週末だけど早起きして散策に出掛ける計画は早々に敗れた。目を覚ませば日が既に高く昇り、早くも強い日差しが地面を照らしていた。天気が良い上に気温が上がったので、多くの人達が屋外に居るらしい。周辺の庭から様々な声が聞こえてきた。老人たちのお喋り。親子の楽しそうな声。それから若い女の子たちの甲高い声も。終わったと思っていた夏が思いがけず戻って来たような。此れが10月ならばインディアンサマーなどと呼びたいところだが、9月の暑さの戻りはボローニャ辺りではよくあること。やあ、まだ夏はその辺でぐずぐずしていたんだね、程度のことである。夏ごろからすっかり出掛けるのが億劫になっている私だ。意を決して自分の背中を押さなければ好きな散策に行くのも面倒臭く感じてしまうのが、このところの悩みである。起きるのが遅くなったことを理由にして外に出るのを止そうかと考え始めている自分に向かって声を掛ける。外は良い天気。こんなに楽しそうな空気に満ちているのだから、散策に出掛けないなんて勿体無いでしょう?
旧市街に着いたのは、もうすぐ正午という時間だった。カフェのテラス席に座る客はまだ疎らで、穏やかな土曜日と言う感じが漂っていた。街を歩く人は多いのは見本市の関係か。それともこの思い掛けに好天気に、誰もが外に出てきたのか。少し歩くと額に汗を掻いた。鞄からハンカチを取り出して汗をぬぐっていたら、やあ、暑いですねえ、と背後から声を掛けられて驚いた。見たことも無い人だった。私が驚いた顔を見せると、あの店で働いているんですよ、と彼は向こうの方を指さして笑った。私がよく行くバールだった。しょっちゅう顔を合わせているのに店の外で普通の格好をしていると、まるで別人、知らない人のように見えるのだから不思議だ。今日は休みなのかと訊くと、これから仕事だと彼は言って笑った。そして今日は忙しくなりそうだと言って空を仰ぐと、手を振って店に向かって歩いて行った。空を仰いだのは、こんな晴天の日は仕事などしたくはないと思ったからだろうか。こんな良い天気の土曜日だ。そう考えたとしても不思議ではない。
街を歩いていると感心することがよくある。同じ女性でも何と様々な人が存在することか。そして彼女たちは洒落のコツをよく知っている。足首を見せて履くパンツに、丈の短いジャケットを合わせて軽快なのは、恐らく60を超えた女性。私ならば躊躇してしまいそうなオレンジ色の上等な革のバックを手に、颯爽と歩く様子には脱帽だ。それから上から下まで黒の女性。でもよく見ると無難なものはひとつもなくて、ジャケットにしても細身のパンツにしても踵の低いショートブーツにしても、彼女の拘りがよく分かる。黒ずくめだが決して重苦しくも暑苦しくもない。丁度良いバランスを知っているのだろう。そして私の目に飛び込んだのが、黒い革のバッグ。このバッグは知っている。店の棚に置かれていたのに惹かれて見せて貰ったのとすっかり同じものだ。パリから仕入れたとのことで、これに目を付けたことを店の人に褒められたものだ。もう10年も前の話で、目抜き通りの小さいが歴史のある店でのことだった。もともとは父親が帽子を作って売っていたが、その父親が他界して以来、娘とその娘が店を引き継いだ。娘と言っても60歳程の年齢で、彼女の娘もとっくに25を過ぎている。帽子はあまり置かなくなり、バッグや靴、衣服といったものをパリへ行って仕入れてくる、いわゆるセレクトショップみたいなものである。柔らかい革で縫い目がとてもきれいで、軽くて、申し分なかったのに買わなかったのは、勿論私には高価なものだったからだ。高級ブランド製品ではない。しかし逸品であることには違いなかった。目の保養になりました、ありがとう、と言って店を後にしたが、暫くの間残念感が残った。そして思うのだ。どんな人の手に渡るのだろうかと。目の前に居る黒ずくめのお洒落な女性がそのバッグを手にしているのを見て、良かったと思った。彼女はこのバッグの価値を、魅力をちゃんと理解しているだろうから。随分と使い込まれていたが手入れをしているらしく、型崩れもなければ光沢も其のままだ。バッグも喜んでいるだろう。さて、私が喜んだのにはもう一つ理由があった。彼女は小さな赤ん坊の母親なのだ。この素晴らしい黒の装いでベビーカーを押している。子供を産んで子育てもする。忙しいだろうに、お洒落心を忘れていない。格好いいなあ。通り過ぎて行った彼女の後姿に暫く釘付けになった。私ばかりでなく、多くの通行人にしても。
よく歩いた。昔はもっと歩いたけれど、今はこれが精一杯。これくらいだって充分疲れて、夕方はソファの上で本を読みながらゴロゴロした。滅多にないことである。猫は驚き、私が病気だと思ったのだろうか、心配して傍を離れない。それとも猫はゴロゴロ仲間が増えて嬉しかったのかもしれない。ゴロゴロ、ゴロゴロ。これ、癖になりそうである。