ルーチョのこと
- 2023/03/26 13:41
- Category: bologna生活・習慣
昨日の快晴に気を良くして、随分と歩いた。スニーカーを履いていたせいもある。足取りが軽くて歩くのが楽しくて、おかげで今日は足が棒のようであるけれど。兎に角、散々歩いて、さて、そろそろ帰ろうかと思ったところで通りかかった建物の中に吸い込まれた。Via d’Azeglio,15と言ったらボローニャの人なら誰だって知っている、亡きルーチョ・ダッラの家である。マッジョーレ広場から歩いてすぐのその場所は、11年前に彼が他界してからというもの、訪れる人がとても多い。名の知れた音楽家だったからというよりは、優れた音楽感性と彼の人間性によるものだろうと私は思っている。
イタリアという国は古いものの良さだ理解できる国だと思う。そしてこの国の人達は、古い良いものを理解して大切にすることを教えられて育ったようだ。例えば若い人達が美術館へ行き鑑賞する楽しみを知っていること。自分の親たちが夢中になった歌手の音楽を堪能すること。知人が、私よりはるかに若い知人が、彼女の親の代に大旋風を巻いた歌手のコンサートがボローニャ郊外で催されるからと、チケットに大枚を払ったのはかれこれ15年以上前のことである。それを知った日本人男性が、どうしてそんな古い歌手のコンサートになんて行きたいのか分からないと言ったけど、そんなことを言われた彼女のほうがずっと理解できないようだった。どうして、良いものは何時になっても良いのよ、と彼女は後になってこっそり私に呟いたけど、全くその通りだと思った。良いものは良い。何時の時代になっても。古いから忘れられ、新しいから良いとされる文化が理解できない私には、イタリアやイタリア人の考え方が合うと思った。
ルーチョ・ダッラの全盛期は70年代から90年代だったろう。ボローニャに暮らし始めた当初、1995年のことであるが、まだ小学校に通い始めたばかりの姪がルーチョ・ダッラの歌を毎日歌っていたものである。誰の歌?と訊く私に、ルーチョ・ダッラを知らないのかい?と周囲の人が目を丸くして逆に私に訊ねたものだ。ボローニャ出身の彼だ。ボローニャ人の誇りだったのかもしれないが、こんな小さな子供まで彼の歌を歌うのだなあと驚き、嬉しくなったものだ。だから、彼が11年前に他界したとき、マッジョーレ広場は彼に最後の別れを告げる老弱男女の大きな波で埋まった。確か5万人くらいの人が駆け付けたと記憶する。私はその波に呑まれないように、広場に面したポデスタ宮殿の美しいポルティコの下に立ち、遠くから別れを告げた。あの日、3月4日だったと思う。あの日、広場には彼の傑作、Carusoが大音響で流れていて、それを耳にした人達の涙を誘った。彼のかすれた優しい声。味わいのある声だった。
あれから彼の家の前には訪問者が絶えなかった。3年後にルーチョ・ダッラ財団なるものが生まれると、彼の家を訪れることが出来るようになって、イタリアの北から南から数々の人がこの建物の中に吸い込まれるようになった。実は私はそうしたツアーみたいなものが苦手で、しかも予約しなければならぬと来れば益々苦手で、いまだに訪れたことがない。だけど、昨日入り口の扉が大きく開かれていたから、建物の中に入ってみたい衝動にかられ、招かれるように吸い込まれたという訳だ。15世紀の美しい建物で、中庭には私好みの樹が空に向かって伸びていた。彼もこの樹を毎日眺めたのだろうか。。
大風が吹いている。昨日の好天気は何処へ行った。気温は低くないけれど、風邪に当たると酷く寒い。窓の前の大きな栃ノ木が枝を揺らしてざわざわと音を立てるのに耳を傾ける午後。私は何時までボローニャに暮らすのだろう。そんなことを考える日曜日の午後。