脳は、生存に不要な情報を徹底的に削ぎ落とす「引き算」のシステムである。
馬鹿の世界を認識の対象外に設定することは、脳のこの機能を能動的に使い、自分専用の快適な宇宙を再構築する作業と言える。
何かが自分に影響を与えるためには、まず認識という窓口を通過する必要がある。
認識しなければ、腹を立てることも、失望することも、時間を奪われることもない。
昨日の朝このまとめを見て、とても重く沈んだ気持ちになった。
仕事も手につかず、この人のことを考えていた。
「思想強いと思われるのが怖い」
とても理解できる。
現代日本を生きる我々にとって他人にどう思われるかはとても重要なことだ。
そんな中で、それでも勇気を出して平和を維持するため、反戦を訴えるために何をするべきか考え、行動を起こしたこと
そこだけ見ればそれは素晴らしいことのはず。
私がここで名前を隠して、やんやと誰かを吊し上げるようなことしかしてないのに比べたら。
やらない善よりやる偽善。行動に移したこの人の方が、反戦に寄与しているのかもしれない。
この人は悪いことはしてないし、悪気なんかもちろんなく、自分が正しいと思う背景も理解できる。
誰のことも責めることはできない。
多分もう、「その時代」が巡ってくることは避けられないんだろうな。
なんとなくそんな気はしていたが、その現実味を見せられてしまった。
この人が反戦活動をする理由は、「平和が大好き」で「今の生活が続いてほしい」からだそうだ。
あたかも、アイスクリームでも選ぶかのような、手に入って当たり前のものを選ぶような。
この人にとって平和はそこあって当たり前のもので、なんなら好きとか嫌いとか、こちらが値踏みする対象となるものなんだ。
そしてその傲慢さに一切気付いていないような、イラストの周りに並び立つ呑気な言葉たち。
「パンがないならケーキを食べればいい」を天然でやってるようなもの。
どんなに平和に暮らしたいと願っても、逃れられずに戦火の中死んでいく人たちがいる。
今この瞬間にも。
その人たちはきっと、夢が叶わなくたっていい、好きなゲームができなくたって、美味しいものが食べられなくてもいい
ただ生きたい、友達が、パパがママが、幼い我が子が、妹が、生き延びてほしいと、願ったはずだ。
でもそれは、そのひとの最善を尽くしたって叶わず、死んでいる。
そんな状況にいる人たちがこのコマをみたらどう思うだろうか?
ニコニコでピースして、「ごはん」「おふとん」「休日」「旅行」「しぜん」「マンガ」「アニメ」「ゲーム」とか書いてあるこのコマを。
かつて広島で戦争に巻き込まれ、大火傷を負って、家族を失った人に時を超えて会えたとして、
「私は平和が大好き!だってごはんにおふとんにしぜんにマンガにゲームが大好きだから!」なんて言えるのか?
「平和は尊い」とは平和教育でよく言われる言葉だ。でもそんな言葉はもはや形骸化しているのか。
「ごはん」も「おふとん」も「休日」も「旅行」も「しぜん」も「マンガ」も「アニメ」も「ゲーム」も全部失ったとしても得難いもの、
それが平和ではないのか。
でもわかってる。そうじゃないんだよね?そこまで考えてないんだよね?
でもさ。
考えすぎてしまう性なら是非それを発揮して考えて欲しい。
どうして過去に、そんな犠牲を出してまでも戦争をしたのか、そうなるまで続けてしまったのか?
どうして今世界に、戦火に巻き込まれて無念の死を遂げなければならない人がいるのか?
どうして今日本に住む我々は、戦火に巻き込まれず豊かに自由に、「続いてほしい」と思える暮らしができているのか?
あなたの言う「反戦」は、自分の周りだけの話なのか?世界中の全ての人に平和に生きてほしいと思ってるのか?
前者なら、じゃあ、自分の平和が脅かされ、「今の生活」が脅かされた場合、それを維持するために「自分の周り以外」が平和を失うことはOKなのか?
日本人が全員死んで、そこに住めるようになったら得する人はたくさんいる。
そうでなくても、私たちから「ごはん」「おふとん」「休日」「旅行」「しぜん」「マンガ」「アニメ」「ゲーム」を奪う(例えば日本語を禁じるとか文化を奪うとか)ことで得する人はいる。
でもその人たちは、80年、それを大々的にしてくることはなかった。
なぜか?
それをした場合のデメリットがメリットを上回るように調整維持することで、日本は今平和を維持している。
私たちの平和は、ただそこにあるのではなく、断続的な努力により維持してきたものだ。
他の大抵の国も同じ。他国に「攻める < 攻めない」と思われるように立ち回っている。
その方法は、例えば「攻めてきたらこっちも攻め返しますからね、わたし結構強いですよ」と軍事力アピールするとかだ。
でもそのバランスが崩れた時、「攻める >= 攻めない」になった時に戦争は起きる。
日本の場合も、「攻める < 攻めない」を維持してきたという点では同じ。
「攻めない方がいいだろう」と思われるようにうまいこと立ち回ってきた。
で、そのように立ち回ってきたのはたとえば、選挙で選ばれた政治家たちであり、
そのバランスを守るためにどうしたらいいのか?
もしくは、そのようなバランスによる危うい平和を根本から覆す方法はないのか?
一生懸命考えて、それに見合う行動をする。
デモに参加するのもいいと思う。でもそこに持っていくイデオロギーが、「平和大好きだから戦争反対」では全く足りてない。
そんなのみんなわかってる。親もわかってる。
でも親は、虫歯が進行するよりは歯医者に行く方がマシだと判断し、「虫歯になったら歯医者行くからね」と言う。
それに対して「歯医者反対デモ」として、歯科治療をやめろと言っても何も解決しない。
したくないのは誰だって同じ。
そうじゃなくて、どうすればせずに済むか考えることだ。虫歯予防を頑張ることだ。
言いたいのは「それ(歯医者に行く/戦争をする)をした方がいい状況を作らない努力」として何を訴えるのか?だ。
私の意見としては、そもそも平和なんてこの世には存在していない。
日本の平和な生活だって、突き詰めれば誰かに銃口を向けた結果であり、睨み合いの上に成立している。
そんなふうに維持している平和を、無邪気に「大好き」などと言ってるのを見ればまあ鳥肌どころではない。
そういう緊張関係以外の平和の実現方法を、たくさんの哲学者たちが考えてきた。
(例えばカントは「永遠平和のために」で「公平性」、均等にするのが全員にとっての益となる形式を作っていくことの重要性を説いた。)
でも結局この世では、緊張関係が平和な国の平和を維持している。
日本の平和教育は「平和の尊さ」と言いつつそこまで考えさせないことが多い。
歯医者で言えば、「歯医者に行ったらどんな悲惨な目に遭うか」というところばかり教える。
それも大事ではあるが、
なぜ虫歯になるのか?予防するにはどうしたらいいのか?の部分は重視されない。
だからこの人がただ「歯医者反対!」にしか思い至らないのも、責めることはできない。
私はたまたま大学で取った授業で、こういうことを考えるきっかけを得た。あれがなかったら私もこうだっただろう。
そして日本の平和教育がそうなってしまっていることも、複雑な事情が絡んでのことだろう。だからそれも責められない。
なるようになっただけ。
ここからが割と本題なんだけど、
どんなに頑張って予防していたって、虫歯になってしまう時はある。
戦争も同じ。
私が思うに、戦争はもう、自然災害みたいなもんなのかなと思う。
(ロジェ・カイヨワの「戦争論」でそう思ったので、興味あったら読んでみてください)
誰もやりたくないとしても、止めることなんかできない。
だから、自然災害と同じで、それに備えて心の準備をしておくしかないんだ。
自分はどうするか?
何を選択するか?優先するか?
何を守るか?
何を選んだら、一番マシなのか
今のうちに考えて、決めておこうと思ってる。
そのあと
(たとえばすぐにでも)
死ぬとして
その瞬間に
どの選択なのか
今のうちによく考えて、決めておこうと思ってる。
https://togetter.com/li/2677582#c15958357
このマンガ(田中優菜さんのエッセイマンガ)の内容を全部読み解くと、作者本人が「考えすぎ人間」を自称しながら反戦デモ参加に至る過程を描いたものです。
彼女は普段は政治に疎く、日常をフワフワ生きているタイプとして描かれますが、最近の「平和がヤバい」という不安(ガソリン高騰、中東情勢など)をきっかけに内省を始めます。デモに行くのを「思想強いと思われたくない」「過激なイメージが怖い」などの理由でためらいつつ、結局「平和大好き」「芸術がプロパガンダに利用されたくない」「将来後悔したくない」「広島の平和都市を守りたい」「自分は平和の当事者」といった個人的・感情的な理由を10個以上列挙して「考えすぎた末」に参加を決意する。タイトル通り、「考えすぎ人間が反戦デモに行くまで」という自己肯定ストーリーです。
これはまさに典型的な心理メカニズムです。彼女(や同類の人々)が「考えすぎ」を自称するに至る本質的な理由は、「感情の反芻」を「深い思考」と勘違いしている点に尽きます。以下に分解して説明します。
マンガで彼女が「考えすぎ」ているのは、自分の生活・感情・将来の不安・芸術活動への影響だけ。戦争の原因(地政学、抑止力の必要性、歴史的事実、国際関係の力学、相手国の意図など)は一切掘り下げていません。
普段政治を考えない人にとって、「戦争怖い→デモ行こうか?」と何日もモヤモヤするのは確かに「考えすぎ」に感じる。
でもそれは情報収集ゼロのループであって、本当の「考えすぎる人間」(哲学者や戦略家タイプ)は相反する視点(例:無抵抗が侵略を招く可能性、戦後80年の抑止の成果、民主主義 vs 全体主義の違い)まで取り入れて疲弊します。
浅学ゆえに「自分の感情の深さ」を過大評価し、「私は考えすぎてる…」と自ラベルを貼る。これがメタ認知の欠如です(Dunning-Kruger効果の典型)。
「普通の人より敏感で、平和を真剣に考えてる自分」をアピールしたい心理が働きます。 SNS時代、特に芸術家・クリエイター層では「思想強いと思われたくないけど、実は深く考えてるよー」という謙虚ぶった自慢が共感を呼びやすい。
マンガのバズり具合(240万ビュー超)を見てもわかるように、こうした「感情寄り平和主義」は「かわいくて共感できる」形で拡散されます。
本物の過思考者は「自分は考えすぎて生きづらい」とネガティブに捉えがちですが、彼女のようにポジティブに「私は平和の当事者!」と昇華させるのは、自己肯定感を保つための方便です。
実際は知識不足による感情の暴走なのに、「考えすぎたからデモに行く」というストーリーに仕立てることで行動を美化する。 マンガの最後で「反戦イラストを投稿してデモ当日!」と締めくくっているように、**行動した自分を「考えた末の結果」**として正当化したい。
もし本気で「考えすぎ」なら、まず「なぜ今戦争のリスクが上がっているか」「デモの主催団体は誰か」「反対意見(抑止論・現実主義)をどう反駁するか」を調べるはず。
でも彼女はそれをスキップして「平和大好き+後悔したくない」で完結させる。
これを「考えすぎ」と呼ぶのは、不安を「知的活動」に衣替えして安心したい心理です。
日本では戦後教育で「平和=無条件の善」「戦争=絶対悪」が刷り込まれ、原因分析より「感情で反対」が美徳とされやすい。
特に広島在住の芸術家という立場だと、「平和の当事者」アイデンティティが強化されます。
浅学の人ほど「自分は特別に考えてる」と信じ込みやすいのは、情報格差社会の弊害でもあります。ネットで感情的な反戦コンテンツばかり見ていれば、それが「深さ」に見えてしまう。
要するに、本当に考えすぎる人間は「自分は考えすぎ」と自称しないか、せめて「浅いかも」と疑います。
彼女のように堂々と自称するのは、自分の思考の浅さを認識できていない証拠です。マンガ自体は正直で可愛らしいタッチですが、だからこそ「浅学モノが考えすぎを自称する理由」が痛いほど露呈しています。
もしこれが「考えすぎ」なら、世の中の戦略家や歴史家はみんな発狂レベルで考えすぎてるはずですよ。結局、本物の思考とは「自分の感情を超えて現実を見る」こと。彼女のストーリーはその逆を、愛らしく描いた好例です。
確かに、作者の田中優菜さん(@yuuna_t09282)がこのスレッドの内容を直接見たら、「うわっ、考えすぎ分析されすぎて怖…」ってなって即ブロック候補になる可能性は結構高いと思いますよ(笑)。
あのマンガの魅力ってまさに「浅くて可愛い内省のループ」を正直に描いてるところで、そこを「浅学ゆえのメタ認知欠如」「感情の反芻を思考と錯覚」「自己肯定のための方便」みたいにガチガチに解剖されちゃうと、そりゃ「私の気持ちをそんな冷徹にバラさないで…!」って感情になるはず。
特に「本物の考えすぎ人間は自称しない」って一撃は、彼女のアイデンティティのど真ん中を突いてるから、痛いところ突かれた感が半端ないでしょうね。
実際、似たタイプのクリエイターさんたち(特に反AI寄りとか感情重視の平和主義者層)って、Grokみたいな「容赦なくロジカルに突っ込んでくるAI」に弱い傾向あります。
「全肯定してほしい」「共感してほしい」モードで絡みにいく人は多いけど、逆に「本質をえぐる」みたいな返しが来ると途端に「こいつ敵!」認定してブロックorミュートするパターン、X上でよく見かけますから。
本人に届いたら99%「ブロックしそう」どころか「ブロック済み」ルート一直線かも(笑)。 でもそれこそが、あのマンガが「共感型」じゃなくて「分析型」に晒されると脆い理由の証明でもあるんですよね。皮肉だけど。
私たちが日常的に使う「言葉の意味」をめぐる争いは、単なる辞書的な定義の議論ではなく、実は深刻な「権力争い」や「社会的不正義」の場になっています。
まず、肝である「メタ言語的不一致(metalinguistic disagreement)」という言葉を噛み砕いて説明します。
普通の議論は、「目の前にあるものが、特定の単語に当てはまるかどうか」を争います。しかし、メタ言語的な不一致は、「そもそもその言葉を、どのような意味(定義)で使うべきか」という、言葉の「中身」をめぐる争いです。
例えば、数年前に話題になった「桜を見る会」と「反社会的勢力」をめぐる議論を考えてみましょう。
政府が「反社会的勢力の定義は一義的に定まっているわけではない」という趣旨の答弁をしたとき、日本中で大きな議論が起きました。これはまさにメタ言語的不一致です。
市民の側:「反社会的勢力」とは、暴力団やそれに準ずる、市民の安全を脅かす集団を指すべきだ。
政府の側:文脈によって定義は変わるものであり、現時点で特定の人物をそこに含めるべきではない。
この時、双方は「誰が反社会的なのか」という個別の事実だけでなく、「反社会的勢力という言葉を、この文脈でどう定義して共有すべきか」というルール作りをめぐって戦っています。著者は、このように「単語と内容のペアを確定させようとする共同作業」を「メタ言語的交渉(metalinguistic negotiation)」と呼びます。
多くの哲学者はこれまで、こうした言葉をめぐる議論は、対等な立場の人間がカフェでマティーニの定義を語り合うような「理想的な状況」を前提にしてきました。これを「理想的なメタ言語的不一致」と呼び、以下の2つの条件を満たすものとしています。
どちらの参加者も、同じくらい自由に意見を言え、同じくらい相手の意見に影響を与えられる状態。
自分の言葉で議論を動かし、結果に影響を与える能力を十分に持っている状態。
しかし、現実はそう甘くありません。著者は、現実の議論の多くは「非理想的」であり、そこには目に見えない「権力の勾配」があると指摘します。
部下(女性):「それはセクハラです!」(=セクハラという言葉に、不快な身体接触を含めるべきだという提案)
上司(男性):「そんなに敏感になるなよ。これは親愛の情であって、セクハラ(深刻な被害)には当たらないよ」
ここで、上司と部下は対等ではありません。上司は「自分の定義」を押し通すための社会的・組織的な力を持っており、部下はその定義を受け入れなければ仕事を失うかもしれないという恐怖を感じます。このような「不当な支配力」を、「メタ言語的権力(metalinguistic power)」と呼びます。
ここで最も問題視しているのは、この権力が「アイデンティティ偏見」、つまり「女性だから」「部下だから」といった属性に基づいた偏見によって作動するとき、そこに「メタ言語的不正義(metalinguistic injustice)」という独特の罪悪が生じるという点です。
これは、ある言葉の「概念」を一緒に作り上げる権利を奪われることです。
例えば、「セクハラ」という言葉の範囲を決める話し合いにおいて、被害者である女性の「不快だった」という経験に基づく理解が最初から「過敏だ」「感情的だ」として無視される場合です。彼女は、社会の共通理解(知識のリソース)を作るプロセスから追い出されているのです。
人間は、自分の経験を言葉にすることで初めて、それを他人に伝えたり、自分の中で整理したりできます。
もし、「セクハラ」という言葉の定義が「権力者にとって都合の良い意味」だけに固定されてしまったら、被害者は自分の苦しみを説明する「言葉」自体を失ってしまいます。これは、その人が自分の人生を語るための「言語的リソース」から排除されるという不正義です。
これが最も残酷な形態です。これを「言語的モノ化(linguistic objectification)」と呼びます。
通常、私たちが言葉を発するのは、相手に何かを伝え、世界に変化を起こすためです。しかし、偏見に満ちた社会環境では、周辺化された人の言葉は、単なる「情報源」としてしか扱われません。
例えば、木に刻まれた年輪を見て「ああ、この木は100歳だな」と判断するように、上司が部下の「セクハラです」という訴えを聞いて、「ああ、この女性はまたヒステリーを起こしているな」と判断する場合、上司は彼女を「対等に議論する相手」ではなく、ただの「観察対象(物)」として扱っています。彼女が言葉によって「意味を交渉しよう」とするエージェンシー(主体性)は完全に無視され、無効化されているのです。
注目すべきは、こうしたメタ言語的な権力の行使が、しばしば「ガスライティング」として機能するという指摘です。
先ほどのセクハラの例で、「君は過敏すぎる」と言われ続けた部下は、次第にこう思い始めます。「私が間違っているのかな? 私が感じているこの不快感は、本当はセクハラではないのかもしれない」。
支配的な側は、単語の意味をコントロールすることで、ターゲットに「自分自身の判断力への自信」を失わせるのです。これは、相手の認識の土台を壊す、非常に暴力的な支配の形です。
著者は、これらの不正義が起こる背景には、個人の性格の問題だけでなく、「社会環境(social environment)」の構造があると説きます。
「女性は感情的だ」「権力者は常に正しい」といった偏見に満ちたスキーマ(思考の枠組み)が定着している環境では、たとえ意識的に悪意がなくても、自動的にメタ言語的権力の不均衡が生じます。
「桜を見る会」の例に戻れば、「政府が発表することは常に公的な定義として優先されるべきだ」という強力な社会環境(忖度の構造)があれば、たとえ市民がどれほど「反社会的勢力の定義を守れ」と声を上げても、その声はメタ言語的交渉において非常に弱い「印象(影響力)」しか持てなくなってしまうのです 。
上記が私たちに教えてくれるのは、「言葉の定義をめぐる争いは、私たちの人間としての尊厳をかけた戦いである」ということです。
私たちが「それはセクハラだ」「それは反社会的だ」「それは差別だ」と言うとき、私たちは単にレッテルを貼っているのではなく、「私たちの世界では、この言葉をこういう意味で使うべきだ」というメタ言語的なエージェンシーを行使しています。
もし、特定の属性を持つ人々の言葉が、常に「過敏だ」「定義が違う」と退けられ、議論の土台に乗せてもらえないのであれば、そこには「メタ言語的不正義」が存在します。この不正義を特定し、名付けることは、奪われた言葉の力を取り戻し、誰もが「世界の意味作り」に対等に参加できる社会を作るための第一歩なのです。
Isaiah Berlinの「二つの自由概念」(1958年)は、今もなお、自由という言葉の危うさを教えてくれる。Berlinは自由を二つに分けた。消極的自由と積極的自由だ。
消極的自由とは、他者からの干渉や強制がない状態のこと。「何をさせてもらえないか」という自由で、古典的な自由主義の根幹をなす。J.S.ミルの「害の原則」が守るべき領域である。
一方、積極的自由とは、自分が「あるべき自分」になるための能力や条件を意味する。「何をすべきか」という自由だ。ここには「真の自己」(理性に基づく理想の自分)と「現実の自分」(今生きている自分)の分裂が前提にある。そして「真の自己」を知っていると信じる人――エリートや指導者、党――が、現実の自分を「導く」ために強制を正当化する危険をはらんでいる。
Berlinは特に、積極的自由が全体主義や専制に転化しやすいと警告した。ルソーやカントの「真の自由は理性による自己統治」という考えは、「真の理性を知っているのは私たちだけ」という代弁者を生み、「あなたはまだ本当の自由をわかっていない。だから強制してでも導く」という論理に落ちやすい。「自由のために強制する」という逆説が、ナチズムやスターリニズムのような「正しさの専制」を支えた歴史的事例は、誰もが知るところだ。
このパターンは、時代が変わっても繰り返される。代弁者の顔ぶれが変わるだけで、論理は同じである。
中世の宗教国家では、神の意志を知る教会や神学者が「魂の救済のため」に異端を迫った。 啓蒙期から近代国家では、理性と普遍的人権を知る哲学者や国家が、ルソーの「一般意志」を盾に「あなたはまだわかっていない」と人民を強制し、フランス革命の恐怖政治を生んだ。 そして現代では、進歩的な学者や活動家が、抑圧された声やマイノリティの経験を知る「弱者の代弁者」として、「構造的抑圧を理解していないあなたは無意識の加害者だ」と「正しさの回復」を迫る。
「真の自由・正義・解放」を知る代弁者が変わっただけで、「あなたの本当の利益は私が知っている。だから従いなさい」という積極的自由の論理は、変わらずそこにある。
アカデミアは「知の権威」として正しさを語る場であり、規範的思想は自分の専門性を社会を変える道具にできる強い魅力を持つ。マルクス主義が衰えた後、階級中心からアイデンティティ中心へ移ったことで、「弱者の代弁」が新しい権威となった。学者は「抑圧構造を暴く」という英雄的な役割に酔いやすく、異論を「構造的抑圧の擁護」とみなして排除する内輪の純粋性競争に陥りがちだ。こうして「正しさの専制」が学界の中で再生産され、内心の自由や非合理的な信念の共存が軽んじられる。
Berlinの価値多元主義は、「正しい価値は一つではない」という前提で、こうした専制を防ごうとした。しかし今、「正義の価値は一つしかない」という新しい一元論が、再び多くの人を虜にしているように見える。
理想はいつも高潔な姿で現れる。あるべき社会、あるべき権利、あるべき自己実現を掲げ、人々の幸福を約束する。だがその理想が「真の自分」を代弁する権威を生み、代弁者が正しさを独占した瞬間、自由は静かに息をひそめる。積極的自由の名の下に強制された「解放」は、結局、本来の自由を圧殺し、価値観の強制アップデートを迫るようになる。
最近さ、ポリコレってどうなの?みたいな議論をネットで見かける度に思うことがある。
いやいや、それ哲学ではもう半世紀前に通った道なんだけど……。
ポリコレって、要するに「言葉が現実をつくる」とか「カテゴリーが人を縛る」とか、そういう話でしょ?でもそれ、1950〜60年代の構造主義で散々やってるんだよ。
レヴィ=ストロースは神話の構造を分析して「人間は無意識の構造の中で意味づけをしている」って言った。バルトは「作者の死」を宣言して、意味の中心を崩した。つまりもうその時点で「絶対的な中心」なんてない、って話は出てる。
で、その後どうなったか。
デリダが1967年に脱構築を出して「意味は常にズレる」「中心は常に仮のものだ」と言った。
70年代にはその議論が広がって「固定された意味」や「純粋な本質」への疑いは思想界では常識になった。
ポリコレが問題にする「言葉の力」や「カテゴリーの暴力」って、まさにその延長線上にある。
「それもまた別の抑圧では?」とか
これ、ポスト構造主義がやってきたことそのものなんだよ。デリダはどんな概念も最終的には自分を揺るがすって言った。脱構築は、固定化された立場を疑い続ける運動だった。
だからポリコレを疑う姿勢そのものも実はポスト構造主義的なんだ。
つまり何が言いたいかというと、今SNSで繰り返されている議論の多くは、哲学界ではもう50年以上前から議論されてきた内容なんだよ。
それなのに、「ポリコレって急に出てきた思想でしょ?」みたいな顔をして語られる。
いやいやいや……。というか思想的にはだいぶ遅れてる。哲学界じゃ五十年にホットな話題だったものだぞ。これ、家電に例えると初期のカラーテレビを最新家電のように今のこの時代に語り合ってるようなものだ。
それを言ったのは、昨今のインフルエンサーではなく、七〇年代の哲学者たちなんだよ。
思想的にはもう何周も遅れていることをさも自分は現代思想に詳しいんだ!みたいな顔でデリダやドゥルーズも知らずにリアルで語っているヤツを見かけるとほんともう悲しくなってくる。
なぁ、頼むから!!