2018年楊鴻勛先生建築史国際学術シンポジウム招聘講演(3)
愛荊荘
大学HPのTUESレポートでシンポジウムの報告がアップされました。
http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2018nendo/20180506/
客家とは何か
福建省を代表する、というよりも福建が世界に誇る特異な住宅として、閩南の客家(ハッカ)土楼がよく知られている。閩(びん/ミン)とは福建の古名であり、中原華北の民からみて南方海岸側に雑居する「百越」のなかの「閩越」と呼ばれる民族集団の居地であった。ところが、一口に閩といっても多様であり、閩江以北の閩北と以南の閩南では方言と文化に大きな違いがある。北京語と広東語の差がフランス語とスペイン語よりも遠いものだということを学生時代に教わったが、隣接する閩北と閩南でまったく言語が通じないという状況は、オーストロネシア語の源流地として想定される台湾高砂族の方言差を彷彿とさせる。すなわち、福建に入り込んだ南方古モンゴロイド集団の定住年代は非常に古く、北方漢族に征服されるはるか以前から言語分裂が始まっていて、漢族の文化と言語に被覆されてもなお、その変差を埋めきることができなかったということではなかろうか。
一方、客家(ハッカ)とは、最近NHK-BS2の「桃源紀行」でも解説されていたが、元の時代に北方から侵略してくるモンゴルの騎馬民族を怖れ、北寄りにいた人びとが集団で南下し、防御性の強い集合住宅として住まう「土楼」を造営するようになったと考えられている。問題は、その「北寄り」の地がどこか、ということであろう。居住者の家譜などに従うと、その地は中原にあたり、遠い祖先に秦の始皇帝がいたりするのだが、私の記憶がたしかならば、客家語は閩南語と贛語の融合・発展としてとらえるべきとする方言学の説を読んだことがある。贛(ガン)とは江西省の古名である。この説に従うならば、客家の故郷たりうる「北寄り」の地とは長江南岸側の華中-鄱陽平原あたりであり、福建からそう遠くない北側の位置であって、確たる根拠を知らないけれども、何気に納得したくなる場所だと思っている。鄱陽湖周辺にいた楚の国の末裔たちが、モンゴル騎兵におびえて南下し、福建・広東境の山間部に逃げ込んで土楼を築いた。そうした移住者を土着の閩南人や広東人が「客家(よそ者)」と呼んだ・・・なかなか良い推理じゃありませんか?
愛荊荘
大学HPのTUESレポートでシンポジウムの報告がアップされました。
http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2018nendo/20180506/
客家とは何か
福建省を代表する、というよりも福建が世界に誇る特異な住宅として、閩南の客家(ハッカ)土楼がよく知られている。閩(びん/ミン)とは福建の古名であり、中原華北の民からみて南方海岸側に雑居する「百越」のなかの「閩越」と呼ばれる民族集団の居地であった。ところが、一口に閩といっても多様であり、閩江以北の閩北と以南の閩南では方言と文化に大きな違いがある。北京語と広東語の差がフランス語とスペイン語よりも遠いものだということを学生時代に教わったが、隣接する閩北と閩南でまったく言語が通じないという状況は、オーストロネシア語の源流地として想定される台湾高砂族の方言差を彷彿とさせる。すなわち、福建に入り込んだ南方古モンゴロイド集団の定住年代は非常に古く、北方漢族に征服されるはるか以前から言語分裂が始まっていて、漢族の文化と言語に被覆されてもなお、その変差を埋めきることができなかったということではなかろうか。
一方、客家(ハッカ)とは、最近NHK-BS2の「桃源紀行」でも解説されていたが、元の時代に北方から侵略してくるモンゴルの騎馬民族を怖れ、北寄りにいた人びとが集団で南下し、防御性の強い集合住宅として住まう「土楼」を造営するようになったと考えられている。問題は、その「北寄り」の地がどこか、ということであろう。居住者の家譜などに従うと、その地は中原にあたり、遠い祖先に秦の始皇帝がいたりするのだが、私の記憶がたしかならば、客家語は閩南語と贛語の融合・発展としてとらえるべきとする方言学の説を読んだことがある。贛(ガン)とは江西省の古名である。この説に従うならば、客家の故郷たりうる「北寄り」の地とは長江南岸側の華中-鄱陽平原あたりであり、福建からそう遠くない北側の位置であって、確たる根拠を知らないけれども、何気に納得したくなる場所だと思っている。鄱陽湖周辺にいた楚の国の末裔たちが、モンゴル騎兵におびえて南下し、福建・広東境の山間部に逃げ込んで土楼を築いた。そうした移住者を土着の閩南人や広東人が「客家(よそ者)」と呼んだ・・・なかなか良い推理じゃありませんか?
愛荊荘