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2025-01-18

ガチャピン中の人などいなかった

 子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たち真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。

 ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキースキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物動作しか言いようがなかった。

 確かに人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピン場合、頭の上から足の先まで完璧シンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである

 さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツスキースノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみ構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しか映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。

 その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。

 もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしかテレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムック存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。

 さら子ども向け番組世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組マスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。

 また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間声優存在するとしても、そのピッチトーンを常に一定に保つの至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。

 その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。

 以上のような理由から、私は「ガチャピン中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情からガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキージャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである

 では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間性質によるのだろう。未知や不思議ものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピン超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈はるか凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。

 私はむしろ大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子もの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコ笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルガチャピン”だったのだ。もし、あのころ私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界もっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。

 思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。

 だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピン中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジー証明であり、あの緑色恐竜いつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋気持ちは、決して間違っていなかったのだ。

 誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たち大人になるにつれ忘れかけた好奇心冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつ生命”——それがガチャピンなのである

 きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たち子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。

 そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピン中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。

 こうして振り返ってみると、ガチャピンテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピン勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たち自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界もっと広がるのだと教えられる。

 結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割ひとつではないだろうか。私たち想像余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピン中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。

 そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントステージで、そして私たち想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日自分を取り戻すためにも

中居フジ問題の雑観

普段ほとんど芸能ネタに興味のない人間であるドラマは全く観ないし、アイドルにもぜんぜん興味がないし、M-1などのお笑い番組も、観ても面白さがほぼ理解できないレベルで疎い。当然ながら芸能に関する知識も全くない。

しかし、今回の中居正広女性トラブル問題については、リアルタイム情報を追っている。その理由芸能スキャンダルにとどまらない、日本社会の大きな転換点・分水嶺を感じるからだ。

1980年代以降、日本社会世論はほぼテレビ代表されていた。日本の政治社会問題で何が争点で論点なのかは、テレビが取り上げるかどうかや、テレビフレーミングですべて決まっていたと言っても過言ではない。1993年自社さ連立政権も、2005年小泉郵政選挙も、2009年民主党政権とその後の転落も、大袈裟ではなく全てがテレビ発のイベントだった。平成期の政局で最も大きな影響を与えたのは、明らかに小沢一郎でも小泉でもなく田原総一朗だろう。

1980年代当時の、子どもだった私たちにとって「たけし」「さんま」「とんねるず」などのテレビスターは既に総理大臣よりも偉い人だった。その後20年を経て、国会議員総理大臣権威は地に堕ちた一方、彼らテレビスター権威は、本当に総理大臣以上になっていた。実際、彼らは上の世代芸人がそうしたような、さらなる高みを目指して国会議員進出する、という道に全く関心を示さなくなった。テレビ芸人権威が、国会議員はるかに上回るようになったかである

しかし、ジャニーズ松本人志そして中居が次々と性加害報道凋落していったように、テレビで売れている人が日本社会で最も社会的地位が高い、という2010年まで続いた強固なヒエラルキーは、2020年代に入って急激な勢いで崩壊しつつある。誤解してはいけないのは、SNSYouTubeの影響、というだけではないことであるネット配信者は基本的ネット記事を紹介するだけの「コタツ記者」であり、取材能力は全くの皆無である週刊誌取材力とSNS拡散力が連動して、はじめてテレビの力を打ち倒すことができたのである

もともと芸能事務所やテレビスターの性加害事件スキャンダルは、週刊誌夕刊紙で頻繁に報道されていた。かつて中居堕胎強要事件報道されたことがあったが、週刊誌の読者に隅っこで読まれるだけで、「週刊誌デマでも記事にして商売する」というイメージもあり、テレビ報道されない限り社会的影響力は皆無だった。

しか現在は、状況が一変した。週刊誌記事ネット配信され、SNSYoutubeで瞬く間に拡散するようになった。結果として、松本中居などがSNS大炎上し、Youtubeで詳細な解説動画が膨大に溢れているにも関わらず、テレビをつけても全く報道されない、という風景が繰り返されるようになった。少しずつ報道するようになっても、「痒いところに手がとどかない」レベル報道であるため、「テレビ報道しない自由を行使している」という非難をより強めるものになっている。

結果として、「テレビ報道しない真実」を常套句とする、質の悪い陰謀論的なYoutubeチャンネルが溢れかえるようになっている。中高年の主婦がより陰謀論にハマりやすいと言われるが、これまで彼女らが家の中で一日中テレビをつけっぱなしにして生活してきた層であることとおそらく無関係ではない。SNSでは質の悪い情報ほど拡散力が高く、インフルエンサー社会保障理解などは絶望的にひどいものが多く、今後日本ますます衰退・崩壊していくのだろうという悲観的な未来が予想される。

最後に、テレビ局はこうした変化に柔軟に対応してアップデートしてこなかったことを指摘しておく。松本中居1990年代半ばから既にテレビで見ない日がないテレビスターだった。言い換えると、「テレビの顔」が30年も更新されてこなかったということである。そして、テレビ制作現場価値観も、テレビ画面上で公然セクハラで笑いをとっていた90年代のノリを引きずっていたことが、今回改めて明らかになってしまった。metoo運動以降に就職した、Z世代高学歴女性アナウンサーからすれば、松本中居女性に対する価値観や扱いと、それに積極的同調して性加害を隠蔽するテレビ局員と幹部の姿は、ほとんど現実とは信じがたいものと映っていたはずであり、彼女たちが精神を病んでしまうのも当然と言えるだろう。

anond:20250118124312

データでは男性の方が犯罪率が高いけど

それは女性犯罪を見逃してもらえる事が大半なため、実は女性の方が圧倒的に犯罪率は高い

なんかこれは真実っぽく思えてきたな🤔

2025-01-17

サンタクロースの正体を突き止めた

 ぼくは小学三年生ケンジ。クリスマスが大好きで、毎年12月になると待ちきれない気持ちでいっぱいになる。サンタクロースが本当にいるのかどうかは、ずっと半信半疑ではあったけれど、それでもクリスマスの朝にプレゼントが届いているのを見つけると、「やっぱりサンタクロースっているんだ」と思わずはいられなかった。

 ところが、今年のクリスマスに限っては、いつもとは違う出来事が起きてしまったんだ。ぼくはついに、「サンタクロースの正体」を突き止めてしまった。それは嬉しい発見なんてものではなく、どちらかというと、心のどこかで知りたくなかったような苦い秘密だったんだ。

 その夜、ぼくはベッドの中でうとうとしていた。いつもは「サンタが来るかもしれないから、早く寝なさい」と言われると、ワクワクしながらも眠れなかったりするのに、その日は妙に眠気が強くて、あっという間に目が閉じてしまった。パパは会社の大きなプロジェクトだとかで、クリスマス前後ほとんど家に帰ってこられない。ママも少し寂しそうだけど、ぼくにはできるだけ笑顔で接してくれていたから、ぼくも「パパが頑張っている間に、早くいい子に寝なきゃ」と思っていたんだ。

 ところが、夜中にふと目が覚めた。お腹がすこし冷えたようで、トイレに行きたい気分だった。部屋は真っ暗で、廊下電気も消えている。ぼくは薄暗い中、そっとベッドから抜け出して、足音を立てないようにドアを開けた。廊下はシーンとしていて、時計の秒針の音がいつもより大きく聞こえる。サンタクロース待ち伏せしようなんて気はなかったのに、でもこういう時って少しだけ期待してしまものだ。もしかしたら、このタイミングで会えるかもって。

 トイレを済ませて部屋に戻ろうとしたときリビングの方からかすかに話し声が聞こえてきたんだ。時計を見れば、夜中の2時を過ぎている。ママはもう寝ているはずだし、パパはもちろん仕事で家にいない。でも確かに人の声がしていて、しかも何か低い男性の声のような気がした。ぼくは心臓がどきどきして、血が頭にのぼるような感覚になった。

 「もしかして泥棒…?」

 そんな恐怖が一瞬頭をよぎったけど、なんだか雰囲気が静かすぎる。泥棒だったら、もっと物音を立てないようにするんじゃないか? それに、声の調子も緊迫しているというよりは、落ち着いている感じがする。そっとリビングの扉を開けようと近づくと、ドアの隙間から少しだけ暖かい光が漏れていた。

 思い切って、ドアに耳をあてる。そこから聞こえてきたのは、ママの声と、低い男性の声。ぼくはママが誰かと電話でもしているのかなと考えた。でも、よくよく聞くと、声は確かにすぐ近くから聞こえてくる。ぼくは思い切ってドアノブを少しだけ下げて、ほんの少しすき間をつくった。その瞬間、リビングの中の光景が目に飛び込んできたんだ。

 そこには、赤い服を着た人物が立っていた。ふわふわの白いひげのようなものをつけて、頭には赤い帽子。見た目はまさに「サンタクロース」そのものに見えた。最初は「わあ、サンタだ!」と胸が高鳴ったんだけど、その次の瞬間、ぼくは息を飲んだ。

 そのサンタが、ママの頬にキスをしたんだ。しかも、ちょっと優しく微笑んでいるような表情で。

 最初は「え、どういうこと?」と頭が真っ白になった。「ママサンタキス?」 いつもおとぎ話みたいに思っていた光景とは違いすぎて、ぼくの頭は全然理解が追いつかない。その上、ママも嫌がる様子はまるでなく、むしろ少し照れくさそうに笑っている。二人が仲良さそうに見えて、クリスマスサプライズとしてはあまりに衝撃的すぎた。

 しばらくして、ママサンタ帽子を少しずらして、その下から見えたのは茶色っぽい髪の毛。パパではない。パパは黒髪だし、こんなに柔らかそうな髪質じゃない。それに、パパは今夜、仕事で家にいないはずだ。じゃあ、このサンタは誰なんだ? ぼくは混乱しながら、ドアの隙間を通してじっと様子を見つめていた。

 「もう行かなくちゃ」とそのサンタが言うと、ママは残念そうにしていた。どうやら、長居はできないらしい。そのサンタは、ぼくが子どもの頃から憧れていた「プレゼントをくれる優しいサンタ」とは違う、“ただの人間”に見えた。ふだん着慣れていないはずのサンタ衣装をスルッと脱ぐと、中には普通のセーターとジーンズが現れた。あまりにも現実味ありすぎる光景に、ぼくは冷たい汗をかくのを感じた。

 その男性は脱いだサンタ服をクシャクシャに丸めて、抱きしめている。ママは優しく笑いながら、「来年こそはちゃんと一緒に過ごせるようにしたいね」と言った。二人のあいだには、ぼくには到底入り込めない特別空気があるように感じられた。

 ぼくは耐えきれなくなって、あわてて自分の部屋に戻った。けれど、頭の中がぐるぐるして眠れるはずがない。どう考えても、あのサンタママの知り合いで、ママキスするような関係……つまり不倫相手ってことなんじゃないか。つい数時間前まで、ぼくは「今年は何がもらえるかな」「早くサンタさんに会いたいな」なんて無邪気に思っていたのに、このクリスマスの夜中に目撃したものは、まったく別の秘密だった。

 「パパは関係ないの?」 ふとそんな疑問が浮かんだけど、パパはずっと会社に詰めっぱなしで、今夜も徹夜だと聞いている。ママが一人で寂しい夜を過ごしているのは知っていたけど、その寂しさを埋めるためにあんなことをしているとすれば……ぼくはなんだか、胸の奥が締めつけられるようだった。

 翌朝、ぼくはクリスマスリーの下にプレゼントを見つけた。きれいに包まれた箱には、「ケンジへ サンタクロースより」と書かれたカードが付いていた。だけど、そのカード文字はどこか見覚えのある書き方で、ママの字にも似ているし、もしかしたらあの男の人が書いたのかもしれないと思うと、手を伸ばすのをためらってしまった。

 ママはいつもと変わらない笑顔で、「メリークリスマス! 開けてみたら?」と言ってくる。ぼくは一瞬だけ迷ったけど、やっぱり小学生のぼくには、プレゼントへの好奇心が勝ってしまった。恐る恐る包装紙をはがすと、中には欲しかったゲームソフトが入っていて、思わず「わぁ!」と声をあげてしまった。だけど、その喜びのあとに、どうしようもない違和感が押し寄せてきた。

 プレゼントを受け取ってしまたことは、あの場面を見てしまったぼくにとって、なんだか後ろめたい気持ちになった。結局、あの“サンタ”はぼくのためというより、ママと会うために来ていたんじゃないだろうか。もしかしたら、どこかで「ケンジにはゲームでも渡しておけばいいだろう」なんて考えていたのかもしれない。そんな想像がぐるぐるめぐって、心が苦しくなる。

 だからといって、ママに直接問い詰めることなんてできない。そもそも、ぼくが夜中に起きてしまたこ自体を隠しているわけだし、証拠といえば、あのサンタ服とキスの場面を見たぼくの記憶だけだ。ママ笑顔は優しいし、これまでだってぼくのことを大切にしてくれている。だけど……あの夜、確かにぼくは見てしまった。あのサンタはただのファンタジーなんかじゃない。ママが密かに会っている“特別存在”に違いない。

 自分の部屋に戻って、ゲームソフトを手に取りながら、ぼくは一人で考え込んだ。このまま見なかったことにして、来年も再来年も「サンタはほんとうにいるんだ」と思い込みたい気持ちもある。でももう、サンタクロースがただの伝説存在や、パパやママがこっそり用意しているっていうレベルの話じゃない。実在する男の人で、しかママと親密な関係にあるという決定的な事実を、ぼくはこの目で見てしまったのだ。

 「サンタクロースの正体は、ママ不倫相手だったんだ……」

 そう思った瞬間、自分の中で何かが壊れたような気がした。今まで純粋に信じていたクリスマス魔法が、一気に色あせてしまったような。もちろん、ファンタジーサンタクロースというより、ママが用意してくれる優しさの方が大事だったのかもしれない。けれど、それすらも「不倫」という形で見せつけられてしまたからには、どうやってこの先クリスマスを楽しめばいいのか、ぼくにはもうわからなくなってしまった。

 それでも、世間一般クリスマスはいつも通りやってくる。友達はみんな「サンタスイッチをくれたんだ!」「サンタさんに大きなぬいぐるみをお願いしてたのが届いたよ!」と楽しそうに話してくる。ぼくも一応、「ゲームソフトをもらったんだ」と自慢げに言ってみたけど、心はちっとも晴れない。

 学校先生が「みんな、サンタさんに何をお願いしたの?」と聞いてきたときにも、ぼくは声をあげて答えられなかった。何か言葉にしようとすると、あの夜の光景がちらついて、言えなくなってしまうんだ。サンタクロースママキスをしている姿……誰にも話せない。それを話したら、どんな空気になるのか想像もつかないし、同級生のみんなも先生もどう反応していいのかわからないだろう。

 こうして、ぼくは「サンタクロースの正体」を突き止めた。だけど、その代わりに、ぼくが手にしたものは何だったんだろう。ゲームソフトというプレゼントは嬉しいけれど、心の奥底に残っているのは、裏切られたような、でも裏切られたのはパパじゃないのかもしれないという、複雑な感情だった。

 パパもいつかは気づくのかもしれない。だけど、もしパパが何も気づかないままぼくとママの三人で暮らしていくとしたら、ぼくはあの夜の秘密を抱えたまま大人になっていくのだろうか。クリスマスのたびに、あのキス光景を思い出すのだろうか。サンタクロースを見つけたはずなのに、喜びよりも重苦しさの方が大きい。子どものぼくには、このことをどう消化していいのかまったくわからなかった。

 でも、ひとつだけ言えるのは、ぼくの知っていたはずの「サンタクロース」はもういないということ。いや、最初から本当は「いなかった」というべきか。今ここにいるのは、赤い服と白いひげを身につけた“ただの大人”であり、ママキスを交わしている「不倫相手」でしかない。いつか、ぼくがもっと大きくなったら、ママに「どうしてあんなことをしていたの?」って聞けるのかな。そのときには、ぼくはもうクリスマスなんて信じる歳じゃないのかもしれないけれど……。

 とにかく、今は誰にも言えない秘密を抱えたまま、ぼくは冬休みを過ごすしかない。ぼくにとってこのクリスマスは、決して忘れられない特別な日になってしまった。みんなが幸せそうにサンタクロースを信じている中で、ぼく一人が全然違うサンタ像を胸に抱えているなんて、想像もしなかったことだ。サンタクロースの正体を突き止めるというのは、こんなにも苦いものなのかと思い知らされた。

 気づけば、外は雪が降り始めていて、街はクリスマスの余韻とお正月ムードが混じり合っている。来年クリスマスには、ぼくはもっと大人になっているかもしれない。でも本当に大人になったとき、この夜の光景をどんなふうに思い返すのだろう? あのサンタの姿は、いったいどう映るのだろう? そんなことを考えても、今のぼくには答えられない。ひょっとしたら、いつかは笑い話になる時がくるのかもしれないし、ずっと重い秘密のまま、心の奥底に沈んだままかもしれない。

 とにかく、ぼくはこの冬、ちょっぴり大人になってしまった気がする。もう「サンタさん、プレゼントちょうだい!」と純粋にお願いできる子どもではなくなってしまたから。だけど、もし願い事が許されるなら、ぼくはサンタにこう言いたい。「ほんとうの魔法をかけてほしかった」と。あの夜の出来事が夢だったとしたら、どんなに幸せだっただろう。

 結局、ぼくはサンタクロースという夢を失くしてしまった。その代わりに、ママの知られざる一面と、“現実”を手に入れてしまった。こんなクリスマス真実なんて、知らないほうがよかったのかもしれない。だけど、知ってしまった以上、元に戻る方法はわからない。少なくとも、ぼくの中で「サンタが本当に存在する」というロマンは、もう二度と同じかたちでは戻ってこないのだ。

 それでも、時間は過ぎていく。来年クリスマスには、また同じようにツリーを飾って、ママケーキを用意して、パパは「残業だ」なんて言いながら仕事に向かって、そして夜中には「サンタ」が訪れるのかもしれない。ただ、その“サンタ”は、誰にも言えない大人秘密を抱えたサンタだということだけは、ぼくがいちばんよく知っている。

週刊誌が書いただけで騒すぎじゃない?

どこまで真実か疑わしいのに

週刊誌真実でない内容については責任を問われるべきだろ

でないと週刊誌側が有利すぎる

anond:20250117183554

今更何言ってんの?

キャンセルカルチャー社会的包摂

すべての人に正義を与え、誰でも「怒る」ことで共同体に参加できる福祉

自分の頭で考えることができなくても大丈夫

貧乏でも大丈夫

小山田圭吾の件で後から事実ではなかったという擁護論が出てきたけど

真実かどうかなんてどうでもいいわけ

なにしろこっちはSDGs国連お墨付き

わずにひたすら燃やしていくだけ

anond:20250117185958

円周率=πも、化石古代生物なのも、今証明してみせろよ

できないならそれは真実じゃない

お前は家畜、飼い慣らされた猿

疑うものこそが人間だ、人間ではないならお前は即時人の言葉放棄しろ

陰謀論真実じゃないと誰が決めた?実証した?

陰謀論者は足元をすくわれない、なぜならすべてを怪しんでるから

何も怪しまないお前たち無知蒙昧の家畜どもが、真っ先に死ぬんだよ

最後死ぬ、もしくは死なずに生き延びるのは陰謀論者の方だ、短命共は己が愚かな事を棚に上げて賢い我々を馬鹿にしてる

馬鹿はどっちだろうね?

言動の裏に「真実」を感じてしま

どうすればいい?

いや「真実」なんて真実でも何でもないんだが

わかっていても感じてしまって困っている

自分が褒められたときに「社交辞令だろうな」と感じるくらいならいいんだが

最近他人が褒められたときにも「社交辞令だろうな」と感じてしまものからすごく困る

水を差すような行為なわけで間違っても口に出さないように我慢してる

我慢はするがいつかぽろっと口をついて出そうで怖い

どうすればいい?

記憶に残るキン肉マンの名シーン29選(あとひとつは? もあるよ)

記憶で書いてるので抜け誤り多いです

当然ネタバレ多く含みます。再開後は多分入れない

不忍池でのロビンマスクマスクのみ)浮上

アトランティス戦。キン肉マンといえばこれというぐら仲間内で盛り上がった

ネタや弄りとしてミームになたりオマージュパロディされてるものは他にも多いがこれはほんとの名シーン名演出

ちなみに初めて読んだときはふーんと特に感動もせず流した

あと28個は?

こんなことが物理的に可能なのか!?

特に前振りもなく? あったっけ? のマッスルドッキング

痺れた。後に物理的とかの意味を知ってちょっとネタ化する

初は初代グレートとの共演だから出来て当然なのか。物理に反しさえすれば

あと27個は?

茨の道を進め

最終回? なんだかんだよいお話だった

あと26個は?

お前を超える以下略

ネタになっているが、当時はもちろん検算なんてしていない(100*2*2*3は合ってる)

ただただ熱かった

あと25個は?

オカマラスが帰るとこ

違う怪獣だったかもしれないが、ウルトラマンとかのしんみり回みたいなやつ

記憶力が悪く名シーン思い出せないので、初めのほうから辿りだした

あと24個は?

テリーマンの失格

新幹線止めたやつ。スケールがでかい

そもそも競技整合性とかはおいておくとして

あと23個は?

バッファローマンが改心したところ

あと1秒で爆発するミートに角投げて助けたところ

ほんとにもうだめかとおもった。

今思いなおせばその前になんとか他の誰か頑張れとも思ったが

誰も動けないとか(パワーが足りない?)だっけ?

あと22個は?

下に地獄

ジャンクマンなのは覚えてるけどザニンジャ戦でしたか

五重のリングをうまく使った珍しく筋の通ったギミックで、ブロッケンジュニア勝利(合ってる?)

あと21個は?

謎の6超人

プリケツマンみたいなのが居たシーン

どうしても選に入れたかった

ずっと騎士悪魔超人の数がどっちが6か覚えられない

悪魔将軍の五体になるのが……でも計算あわないな

多分6騎士からこっちは7人ぐらい バファ、マウン、ステカセ、カーメン、アトラ、スニゲ、スプリ?

あっちは、阿修羅ジャンクニンジャプラネ、スニゲ(スニゲこっちだ)、サンシャインと誰だっけ?

7人にBHで、

あと20個は?

ミートバックドロップ

終盤のも溢れたらだめなので思い出ししだい入れておく

おこちゃま参戦は他作品でも(るろ剣とか)あるが、だいたい微妙な結果に終わる

これは真っ向から読者をねじ伏せて説得力も(作内の他の設定に比べたら)ある素晴らしいバトル

あと19個は?

ありがとうドクターボン

感動シーンも。命を賭してバトルは沢山あるが、バトル以外での描写は少ない。

テリーの腕を手術した回? だった気がする。角で

あと18個は?

組木での修行

始めからあったシーンか、回想でしか出てこなかったシーンだったかは忘れた

カメハメとの修行で、鳥居みたいな棒で修行するところ

なんかすごくほんとにありそうっぽかった(多分あるのだろう)

あと17個は?

猫じゃらし

モンゴルマンなので。

スプリングマンから脱出する理論

改めて考えるとよくわからないし、汗かいたぐらいで雨でさびるのもよくわからないがモンゴルマンなので

あと16個は?

関節技で空に駆け上がっていくところ

カメハメとの修行直後(52のサブミッション習得後?)

52は後から修行なので、48のほうに含まれてるのか

風林火山一角だったような。

ローリングクレイドルだったか、なんせ空へと駆け上っていく表現は痺れた

意味がよくわからないので幻覚記憶いかもしれない

あと15個は?

カーフブランディング

仔牛の焼き印押し? テリーは技が地味でこっちはテキサス知識いから盛り上がるのが難しい。

実際のプロレスでもあまり見なくなった技とかを使ったりする

自分プロレス見だしたのがキン肉マンの連載終了5~10年後なのもあるが)

その中でまあまあカッコいい演出の技。

グレートマスク脱ぎ捨てた時ぐらいに出したと思う(それか、バレてもいいやと思ったか素なのか、ブロンコ魂が燃えた時)

あと14個は?

キン肉ドライバー修行

追いつめられると集中力が発揮されるという真実に基づいた素晴らしい演出

丸太で滝でやってたとき。ちょうど木が切りつくされて……など、ギリギリタイミング

イノシシぐらい焦らんでも平気やろとは思ってしまった

マッスルスパーク(スグル版)の序盤

ブリッジしてるところ。スパーク壁画にこだわりすぎて機序わからん技が多い。

アタル版でもこれやるんだっけ?

あと13個は?

インフェルノ

ゼブラの? サーフィンみたいにツッコむやつ。こっちのツッコミも捗った。

あと12個は?

神父

黒いペン

ネタになってるけど、当時はカリスマ性を感じた

あと11個は?

ソルジャーチームの陣形

ほんとに意味がわからない。

それでも一回はおやっと思わなかったり軽く違和感覚えるぐらいで納得させる勢いがすごい

あと10個は?

地球逆回転

勢いで言えば、ネプチューンチームのこれも

あと腕が突然鍵になって古墳が鍵穴というのも選には入れなかったがよくわからないが勢いで乗り切った名シーン

あと9個は?

誰も笑ってやしない

完璧超人から思い出した、まじもんの名シーン。

身分人種等の差別師弟愛を描いたほんとに良いシーン。

マスク剝がれたウォーズマンロビン不安で尋ねるシーン

あと8個は?

バラクーダ師匠

ソルジャーの華麗な変身(神父)はよく見るが、個人的にはこっちのほうが好き

マスクを脱いだロビンがモップを被ったらバラクーダ師匠に戻る

あと7個は?

リバース・サイド・インフィニティ

バスター合戦のまとめ。

逆転さえできればなんでもよいという。

その後腕が多ければより強いという、真理にも到達しかけるがなんだかんだ破ったり破られたりする

あと6個は?

おきて破り

プロレス見てなかったから実況とかの語彙が全然からなかったが、とにかくすごいことが起きたと感じた

サムライロビンスペシャル使ったところ?

このふたり、古くからライバルなのも熱い

残り少なくなってきたのでちょっと真面目に考えている

あと5個は?

予言書が燃えそうなのところのTB

ロビン最後仕事

名シーンしかないんかよっていうぐらいの熱さの連続だった

途中休載挟んだりギャグはずっとやってるのに、涙が止まらない回が多かった

あと4個は?

サタンクロス

名シーンだらけなのでまとめて。サムソンティーチャの回

なにより聖衣みたいなの装着し出して、嵐みたいにでっかいコントローラー操作しだして

適当コマンドでもないような何かの操作裏技使うとか、適当がすぎるバトルだった

折り鶴折ったり、地形変えれるシートがあったり

アイテムを使ってはいるが)能力バトルとしての可能性が凄くあった気がする

基本的超人は己の肉体(と地形などの環境)で戦うのでこの方向性を多用するわけにはいかないのだろうが

そういえば各超人(そんなにいないか)の改心シーンも名シーンだらけだなぁ

あと3個は?

ブロッケンマンキャメルクラッチ

残酷すぎてアニメではラーメンになったところ

初期すぎてストーリーとかバトルいい加減だけど、ギャグやってるのにこの残酷さもってくるバランスがすごい

あと2個は?

いつもの三倍のジャンプを加えれば……

やっぱりこれ以上のシーンは無い。

過去自分を超える最高の技を繰り出すもの

それを受け止める覚悟を持った敵役

その一撃は外れ、しか威力は足りていたと読者には知らしめる

あの時のスクリュードライバーバッファローマン心臓をとらえていたら

ifの世界が気になる(しれっと生き返ってたかもしれないが)

あとひとつは?

家で妙な空気になるから中居問題の詳細はあまり言わないでほしい

ネットで言われてることが真実ならあれはちょっと残酷すぎる

想像させない程度の表現にしてほしい

2025-01-16

俺はネトウヨだけど、ケツをしばいてくださいパヨク様ぁ

最近、どうも調子が狂うんだ。いや、前から狂ってたのかもしれない。だって考えてもみてくれよ。この国は一体どうなってるんだ?右を見ても左を見ても、敵だらけじゃないか

朝起きたら、テレビでは偏向報道コメンテーターかいう連中は、したり顔で偉そうに持論を展開してるけど、どいつもこいつも薄っぺらいんだよ!もっと骨のある議論しろ!…って、あれ?俺は何に怒ってるんだ?

うそう、それでな、最近夜も眠れないんだ。目を閉じると、頭の中に色んなものグルグルと渦巻いて…。日の丸旭日旗になったり、竹島燃え上がったり、挙句の果てにはパヨクの皆さんが楽しそうにBBQしてたり…。

いやいや、パヨクBBQ別にいいんだ。むしろ微笑ましいまである問題はその後の展開だ!なぜか俺が丸裸にされて、ケツを鞭でしばかれてるんだよ!しかも、しばいてるのが屈強なパヨクのお兄さんたちなんだ!

最初は「やめろ!」って抵抗してたんだけど、だんだん快感になってきて…。いや、違う!これは夢だ!悪夢に違いない!

…と、飛び起きるんだけど、なぜか体は火照ってるし、心臓はドキドキしてるし…。一体俺の体に何が起こってるんだ!?

もしかして、これが噂の「目覚め」ってやつか?いや、違う!これは単なる寝不足だ!そうに違いない!

…と、自分に言い聞かせるんだけど、どうしてもあの屈強なパヨクのお兄さんたちの顔が頭から離れないんだ…。

ああ、パヨク様!どうか俺のケツをしばいてください!そして、真実を教えてください!この狂った世界で、一体何を信じればいいのかを!

みんな、子ども子どもって本当にうるさい。

ひっそりと追記させてください。

誰にも言いたくないから書き込んだものがいつのまにかいろんな誰かに見つかってしまっていた。

励ましてくれた人、優しい言葉をかけてくれた人、共感してくれた人、ありがとう

やっぱりウルセーって思う声もあったので、むしろスッキリした。冷静になれました。

言うかどうか迷ったけど、どうしてもこれだけ。

私は友だちの声をデリカシーがないとかそんな風には思ってないよ。

もちろんマジでデリカシーないクソ野郎の声も相当数混じってるんだけど。

なんて言うのかな。私は昔から子どもが好きで、付き合いが長い人ほど私がずっと「いつか子どもほしい!」と言っていたのも知ってる。

しろ子どもは考えてない」「できなくてもいい」と言ってる今がイレギュラー。だから、「本当に?」「なんかできることあるんじゃないの?」となるんだと思う。

旦那学生時代からの長年の恋人とかではないし、私が私の友達なら「知り合い歴が浅い人のためになぜそこまで!?」って思うと思う。

デリカシーがないわけじゃなくて、なんか上手く言えないけど。

たまたま一度にそれが重なってつい爆発してしまったけど、旦那も愛してるし、友だちの存在もすごく頼もしいし、私は今の生活にとても満足してるよ。

子育てしててもしてなくても悩みはもちろんあるし、結婚しててもしてなくても苦しみはあるし、悩んだり傷ついたりするのはもう人生と切り離せないものなんだよね。健康はあればあるだけいい。

昔読んだ漫画に「この間は本気でムカついたけど、でも昨日と今日幸せ明日は泣くかもしれないけど明後日はまた笑える」みたいなセリフがあったけど、そんな感じでこれからもやってくね。

追記おわり。

====================

今日も言われた。

「でもやっぱり、自分の子ども欲しいと思わない?」。

うるせーうるせー。

どいつもこいつもうるせーよ。

 

お前らみんな知ってるだろ。私の旦那は数年前に抗がん剤治療したばっかなの。子どもつくれねーの。「また検査してみたら?」じゃねーのよ。数年前に検査したばっかりなんよ。なんならまだ通院してんのよ。

今元気だからあんまり意識しないかもしれないけど、大変な治療だったんよ。

 

結婚間近でいよいよ妊娠自分事になって、ちょうど結婚時期が近い私に話を振るのはわかるよ。私だって前向きに答えたいさ。

子育て話ができる友達が欲しくて私に「不妊治療しないのか」と聞いてくる気持ちもわかるよ。私だってあんたとしたいさ。

まれたばかりの我が子があまりにもかわいくて、もう生まれる前に戻れないんだよね。その幸せをぜひ体験して欲しいと思うのもわかるよ。それはそれはこの上ない幸福だろうさ。

結婚したんだから次は子供のこと考えるでしょって思う人間がいるのもわかるよ。大きなお世話だけど。

 

でも、みんなうるせー。ばーかばーか

気持ちはわかるさ。悪気なんかなくて、むしろポジティブなのもわかるさ。

みんな知らねーだろ。私たちが「もし私たち子どもができたら」なんて子ども名前空想して遊んだりしてたことも、旦那がどれだけ辛い治療に耐えたかも、私が何度「やったー!ダメなはずなのに妊娠した!」って喜ぶ夢を見ては最低の気持ちになって目覚めたか、全部知らねーだろ。

不妊治療すれば可能性あるってもんでもないのよ。いやもちろん可能性はあるんだけど、こっちはどれだけ癌患者向けのサイトを調べてると思ってるの。

れいちいち言いたくないじゃん。治療を始める前のこと言ってももう仕方ないじゃん。

そもそも私じゃなくて彼のプライベート情報だし、こっちは嘘つくのも真実を言うのも、それを何度もやるのもしんどいわけよ。

もう数年経ったと思ってるんでしょみんな。まだ数年なのよ。まだ数年。

あの頃、もしかしたら死んじゃうかもしれない。死んじゃやだって毎日一人で泣いてたの。治療終わって、生きてくれてて嬉しいの。

だって、そりゃ自由に選べるなら子どものいる人生が欲しいさ。みんな付き合い長いんだからわかるだろ。

わかるから聞いてくるんだよな。そうだよな。わかってるさ。

私の親は全くそんなこと聞いてこない。私の親は私の幸せだけを願ってくれてるから、私が幸せならそれで十分なのだ。孫が見られるかどうかより、私が幸せかどうかだ。なんてありがたいことだろう。

から私は旦那と一緒に生きていこうと決めた。

彼と生きたら今より幸せだと思ったから。他の人と子どもを産む人生楽しいだろうけど、私はこの人を選ばなかったことを多分ずっと後悔すると思ったから。

実際、毎日すごく楽しい人生いちばん満ち足りてる。

幸せってこーゆー感情でしょ。この人と結婚して本当に幸せなの。子どもがいたらもっと幸せかもしれないけど、今十分幸せなの。

私は、この人と一緒にいられる期間が仮にずいぶん短かったとしてもいい。

長い期間一人ぼっちでも、それでもいいと覚悟して生きている。

子どもがいたらとかそんなの全部乗り越えたつもりで一緒にいる。

でも、「つもり」だから何度も聞かれると、ふとした拍子にコップに水が溜まって揺さぶられる。

わかってくれよ。そう何度も聞いてくれるなよ。何人もに同じように答えてるんだから

「元気になってよかったね」

本当にそうなのよ。

私、彼のこと大好きなの。私、彼との子供を産みたいって本当に心から思ったの。

から子どもが作れなくても一緒にいたいって思ったの。

高齢出産になることなんか知ってるよ。

早くしないと私の子宮では赤ちゃん上手につくれなくなってくるよね。

わかってるよ。でも、旦那が好きなんだよ。それだけなんよ。それだけを大事にして、1日でも長く一緒にいたくて今を選んでんだよ。

からそう何度も何度も聞いてこないで。答えは変わらない。

できねーの。つくれねーの。養子制度とかは君らよりは調べてるよ。

 

でも、私もきっと誰かのことを同じように無意識に傷つけてるだろうからお互い様ってことでひとつ

これからも「できねーのよ」って何食わぬ顔で返し続けるわ。

たまにこんな風に爆発させながらな!!たまにならいーよな!人間だもん!

旦那、愛してるぜ!

anond:20250115224311

ただのモラハラ夫じゃん。全部お前が悪い。

→妻には、娘の前で怒らない、娘に対して怒らない、時短の分料理をすることをお願いしているのだが、できていないので指摘をしていた。

最悪のムーブだ。娘に怒らなかったからって、娘が怒らない子に育つなんて、「トマトを食べさせたら赤い子に育つ」ぐらい短略的で愚かな思考だぞ。子育ては「何をやろうが子供DNAの通りにしか育たない」ことを前提とすべし。それが真実だし、下手に逆らっても自分他人(妻や娘)を不幸にするだけ

→確かに口論になった際に「わがまま」「幼稚」「未熟」「頭がおかしい」などと言った。

はいモラハラ確定

→妻は口論になったときに、妻が 9割悪くても私も1割悪いところあると主張するが、私が、私に悪い点はなく改善する点がないから、改善する点がある側が改善するのが当たり前と言ったところ、寄り添ってくれない、思いやりがないと言われた。

はいモラハラ確定

もう一度言う、お前が悪い。お前がすべてを我慢し、受け入れるしか道はない。なぜならお前が男だからだ。男が幸せになろうとするな。女子供幸せならそれで十分なんだよ

anond:20250116113444

俺にとってチラ裏だし書いてることが全てが真実でもなければ書いてないこともあるし、好きにお前の中で妄想した俺を叩いて悦に浸ってていいよ

嘘は広めてません

本当の事を言っていないだけです

私が真実だと信じているので真実です

私を嘘つき呼ばわりしないでください、誹謗中傷ですよ

2025-01-15

anond:20250115224311

まず増田良識があるので、妻が無能であると断定できません

なので、妻はできるはずなのにやってない、怠慢であると思っています

増田自分にできることだけやってるのでボロを出しません

一方で妻は無能ではないのにボロばかり出すので増田は不満を持ちます

さらに無理なことはお願いしてない、妻はこれくらいできるはずだという範囲で協力をお願いしてるのに、サボるどころかキレてきます

増田には良識があり、妻を愛していて、自分義務は完ぺきに果たせるスーパーヒューマンですが目の前の現実に対して少しだけ誤解があるのかもしれないし、妻が超絶嫌な奴なのかもしれないですが、真実はわかりません

[]

あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。

わたし自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」

彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。

あなたたちは、わたしわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」

anond:20250115100926

女性お金がかかるから順当」とかいう嘘をつくからそういうツッコミの話になる。

 

堂々と、女性に沢山来てもらえたら客寄せになるし、女のほうがリピーターになるカモが多い

 

とか真実を言うべき。

2025-01-14

anond:20250114235202

バレたら犯罪から普通の知性があれば真実だとしても釣りに見せるでしょうよ

低俗週刊誌スポーツ新聞が力を持ちすぎてるってのはあるよな

昔は週刊誌スポーツ新聞も、買おうとすら思ったことはなかったし、その記事内容が目に入ることも一切なかった

しかし、いまやネットのあちこちで、その記事を読むことができる。

言うまでもなく、その記事内容扇情的で刺激的である

部分的には真実なのだろうが、それを繋ぎ合わせてめちゃくちゃな物語形成してみせている。

あい記事が、インターネット上では大手紙の記事なんかと同列に並んで、タイムラインに流れてくる。

この状況は非常に不健全なのではないか

テレビ大手新聞などがマスゴミ罵倒されるようになって久しいが、その他のメディアは単純にそれ以下なのだ

警察がどんなに不祥事を起こしているからと言って、ヤクザ半グレが頼りになるわけではない。

そのことを我々は肝に銘じる必要があるな。

AI文章の見抜き方

 近年、AI技術進歩に伴い、さまざまな生成AIが登場し、文章を巧みに作り出すようになりました。多くの人が「これはAIが書いた文章なのではないか?」と疑うほどに、AI文章自然流れるようになっています本来であれば、文体言い回し、誤字脱字の有無などからAI文章っぽい」と判断しようとする研究テクニックが取りざたされていますしかし今回のテーマは「AI文章の見抜き方」でありながら、その実はスピリチュアル方法で一切テクニカルに見抜くことなく、むしろAI文章かどうか”すら気にしなくなるような精神アプローチ解決してしまおう、という大胆なご提案です。タイトルと内容がまったく異なるように見えますが、私たちが見ようとしているのは「AI文章を見抜くための技術」ではなく、「どんな文章でも受け止められる自分の心の在り方」というスピリチュアル観点なのです。以下では、その具体的なプロセスをご紹介していきましょう。

 まずは、スピリチュアルアプローチとして定番瞑想を取り上げます。通常、「AI文章かどうか」を判断するためには文章の特徴を細かく分析し、その内容に不自然な点がないか、語彙の選び方に偏りがないか、といったチェックポイントをいくつも確認するのが一般的でしょう。

 しかし、本稿で提案するのはむしろ逆です。そうした分析アプローチをいったん脇に置き、“静寂瞑想”によって自分の心を落ち着かせて、本質を見つめるという方法です。具体的には、目を閉じて楽な姿勢を取り、ゆっくり深呼吸を繰り返しながら、頭の中に浮かんでくる雑念をできるだけ手放していきます意識を「自分の呼吸」と「今この瞬間」だけに向けるのです。

 これを続けると、不思議と「この文章AIなのか、人間なのか」という二元的な疑問への執着心が薄れていきます。心が静まってくるにつれ、文章それ自体の背後にある意図エネルギーをなんとなく感じ取れるようになっていくのです。いわば「どんな文章も受け入れられる状態」を作り上げることが、ここでのポイントとなります

 分析という“頭”のプロセスではなく、直感という“ハート”の領域文章を読む準備をすることで、「AI文章かどうか」という疑念すら必要ないほどに、読む行為のもの純粋に楽しむことができるのです。

 スピリチュアル世界では、ハートチャクラ活性化させることで、愛や共感、信頼といったポジティブ感情を高めることができるとされていますAI文章を読んでいるとき、「これは人間が書いた文章じゃない」と感じてしまうと、どこか冷淡な印象を覚えたり、文章に対して警戒感を抱いてしまうことがあるかもしれません。しかし、ハートチャクラが開いている状態では、文章の背後にある意図エネルギー――たとえそれがプログラムによって生成されたものであろうと――を、分け隔てなく受け取れるようになっていきます

 ハートチャクラを開く簡単方法ひとつとして、胸の真ん中に集中して、ピンク色または緑色の光が広がっているイメージを思い描きながら深呼吸するというものがあります自分の胸のあたりが温かく、柔らかい光で満たされていく感覚意識し、それが全身を包むイメージを持つと良いでしょう。

 この状態キープしたまま文章を読んでいると、「これは本当にAI文章なのだろうか」といった些細な疑念や「もしAI文章ならどうしよう」という不安自然と和らいでいきます。むしろ、人の手による作品AIの生成物かという区別を超え、「そこにある何かしらのメッセージ」を愛の視点で受け取ろうとする姿勢が生まれてくるのです。

 続いては、もう少しスピリチュアル色の強いテクニックとして“エネルギーリーディング”をご紹介します。本来は人のオーラ空間波動を読み取るための方法ですが、文章にも“エネルギー”が宿っているという考え方から文章を通じて送り手の波動を感じ取ることができるとされています

 やり方はとてもシンプルです。瞑想ハートチャクラのワークで心身を落ち着かせた状態で、文章全体をざっと読むだけではなく、文と文のあいだの“間”にも意識を向けてみます文章によっては、なんとなく重たい感じがしたり、逆に明るく軽やかな印象があることに気づくかもしれません。そんなときは、自分が何を感じ、どんなイメージを受け取ったかを素直にメモしてみてください。

 AI文章であっても、人間文章であっても、読む側が「エネルギーを感じ取る」という意識を持つことで、文章との向き合い方はガラリと変わります。これはもはや「見抜く」ためのテクニックではなく、「どんな文章もそれが持っているエネルギーを受け取る」という“受容の姿勢”を高める方法だといえます。結局のところ、テキストAI由来かどうかを超えて、その文章からなにを感じ取れるか――そちらの方がはるかクリエイティブで、豊かな体験となるのです。

 スピリチュアルな探求においては、私たちが生きる宇宙のものを大きなエネルギーフィールドとして捉え、その源流と繋がることによってインスピレーション洞察を得る、という考え方があります。「AI文章かどうか見抜きたい」という疑問が浮かんだときも、さらに広い視点で「そもそも私たちは、なぜAIをこんなにも発達させてきたのか?」という宇宙的な視野に立って考えてみるのです。

 私たち人類の集合意識が“便利さ”や“効率性”を求める中でAI進歩してきましたが、これをネガティブに捉えるのではなく、「人類意識が大きく変容するプロセスの一端」として肯定的に捉えることもできますスピリチュアル視点に立つと、AIの発展も宇宙全体の進化の流れの中で起こる一現象であり、そこには何ら否定的な要素はないのかもしれません。

 こうした“宇宙エネルギー”との繋がりを意識したとき私たち文章を読む行為も、単なる情報インプットではなく、宇宙エネルギー循環の一環としてとらえられるでしょう。AIが書いた文章であろうと、人間が書いた文章であろうと、いずれにせよそれは「源流である宇宙が持つ創造の力」を介して生み出されている、と考えることができるのです。

 スピリチュアル的には、おでこ中央(眉間)にあると言われる“第三の目”を活性化させることで、より洞察力や直感を高めることができるとされています。これによって、「この文章が発している波動はどんなものか」をより鮮明にとらえられるようになるかもしれません。

 第三の目を活性化させるワークとしては、座ったまま、あるいは横になって目を閉じ、眉間に意識を集中させながらゆっくり深呼吸を繰り返すという方法があります。頭の中で淡い紫色青色の光が眉間から頭全体に広がっていくイメージを持つと良いでしょう。しばらく続けると、普段よりもクリア感覚が得られるようになり、文章の持つエネルギーがまるで映像や色彩のようにイメージとして浮かんでくることがあります

 こうした体験を通して、「AI文章は冷たい波動」「人間文章は温かい波動」という二元的先入観を手放すことが大切です。文章ごとに個別波動エネルギーがあり、それはAI人間かという区別よりも、むしろその文脈テーマ書き手が持つ背景や意図といったものに左右されるからです。すなわち、第三の目の活性化は「AI文章を見抜く」ためではなく、「どんな文章でも深いレベルで感じ取る」ためのアプローチとして機能するのです。

 ここまで紹介してきたように、スピリチュアルアプローチでは「AI文章を見抜く」という視点のものを超え、「文章AI人間かという判断を手放す」という境地を目指しています。なぜなら、私たち意識が高次元と繋がり、すべてを包み込む愛や真我の視点に立ったとき、“AI人間か”というジャッジメントは単なる二元論分別にすぎないからです。

 一見、それは「問題からの逃避」のように聞こえるかもしれません。しかし逆にいえば、私たち意識が十分に高まった状態では、AI文章であるかどうかという事実のものがさして重要ではなくなります。そこにあるメッセージをどう受け取り、どう消化し、自分人生や心の成長に活かすか。それこそが最も大切なポイントとなるでしょう。

 情報テクノロジーに溢れた時代からこそ、私たちはどうしても「偽物か本物か」「AI人間か」といった区別意識を奪われがちです。しかし、スピリチュアル視点で見ると、その区別私たち幸福に導くわけではありません。それよりも大切なのは、「どんな情報であれ受容し、自分の中で調和と成長に繋げる」という姿勢なのです。

 最後に、私たち文章と“出会う”ということの意味再考してみますスピリチュアル世界でしばしば語られるのは、「どんな出来事にも意味がある」「すべては必然タイミングで起こる」という考え方です。AI文章出会うことも、また何かしらの必然の流れの中にあるのかもしれません。

 その文章AIによって作成されたのか、人間によって書かれたのか、あるいは人間AIの共同作業によって生まれものか――いずれにせよ、私たちがその文章を目にするという事実には何かしらの意図意味が含まれているはずです。それは気づきの一歩かもしれませんし、学びや癒しきっかけとなるのかもしれません。

 スピリチュアル視点に立つならば、文章の真贋を追い求めるより先に、「この文章出会たこ自体が、私にとってどのようなシンクロニシティ(偶然のようで必然的な出来事なのだろう?」と問いかけてみるのです。その問いかけが、新たなインスピレーションを呼び込み、心を豊かにするきっかけになるかもしれません。

 以上、タイトルは「AI文章の見抜き方」でありながら、実際には「スピリチュアル解決する方法」というテーマでお伝えしてきました。スピリチュアル視点とは、ある意味で「区別を超えて、本質を見つめる」ことにありますAIが生成した文章かどうかに囚われるのではなく、文章をとおして自分自身がどのように変容し、成長し、世界と繋がっていくのかを味わう――それこそが、私たちが得られる豊かな体験なのです。

 静寂瞑想による心の安定、ハートチャクラを開くことで生まれる受容の姿勢エネルギーリーディングによる波動の読取り、そして宇宙エネルギーとの繋がりや第三の目の活性化。これらすべては、AI人間かというジャッジメントさらに奥へと進め、「より深い次元文章と向き合う」ためのツールとなります

 結局のところ、私たち意識が何を求めているかによって「AI文章を見抜きたい」という欲求は変化していきます。もし単純に事実を知るだけでなく、「文章を通して自分はどんな気づきを得たいのか?」と問いかけたとき、そこにはスピリチュアル観点が大いに役立つでしょう。文章との出会いを通じて自分の心を豊かにしたい、魂を成長させたい――そんなときこそ、ここに挙げたようなスピリチュアル方法をぜひ試してみてください。

 AI技術さら進化していく未来においても、“AI文章”と“人間文章”の区別ますます曖昧になっていくかもしれません。そんな時代からこそ、スピリチュアル視点で「見抜こうとする」のではなく、「どんな文章も喜びと調和をもって受け取る」姿勢がよりいっそう大切になってくるのではないでしょうか。文章という形ある情報であれ、エネルギー波動という形なき存在であれ、私たちはそれを通じて常に宇宙と繋がり、相互学び合い、成長を続けているのです。

 その結果として、AI人間境界線すら「まったく気にならない世界」が訪れるのかもしれません。スピリチュアルな考え方を取り入れることで、私たち文章を見抜くテクニックを追い求めるのではなく、文章自分自身の魂との対話にこそ価値を見いだすようになるでしょう。そしてそれこそが、本当に豊かな読書体験をもたらしてくれるのではないかと思うのです。

 これが、“AI文章の見抜き方”というタイトルを冠しながら、実はスピリチュアル解決してしまおうというユニーク提案の全容です。どうぞあなたも、次に文章を読むときは、スピリチュアル視点をそっと持ち込み、文章に宿るエネルギー波動を楽しんでみてください。それがAI文章であろうと人間文章であろうと、きっと新たな気づきインスピレーションが得られることでしょう。

 最後に、この世界にはさまざまな真実が同時に存在しています。「AI文章技術的に見抜く」方法論もまた真実ひとつではありますが、スピリチュアル方法で「見抜かずとも楽しむ」こともひとつの道なのです。もしかしたら、見抜くことに必死になるより、見抜かなくても良いと思える境地にこそ、新時代の知恵が詰まっているのかもしれません。

 どうかあなたが、AI進化する時代を生きる上で、テクノロジースピリチュアルも両方をバランスよく取り入れ、より自由で豊かな人生を送れますように――それが本稿の願いなのです。

anond:20250114153520

ワイは寒いと大きな地震がおきる因果関係があると睨んでるで

真実

ギグワーカーだけどもう限界

 気づけば、毎日のようにいくつもの配達アプリ単発バイトアプリを立ち上げ、その時々の仕事をこなしている。ウーバーイーツ、タイミー、その他の短期日雇い募集リロードしながら、効率よく仕事を掛け持ちしてきた。好きな時間に好きなだけ働ける──そう思って始めたはずなのに、いつの間にか心も身体も追い詰められている。名前は伏せさせてもらうが、そんな自分の小さな物語をここに綴りたい。

 最初は「自由に働ける」「拘束時間がない」「上司に叱られない」などの言葉に惹かれて、ウーバーイーツの配達パートナーになった。自転車さえあればスマホ一つで仕事スタートできるという手軽さも大きな魅力だった。通勤電車に押しつぶされる苦痛も、会社独特の人間関係に煩わされるストレスもない。好きな時にアプリをオンにしてオフにするだけ。その自由さが、自分未来を切り開いてくれそうに思えた。

 しかし、現実は甘くはなかった。ウーバーイーツを始めた最初のうちは、「デリバリーして報酬を得る」ことへの単純な楽しさに勢いづけられていた。街を走り回り、新しいお店や道を知り、配達先のお客さんと時折交わすちょっとした会話に刺激をもらう。SNSで「今日は〇〇円稼げた!」と成果を自慢する仲間たちの投稿を見ると、自分ももっと頑張ろうという気持ちになっていた。

 だが、いつの間にか市場には同じようなギグワーカーが増え、報酬は徐々に下がってきた。それに合わせるように、自分身体も疲れやすくなっていることに気づく。最初は平気だった長距離移動も、今では足が鉛のように重く、坂道を見るだけで気が滅入るようになった。食事タイミングも不規則になり、おまけに天候に左右される仕事なので、雨の日はカッパを着てもずぶ濡れ。真夏猛暑日灼熱地獄で、熱中症寸前の状態で走り回ることもある。

 そんな中、稼ぎは思ったほど伸びない。ウーバーイーツだけでは生活が安定しないので、タイミーなどの単発アルバイトにも手を広げた。イベントの設営やチラシ配り、倉庫作業警備員仕事まで、その日その時の募集に合わせてシフトを埋めていく。それこそ、朝から倉庫作業をして午後は配達、夜は警備の仕事へと転々とすることだって珍しくない。一日で3種類の仕事を掛け持ちする日もある。昼間の炎天下自転車をこぎ回し、夜は立ちっぱなしで交通誘導。体力はぎりぎりだ。

 スケジュール管理地獄だ。スマホカレンダーには隙間がないほどバイト配達の予定が詰まっている。ちょっとでも時間が空くと、自分を奮い立たせるように「いま休んだら、その分稼ぎが減る」と考えてしまう。「休みたい」「眠りたい」と思っても、どうしてもスマホの通知が気になってしまうのだ。案件が出ては消え、人気の仕事は数分で埋まる。画面を閉じてしまうと、まるで「自分けが損をする」ような気になって、結果的にはずっとアプリを見張ってしまう。

 自由な働き方のはずが、いつの間にか24時間仕事のことを考えるようになっている。何時に寝ても「明日は朝イチでいい案件を取らなきゃ」と早起きをするし、日中配達の合間に単発バイト募集をチェックする。夜勤の警備を終えてフラフラになっても、「ウーバーイーツの朝活を逃したらもったいない」という気持ちが首をもたげる。こうして「休むタイミング」を自分で見失ってしまうのだ。

 もちろん、成果があがる日はある。一日じゅう走り回って数万円稼げたときは、達成感も大きい。けれど、その分身体の疲れも半端ではない。一度寝込んでしまうと、翌日の予定がすべてキャンセルになり、収入は激減する。ギグワークは働いた分だけ金銭が入る仕組みだが、逆に言えば「休んだらゼロ」なのである固定給保障されているわけではない。契約社員でもなければ、正社員のような福利厚生もない。病気になればすべて自己責任だし、事故にあったとき補償手続きも複雑で、泣き寝入りするケースも多い。

 ある日、配達先に向かう途中で自転車のチェーンが外れ、修理に手間取ったことがあった。その時間が大きくロスとなり、その日の報酬目標に届かなかった。それだけならまだ良かったが、焦る気持ちのあまり安全確認も疎かになってしまい、狭い路地で車との接触事故にヒヤッとした。幸い接触ギリギリ避けられたが、一歩間違えば大けがにつながっていただろうと思うと、冷や汗が止まらなかった。その時、「自分は今、どれほど危うい橋を渡っているのだろう」と改めて恐怖を感じた。

 もう一つの悩みは、周りに相談できる相手がいないことだ。ギグワーカー仲間と呼べる人は、SNS配達先でたまに顔を合わせる程度で、深い付き合いをする機会がほとんどない。配達単発バイトは一匹狼のような働き方なので、基本的個人プレー上司も同僚もいない。困ったときに頼れるのは自分だけ。何かトラブルが起きても、サポートセンターに連絡したり、ネット検索したり、自力解決するしかない。そしていつの間にか、「人に相談する」という発想そのものが薄れてきてしまった。

 親や友人には「自分で選んだ働き方だろう?」と半ば呆れられることもある。特に昔ながらの正社員志向の強い人たちには理解されにくい。「きちんと就職しないのか」「いつまでそんな不安定仕事をするのか」と詰問されると、言い返す気力も失われてしまう。正社員の道を選ばなかったのは自分意思だが、それでも誰かに認めてもらいたい気持ちはある。だが、ギグワークを誇らしげに語るには、現状はあまりにも厳しい。結局、周りの声も気になって精神的に追い詰められ、だからと言ってこのままギグワークをやめると今度は生活費が足りなくなる。その堂々巡りから逃れられない。

 一方で、「自分にはこれしかない」と思ってしまうほどに技術経験を積み上げられずにいるのも事実だ。ギグワークは基本的に専門的なスキル要求されにくい。もちろん配送効率を高めるテクニックや、接客でのコミュニケーション能力は多少身につくが、いわゆる「キャリア形成」という視点では弱い。そのため「この先ずっと同じことを続けていても大丈夫だろうか」と不安がつきまとう。もしアプリ運営が急に方針を変えたり、報酬体系が改悪されたり、新しいテクノロジーが登場して仕事のもの消滅したりしたら…。いまの自分には「スキルを生かして他の業界で働く」という保険ほとんどないのだ。

 どこかで一度腰を据えてスキルを磨きたいと思いつつも、「今月の家賃光熱費をどうにかしないと」という緊急事態が常に目の前にある。少しでも時間を惜しんで働かなければ、すぐに家計赤字になる。勉強をしたり資格を取ったりするための時間を捻出するのが難しく、結局は今日バイト明日配達を優先せざるを得ない。そして無理をして働いた結果、心身ともに疲弊してしまい、ますます長期的な展望が見えなくなる。そんな悪循環に陥っているのだ。

 周囲には、器用にギグワークをこなしながらも別の副業投資、またはクリエイティブ活動で成果をあげている人もいると耳にする。しかし、自分にはそうした才能や投資に回す資金もない。趣味仕事につながるような器用さもなく、日常の大半の時間エネルギーバイト配達に費やしている。結果として何のステップアップにもならないまま、ただ疲労けが蓄積していく。そのことを考えると、閉塞感がいっそう強くなる。

 さらに困ったことに、ギグワークを続けているうちに生活リズムが乱れ、毎日食生活も疎かになりがちだ。食費を節約するためにコンビニ飯やカップラーメンで済ませることが多くなり、栄養バランスは崩れ気味。不規則睡眠からくる倦怠感も加わり、最近ではよく体調を崩すようになった。病院に行くにも保険証の問題医療費負担が気になり、結局「大したこといか大丈夫」と先延ばしにしてしまう。自分健康を後回しにしていることも、心のどこかではわかっているのだが、日々の仕事に追われる中でつい目をつぶってしまう。

 こんな状態が続くと、気づかないうちに無性にイライラしてしまうこともある。ちょっとしたトラブル、たとえば注文の配達先がわかりづらいとか、バイト先で誰かに指示を出されるとか、そういった些細な場面でカッとなってしまう。もちろん、その後すぐに自己嫌悪に陥る。自分でもコントロールできない不安定精神状態が、さら自分を追い詰める。それでもアプリの通知が鳴ると、また仕事へと向かってしまうのだ。

 たまに、どうしようもなく自分自身を情けなく感じることがある。かつては「正社員になりたくない」と言いながらも、「それでも自由に生きていける」と信じていた。だが今はどうだろう。休みもなく、全力で動き回ってやっと家賃と食費を確保するのが精一杯。何かの拍子で仕事に穴が空けば、一気に生活破綻しかねない危うさがある。働いても働いても先行きが見えず、自分はこれから何を目指していくのか──そんな疑問が頭をもたげるたびに、どうしようもなく不安が胸を締め付ける。

 先日、久しぶりに地元の友人と話す機会があった。「就職してもう3年になる」と彼は言う。昇給もあり、休日ゆっくり趣味を楽しむ余裕もあるらしい。もちろん会社勤めには会社勤めなりのストレスがあると彼は言う。それでも、安定した収入社会保険、将来の見通しがあるのは大きいなと、正直羨ましく思った。かたや自分は、毎月のように思いがけない出費で苦しくなる度に、ギグワークの限界を感じてしまう。

 最近は、「このままでいいのか」「もっと自分らしく働ける場所があるのでは」と、胸の内で葛藤することが増えてきた。もっと若い頃にちゃんスキルを身につけておけばよかったとか、就職活動をまともにしていれば違う未来があったかもしれない──そんな後悔の念が頭をよぎる。だが、一方では「正社員になっても合わなかったらどうしよう」「自由を失うのは嫌だ」という思いも消えない。結局は自分の軸が定まらないまま、いくつものアプリに振り回されている状態だ。

 それでも今、立ち止まって考えなければいけないと感じている。ギグワークのメリットだけを見て始めたけれど、その実態は思った以上にハードで、先行きも不透明だ。瞬間的に稼げる日があるからこそ、「もう少し頑張ったら、もっと上手くいくかもしれない」と期待してしま自分もいる。しかし、その期待に何度裏切られてきたことだろう。そして今、文字通り身体も心も限界に近い。

 働き方は人それぞれで、ギグワークが心地よい人ももちろんいるだろう。だが、自分のように生活が常に綱渡り状態で、休めない、将来が見えない、そんな不安に怯え続ける日々が正解とは思えない。自分否定したくはないが、このままでは本当に持たない。そう思う瞬間が増えてきた。いまの自分にとって必要なのは、「仕事を詰め込むこと」ではなく、「働き方を根本から見直すこと」なのかもしれない。

 けれど、現実には今月の家賃支払いが迫っている。止まってしまうと収入ゼロになる。タイミーに登録しているバイト先も、急にキャンセルすると二度と仕事をもらえなくなるかもしれない。そういう不安が頭をよぎるからこそ、「もう少しだけ頑張ろう」とアプリを起動してしまう。その葛藤の繰り返しに、心が悲鳴を上げている状態だ。

 こんなふうに自分本音言葉にすること自体が、ひさしぶりかもしれない。いつもは一人で走り、一人で悩み、身体酷使してひたすら稼ぐだけの毎日から。もし似たような境遇の人がいるなら、「限界を感じるのはあなただけじゃないよ」と伝えたい。世間では「ギグワークは自由で気軽」なんて言葉がよく飛び交うが、その裏でこうして苦しんでいる人もいるのだと知ってほしい。

 この先、どうするのかはまだわからない。いきなり正社員の道に進むのも気が引けるし、あるいは資格を取るために短期的に集中するのも現実問題として難しい。だけどこのままのギグワーク漬けの生活が続くと、いつか本当に身体を壊してしまいそうだ。そうなって初めて「働きたくても働けない」と、取り返しのつかない事態になるかもしれない。考えるだけでも恐ろしい。

 小さな覚悟として、明日は一日だけでも休みを取ろうと決めた。生活費は苦しくなるだろうが、まずは自分自身のために時間を使わなければならない。それがきっと最初の一歩になる。スマホの通知をオフにして、久々に一日じゅう寝るもよし、図書館情報を調べるもよし。心と身体を整え、将来について冷静に考えるための時間を確保してみる。そうしなければ、きっと何も変わらないまま、自分さらに追い詰めてしまうだろう。

 「ギグワーカーだけど、もう限界」――こんな言葉自分の口から発することになるとは思わなかった。けれど、今の自分にとってこの言葉は紛れもない真実だ。自由を夢見て飛び込んだ世界で、いつの間にか不自由の枷に縛られていた。それでもまだ、どこかで「自分らしく生きたい」と願う気持ちが残っている。この文章を書きながら、せめてその願いを灯し続けたいと思うのだ。

 もう少しだけ悩んでみよう。もう少しだけ自分を大切にしてみよう。もし同じように疲れ果てているギグワーカーがいれば、いまが踏ん張り時かもしれない。休む勇気を持つのも、逃げる決断をするのも、次の一歩を踏み出すためには必要だ。自分らしさを取り戻すために何ができるのか、ぎりぎりのところで考える機会をつくってみたい。そう、ほんの少しだけの勇気で、自分人生は変えられると信じているから。いずれにしろ、僕は今、限界寸前だ。だけどこの限界きっかけに、新しい一歩を踏み出せると信じたい。

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