はてなキーワード: 積極的とは
今日はみんな薄々気づいているだろう、社会問題に切り込みたいと思う。
これは非常に重大な世間の関心事であり、レッドデータブックならぬピンクデータブックで巻頭カラーを飾っている。
私はエロマンガを基本的にkomifloで読んでいるため、komifloに掲載されている雑誌が観測範囲であるが、概ね商業エロマンガ全体で同様の傾向があるのではないか。
私はア◯ルものが好きで、komifloで新たな号が掲載されたらまずア◯ルタグで絞り込みを行っている。
3年ぐらい前までは一冊の雑誌で何作品かはア◯ルものがあったし、BAVELや失楽天なら多いときは5作品ぐらいあることもあった。
新号が配信されても、ア◯ルタグで絞り込むと1作品ぐらいしか新作がないことが増えてきた。
徐々にその傾向が進んできて、ここ一年ぐらいゼロであることがほとんどになってしまった。コンスタントにア◯ル新作が載るのはhotmilk濃いめぐらいになってしまった。私は濃いめは好みではないためノーカウントとするとほぼゼロに近しい。
ア◯ルタグで絞り込んで、最新作が前回の濃いめの作品から変化なかったときの絶望感を想像してみてほしい。パンツを下ろしてうきうきしながらkomiflo開いた昂揚感を返せ。
2026年も1/3が経過したが、濃い目を除くと今年のア◯ルものの新作は20本以下である。(ア◯ルタグはつけ忘れが多々あるため、実際にはもう少しあるかもしれない)
その少ない作品も、言葉を選ぶと独特な画風のものが多く、好みにあう作品に出会える確率が非常に低くなっている。誠に由々しき事態である。(ア◯ルものが独特の画風のものが多いのは元々の傾向ではあるが、数年前まではちゃんとかわいい絵柄の作品も多かった)
理由は分からないが、モノリノ先生とかえいとまん先生とかぷよちゃ先生とかさじぺん先生とかぬんぬ先生とかア◯ルものをよく描いてた先生方が引退されたり商業誌であまり描かなくなってしまったのも原因として大きいと感じている。
しかし、長頼先生のように一時期ア◯ルものをよく描いてた先生も描かなくなりつつあるため、単純にジャンルとして衰退してしまっているのを感じる。触手ですらア◯ルを攻めない作品すら増えてきている。触手としての矜持を失いすぎだと思う。
みさくらなんこつ先生がかつて編集者から「まだ満足してない触手がいるよね」とコメントされたというエピソードを読んだことがあるが、触手側に遠慮させてたらどうしようもないではないか。
現在コンスタントにア◯ルものを描いてくれる点で、もはやあおむし先生だけが希望である。
komiflo運営が年一で発表している県ごとの人気タグでももはやア◯ルを挙げている県はほとんどない。大分ぐらいである。大分は2年連続でア◯ルが1位で、逆に大分はこの状況でよくア◯ル1位になってるな。尊敬する。
これはとてもよくない傾向で、数が少ないから質が伴わず、人気がないとみなされればより数は減ってしまう。
需要があるということを声を大にして伝えていきたい。ア◯ル好き同志諸兄はよいア◯ルものへのブクマ・コメントを積極的にお願いしたい。
最近なかなか一人で大阪来れる機会がないのでここぞとばかりに。
ただ昼来たときは空いてる店が少なくてそんなにピンと来ず撤退。
夜も1時間くらい徘徊するもビビッとくる女の子(特に胸が大きい娘が良かった気分)がなかったから決め手がなかったが、1日中歩き回った疲労でしんどくなってきた。
途中から目をつけていたメイン通りのトイレ側の角の店の制服コスのショートカットの娘が単純に顔の系統が好みだったので、もう決めようと思って入った。(丸顔系)
結果として当たりだったかな。
体型も個人的な好みの理想でキレイなおっぱい、下の毛もパイパンではなくて良い感じ。
ただ手コキでイカそうとしてくる感じなのはちょっと萎えたがお仕置きとばかりに強くついたり乳首を触ったりしたのでおあいこです。
プレイ中に顔を背けて早く時間が過ぎろって思ってそうな女の子が多い中でこの娘はちゃんと顔を見たり手を握ってくれたりしたので良かったと思う。
個人的には飛田はパッと見キレイに見えても光でシワとか飛ばしまくってたりするのでどの角度から見ても若そうな女の子を狙うのと、あまり積極的な呼び込みをしていない娘、最後にタイプの娘を狙うのが鉄則ですかね。
とはいえ私がそういう選び方で逃してる娘にもっと良い娘がたくさん居るかもしれないですが。
これまで一番良くなかった思い出はけっこうベテラン系の嬢でどこ触ってもそこはダメって冷めた感じで言われてその度に萎えまくったこと。
腐女子(規制推進・ダブスタ型)のカードは、すべての勢力の中で最弱である。その理由は明確で、以下の3点に集約される。
倫理的防御力が壊滅的に低い:未成年描写・著作権侵害・当事者搾取・ダブルスタンダードという四重の弱点を抱え、右からも左からも上からも横からも内からも攻撃可能である。
唯一の盾を自ら捨てた:「表現の自由」という原則は、すべてのフィクション表現を守る盾として機能する。男性向け表現を攻撃するためにこの盾を他者から奪ったことで、自分自身もこの盾を使えなくなった。
味方がいない:「自分の表現だけ守り、他者の表現は規制する」という立場を積極的に支持する勢力は、原理的にどこにも存在しない。
唯一の救済カードは、表現の自由擁護型腐女子への路線転換である。一貫した原則に立てば、男性オタク層・非BL女性オタク層との連合が可能になり、宗教保守や権威主義国家に対する共同防衛線を構築できる。しかし、それは「他者の表現も守る」という覚悟を必要とする。その覚悟がない限り、Dランクのカードは戦場で生き残れない。
はてなユーザーって何万人もいるのに、「裏金も増税も統一教会も許容してる」で一括りにしてる時点で、もう分析じゃなくて感情なんですよ。
あと、「支持してる政党に問題があっても投票する」って別に右派だけの話じゃないですよね。
立憲支持者だって党内の全発言に賛成してるわけじゃないし、共産支持者だって歴史認識まで全部肯定してるわけじゃない。
でもなぜか保守系だけ「一個でも問題があったら全部説明責任を負え」みたいになるんですよ。
それと、「許容してる」って便利な言葉ですけど、
「他党よりマシだと思って投票してる」のと「積極的に賛美してる」は全然違いますからね。
そこをわざと混同すると、どんな支持者でも悪魔化できるんですよ。
あと実際には、統一教会問題が出た後に保守系でも批判してた人は普通にいました。
でもそういう人は視界に入れず、「自分の嫌いな相手は全員同じ」という前提で話を進めるから、どんどん現実より脳内勢力図の話になっていくんですよね。
日本のネットユーザーの一部に、奇妙な「勝利条件」が定着している。リアルでのコミュニケーションを避け、オンラインでも積極的に拒絶されること、すなわち無視・ブロック・炎上・排除されることを、むしろ自分の正しさや純粋さの証明として受け止める人々だ。彼らにとって「勝ち」とは、相手に反応されないこと、集団から弾き出されること、沈黙の海に沈むことである。こうした病理は、匿名性に守られた日本のネット文化が長年育んできた特有の歪みと言える。
背景には、1990年代後半からの2ちゃんねる文化がある。実名を晒さず、顔も見せず、責任を負わないまま攻撃や皮肉を浴びせ合う空間。そこで培われたのは「空気を読む」ことの逆説的な極端化だ。反応されれば負け、絡まれると面倒、褒められても胡散臭い。理想の状態は「存在を認められず、静かに漂う」ことなのだ。この傾向はSNS時代に加速した。彼らにとって拒絶は「俺は間違っていない、周りが腐っている」という自己肯定の証拠になる。ひきこもり研究でも指摘されるように、社会的つながりの希薄化と承認欲求の異常な形骸化が重なる。リアルで拒絶される恐怖を、ネットで「自ら選んだ勝利」として再解釈することで、心のバランスを取っている。
病理の根は深い。長時間労働、低賃金、将来不安、人間関係のストレスで疲弊した人々が、ネットを「安全な逃げ場」とする一方で、そこでも本物のつながりを恐れる。匿名性が攻撃性を増幅し、集団極性化を起こす環境では、穏やかな会話より「叩かれること」や「無視されること」の方がエネルギーを消費せずに済む。結果、コミュニティは細分化し、エコーチェンバー内でしか生きられなくなる。外部の声は即座に「荒らし」認定され、拒絶される。
こうした人々は、決して少数ではない。40代ひきこもり問題や、若者の「ドライ志向」の裏側にも通じる。日本社会の「調和優先」「不都合な真実の拒絶」という構造が、ネット上で極端に増幅されていると言える。コミュニケーションを拒絶されることを勝利条件に選ぶのは、究極の防衛機制だ。しかしそれは、孤独を美化し、成長を拒否する悪循環を生む。本当の勝利は、拒絶されることではなく、拒絶されてもなお繋がろうとする勇気にあるのかもしれない。ネットがリアルを侵食する今、日本人はその病理からいつ目を覚ますのだろうか。(約980文字)
2020年にタワーマンション(タワマン)の価格が暴落するという予測は、当時多くのメディアや専門家の間で囁かれていました。主な根拠は「東京オリンピック後の需要減退」や「生産緑地の宅地化(2022年問題)」、そして「コロナ禍によるテレワーク普及」などでしたが、実際には暴落どころか価格は上昇を続けました。
日本銀行による異次元の金融緩和が続いたことが最大の要因です。住宅ローンの金利が歴史的な低水準で推移したため、購入者の借入可能額が増大し、物件価格が高騰しても「月々の支払額」で見れば手が届く範囲に収まり続けました。
かつての住宅購入層とは異なり、夫婦ともに高年収の「パワーカップル」が市場を牽引しました。彼らは利便性と資産価値を重視し、職住近接が叶う都心のタワマンを積極的に購入しました。世帯年収が1,500万円〜2,000万円を超える層にとって、タワマンは居住用だけでなく、効率的な資産形成の手段として機能しました。
コロナ禍で外出が制限された結果、住空間の質を求める動きが強まりました。
ワークスペースの確保。
景気不透明感から、値崩れしにくい都心好立地物件へ資金が集中。
これらが重なり、広さと利便性を兼ね備えたタワマン需要はむしろ高まりました。
デベロッパー側が供給過多にならないよう販売戸数を調整(絞り込み)したことに加え、世界的な建設資材の高騰(ウッドショック、アイアンショック)や人件費の上昇が、新築マンション価格を押し上げました。新築がつられる形で、中古タワマンの価格も高止まりしました。
円安の進行もあり、世界の主要都市と比較して日本のタワマン(特に東京)は依然として「割安」と判断されました。治安が良く、インフラが整った日本の不動産は、海外資本にとって格好の投資先であり続けています。
結果として、2020年を境に市場は「暴落」ではなく「二極化」へと向かいました。利便性の高い都心・駅近のタワマンは高騰し続ける一方で、郊外や駅から遠い物件は苦戦するという、実力差が明確に出る形となっています。
現在、量的緩和政策が継続されることから、このままタワマンの価格の上昇が続くと思われます。
https://note.com/bentheunko/n/n765d8ea6c0fc
いきなり被害を受けた学生相手に情けないとか書いて挑発してくるし、
>ネットでたきつけて返信よこせよこさないなら違う対応すると騒ぐ院生
とか言うのも、他の人に指摘されているが某大学教授が変なnote拡散するわ、暗に批判をしているようなツイートだすから直接問いただしたに過ぎないのに、事実誤認をしているのはなんやろ?
>批判論文を頑張って書くほどの研究ではないのはそうなので、俺が当事者ならキャリアに1ミリのプラスにならないし絶対に批判論文書く時間は割かない
とか言いながら、note書いていちいち文句言ってくるのはあまりに理解ができない。支離滅裂。
>女子枠の妥当性を批判するなら、比較すべきはSTEM内での機会構造の話なのに論文は途中から高等教育全体で男性が少ないという話を持ち込んでいるため、何を言いたいのかが分からない。構造化ができていない。
これも意味が分からない。 そもそも構造化されてないとはなにか?も具体的に書いてないから意味不明だし、そもそも高等教育全体の話は逆境指数の文脈で語られた話で出されたもので、考慮事項のひとつを取り上げただけなのでは?
という指摘があったけど、それが正しいのだろう。
>経済的に不利な層、地方出身者、男性が十分に考慮されていないと結論づけていているが、STEM内の性別的な不均衡評価とは分析単位が異なるため女子枠の是非を直接評価する議論にならず、ここでも結局何が言いたいのかが全く分からない。
分析単位云々というけど、アファーマティブアクション系でいろいろな要素を考慮しろって話で人種なり性別なり出るが、それでも各属性を混ぜで制度運用をされているのだから、分析単位が異なる云々も意味不明。
そもそも論点把握ができていないか、制度理解にずれがあるのか? STEAMとは違うような話としているが、枠を作ってその中身をどうするかに何の違いがあるのか? も書けてない。
あとは
>女子枠や女性限定採用が「新たな差別を生む可能性」を指摘しているが実際にどの程度の不利益が生じているかは全く検証できていない。スコープ外なのかもしれないけど、政策批判したいなら政策評価しないとね・・・「男性受験者の合格確率がどれだけ下がったか」、「女子枠導入後に男性志願者が減ったか」、「入学後パフォーマンスに差があるか」化などを見る必要があると思うけど
まあ、ここもほかの人の指摘を見たけど、そもそも女子枠肯定する側などがそういったデータをほぼほぼ可視化してないから出せるわけもなければ、間接的に推論で出さざるを得ないからかなり厳しい。
また、まるで反証側が色々証拠を積極的に出す側になってるのもおかしな話で、本来枠を進める側がなぜ必要なのかやデータを出すもんだろうけど、ほとんど有効そうな情報とか見たこともないが、それでもさも当然の呉tく進んでいるから、反証側がもっと証拠だせ(出せなければ、そのまま有用だぞ?みたいに)言われているように見えてしまう。
(別のコメントでまるで~~の時に批判貰ったときみたいと書いている人がいたが、たぶん証明する側【立証する責任がある側】が反転したかのような体験をしたのだろう)。
というか、こういった議題は法的な議論なども出てくる分野だから、必ずしもデータ出すべきところなのかも謎。
あまり書くと長くなるから、これ以上は詳しく描かないが、先行論文を引用して意見を書いているのをエッセイみたいなものとして扱っているが、それらを基に議論を組み立てることも論文として書くのはそこまでおかしいのか?(誰かか詳しい人の説明くれ)
もちろん著者本人もそれらに基づいて意見を書いているだろうから、そのまんまのっかっているわけでもないだろう。
この批判noteも全く有用ではないとまで言わないが、余計な情報が多くイマイチ何が言いたいのかわからない、割と無理なことを要求している面があるなど。
批判を書くために勢いで書いた感が否めない、わけのわからない内容になっている。
これでどこかの博士なのか教授なのか知らないけど、なんでこんな喧嘩腰でよくわからない文章をわざわざ書いたんだろうな。しかも数年ぶりにnoteで。
社会学には2つの極端なアプローチがあります。一方は、統計的・因果推論的に厳密にデータと解釈を分離し、反証可能性を担保する科学的手法です。
もう一方は、自分のイデオロギー・ナラティブ(構造的抑圧、弱者発見、権力批判など)を支えるためにデータを「都合よく選ぶ」(cherry-picking)手法です。この記事では後者を「ストーリーテラー(Storyteller)」と分類します。
統計・大規模調査・因果推論手法(差の差法、操作変数法、傾向スコアマッチングなど)を用い、相関関係と因果関係を明確に区別。
データ事実(Results)と研究者の解釈(Discussion)を厳密に分け、矛盾するデータも提示し、反証可能性と頑健性(robustness)を担保する。社会科学として「科学」の基準を守る。
「社会科学」の看板を借りて、自分のイデオロギー・ナラティブ(物語)を広める人。データはあくまで「自分のストーリーを魅力的に補強する道具」に過ぎず、都合の良い部分だけ選び(チェリーピッキング)、相関を即因果にすり替え、解釈をデータに混ぜ込む。文学的・運動的アプローチが強く、X(旧Twitter)やメディアで声が大きい loud minority として目立つ。
自説に有利な数字・事例だけか、全データ範囲と感度分析を示すか。
相関を即「構造的抑圧が原因」と断定し、因果推論手法名を明記しない。
結果セクションですでに文学的なナラティブ(「これは権力の証左」)が入っていないか。
質的研究・批判理論(Foucault、Butler、上野系)が先行し、計量・因果推論論文の引用が少ない。
批判されると「文脈が違う」「差別者」とレッテル貼りするか、データで再検証を提案するか。
X・メディアで構造批判・弱者発見・PC擁護が熱く、エンゲージメントが高い。
論文・発言・X投稿をチェックすれば、9割以上見分けられます。
ストーリーテラーは、社会学を「科学」ではなく「物語を語る運動の場」に変える存在です。彼らはデータを使いつつも、最終的に一貫した
を構築・拡散します。これは、イデオロギーを補強するための選択的物語化です。データは「証拠」ではなく「感情を揺さぶる小道具」として機能し、矛盾データは無視するか、「より大きな構造のせい」として相対化されます。
• 1970-90年代の「質的転回」(qualitative turn)でインタビュー・参与観察・理論解釈が主流化した歴史的土壌がある。
• X・メディアでは「弱者発見」「構造批判」といった感情に訴えるストーリーがエンゲージメントを稼ぎやすい(loud minority効果)。
• 結果、学問の「科学性」が薄れ、活動家ごっこのイメージが強まる(古市批判の核心)。
「弱者が弱者のままで尊重される社会を」「頑張っても報われない人がいる」 → 努力や個人の責任を「環境・構造のせい」に還元し、永遠の被害者像を描く。
例:東大入学式祝辞のような「恵まれた環境のおかげ」強調。データ(合格率差)を使っても、逆差別や努力差はスルー。
「家父長制・資本制・権力構造がすべてを決めている」 → 格差・ジェンダー・移民問題を「システムのせい」に帰結。解決策より批判が優先。
例:家事=「不払い労働」、教育格差を即「構造的抑圧」と断定。
「日本人は多文化に耐えられない」「加害者性・反省不足が原罪」 → 戦後教育の延長で、日本人全体を「構造的加害者」に位置づけ。
例:日本社会の「単一民族神話」批判や、歴史問題での自虐的ナラティブ。
「異性愛規範・性二元制がマイノリティを抑圧」「性自認尊重が正義」 → ポリティカルコレクトネスを「進歩の物語」として語り、反対意見を「差別」と一蹴。 例:女子枠反対を「弱者男性のワガママ・ミソジニー」とレッテル貼り。
「政府・権力の干渉が学問の自由を脅かす」「新政権のツッコミどころ」 → 学術会議問題などで「権力 vs 専門家」の二元論を展開。
「相手は差別者・歴史修正主義者・ミソジニー」 → 都合の悪い女性政治家を「中は男」と属性攻撃するなど、二重基準を隠した攻撃的ナラティブ。 ラベリング理論を武器化。
結果、社会学は「文学の亜流」や「運動の道具」と見なされやすくなります。
代表的発言:「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」(2019年東大入学式祝辞)
代表的発言:「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」(2026年頃、女子枠反対論に対するnote引用・投稿)
代表的発言:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」(2024年、立憲民主党集会での高市早苗氏批判)
代表的傾向:「病ませる社会」が弱い人を症状化させる(近年、人生相談・社会病理関連発言)
代表的発言:「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」(2020年、学術会議任命拒否問題時) → 権威主義・体制批判。
ネット右翼を「1%未満の愉快犯」と矮小化するなど、日本社会の構造・歴史ナラティブ批判。
「学術会議法人化法案が可決されてしまいました。日本は、アカデミーの自律性を弱めることに加担した国の列に加わりました。」(2025年、X投稿) → 学問の自由危機ナラティブ。
大規模調査データで家族・格差を統計分析。因果推論を意識した学術告知中心。
X・メディア・学術会議・ジェンダー/PC分野で目立つのは圧倒的にストーリーテラー。彼らのナラティブは感情に訴えやすく拡散されやすい一方、実証派は論文・データで静かに勝負するため声が小さい。結果、社会学は「科学」より「物語を広める運動」が強まりやすい構造になっています。社会科学を本当に科学に戻すには、実証派がもっと積極的に声を出していくことが重要です。
◯経歴
◯志望動機
ぶっちゃけほぼ記念受験のノリだった。合格率は限りなく低いけど、そもそも応募しなければ選考すらされないからね。
元々テーマパークやプロスポーツチームのマスコットが好きで、多くの人にとって「友達とは少し違うけど親しく触れ合える存在」「色んなことを気軽に話せて、喜びや悲しみを分かち合える存在」「いちいち指示めいたアドバイスをしてこない存在」である彼らのポジションに憧れというか、感銘のようなものがあった。幼い頃から親兄弟にも友人にも遠慮があって言いたいことをなかなか伝えられずに苦しい思いをしてきた自分にとって、マスコットたちといる時だけは明るく心豊かになれた。「自分の好きな自分」になれた。だからこそ自分も、同じような生きづらさを抱えているすべての人にとっての「マスコット」になってみたいと思った。
元々Vtuberになりたかったわけではないし、そもそもV界隈にそこまで興味はないし、にじさんじの所属になりたい願望も特段無かった。しかしそんな中でもちょうどマスコットオーディションの追加募集があることを知り、良い機会だと感じて応募を考えた。
マスコットとして1人でも多くの人に寄り添いたいのに、全くの無名だとその想いが誰にも届かず終わってしまい本末転倒だ。その点、にじさんじのライバーになれれば最初から多くの人の目に触れるチャンスを得られる可能性が高く視聴者の層も老若男女に幅広いので、個人的に思うところの「理想的なマスコット像」を叶えやすいだろうと感じた。
◯結局「応募しない」と決めた理由
いよいよ応募締切日まで残り1週間といったところでふと思った。
「色んなことを気軽に話せて、喜びや悲しみを分かち合える存在」
自分がこれらすべてを叶えるべき場所、それはインターネットの世界ではなく、もっと身近な──今働いている児童施設のはずだろう、と。
今の子供たちの多くは「日中に親が家にいない家庭」で生まれ育っている。学校なり塾なり学童なりに朝から晩まで預けられ、未だ幼いのに家族と殆ど一緒にいることが叶わない。更には「仕事で忙しいのに心配かけたくない」という理由で、学校で深刻な困り事があっても自発的にそれを相談することにも困難を抱えている。顔も名前も分からない不特定多数よりも先に、自分は今目の前にいる彼らのための「マスコット」として行動しなければならない──改めてそう気付いたのだ。
まあ今の生活を変えることの難しさや経験がないことへの不安、仕事への充足感その他諸々の事情も勿論あるが、最大の理由としてはそういうわけで、結局VTAマスコットオーディションには応募しないことを決めた。
配信者として活動することへちょっとした興味はある。マスコットボイスで何日何時間でも変わらず会話し続けるちょっとした自信も実はある。けれどそれ以上に私は今の仕事が案外好きで、今の生活が案外好きだということに気付いた。気付けた。
同時に、軽いノリで記念受験しようとした自分の知らない何処かに生きる、何が何でも「にじさんじに入りたい」「Vtuberとして成功したい」という大きな夢と希望を抱き、強い緊張を覚えながらオーディションのために準備してきたであろう多くの人たちにも思いを巡らせた。彼らには是非、万全のパフォーマンスを発揮して、望む夢を掴んで貰いたいと願うばかりだ。
いつか自分の理想とした「マスコット」のように、視聴者を励まし背中を押してくれるような素晴らしいライバーさんが新たに生まれてくれると嬉しく思う。普段は長時間の配信を観ない自分だが、その時が来たならば「マスコットライバー」の配信は積極的に応援したい。
追伸
実は結構ギリギリのところまで考えていたので、安物ながらコンデンサーマイクを1本買ってしまったんです。しかしオーディションを受けないと決めた今コイツの使い道が一切無くなってしまい困っています。何か良いアイデアがあれば教えてください。
そして、徹底的に悪い人がいない、
どこまでも牧歌的、どこまでもほのぼの、
でも、それがいい、
完全にウシジマくんとかの正反対にいる、
なんというか、自分の身体をこの自然とか宇宙に預けてしまっても大丈夫なんだ、
みたいな、完全に安全な母性に包まれた安心感みたいなのがある、
ラーゼフォンみたいに積極的に活動して世界を創り変えたりはしない、
徹底的に観察者、
それが神さま、ムリョウ、
釈迦(ブッダ)はバラモン教の階級制度・有料儀式・神々への依存を徹底的に喝破した。
金銭で功徳を買う行為など、想像すらしていなかったはずだ。それが特に日本では、死後の戒名授与や高額お布施を伴う「葬式仏教」として定着した。なぜ、輪廻からの完全脱出を理想とした教えが、死者供養のビジネスに変貌したのか。原始仏教の思想と大乗仏教の展開、そして日本独自の歴史的必然を、独立した視点で整理する。
紀元前5世紀頃のインドで、釈迦は当時の宗教界を根本から批判した。バラモン教は祭祀・呪術・金銭による功徳取引を基盤とし、永遠の魂(アートマン)を前提に輪廻を語っていた。これに対し、釈迦は諸行無常・一切皆苦・諸法無我の四法印を掲げた。世界は瞬間ごとに生滅し、固定の実体(我)はなく、生老病死は避けられない苦である。
出家者(比丘)に対する戒律は厳格だった。律蔵(Vinaya Pitaka)では、金銀の授受を明確に禁じている。「比丘よ、金銀を受け取ってはならない。他人に受け取らせてはならない。これを破れば捨堕の罪である」(Nissaggiya Pācittiya 18)。布施は自発的な喜捨でなければならず、対価としての儀式販売は許されなかった。葬儀自体も、僧侶の直接関与を避ける傾向が強かった。死体は「穢れ」とされ、修行の妨げになるとされたからだ。
「完全な消滅」(無余涅槃)が理想で、永遠の魂を前提とする常住論も、すべてが無になるとする断滅論も、ともに「中道」から逸脱した邪見とされた。
神頼み・儀式依存・金で救済を買う商売を、毒矢の譬え(矢が刺さったまま原因を詮索する無益さ)で一蹴した。目的は個人の解脱であり、組織化された宗教団体すら、釈迦自身は最小限に留めた。
釈迦没後約500年後、インド北部で大乗仏教が興った。「小乗」(上座部)と自らを区別し、「大いなる乗り物」として一切衆生の救済を掲げた点が決定的だった。原始仏教の個人解脱に対し、大乗は菩薩道を理想とする。菩薩は自らの涅槃を遅らせ、衆生を救うためにあえて苦行を続ける。
衆生の能力や文化に合わせて教えを柔軟に変容させる手段だ。これにより、厳格な出家戒律や無神論的性格が緩和された。
中国に伝わった大乗は、現地の祖先崇拝や道教的儀礼と融合。死後供養・功徳回向が積極的に取り入れられ、在家信者向けの浄土信仰(阿弥陀仏による救済)が拡大した。戒律も大乗戒(梵網経など)として再解釈され、菩薩の利他行を優先するようになった。
この方便は、仏教の「生存戦略」でもあった。民衆に広まるためには、現地文化に適応せざるを得なかった。しかし同時に、原始の精神を薄め、儀式・供養・経済的布施への依存を許す土壌を生んだ。インド・中国ではまだ「死後ビジネス」までは発展しなかったが、日本への伝播で決定的な変化が起きる。
仏教は6世紀に日本へ伝来したが、当初は国家鎮護・貴族の氏寺として機能した。飛鳥・奈良時代、僧侶は葬儀に直接関わらなかった。死の「穢れ」を嫌う神道的な観念が強く、官僧(国家公認の僧)は死体に近づくことを避けた。
転機は鎌倉時代だった。遁世僧(とんせいそう)と呼ばれる民間僧が現れ、死の不安に苛まれる庶民のために葬儀・供養を積極的に担った。
1630年代、幕府はキリスト教禁制のため寺請制度(檀家制度)を全国に施行した。全庶民をどこかの寺院の檀家に強制登録させ、寺が戸籍(宗旨人別改帳)を管理。出生・死亡・婚姻の証明を発行し、死体検分まで行った。結果、葬儀・法事・戒名授与が寺の独占業務となった。戒名(死後与えられる仏弟子の名)は、元々出家者の生前名だったが、日本では位階付き(信士・居士・院号など)で一般化し、「長い戒名=高額お布施」という金銭取引が生まれた。
荘園崩壊後の寺院経営危機も、檀家からの継続的布施を必要とした。こうして、原始仏教の「金銀は毒蛇のごとし」という戒律は、遠い過去のものとなった。
江戸幕府は仏教をキリシタン摘発の道具に利用した。信仰の自由などなく、寺檀関係は義務だった。
大乗の方便が、日本古来の祖先崇拝・家制度と結びついた。死後の供養は「家」の存続を象徴し、戒名は家名を仏教的に昇華させる手段となった。
少子化以前から、寺院は布施に頼らざるを得なかった。方便の名の下に、原始の喝破精神は置き去りにされた。
浄土真宗のように法名を簡素化・生前授与する宗派もあるが、多数派は戒名料を伴う葬儀中心だ。
今日、寺離れ・直葬(火葬のみ)の増加は、この歴史的矛盾を浮き彫りにしている。原始仏教の視点から見れば、戒名料や葬儀独占はブッダの教えに明確に反する。金で徳を買う行為は、貪欲を増長させるだけで、涅槃の道ではない。
大乗の方便は、仏教を世界に広めた功績がある。しかし、少子高齢化で檀家減少が進む今、僧侶自身が「生活仏教」への転換を模索している。生前からのつながり、戒名なしの俗名供養、原始の喝破精神への回帰―これが、本来の仏教が「葬式屋」から脱却するための道かもしれない。
アンチ宗教の精神を忘れたとき、仏教は単なる葬儀屋となる。2000年の歴史を振り返り、私たちは再び「中道」を問う時を迎えている。
理念としては「老後の生活保障」をしっかりしましょう「老後の生活保障」という安定や希望がないと現役世代が頑張らなくなりますからね
ってことなんだよね
今はどうか
年金貰って困るやつはいないだろうけど、「頼っている」とか「年金あるからこそ今安心して働ける」なんてやつはほとんどいないだろ
当初の理念が崩壊してるわけで、理念が崩壊した制度なんていらないんだよね
これはぶっちゃけ金の流動性を高めることが主目的なんだけど、お題目としては「年金だけでは老後の備えが十分ではない」から個人でどうにかしてねとなっている
国としても年金の制度が破綻してることを認めているわけだ(お題目だとしてもね)
こんな制度いる?
いらないよね
なくしちゃおうよ
和訳(画像テキスト)Dr. Akiko Iwasakiは、post-vaccine syndrome (PVS)(ワクチン接種後症候群)の研究と出版に関する課題について指摘しました。この症候群はまだ十分に定義されておらず、疲労、運動不耐性、不眠、めまいなどの症状を含む可能性があります。「我々は論文を投稿しています。そして、査読や出版の前に研究結果を投稿できるプレプリントサーバーが今あることを嬉しく思っています。もちろん、科学者として、私たちの目標は行ったすべての研究について査読付き論文を出版することです。それは、研究が一貫性があり、科学的出版基準を満たすことを確かめたいからです。しかし、何らかの理由で、これらのpost-vaccination syndromeの論文を出版するのが難しいのです。症状の記述であれ、post-vaccination syndromeとLong COVIDの症状の比較であれ、post-vaccination syndromeの生物学的分析であれ、多くのジャーナルに投稿してきましたが、これらの論文のいくつかは出版されていません。私はこれが偶然だとは思いません。私は多くの論文を出版してきましたが、Long COVIDやワクチンの有効性など、ワクチン接種の受け入れられた利益に沿った内容の、同等の質の論文を投稿した場合は、出版にそれほど苦労しません。この出版が非常に難しいのは、偶然ではないと思います。私は、ワクチンの擁護者である人々(私自身もそうです)がいると思います。その中には、こうした研究を出版することで人々の不安を煽るのではないかと感じる人がいるかもしれません。私は、post-vaccination syndromeの背景にある要因を問うただけで、無責任だと非難されたことさえあります。抗ワクチン派がこれを利用してワクチンへの恐怖を煽る可能性があるからです。こうしたことがすべて、これらの論文を出版するのが非常に難しい根本的な理由になっていると思います。もちろん、他の理由もあるかもしれません。」(出典:Akiko Iwasaki教授のポッドキャスト発言)
で、natureの本文はカネ払わんと読めないので分からんけど、
grokによると、
"ただし、記事全体はワクチン全体を否定するものではなく、稀な副反応も含めてオープンに科学的に調べるべきだ、というバランスの取れた内容です(彼女自身はLong COVID研究などで積極的にワクチン・支持の立場を取っています)。"
だってさ。
日本の一部の表現規制派(特に非実在青少年描写や萌え系創作への厳格規制主張勢力)と現実の性産業の間には、表面的な敵対を超えた構造的共犯関係が存在する。仁藤夢乃氏(Colabo代表)を象徴とする支援・フェミニズム系活動家は、現実の女性性商品化を「男性の構造的搾取」と糾弾しながら、フィクション規制に殊更熱心だ。
自らの商品化行為を「被害」として聖化し、他者(主に創作者・消費者)の参入を排除することで道徳的・政治的優位を独占する。その結果、女性の性産業への流入が促進され、搾取の悪循環がかえって強化される。
性産業従事者やその支援者は、需要(男性の欲望)と供給(女性の性的商品化)の相互作用の当事者である。キャバクラ・風俗・パパ活で男性の歓心を買い、金銭を得る行為は明確に自発的な換金選択だ。
「私たちは『買われた』展」(Colabo主催、2016年開始)は、その典型例である。少女の主体性を極力薄め、買う男性の責任を最大化する演出により、換金事実を「完全被害」に転換する。
現実の自発的商品化(加害的側面:市場を維持・拡大する供給者)は「生存戦略」や「エンパワーメント」として相対化され、外部(男性全体やフィクション)に全責任が投影される。クソ客エピソード、男性性欲の構造批判、DV・パワハラの一般化が、性産業従事の導線として機能する。仁藤氏の場合、高校時代にホストから「救われた」「話を聞いてくれた」と語り、女性が金を払う側(ホスト需要)を肯定的に位置づける一方、男性が金を払う性産業は徹底非難する。この選択的二重基準は、女性もまた性的搾取の加害者である事実を隠蔽するための、心理的・戦略的方便である。
この責任転嫁が可能になる背景には、女性の性を「本物の被害者」だけが管理・語るべき聖域にしようとする独占志向がある。
この独占のインセンティブは明確だ:
• 自らの加害性(需要を満たし市場を活性化する供給行為)を認めれば被害者アイデンティティが崩壊するため、フィクションを攻撃することで責任を外部化する。
• 萌え系表現は「無抵抗な少女像」を低コストで大量供給し、現実の性産業従事者の相対的価値を低下させる競合である。女性の性商品を自分たちだけで「本物」として独占することで、表現市場での優位を確保し、寄付・行政委託・メディア露出を守る。
男叩きで共感を集め、「夜職で自立」「強い女性は性産業で勝てる」と募集・斡旋へシームレスにつなげる。
この独占志向は、現実の性市場変化でより露骨に現れる。国内性産業需要(特にキャバクラ・風俗)の減少傾向に対し、供給側は強い主体性を発揮して適応した:
• キャバ需要の減少 → 「港区女子」として高所得層の飲み会を自ら漁り、潜在客を積極的にスカウト(パパ活化)。
• さらに低迷 → 海外ブローカー斡旋による出稼ぎ風俗・売春(東南アジアなど)へ移行。借金漬け、強制リスク、違法滞在を伴うケースが後を絶たない。
女性の性商品独占志向は、かえって性産業参与を促進する。男叩きで不満を煽り、「復讐としての夜職」を肯定すれば、需要減少下でも女性は「主体的に」市場に留まり、より危険な選択を行う。支援団体はインセンティブ構造(女性側の主体的適応と加害的側面)を直視せず、被害者の聖性維持と表現規制に注力する。結果、本質的支援は後回しになり、搾取が再生産される。
真に女性を守るなら、性市場の需要供給の両面是正、リスクの徹底開示、現実的自立支援に集中し、性的搾取者が表現市場規制に介入するインセンティブを断つ必要がある。
日本が滅びる日には、もっと大きな音がするものだと思っていた。空襲警報とか、首都陥落の速報とか、国会議事堂の前に戦車が並ぶとか、そんな光景を、どこかで想像していた。
だが、実際には何も起きなかった。朝になると、テレビはいつも通り天気予報を流した。国会中継はあった。首相はいた。天皇もいた。役所も、警察も、自衛隊も、銀行も、コンビニも、まだ存在していた。ただ、すべてが少しずつ、頼りなくなっていた。
駅前のドラッグストアでは、鎮痛剤の棚の前で人が立ち止まるようになっていた。ロキソニンSも、イブAも、バファリンも、まだ並んでいる。ただ、値札を見ると、みんな一度手を伸ばして、結局戻す。
歯が痛い。頭が痛い。腰が痛い。熱がある。でも病院には行けない。予約は半年以上も先だった。初診料が怖い。交通費が怖い。検査になったらもっと怖い。調剤薬局で出される薬代も怖い。それでみんな、ドラッグストアに来る。
市販薬で一晩だけごまかす。もう一日だけ働く。もう少しだけ我慢する。
電気代は、また上がった。値上げの理由は毎回違った。中東情勢、円安、燃料調整費、送配電維持費、老朽化設備更新費。理由だけは豊富だった。だが、請求書を受け取る側にとっては、理由などどうでもよかった。払えるか。払えないか。それだけだった。
夏は危険な季節になった。昔は「猛暑」と言っていた。今は役所が「生命維持上の注意期間」と呼んでいた。言葉を変えると、責任の所在も少し薄まるらしかった。冷房をつけるか。電気代を払うか。食費を削るか。薬を買うか。そういう選択が、特別な貧困ではなく、普通の家計簿の中に入ってきた。
市役所の福祉課の窓口には、番号札を持った人が朝から並んでいた。並んでいるのは、かつて「困っている人」と呼ばれていた人たちではなかった。どこにでもいる人たちだった。
壁には新しいポスターが貼られていた。「支援は、真に必要な方へ。地域で支え合う社会へ。自助・共助・公助の再設計。」
その言葉の下で、窓口の職員は疲れた目をしていた。誰も悪人ではなかった。そこが、いちばん恐ろしかった。職員は規則を読み上げるだけだった。申請者は事情を説明するだけだった。政治家は「制度の持続可能性」と言うだけだった。新聞は「難しい判断」と書くだけだった。そして、誰かの暮らしがひとつ、またひとつ、静かに折れていった。それは亡国の音だった。
国はまだあった。しかし、国に助けを求めると、まず証明を求められた。本当に困っているのか。働けないのか。親族はいないのか。資産はないのか。我慢できないのか。節約したのか。努力したのか。なぜ、そこまで落ちたのか。
地方では、バス路線がまた減った。病院の診療日は週三日になった。郵便局は午前中だけ開くようになった。老朽した団地周辺からスーパーは撤退し、日本人じゃない人たちが移動販売車でやってきた。老いた住民たちは言い値で買うしかなかった。
雨の日には来なかった。燃料が高い日にも来なかった。運転手が辞めた週にも来なかった。老いた住民たちは、きょうは来ないだろうとわかっていても、じっと車を待った。
都市部はまだ明るかった。だが、その明るさは、以前の繁栄とは違っていた。外国人観光客向けの巨大広告、富裕層向けの再開発マンション、無人レジ、警備員、監視カメラ、会員制クリニック。
そんな空の下を、配達員が自転車で走っていた。雨の日も、熱帯夜も、黄砂の日も。彼らは地図アプリの中では点だった。点は、遅れると赤くなった。
ニュースでは毎晩、「防衛力の抜本的強化」が語られた。海の向こうで有事が継続していた。
防衛費は必要だった。福祉も必要だった。医療も必要だった。教育も必要だった。老朽インフラも必要だった。災害対策も必要だった。すべてが必要で、すべてが不足していた。
積極的に国債は発行された。増税もされた。給付金も配られた。補助金も出た。だが、それらは穴の空いたバケツに水を注ぐようなものだった。
誰かが言った。「日本はまだ豊かだ」
その言葉は正しかった。都心には自動運転の自動車が走っていた。会員制のレストランには予約が入っていた。株価は上がる日もあった。企業は過去最高益を出すこともあった。日経平均株価は史上最高値を更新しています。だからこそ、貧しい人間はますます説明に困った。
国全体が貧しいのなら、まだ納得できた。みんなが沈んでいるのなら、まだ諦められた。だが実際には、沈む人間と浮く人間が、同じ街の同じ信号で並んでいた。片方はタクシーの後部座席にいた。もう片方は、配達バッグを背負って休みなく往復していた。
2031年の亡国とは、国旗が降ろされることではなかった。誰も責任を取らず、誰も全体を見ず、誰も「もう無理だ」と言わず、ただ一人ずつ、生活が壊れていくことだった。
ある日、市役所から封筒が届いた。薄い封筒だった。薄い封筒は、たいてい悪い知らせだった。中には、制度変更のお知らせが入っていた。文章は丁寧だった。丁寧すぎて、ほとんど何を言っているのかわからなかった。ただ、最後の一文だけは、はっきり読めた。
国が滅びるというのは、国会議事堂が焼け落ちることではなかった。国旗が降ろされることでも、首相が処刑されることでも、外国の軍隊が街を闊歩することでもなかった。
それは、痛み止めを買うか、夕飯を買うかで迷うことだった。
役所から届いた封筒を開ける前に、もう悪い知らせだとわかってしまうことだった。
助けを求めるたびに、自分が本当に助ける価値のある人間なのかを証明させられることだった。
亡国の音が、まもなく──
Xのハッシュタグ「#憲法大集会2026」を使っているアカウントの数を数えてみたら、だいたい200人くらいがポストしている。これは間違いなく自分の意思でデモに参加した人数だ
「自分の意思で推し活遠征したケースのハッシュタグのポスト数とイベントの動員数」
比較対象は、Jリーグ、FC東京サポーターが使う「#蝗活」ハッシュタグだ。遠征先の美味いものを食べ尽くすアピールのネタタグで、度々遠征先で話題になる
昨年のファジアーノ岡山戦における「#蝗活」ハッシュタグの使用アカウントを数えてみたら、だいたい150人くらいだった
一方、実際にスタジアムに行ったサポーターは1000人くらい(アウェイなのでこれくらいしか行けない)
どちらのハッシュタグも自ら積極的にアピールするという共通点があり、ハッシュタグ使用人数の7倍くらいが「自分の意思で参加した」と類推することが出来る
つまり、昨日の反戦デモに「自らの意思で参加した」人数は、1300〜1500人程度と推定できる
あとは動員されて仕方なく来た人達だ
中国共産党による対日プロパガンダ工作——民主主義への静かな侵食セクションを追加ました。
https://japan-corruption-graph.pages.dev/#section-china-propaganda
中国外交部・官製メディアは日本の憲法改正(9条改定)に一貫して反対声明を出し続けている。環球時報は安倍政権の改憲論議を「軍国主義復活」と繰り返し報道し、日本国内の護憲運動を積極的に「支持」する論調を維持。中国の影響を受けた左翼系団体・メディアが護憲デモの主要スポンサーとなっているとの指摘がある。
日本国内の世論を「反米・親中」「改憲反対・護憲」方向に誘導。中国の人権問題・台湾・チベット・ウイグルへの批判を無力化し、「中国の台頭は平和的」という物語を定着させる。
中国外交部報道官による憲法改正反対声明(複数回)。環球時報の安倍政権・改憲関連報道(2013〜2020年のアーカイブ)。ASPI「海外の手(Foreign Interference)」2020年報告書。
朝日新聞・毎日新聞・東京新聞等の護憲論調は中国の公式見解と完全に一致。「9条を守れ」という世論形成が、中国の軍拡・南シナ海進出への有効な対抗手段を日本が持てない状態を30年以上維持させた。