折角の満月の晩に雨が降った昨日の金曜日。気温はそれほど低くないが、傘を差したままバスを待っていたら身体がすっかり冷えてしまった。それに、待てど暮らせどバスが来ない。ようやくやって来たバスは予想していた通り満員で、やっと来たバスを見過ごさねばならなかった。バス停に残された見知らぬ者同士が言葉を交わす。次のバスはいつ来るだろうか。また満員で乗りこむことができないのではないだろうか。それでなくても寒いのに、この雨ときたら止むことを知らない。そんなことを口々に呟いていたら、折角の金曜日なのに、折角の満月の晩なのに、と誰かが呟いたので、皆が一瞬はっとした。どうやら誰もがそれを一番気にしていたらしい。次の言葉がなく黙り込んでしまったところ、まるで救世主のようなタイミングで乗客の数も疎らの、随分と空いたバスが停留所に滑り込んだ。やれやれ、助かったね。良い週末を。知らない者同士が挨拶を交わしながらバスに乗りこんだ。そんなシーンを夢にまで見て、目を覚ました土曜日の朝。窓の外は雨。また雨か、と、もう一度毛布の中に潜りこんだが、ふと思い出してベッドから抜け出た。今日は雨だろうと何だろうと、クリーニング屋さんに行って、その足で旧市街へ行こうと、ずっと前から決めていたのだ。風邪が完治せず、近頃週末になると熱を出して家に閉じ籠もってばかりいたのが、どうしようもなく嫌になっていた。毎日、家と仕事の往復ばかり。もっと外に出たい。もっと歩きたい。何かいつもと違うことをしたい、と。
雨は止んでいた。クリーニング屋さんへ洗濯物を持ち込んだのは、土曜日の営業時間が終わる15分前だった。土曜日は13時を待たずに店を閉めるのだ。洗濯物を受け取り、受取書を書き込みながら女主人は目を見開いて、Black Fridayで何か購入したのかと訊いた。いいや、昨夕はバスが来なくてそれどころではなかったと答えたところで、なんだい、Big Fridayのことかいと言いながら女主人の夫が店の奥から出てきたので、私達は大笑いした。70歳程の彼にとってはBlackもBigも同じように聞こえるのだろう。それにしてもBig Fridayとは何か良い響きで、これも悪くないと私達は口々に言うと彼は上機嫌になった。そうだ、これからはBig Fridayでいこう。
旧市街にバスが入りこむ。大きな郵便局前の小さな広場にはフランスのクリスマスマーケットが建っていた。毎年この時期から約ひと月の間、この場所に居座るのだ。此れはいつの間にかボローニャの人達の冬の楽しみになった。心待ちにしていた人達で程よく賑わっていた。内容は毎年ほぼ同じ。特に変わり映えはない。しかしボローニャ旧市街の広場でフランスのシャンパンを頂きながら生牡蠣を立ち食いするのはなかなか素敵なことだし、それに店の人達のフランス語が耳にとても楽しい。それがこのマーケットの魅力だと私は勝手に思っている。
此処にはまた改めて立ち寄ることにして、少しウィンドウショッピングを楽しんだ。エルメスのスカーフはいつ見ても美しく、その先のカフェ・ザナリーニのショーウィンドウに飾られた菓子は宝石のように見えた。右手に曲がるとポルティコの下に並ぶカフェのテーブル席。幾人かの客が腰を下ろして温かい飲み物を楽しんでいた。こんな寒い場所にと私のような寒がりは思うけれど、ポルティコの下に並ぶテラス席は人々にとっては特別な存在なのだろう。特等席、みたいな存在だろうか。靴屋のウィンドウには美しいラインのショートブーツ。手の届かぬ値段が付けられていて、ふーっと溜息をついた。その息が思いがけず白い煙となって立ち上ったので、初めて其れほど寒いことに気が付いた。サン・ペトロニオ教会前の広場には沢山の人が集まっていた。その奥の、市庁舎前に幾つかの小屋が。観に行ってみるとハーブやら蜂蜜やら食料品を扱う店が小屋ごとに分かれて販売していた。足を止めたのは美味しそうなパンを扱う店。先客が居た。背の高い夫婦で、とてもきちんとした装いをしている。歳の頃は40代の夫婦と言った感じで、とても感じが良かった。小屋の中に居る店の人が、客にパンのことを説明していた。と、夫の方が指をさして、これは?と訊くと、栗と胡桃を挽いた粉で捏ねたパンダと言う。夫が半分だけ買いたいと申し出たので、すぐさま残りの半分は私が買うと申し出ると、夫婦がこちらを向いて興味深そうに眺めた。これはとても美味しそう。赤ワインに合うのではないだろうか。そんなことを言う私に、君はいいことを言うなあ、と夫は言った。どの辺りの栗を使っているのか、スカースコリ辺りの栗だろうかと店の人に訊く私に、夫が再び口を挟む。君はスカースコリを知っているのか、と。昔毎週末のようにスカースコリに住んでいる友人の家に足を運んだと答えると、夫も妻も嬉しそうな顔になって、自分たちは明日の日曜日にスカースコリの友人のところに遊びに行くのだと言った。美味しい匂いのパンを半分づつ藁半紙の紙袋に入れて貰い、互いの楽しい週末を祝って別れた。どうやらこれらの小屋はアペニン山脈の製造者、販売者によるものらしい。決して安くはないが、しかし良質の、ケミカルフリーの体に良いものが販売されていることを嬉しく思った。ふたつ向こうの小屋でトリュフのペコリーノチーズを見つけた。トスカーナ州に属するムジェッロの人達によるものだった。欠片を食べさせて貰ったら美味しかったので、大きな塊の半分の半分を購入した。相棒が喜ぶだろうと思って。それにしても小屋に立ち寄る人も少なければ、購入する人も少ない。この寒空の下で直営販売する人達の為にこれ以上雨が降らなければいいと思った。もっと沢山の人が集まるように。皆が本当に美味しいものに気付くように。
短い散策を終えて家に帰えると相棒がタイミングよく帰って来た。目を瞑らせて、パンとチーズの匂いを嗅がせてみたら、うわーっと声を上げ、嬉しくなって彼は目を開けた。どうしたんだい。旧市街にアペニン山脈の製造者直売の店が出ていたのよ。そんな話をしながら思った。私達には何か凄い、特別な楽しみがあるでもないし、何処かへ一緒に旅するでもない。週末ごとにレストランへ行くこともなけれど、こんな普通の生活にちょっと美味しいものが登場して、そんな細やかなことを喜べるのは案外幸せなのかもしれない。そしてそんなことを幸せと思える私達は、案外大変幸せ者なのかもしれない。
来週は帽子を被って外に出よう。もう冬なのだ。ボローニャの街の店先に温かいワインが出始めたのだから。それにしたって今日が11月24日だなんて。時間が経つのが、少々早すぎやしないか。