深呼吸

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さよなら3月。あっという間だったね、と空に話しかけた。嬉しいのは明るい空。気が付けばどの樹の枝にも新芽がついて、枝葉を風に揺らしながら春だ春だと唄っている。居間の窓の前に枝を広げる栃ノ木は何か先を急いでいるかのよう。つい最近新芽をつけたと思えば立派な葉を茂らせ、そして蕾までつけた。週末は花が咲くだろう。もっとゆっくりでもいいのにと思うけど、栃ノ木は何時だって急展開なのだ。急展開しないのは私の生活、私の人生。そしてそれでいいと思っている。昔は色んなことがしたくて急ぎ足の生活をしていたけれど、もうそういうのは辞めた。深呼吸しながら一瞬一瞬を堪能しながらがいいと思うようになった。そうすることでどんな小さなことにも喜びを感じ取ることが出来るから。そして感謝をすることも出来るから。自分ひとりの力ではないよ、周囲の小さな助けがあってならではのことなのだよ、ということは時間と気持ちに余裕がないと辿り着くことが難しいと知ったから。長年かけて辿り着いた自分スタイル。他の人達とちょっと違うが、それが自分らしいと思う。

金曜日の夕方。最近寄り道ワインをしていない。理由は特にないけれど、寄り道ワインよりも散策のほうが愉しい、そんなところだろうか。食料品市場界隈を見て歩いたり、美しい店のショーウィンドウを眺めたり、本屋の店先を眺めたり、旧ボローニャ大学の美しい回廊の下を歩いたり。私の愉しみは安上がりだ。ただ歩いているだけで愉しくて満足できるのだから。そのうち軽装になったらば、そのうち素足でモカシンシューズを履くようになったらば、いつもの店に顔を出してみようと思う。そうして店主や常連たちと爽やかな白ワインなどを頂きながら軽快な話をするといいと思う。今はひとりの散策がいい。何となく、ひとりで居るのがいいと思う。
そういえば私は昔からひとりが好きだった。日本の頃からそうだった。友人との時間も好きだったし、知らない人とも誘われれば愉しく時間を過ごしたけれど、ひとりの時間はもっと必要だった。私は何となく変わった感じの人だったと思う。周囲の人達もそんな風に言っていたけれど、私にとって其れは一種の褒め言葉だった。人と違うこと。
昔、アメリカで付き合いのあった写真家のシャロンは、私によく似た感じの人だった。あえて言うなら私よりもう一回り変わった類の人で、彼女は変わった人間でありたいと思っている人だった。自分だけの世界観を持っている人で、だから彼女が口を開くと聞いたことも無い言葉が次から次へと出てきて私たちを驚かせた。ありのままの自分でいいのだと私に言ってくれたのはシャロン。素のままの自分で居なさいよと彼女が私に言った時、ああ、彼女は私を見透かしていると思ったものだ。肩の荷が下りた気がした。そして肺の奥まで空気が入り込むのを感じた。まるで初めて深呼吸をしたみたいに。シャロン。もう20年近く会っていないけれどどうしているだろう。彼女が今も彼女らしく生きていればいいと思う。私もそれなりに私らしく生きているように。

朝の通勤路にある紅い芥子の花の群。それはとても美しくて横を通り過ぎるたびに感嘆する。実に春らしく、実に欧羅巴らしい風景。うちにあった小さい油絵によく似ている。そうだ、あの絵はいったいどこへ行ってしまったのだろう。引っ越しを繰り返すうちに行方が分からなくなってしまった。銀のブローチのように見つかればいいけれど。




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どきり

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3月が駆け足で駆け抜けようとしている。残り僅か2日間。何をしたかと思い返してみるが、何も思い出せない。何もしなかった筈はないから、単に記憶が消えただけだ。もう少し明解に言えば忘れてしまうようなことしかしなかっただけだ。でも悪い月ではなかったと思う。冬が終わり春へと移り行く3月という月は、私には希望とか喜びといったポジティブな感情のほうが多いから。日曜日の晩に雨が降って以来寒い。特に朝の寒さは格別。もう3月も終わりという頃になって再び冬のコートを着ているのは、月曜日に格好つけて薄手のコートを着て出たら、身体を冷やして体調を崩しそうになったからだ。世間の人が薄着でも、同僚が春めいた装いをしていても、自分の厚着が鬱陶しく思えても、温かくしておくのが正解。私はこの時期に弱いから。いつもこの時期に寝込むから。

先週の土曜日、旧市街を歩いていたらすれ違った人にどきりとした。着崩した感じはなく、ラフながらもきちんとした感じが素敵な青年だった。髪はきちんとしていて、顔は、でも顔は分からなかった。理由はサングラスを掛けていたからだ。私がどきりとした理由は、彼が掛けていたサングラスのせいだった。
昔、アメリカで仕事をしていた頃、其処で知り合った年上の女性がいた。一体何処にそんなお金があるのかと思うほど、彼女は何時も素敵なものを身に着けていた。訊けば彼女は問屋のようなところに出入りしているのだと言う。知り合いがいてね、とのことだった。当時の私ときたら白いシャツにジーンズという、よく言えばシンプル、でも単に簡素な装いで、何時も彼女に言われたものだ。あなた、もう少し着飾ったらいいのに。そう言われても私は当惑するばかりだった。日本で生活していた頃は華やかな装いばかりしていた私はアメリカに来るとそうした気持ちがぱたりと消えてしまったのだ。白いシャツにジーンズ。せいぜい首にスカーフやストールを巻き付ける程度で、そしてせいぜい帽子を被る程度、そんな装いが好きになったのだ。そんな私を彼女は休みの日に誘い出した。何処へ行くのかと思えば彼女が出入りしていると言う問屋が集まる建物で、知り合いがいてねと彼女が言っていた通り、彼女は色んな人達と親しそうに話していた。そんな彼女と一緒に店を見て歩きまわっていたところで、私は出会ったのだ、運命のサングラスに。胸がドキドキするような好みの色形で、目を丸くして眺めていたら店の人と彼女に試してみればいいのにと促されて、興味半分で掛けてみたらピタリときた。そしてこのサングラスを掛けると、私のシンプルすぎる装いが急にぴしりと決まるではないか。問屋価格とは言え私には高価だったそれを、彼女が店の人に頼んで、友人でも何でもないのに友人の為の特別割引なんて理由でさらに値段を引いてくれた。私が買いやすいようにと。私は喜んでそれを購入した。それからそのサングラスは私の大の気に入りになった。掛けなくなったのは12年くらい前。うっかり落として、その上自分の足で踏みつけるなんて事故があり、少し欠けてしまったからだ。それでも暫く掛けていたけれど、何となく貧乏っちい。それで観念して掛けなくなった。かといって処分したわけではない。小さな引き出しの中にしまってある。アクセサリーや腕時計といったものと一緒に。
彼のサングラスは、私のあのサングラスに実によく似ていた。思わず何処で手に入れたのか、今でも何処かで手に入れることが出来るのかと、声を掛けたくなるほど。そんなことも知らずに青年は通り過ぎて行った。残ったのは私のどきりとした気持ちと古い記憶。家に帰ってすぐに引き出しの中からサングラスを取り出してみたら、ああ、同じ、このサングラスと同じだったと思った。久しぶりに掛けてみたら、やはり好きだった。少し欠けているけれど、何時かまた掛ける日が来るのかもしれない。

明日は相棒の誕生日。ガンベリーニに小振りのトルタを注文してある。明日の夕方取りに行くのを忘れないようにしなければと思っている。特別な夕食は準備できそうにないけれど、せめて美味しい赤ワインと、そしてガンベリーニの美味しいトルタを。喜んでくれればいいけれど。




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銀のブローチ

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夏時間を迎えて夕方の空が明るい。代わりに夜明けが少し遅くなったが、しかし朝は何時だって眠いものと決まっているから、それに夜は必ず明けるのだから、少し遅いくらいどうってことはない。私は時差に弱い人間。自分でも驚くほど敏感で、日本に帰省する時の時差は勿論のこと、夏時間、冬時間の僅か一時間の差ですらリズムが多少ながら崩れてしまう。身体の中の時計が狂ってしまったような、そんな感じ。なるべく考えないようにしているけれど、未だに上手に調整できずに参っている。今夜もなかなか眠くならない。ああ、困った。

見つけた薄紫の小箱。見覚えのある箱で、中身は何だか知っている。私の箱。アメリカに居た頃に私が集めたものが入っている。だけどイタリアに引っ越してきて、その上引っ越しを幾度かしているうちに、何処にあるのかわからなくなってしまった箱。相棒が地下倉庫で見つけたそうだ。大きな箱の中に色んなものが入っていて、そのひとつが此の小箱だったそうだ。わくわくしながら箱を開けた。中に入っているのは薄紙で包まれた銀のブローチ。小さな子供の手に乗る程度の小さなもので、亀をかたどったもの。亀だと私は思っているのだけれど、案外亀ではないのかもしれないと思いながら、人に訊かれる度に亀だと言い張っているそのブローチは、80年代の手作りだそうで、90年初期に一目惚れして手に入れたものだった。手作りに銀製品は当時若かった私には高価なものであったから、落として失くすのが怖くて、使うことすらできなかった。時折磨いたりこそしたけれど、使わずに箱に仕舞っておいた。それでいて、箱を行方不明にさせてしまった。箱が見つからなくなった時は大慌てだった。さよなら、私の銀のブローチ。もう二度と見ることのない私の大好きな銀の亀。どうして使わなかったのだろう。そう思って心で泣いたものだが、再び私の前に現れた。銀の輝きもユーモラスな亀の形もあの頃と変わらず、もう一度惚れた。そして一度も使わなかったことを悔いたことを思い出し、紺色のウールジャケットの襟に留めた。これからは使うのだ。どんどん使って堪能するのだ。30年以上私の襟もとに留められるのを待っていたブローチ。行く先々で褒められて、喜んでいるに違いない。

窓の前の大きな栃ノ木は日々姿を変えている。小さな芽は葉になり、今日はもっと先に進んだ。蕾をつける準備が始まった。この調子だと、週末には花が咲くのではないだろうか。それにしても栃ノ木を眺めているとポジティブな気持ちになる。今日は昨日よりもっと。明日は今日よりもっと。小さなことをぐずぐず考えている私は、大丈夫、大丈夫と栃ノ木の枝に、葉に、励まされてるような気分になる。決して気のせいではないと思う。栃ノ木は優しい。少なくとも私にとても優しい。




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ルーチョのこと

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昨日の快晴に気を良くして、随分と歩いた。スニーカーを履いていたせいもある。足取りが軽くて歩くのが楽しくて、おかげで今日は足が棒のようであるけれど。兎に角、散々歩いて、さて、そろそろ帰ろうかと思ったところで通りかかった建物の中に吸い込まれた。Via d’Azeglio,15と言ったらボローニャの人なら誰だって知っている、亡きルーチョ・ダッラの家である。マッジョーレ広場から歩いてすぐのその場所は、11年前に彼が他界してからというもの、訪れる人がとても多い。名の知れた音楽家だったからというよりは、優れた音楽感性と彼の人間性によるものだろうと私は思っている。

イタリアという国は古いものの良さだ理解できる国だと思う。そしてこの国の人達は、古い良いものを理解して大切にすることを教えられて育ったようだ。例えば若い人達が美術館へ行き鑑賞する楽しみを知っていること。自分の親たちが夢中になった歌手の音楽を堪能すること。知人が、私よりはるかに若い知人が、彼女の親の代に大旋風を巻いた歌手のコンサートがボローニャ郊外で催されるからと、チケットに大枚を払ったのはかれこれ15年以上前のことである。それを知った日本人男性が、どうしてそんな古い歌手のコンサートになんて行きたいのか分からないと言ったけど、そんなことを言われた彼女のほうがずっと理解できないようだった。どうして、良いものは何時になっても良いのよ、と彼女は後になってこっそり私に呟いたけど、全くその通りだと思った。良いものは良い。何時の時代になっても。古いから忘れられ、新しいから良いとされる文化が理解できない私には、イタリアやイタリア人の考え方が合うと思った。
ルーチョ・ダッラの全盛期は70年代から90年代だったろう。ボローニャに暮らし始めた当初、1995年のことであるが、まだ小学校に通い始めたばかりの姪がルーチョ・ダッラの歌を毎日歌っていたものである。誰の歌?と訊く私に、ルーチョ・ダッラを知らないのかい?と周囲の人が目を丸くして逆に私に訊ねたものだ。ボローニャ出身の彼だ。ボローニャ人の誇りだったのかもしれないが、こんな小さな子供まで彼の歌を歌うのだなあと驚き、嬉しくなったものだ。だから、彼が11年前に他界したとき、マッジョーレ広場は彼に最後の別れを告げる老弱男女の大きな波で埋まった。確か5万人くらいの人が駆け付けたと記憶する。私はその波に呑まれないように、広場に面したポデスタ宮殿の美しいポルティコの下に立ち、遠くから別れを告げた。あの日、3月4日だったと思う。あの日、広場には彼の傑作、Carusoが大音響で流れていて、それを耳にした人達の涙を誘った。彼のかすれた優しい声。味わいのある声だった。
あれから彼の家の前には訪問者が絶えなかった。3年後にルーチョ・ダッラ財団なるものが生まれると、彼の家を訪れることが出来るようになって、イタリアの北から南から数々の人がこの建物の中に吸い込まれるようになった。実は私はそうしたツアーみたいなものが苦手で、しかも予約しなければならぬと来れば益々苦手で、いまだに訪れたことがない。だけど、昨日入り口の扉が大きく開かれていたから、建物の中に入ってみたい衝動にかられ、招かれるように吸い込まれたという訳だ。15世紀の美しい建物で、中庭には私好みの樹が空に向かって伸びていた。彼もこの樹を毎日眺めたのだろうか。。

大風が吹いている。昨日の好天気は何処へ行った。気温は低くないけれど、風邪に当たると酷く寒い。窓の前の大きな栃ノ木が枝を揺らしてざわざわと音を立てるのに耳を傾ける午後。私は何時までボローニャに暮らすのだろう。そんなことを考える日曜日の午後。




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記憶

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今日は特別な土曜日。冬時間最後の日である。それにしても朝から天気が良く、目覚まし時計が鳴る前に起床した。寝室の窓のひとつ、小さいほうの窓の雨戸を少し開けておくのが好きだ。そうすると朝目を覚ました時に、空が明るいかどうかが目を覚ました時に分かるから。それも平日の早起きともなれば夜が明けていない訳だから、雨戸を少し開けておいたって外の様子はちっとも分からないけれど。兎に角そういう訳で、目を覚ました瞬間に空の明るさを知り、もう少しベッドの中でぐずぐずしていても良かったけれど、こんな明るい朝を逃す手はないと飛び起きたのである。こんな朝は家じゅうの雨戸をあけるのが楽しい。青空。飛び切りの青空だった。いつの頃からか暖房が要らなくなった。寒がりの私が暖房を点けたいと思わないのだから、随分温暖ということになる。週末の青空は空からの贈り物。平日に溜めておいた洗濯物をやっつけるためにも週末の青空は有り難い。朝食をゆっくり頂いて、簡単に家の中を片付けて、手早く身支度をして外にでた。大きな栃ノ木が明るい緑の葉をたわわにつけて、青空に向かって腕を伸ばしている様子には驚いた。つい最近まで枯れ木だったのに。栃ノ木に限らず植物の生命力にはいつも驚かされる。もう駄目だろうと諦めていた病んだアカシアの樹だって、新芽をつけ始めた。そんな樹木に私は励まされてばかりである。

温暖な一日。冬のコートはもう要らないと、短い丈のジャケットを羽織って外にでた。足元は白いスニーカー。ジーンズからは足首が見えている。こういう軽快な姿をしたかった。近年は真冬でも足首を出してスニーカーなんて人を見るようになり、私を大いに驚かせてくれる。それが実に爽やかで格好いい。かといって寒くて真似などできる筈も無く、春が来るのを待っていたのだ。足首を出してスニーカーを履く。勿論足取りはいつもよりずっと軽い。そして周囲を見回すとジャケットを着ていない人達、シャツ姿の人達。私の季節感がおかしいのか、世間の人の季節感が先に先に行っているのか、ああ、分からない、幾ら考えても分からない。
七つの教会群の広場は、春の日差しを楽しむ人で賑わっていた。旅行者も居れば、此の街に暮らす人たちもいる。小さな子供たちが走り回り、犬たちが尻尾を振りながら優雅に歩く。私はそんな人たちの中を縫って歩いて、美しい藤の花の下に行った。こんなに美しいのに誰一人関心を持たないのが不思議でならなかった。
ローマで仕事をしていた頃、27年も前のことになるけれど、オフィスの中に古い藤の木が生えていた。その木は上階の広いテラスに延びていて、零れんばかりに沢山の花を咲かせた。私は昼休みになるとテラスに行って、藤の花の下で手紙を書いたものである。時には同僚がやってきて、手紙を書くのを中断しなければならなかったけれど、その代わりに愉しいお喋り。ローマに知り合いのいない私だったから、こうして同僚やオフィスに出入りする人たちとお喋りするのは嬉しいことであり、有り難いことでもあった。私が藤の花に特別な感情を持っている理由は、とても優雅で欧羅巴的であることばかりでなく、27年前のローマ暮らし、多分それだ。ローマを思い出すときに一番初めに思い出すのは、あのオフィスと藤の花、そして私に良くしてくれた上司や同僚たち。ひとりボローニャから飛び出してきて寂しくはないかと、何時も皆が私のことを気にしてくれた。私は仕事を辞めてしまったし、上司もとっくに引退した。同僚たちも転々ばらばら。それにあのオフィスはもともと教会の一部を借りたものだったから、暫くして立ち退かねばならなかった。でも私の記憶の中で生きている。こればかりは多くの記憶が薄れても、鮮明に私の脳と心に残る、大切な記憶。
藤の花を眺めていたら、ようやく気付いたのか人々が藤の花の下に集まり始めた。綺麗ねえなんて言いながら。うん、綺麗なのよ藤の花は、なんて私も答えたりして。

そろそろ冬物をクリーニング屋さんに持ち込もうと考えているが早すぎるだろうか。昨秋店を閉めてしまった贔屓のクリーニング屋の女主人なら、きっと言うだろう。寒さはまた戻って来るからもう少し待ちなさいよ、と。そうね、もう少し待ったほうが良いかもしれない。




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