晴天の効果

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忙しい一週間だった。それも週末を迎えてみればどうということのなかった毎日に思えるものだ。夕方がめっきり明るくなった。草原に紛れ込むようにして咲く黄色いたんぽぽ。眺めていたら昔読んだ絵本、しろいうさぎとくろいうさぎ、のうさぎ達が何処からか飛び出してきそうな気がした。昔読んだと言っても読んだのは専ら母で、私は聞き手専門だった。私が小さな子供だった頃、母が繰り返し読んでくれた本。幾度も読んでくれたのは私が読んでほしいとねだったからだ。森に暮らす二匹のうさぎの話。今思い出せば単純な話だが、何かに悩むくろいうさぎの悲しそうな様子が子供の私は心配でならなかった。あの頃から黄色いたんぽぽの花を見ると彼らのことを思い出すのだ。森に咲いていた黄色いたんぽぽの花。ボローニャの街中のこんなところにも咲いている。

昨日の暗い空を思い出すことが出来ないほど良く晴れた今日。空気は思ったほど暖かくないけれど、それにしても外が明るいだけで気持ちが何と変わることか。毎日こんなだったらよいのに。私は心の底から願うのだ。ふと、ローマに暮らし始めた頃のことを思い出した。それはもう18年も前のことで思い出のあちらこちらが色褪せ始めているのに、今になってもふとした拍子に思い出すことだ。私は少し知人の家に居候したのち、老女の家の一間を借りて暮らし始めた。それは知人が新聞で一緒に捜してくれた場所で、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世広場から直ぐ其処に在る、何か由緒ある建物の上階にあった。部屋の窓からはダンテ広場が眺められて、恐らくはその昔限られた人々しか手に入れられなかった住居だったと想像できた。事実老女の夫とその前の世代は時計屋として大変儲けていたらしく、昔の栄光話をするのが大好きだった。そして栄光は昔のことで息子の世代になるとごく普通の時計屋となり、細々と商売をしているようだった。部屋を其処に借りたのは職場に歩いて15分ほどだと言うことだけが理由だった。兎に角老女が幅を利かせていたので家の中では小さなケージの中の鼠のような気持になった。だから仕事が休みの日は外に出た。雨が降っても風が吹いても。外に出ないことには気分が塞いでしまうからだ。ひと月もしないうちにうんざりし始めた私に、知人が声を掛けてくれた。うちに一部屋空いているけれど。そこには既に4人の若いイタリア人が暮らしていて、5つ目の部屋が空いていると言うことだった。場所は地下鉄オッタヴィアーノのすぐ傍で、賑やかな大通りがすぐ近くにあるらしかった。家賃を訊けば今のところよりもずいぶん安く、5人生活に多少なりともの不安を感じながらも私はその部屋を見せて貰う約束をとった。約束の日が来る前に休みの日があった。街の中心を散歩しているうちに、その界隈を見てみようと思いついて歩いて行ってみた。それは2月にしては天気の良い日で散歩するには最適な日だった。結局アパートメントが何処に在るのかは分からなかったが、私はその界隈をすっかり気に入ってしまった。大通りの両脇には街路樹が並んでいて、恐らくはリラの花に違いない良い匂いの花が早くも咲き始めていた。私は樹の下を歩きながら、既に決めていたのだ。この界隈に暮らしてみよう。5人の共同生活で私は沢山のことを学ぶだろう。そんなことを思いながら。あの日の午後が懐かしい。私はローマの生活に早くも暗雲を感じ始めていたが、あの散歩ですべてがぐるりと変わったのだ。大丈夫。きっと良い方向に道が開けていくよ、と。多分それはあの晴天が大きく私の心に作用したに違いなく、しかしその作用はあの頃の私には是非あってほしかったことのひとつだった。うまくいかないことばかりで、私は後ろ向きになりつつあったから。晴天。私の親友。晴天だと全てが何とかうまくいきそうな気がする。
5人の共同生活は簡単ではなかったが、私が沢山のことを学んだのは本当である。どんな風にしてうまくやっていくのか、どんな風にして相手を説得するのか、喧嘩するのも仲直りするのも、あの共同生活で学んだ。勿論私はそれなりに色んな事を知っていたけれど、郷に入れば郷に従え、イタリア式を知っていると知っていないとでは大きな違いだったから。

あれから随分の年月が経ち、しかし私の晴天に寄せる気持ちはあの頃と少しも変わらない。明日も青空になるだろうか。と思いながら、小さな折り畳みの傘を引き出しの中にしまい込む。暫く出さなくていいようにと願いながら。


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冷たい風

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久しぶりに冷たい風が吹いた。朝方晴れていたからすっかり喜んでいたのに、春めいた土曜日になると思って。ところが季節は逆戻りしていて、道行く人々は冬のコートで身をくるんでいた。こんな時期が一番危ない。風邪を引くのはこんな時だ。油断してはならないよ、と自分に言い聞かせて帽子を目深に被った。旧市街に並ぶ店は今が一番微妙な時期だ。冬のサルディが終わらない店もあれば、早くも春ものを置く店もある。中には春ものを飛び越えてサンダルを置く靴屋もあって、ふと足を止めてしまう。いくらなんでも早すぎる、と思いながらも早くそんな季節になればよいと思って。私の気に入りの店は今も冬物だけ。春の軽いコートが店先に並ぶにはあと2週間はかかるに違いない。冷たい風が吹くだけにとどまらず、時々小雨も降る。人々の表情が今ひとつ浮かないのは、そんな天気のせいだろう。時々空を見上げては、ふーっと溜息をつく。春よ、早く来ておくれ。私達を愉しい気持ちにしておくれ。そんなことを願いながら、ポルティコの下をこつこつ歩く。

最近体調がすぐれない。こんな天気のせいかもしれないし、心身ともに大変疲れているのかもしれなかった。どちらにしてもこんな時は自分を思い切り甘やかすのが良い。昔、日本では忍耐や我慢が美とされていたようだけど、私の哲学にはそれらの言葉はない。だからと言って好きなことだけすればよいとは思わないけれど、少なくとも体調が悪い時に無理をする必要はないだろう。そうだ、と思いついてANNA MARIAへ向かった。この店には幾度か来たことがあった。大通りに面した大きな店ではない。入り組んだ界隈の古い印象の店だ。私の女友達に連れられて入って以来大好きになった。昼食時とあって賑わっていた。ひとり客の私は店の奥の小さなテーブルに着いて大好きな手打ちパスタを注文した。この店は決して安くない。安い店ならほかにも沢山あるけれど、何しろ手打ちパスタが素晴らしく、懐が温かい時は此処に限る。気の良い店員が向こうの席に着いた男性客たちに話しかけるのが聞こえた。やあ、お客さん、あなたはボローニャの人ではありませんね。あなたの髪はボローニャ人にしては整い過ぎているからすぐに解る。その声が大きかったので周囲のテーブルの客たちからくすくすと笑いが零れた。男性客は笑いながら、トリノから来たと言った。ひとりの昼食もこんな話に耳を傾けていると、結構愉快なものである。一皿目と野菜の一皿を平らげてからカッフェを注文したら、謝肉祭の季節の菓子が一緒に出てきた。店の奢りということらしかった。実を言えば私はこれが大嫌いで、しかし折角の好意なのだからと一口食べてみたら、あら美味しい。今まで食べたどれよりも美味しかった。生地を薄く延ばして油でからりと揚げたものに粉砂糖を掛けたもの。地方によって呼び名が違うがボローニャではスフラッポレと呼ぶそれ。あまりに美味しかったので勘定を済ませながら店の人に如何にこの店のスフラッポレが美味しかったかを伝えていたら、それまで近くに立って他の店員と話をしていた毛皮のコートに赤いメガネフレームの年配の女性が話しかけてきた。あら、あなた、この美味しさが分かるのね。他の店のものと違うって分かるなんて、嬉しいわね。どうやら彼女はこの店の常客らしかった。彼女もこれが嫌いだったがこの店のを食べてから大好物になったそうだ。私は人差し指を立てて、お友達を沢山集めてスフラッポレと甘いワインだけのお喋りの夕べを開くのはどうかしら、と提案すると彼女はそれが大変気に入って、手入れが良くされた肌理が細かい指を複雑に交差させながら、あなた、冴えているわよ、と言って私に大きな笑みを投げかけた。また会いましょうね、と言う彼女に、そうね、またここで会いましょうね、と挨拶をして店を出た。

美味しい食事は私を幸せにする。体調は悪いが食欲があるのだから心配は無用だ。それにしても外の風はさらに冷たくなって、ややもすると雪でも降ってきそうな寒さにすら思えた。そのうち空から大粒の雨がばらばらと落ちてきて、追いかけられるようにして本屋の中に逃げ込んだ。


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きらきら光るクリスタル

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きらきら光るクリスタル。ボローニャに暮らし始めた頃、と言っても私がローマでの約一年間の生活にピリオドを打ってボローニャに戻ってきた頃、私が留守にしている間に相棒がアパートメントを見つけてくれた。決して広くはないけれど2人が暮らすには十分だった。居間の二倍もあるテラスがついていた。相棒が其処に決めた理由はどうやらこのテラスらしかった。ボローニャ旧市街からは歩いても15分と掛からぬ場所で、近所には店があって便利だった。郵便局もあればクリーニング屋さんもあった。新鮮な野菜と果物を置く青果店もあったし、朝産んだばかりの卵を売る鶏肉屋さんもあった。静寂とは無縁の場所だったが、活気があるのは良いことと思って板から苦ではなかった。私はたまにある仕事以外は家でのんびり生活すればよかった。けれども家で忙しくしていることの方が多かった。家に居る時間が長いなら、と家事のプロになろうと思ったからだった。することは探さなくてもあった。その中の大仕事と言えば照明器具を磨き上げる作業だった。その照明器具とは、今につる下がったクリスタルの、俗に言うシャンデリアなるものだった。幾つものクリスタルを連ねて作られたこの照明器具。美しくもそれを綺麗に保つのは口で言うほど簡単ではなかった。ひとつひとつを乾いた布で磨くのだから。それから上を見上げての作業だったから、そのうち気分が悪くなって中断しなければならないこともあった。そしてある日、私は相棒に言ったのだ。この美しい照明、他のに替えましょうよ。初めは不満を述べたかれだったが、ある日私の代わりに作業をして理解したらしく、数日後には新しい照明に替わった。それで私達はクリスタルを磨き上げる作業から解放されて嬉しかったはずなのに、骨董品市で似たようなものを見かけるたびに懐かしく思うのだ。ひとつひとつを磨き上げる。だから美しいクリスタル。じっと見つめていると関心があると間違えられて声を掛けられる。うん、昔持っていた物によく似ているの。でもね、磨くのが大変だったのよ。私が店主にそういうと、店主は笑いを殺しながら答えるのだ。だから、だから美しいのだと。

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花が好き

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私は花が大好き。庭先に咲く花も好きだし、テラスをぐるりと取り囲むようにして置いた植木の花も好き。それから気が向けば花屋に立ち寄って花を購入する。居間の中心に置くとぱっと華やかになり、それだけで楽しい気分になるから。でも相棒から花を贈って貰ったことはあまりない。恋人時代は何かにつけて花を持ってきては私を喜ばせてくれたけど、互いに慣れ始めたらすっかりそんな習慣もなくなってしまった。それは互いが水や空気のような存在になった証拠。そう思えば聞こえは良いけれど、正直なところ少々淋しいと思っていた。相棒は特別な日が嫌い。特にヴァレンタインデーなるものを嫌っていて、だからこの日を祝ったこともロマンティックに過ごしたこともあまりない。幾度か楽しい日と過ごした記憶があるにしろ、世間が騒ぐほどのことをしたことは、無い。

今年などが良い例だ。金曜日にあたった2月14日。金曜日の晩は週末の始まり。ちょっと美味しい物でも頂こうかと思って相棒に都合を聞けば、夕食時は家を留守にすると言う。理由はその時間帯にミランとボローニャのサッカー中継があるからだそうで、それを見に近所のバールへ行くことになっているからだと言う。そのバールは行きつけのバールで、同じようにボローニャを応援する仲間が寄り集まり共に熱く応援するのが習慣なのだ。なんだと。と、私は一瞬憤慨しかけたが、そういえば彼はヴァレンタインデーには関心が無かったのだと思い出して、まあ、そんなものかと思いながら投げかけようとした彼への言葉を飲み込んだ。いいもん。ひとりで美味しいもの頂いちゃおう。特別な赤ワインの栓を抜いたりして。そう思いながら。ところでこの日に関心のない人は世間には案外沢山いるらしい。しかし祝う祝わないは別にしても相棒がサッカー観戦のために夕食に戻ってこないのは一般世間的にも宜しくないらしく、それを聞いた知人の女性が言い放った。あなた、彼に言いなさい。家に帰って来た時に入り口の扉の鍵が変わっているから気を付けてね、と。私はそれを聞いてあははと腹の底から大笑いしたが、成程イタリアではそういう言い回しがあるのかと感心したものである。夕方、空がすっかり暗くなってから家に戻ると、既にバールに出向いているらしく彼の姿はない。その代わりに薔薇の花束が置いてあった。花を贈ってくれるとは。うふふと笑っているところに電話が鳴った。薔薇の花束を見ていただけましたでしょうか。相棒の声だった。どうやら少しは申し訳ないと思っているらしい。それは多分彼の友人知人がさんざん彼を戒めたからに違いない。彼女のような上等な奥さんを大切にしないと、そのうち痛い目にあうぞ。と友人知人が言っているのをいつだか耳にしたことがある。私は決して上等な妻ではないけれど、でも多分本当だ、大切にしないといけないよ、と。花束の礼を言うと相棒は意外にも照れ、しかしその後には、それではゲームが始まるのでこれで失礼、と言って電話を切った。あはは。実に相棒らしい。私は笑いながら花を花瓶に生け、ひとり分の夕食の準備を始めた。

私は花が大好き。花がある生活は素敵。薔薇の蕾がふっくら膨らんで今まさに開花しようとしている。美しいと言いながら、この花のおかげで私の鼻のアレルギーは悪化する一方だ。しかしそのことを相棒に言ってはいけない、折角の贈り物なのだから。言ってはいけない、言ってはいけない。私は今、心の中で葛藤しているのだ。


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魅惑

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雨降りが一段落したらしい。話によると暫く太陽の恵みを得る毎日になるそうで、まったく有難いことである。久しぶりに晴天になって気がついたこと。朝明るくなるのが早くなったこと。夕方が明るいこと。空が明るいだけで、こうも気分が良いのかと気がついた。空を見上げながら歩いていたら真珠色の満月が輝いていた。まだ襟巻は手放せそうにない。でも帽子なしでも外を歩けるようになった。手袋は不要。息を吐いても白い煙となって立ち上ることもない。耳を澄ますと鳥の囀り。あと数週間したら寒さも緩んで、急に春めくのかもしれない。

久しぶりにウィンドウショッピングを楽しんだ。食材店のウィンドウに並ぶチーズと手打ちパスタ。青果店に並ぶシチリアの熟れたオレンジ。エノテカのワイン。どれもこれも私の好物。食して堪能するのも良いけれど、こんな風に見て楽しむのも好きだ。特にワインが並ぶ棚の面白さと言ったら。それから店先に山のように積み上げられたオレンジの眩しいことと言ったら。そして一軒の店の前で立ち止まった。食料品市場界隈の角っこにある店。案外大きな店で野菜や果物をっているが別の入り口側には手打ちパスタやサラミ、生ハムも置いている。ここの店だけで色んなものを購入できるから便利に違いないのに、私は此処の客になったことはなく何時もこうして前で立ち止まるだけ。野菜や果物は路地に面したいつもの店で買うのが好きだし、トルテッリーニや生ハムは八百屋のすぐ先の店で買うと決めている。ペコリーノチーズもその店で買うし、パンはあの店。何時の頃からかそんな風に決まっていたから。立ち止るのは果物を煮たものが美しいから。小さなオレンジを丸ごと甘く煮たものが銀の盆に並んでいた。魅惑的だ。てらてらと光っているのはとても甘い証拠か。私は俗に言う甘党だけど、イタリア人の甘党には絶対勝つことができないだろう。この小さなオレンジはいつも私の目を引いては、数分ほど魅了してくれるのだが、しかしまだ食べてみたことはなく、想像だけが膨らむ一方なのである。一度店の人に声を掛けられたことがある。それで甘いのかと訊いてみたら、甘いのよ、と答えが返ってきた。イタリア人女性が甘いと言うのだから、大した甘さに違いない。今日もその前で足を止めた。そのうち2人、3人と観客が増えて口々に何かを言い始めた。そのうちの若い夫婦は、帰りがけに3つほど買おうと話しながら私の背後から消えた。年配の、犬連れの男性は電話越しに艶が良くて実に美味しそうだが店内が大変な混雑で犬を連れて入ることが出来そうにないと言って話を終えた。が、意を決したように犬を抱きかかえると中に入っていった。暫くすると彼は犬を抱えて出てきた。片手には小さな袋。どうやらこのオレンジを購入したらしい。そしてまだガラス越しにオレンジを眺めている私に、君はまだ眺めているだけなのかい、とでもいうような顔を向けて去っていった。横に立っていたシニョーラも中に入っていった。私はと言えば、店内の混みに眉をしかめて次にしようと思いながら店の前から去ったのである。いつもそう。この店が空いていることは滅多にない。だからいつも眺めるだけ。銀の盆に並んだオレンジたちに別れを告げて、また歩き出した。


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