文句のつけようのない休暇

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私の長い夏季休暇も残り3日となると、淋しいものだ。まだまだ、まだまだなんて思っていたのに。まあ、こんな風にいつか終わってしまうから、次の休暇が愉しみなのだ。毎日が休暇だったら。いつかそれなりの年齢を迎えて仕事を辞めるまで、それはお預けにしておこうと思っている。若くて元気で毎日が休暇だったら、喜びは半減してしまうかもしれないから。だからこれでいいと思う。休暇を終えて普段の生活リズムに戻ること。決して残念なことではない。
テラスの植物の勢いが良い。特に柚子の樹は直径4センチほどの青い実を沢山つけている。数週間後には実がひとまわり大きくなって黄色く色付き、収穫する日が来るだろう。そうしたら毎朝の手入れや毎晩の水遣り作業が実ると言うものである。唐辛子も元気がいい。これは相棒拘りの唐辛子で、私が口出しする隙間もない。それから茗荷。今年は根っこの割に植木鉢が小さすぎるのではないかと懸念していたが、案の定、である。蕾がなかなか土の中から出てこないので指で土をほじくってみたら、あ、あった。小さな茗荷の蕾をふたつ発見。窮屈だけど今年は我慢して頂戴と茗荷に声を掛ける。冬が来る前に根分けをして楽にしてあげるから、と。茗荷の根っこの繁殖力は凄いとは聞いていたけれど、植えた時には小さかった根っこがこんなに大きく成長した。根分けをしたら興味を持っている身近な人達に分けようと思っている。3年前にフランスの親切な日本人女性が私に根っこを分けてくれたように、良いものは皆と分け合う、それが良いと思っている。

アントワープに居たのが夢のように思える。あの涼しかった毎日。私はジャケットすら着ていたではないか。朝晩の冷え込みはボローニャとは比較できないほどで、そういえば体調がとてもよかった。あれは単に休暇でストレスフリーだったからではないと思う。気候が私にぴったりだったのだ。それにしても、よく歩き、よく喋り、よく食べた。近年長時間歩くのが辛くなり始めたのでどうなるかと思ったけれど、歩きやすい靴と、歩きやすい気候と、見知らぬ街の魅力があればこんなに歩けるのだと知った。だから食欲もあって、相棒が其処に居たら驚くほど、私は食欲旺盛だった。そしてよく喋った、自分でも驚くほど。というのは私はひとり旅が好きで、旅先で沢山喋ることはないのである。時には行った先で友人知人と会って食事やカッフェをするけれど、朝から晩までなんてことは、ない、全然ないことなのだ。そして私は黙って静かにしているのも好きだから、喋らないことは決して苦痛ではないのである。今回の旅行で懸念していたのは、このお喋り、友人夫婦との共通語が英語であることだった。昔、アメリカに居たとはいえ、もう29年も前のことだ。イタリアに暮らし始めた当初は確かに相棒と英語を話していたけれど、それを好ましく思っていない舅の一言で、英語での会話は一切しなくなった。イタリアに暮らし始めて3か月目のことだった。英語を使うのはイタリア国外へ行く時だけ。そんな私が友人夫婦と英語で話が続けられるだろうか。何とかなるさと思う反面、どうしたものかと心配もしていた。私達は意思疎通に問題はなかったから、終わり良ければ総て良し、である。でも、もう少し磨いて、次は友人夫婦ともっと話をしたいと思う。もっと突っ込んだ話。私達はそういう話が出来るような関係になったから。それから12年前リスボンで知り合って細々とながら交流が続いている日本人女性。同じヨーロッパ大陸の何処かで友人が異なる文化の中で頑張っているのは、私の励み。いくらボローニャでの生活が長くなったって、私はやはり日本人で、イタリアは異国に違いないのだ。異国に暮らす同士。時々彼女とこんな風に会えたら良いと思う。
行ってよかったアントワープ。今までずっと先延ばしにしていた理由が今となっては分からないほど。今度は寒い季節に行って美味しいチョコレートを買ってこようと思っている。飛行機に乗ってしまえばすぐなのだから。

誰かに良い休暇だったかと訊かれたら、迷わず答えることが出来る。文句のつけようのない休暇。アントワープ以外はずっとボローニャに居たけれど、それだって私には必要だった時間。文句のつけようのない素晴らしい夏季休暇。私は胸を張って言える。これがこれからの生活の好転の機会となればいいと思う。きっとうまく行く。私は今、とても前向きだ。




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シニョーラ!

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南からの涼しい風が吹く夕方。暑かった昼間に鳴いていた蝉のことを忘れさせる涼しい風。アペニン山脈辺りで雨が降っているのだろう、と思いながら舅のことを思いだした。暑すぎた日の夕方は夕立になることがある、というのは彼の得意のセリフで、彼がこれを口にすると、ああ、また言っているなあ、と家族の顔に笑みが浮かぶ。もう100回くらい聞いた、なんて野暮なことは言わずに、誰もがうんうんと頷いたものである。その舅の楽しみは6月、そして7月の海の生活。、新年を迎えると同時にアパートメントを予約するのだ。そして6月になると早々に荷物を車に詰め込んで、家族みんなで海に行くのだ。海と言ったってエミリア・ロマーニャから先に行くことはない。彼はエミリア・ロマーニャが好きなんだよと相棒は苦笑していたが、それにしたってトスカーナの豊かな緑を見たくはなかったか。美しいヴェネツィアを歩いてみたくはなかったか。とっくの昔に空の住人になった舅だが、6月になると私はいつも同じことを思いだす。

昨夕、髪を切り、良い気分で帰ってきたら、遠くの方で、シニョーラ!と言いながら大きく手を振っている男を発見。誰だろうと目を凝らしてみたら、近所の青果店の店主だった。彼の名前は知らない。知っているのはバングラ人であることと、妻との間に小さな男の子が居ることだけだ。何事かと思ったら、シニョーラ、良い唐辛子が手に入ったから、ちょっと待ってて、とのことである。どうして待っててなのかといえば、近所に配達に行くからだそうで、私に店番をしてほしいらしい。随分信用されたものだ。私が悪い人ならどうするつもりなのだろう、と思いながら、仕方がないなあ、と店の前に立って店番をすることになった。彼は5分も掛らずに帰ってきて、シニョーラ、どうもありがとう、此れを渡したかったんだよねと言って綺麗なオレンジと黄色と赤の唐辛子らしきものを3つ紙袋に入れてくれた。以前私が唐辛子が欲しいんだけどと言っていたのを覚えていたらしい。辛いかどうかは分からないそうだ。そしてお代は要らないよ、とのことだった。
私が彼の店に寄らなくなって暫く経つ。理由は野菜も果物も新鮮度に欠けていたからだ。以前は新鮮でいいものが山ほどあったというのに。でも、理由は分かっていた。随分前にインド種のコロナが大感染した時、イタリアがインド、パキスタン、バングラデシュからの入国を禁止した。それで大きな街では差別などが起きて、インド人であるが為に職を失ったりと、訊くに堪えない話がテレビに流れた。その頃からバングラ人の店に客が寄りつかなくなり、売れ残りばかりが店に並び、私のようにバングラだろうが何だろうがいいものがあれば買いに行く客も、古いものしか置いていないからと、足が遠のいてしまったのだ。ちょうど1年半前、イタリアでコロナが流行りだし、東洋人であるがために多少なりの偏った目で観られて嫌な思いをした私だ。彼の此の状況は心苦しかった。あなたも外国人。私も外国人。分かるのよ、あなたの気持ち。客が寄りつかない店の前を通るのは心苦しかった。私に出来るのは、新鮮なものを置かないとお客さんが来ないわよ、と心の中で叫ぶことだけで、此の声が彼に届くようにと願いながら、店の前を通り過ぎたものだ。
さて、久しぶりに店に入ったら、新鮮なものが沢山あった。中でもトロペア産の玉葱とアプリコットは見るからに美味しそうだった。実は旧市街で購入したメロンが入った袋を手に提げていていたが、店主はそんなことは気にならないようで、唐辛子を手渡したら用が済んだとでも言うように涼しい顔をして見せた。アプリコットが美味しそうねえと言う私に、此れは美味しいよ、自分で食べたから証明済みなんだと言って、おまけと言わんばかりに唐辛子が入った紙袋に数個入れてくれたが、其れでは申し訳ないと、300グラムほど購入することにした。そのついでにトロペア産の玉葱をふたつ。新鮮なものがあるとお客さんが来るわよと、ずっと言いたかったことを口にする私に店主は照れながら、うん、そうなんだ、他のお客さんにも言われたんだよと言った。また来るから、という私に店主は面白いことを言った。僕の国では長い髪の女性が好ましいけれど、シニョーラの短い髪は気分がいいね、良く似合っている。あまり話をしない、無口な店主だと思っていたが、こんなことを照れもせずに言うなんて、案外隅に置けない、と家に帰ってきてから大いに笑った。あの店主は少し変わった。店に客が来なくなって、色々考えたに違いない。新鮮なものを置きなさいよと常連客の誰かに言われたのは、運が良かった。そして商売をするには多少ながらも社交的でないと駄目なことにも気がついたに違いない。
小さな心配がひとつ解決して、肩の荷が下りたような気がした。

ところで貰った唐辛子は、食べてみたら辛くないパプリカだった。ブダペストの市場に山積みされている甘いパプリカと同じ味で、相棒は大そう喜んだ。美味しいよ、此れ。というので近日中に店に出向いて少し購入しようと思ている。パプリカのサラダをボローニャで頂けるなんて。ちょっと素敵じゃないか。




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癒しの匂い、そして猫

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大好きな土曜日に体調を崩したのは迂闊だった。予想はついていたが、一晩眠れば何とかなると高をくくっていた私は、世の中自分が思うほど簡単じゃないと改めて教えられたような気がした。空が晴れたのは幸運だった。がっくりと肩を落としていた私に、かすかな希望や力を与えてくれたから。空が晴れたのは良い兆し。僅かに開けた大窓から金木犀の花の匂いが流れ込む。金木犀の匂いは癒し。外は案外暖かいらしく、家の中で厚着をしてぐずぐずしているのが馬鹿馬鹿しく思えた。体を冷やしたのは確かだが、其れよりも疲れていたのだ。思えば今年の2月頃から大騒ぎになったコロナ感染で、気を張り詰めていたから。それも騒ぎに騒いでいる間は、負けるものか、感染してなるものかと、異常なほどに神経を張り詰めていた。ロックダウンを終えて再び仕事に戻り、暑い夏を通過して冷たい空気が吹き始めた今、やっと疲れていることに気が付いたという間抜けな話だ。何時もならば眠れば治る。だから今回も沢山眠り、うまく行けば明日には元気になるという算段だ。

昔、同じような失敗をした。アメリカに暮らし始めて2回目の10月のことだった。当時の私はその年の5月から始めた仕事に忙しかった。知人に紹介して貰った仕事に運よく就いて、収入は驚くほど僅かだったけど、無一文寸前だった私にはそれで充分だった。毎日働いた。本当は週に2日の休みが与えられていたが、何時も誰かが病気になって、その都度私は駆り出され、結局休みなしに働くことになった。それが出来たのは、私が若かったからだ。今なら到底できない技。そんな若くて元気な私を評価してくれる人はちゃんといて、2か月もすると昇給した。此れは異例のことだからと言いながら上司が休みなしに働く私に感謝してくれたのは嬉しかった。疲れていないと言ったら嘘になるが、仕事帰りを待ち伏せしていた友人に誘われて、イタリア人街のカフェに繰り出したりしたものだ。そうでなければ家に帰って簡単に食事を終えた後、同居人と連れだって散歩がてら、やはりイタリア人街を目指したものだった。当時の私達にとって、イタリア人街は大変な魅力だった。美味しいカッフェがあるばかりでなく、其処に集まる人達を眺めるだけでも楽しかった。崩しながらも洒落た着こなしをする本当のお洒落さんたちが沢山居たから。私達はそういう人達を眺めながら、同じ場所に自分たちが居るのを喜んだり、今日の出来事を報告しあったり、最近の恋愛を訊きあったりして、それが楽しくて仕方がなかった。それが明るい9月が過ぎてインディアンサマーがやって来る頃、私は倒れたのだ。初めは高熱。そのせいで起き上がることが出来なくなった。海外保険が切れたのを更新していなかったのが祟るというのはこういうことだ。病気とは大抵保険が切れた時に罹るものなのだ。医療費の高いアメリカ。医者に行けないから家で眠るしかないと思っていたが、知人の提案で早朝に教会が営む診療所に行くことになった。無料だから競争で、初めの10人までしか無料で看て貰えないという。辛い身体をタクシーに乗せて、朝の7時に診療所に行った。既に列が出来ていた。自分が10人の中に入らないのは分かっていたが2時間ほど待っただろうか、後から駆けつけてくれた知人の配慮で何とか診察して貰えた。病因は疲労。栄養不足。それから何だっただろう。薬を処方して貰って、血液検査をして貰った。それから週に一度通った。もう早朝に並ぶ必要はなかった。午後の時間に予約を取ってくれたから。治るまでにたっぷりひと月掛り、その間仕事が出来ず困ったことになったけど、一度だって治療費を請求されたことは無く、不幸中の幸いとはこういうことを言うのだな、などと思ったものである。あの経験で無理は禁物ということを学んだ。若さの過信は危険。元気の過信も駄目だ。何でも程々がいい。そう言ったのは職場の上司だった。もう誰の代わりに働くでもなく、週に2日の休みが確保された。辛い経験だったけど、それがきっかけで色んなことが正しい形に整った。もう28年も前の話だけど、その記憶は少しも色褪せていない。折角手に入れた職。失うかもしれないという焦り。でも、結局のところ健康が一番。それ以外のことは、其れからだ。最近の私はこれからの人生計画を練ることに忙しく、色々考えることがあるのだけど、其れだって、健康でなければどうにもならない。今日は28年前のことを思いだしながら、あーあ、また同じ失敗をした、と頭を垂れ、ふうーっと深い溜息をつくのだ。

猫が傍らに居るのを嬉しく思う。猫は私の体調に敏感だ。片時も傍らから離れず、時々小さく鳴きながら、大丈夫?と私の顔を覗き込む。有難う、大丈夫。明日はもっと元気になる。




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大切なこと

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良く晴れた日曜日。朝からシーツを剥がして洗濯物に追われている。タオル類は乾燥機で乾かすのがいいが、シーツは外気に触れらせるのが好きだ。それを私は小さな拘りと呼んでいる。もうひとつ拘っていることを言えば、タオルと下着以外の洗濯物に満遍なくアイロンがけをすること。誰かに頼んでしまえばいいと考えた時期もあったけれど、やはり自分が納得するようにアイロンをかけたい。馬鹿馬鹿しい拘り。しかし拘りとは大抵、誰にとってもそんなものだ。その合間に姑のところへ行った。久しぶりの日曜日の昼食会。暫く会っていなかったのは、週末になると決まって体調を崩したからだ。そんな時は笑顔を見せることもできないからと、私は家に閉じ籠ってしまう。久しぶりに訪問したら、姑は大そう喜んでくれた。無邪気に。子供のように。こんなに喜んでくれるのかと、心を打たれた次第である。なるべく日曜日の昼食会には参加しようと少し反省した。

数日前のこと。街の中心の百貨店とは到底言い難いが、その種の店に用があって行った。只今店では家庭用品の多くが大幅割引中で、ピローケースを購入するべく私は上階で物色していた。何しろ随分前から割引が始まっていたので、数も種類も豊富とは言えなかったが、その中から無難な色合いの無地のピローケースを見つけ出した。シーツ類の高級ブランドのもので、良い素材で良い縫製だった。こういうものがいい。幾度洗濯してもに目が縮んだりせず、古びることがないから。それを二組購入して、階下でテーブルクロスを見て回った。気に入っていたテーブルクロスは残念ながら割引の対象から外れていて、残念ねえ、などと思っていたら、すぐそこから声がした。チャオ。元気かしら? と、まるで友人に声を掛けるかのように。私は顔を上げて声の主を探したら、エスカレーターに乗って上に移動中の女性が私に手を振っていた。モデルのように背が高くて細身でスタイルの良い、笑顔の素敵な女性だった。帽子を被っているのですぐに分からなかったが、あっ、と思いだした。地上階のコスメの店の人だった。2年ほど前の今頃、彼女に薦められたシャンプーを購入したらとても良くて、それ以来幾度か声を交わしたことがあった。それから今通っている美容院もそういえば彼女の後押しがあってのことだった。もともと気になっていた店だったけれど、彼女の一言がなかったら、私は足を踏み込むことは遂になかったに違いない。大きな笑顔で手を振る彼女に私も笑顔で手を振った。またね、近いうちに。それにしても、よくもまあ、私の顔を覚えていたものだ。常連の上客でもない私の顔を覚えて挨拶してくれるなんて、と驚きながら、挨拶とは何て気持ちの良いものなのだろうと思った。たった一言の挨拶でこんなに相手の気持ちをよくさせる。それも明るい声での明るい挨拶。彼女の一言で恐らくはずっと忘れていた挨拶の大切さに気付いた。当たり前のこと過ぎて忘れていた大切さだった。こんな風にして、私は周囲の人達から、何時も大切なことを教えて貰っていて、ありがとうを幾つ言っても言い足らないのだ。

今夜はシンプルな夕食。グラスに半分赤ワインを注いで。こんなシンプルな食事だって、ワインがあるとこんなに華やいで楽しい。昔お酒を一口も飲めなかったことが、嘘のように思えるこの頃だ。




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独り言

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太陽が出ない日は夕暮れが酷く早い。折角春へと近づいていて、日照時間が長くなりつつあると言うのに。明日はどうだろうか。空が明るいと気分も良いというものだけれど。

私が初めてボローニャに訪れたのは23年前のちょうど今頃だったと覚えている。結婚する前に相棒の両親に会いたかったからだ。それから相棒が何時も口にしていた美しいボローニャとやらを見たいと思ったからだった。彼が生まれ育ったボローニャを見たら、もっと彼のことが分かるのではないか、と。リナーテ空港に降り立ち、其処から航空会社のバスでボローニャ駅に来た。あの頃はそんな具合だったのだ。大型バスに乗った乗客は相棒と私のふたりだけで、バスの運転手と相棒がああだこうだと話し続けているのをよそに、私は長旅に疲れて深い眠りに落ちて行った。だから途中の景色は何も覚えていない。ボローニャに着いたよ、と相棒に揺り起こされて目を覚ましたのだ。明るい午後で、寒いながらも春が近いことを感じた。
私達は彼の両親の家に世話になった。言葉が全然通じない彼の家族と私。気苦労は大きかったけれど、此処では私ひとりが外国人なので仕方がなかった。これが相棒の家族なのだ。そしてここは彼の故郷なのだ。新しい文化を受け入れるのは口で言う程安易ではない。私が生まれ育った日本とも、私と相棒が暮らすアメリカとも異なっていた。考え方ひとつにしても。独りぼっちでは可哀想、といつも誰かが私の傍にいた。言葉が通じないので何を話すでもないけれど。何かにつけて、可哀想、と言うので、私は全然可哀想ではないわよ、と心の中でいつも思っていたけれど。
一週間も経たぬうちに私は入院した。腎臓結石だった。病院では私は完全に異質な存在で、一目日本人を見ようと好奇心を掻きたてられた沢山の入院患者や医師、看護婦が入れ代わり立ち代わり私を訪ねた。そのくらい、日本人は珍しい存在だった、ボローニャでは。部屋が一杯だったから、私のベッドは廊下に置かれていた。衝立はあったが、何とも落ち着かないポジションだった。そのうち誰かの指示で、普通の人が入れない部屋に移された。外国人を廊下に寝かせることが、対外的に宜しくないと思ったのかもしれない。
暫くして退院した。まだ完全ではなかったが、もううんざりで、自分で責任をとるから退院したいと私がぐずったのだ。そうして病院の外に出ると、すっかり春になっていた。花が咲き、鳥が囀り、人々が外に出て、全てが楽しそうに見えた。
ある晩、相棒は私を連れて旧市街へ行った。友人たちと約束をしているのだと言って。その友人たちは映画を見に行っているので、それが終わってから食事に行くと言うのだ。細い道に面した映画館の前で待っていると若者が数人でてきた。それが相棒の友人たちと仲間だった。直ぐ其処の店でピッツァを食べようと言うことになった。イタリアでは映画の後はピッツァを食べることが多いのだと誰かが教えてくれた。手軽だからだろうと察した。私達は店に入って注文した。何が驚いたって、ひとりで一枚のピッツァを食べること。案外大きくて食べ応えがありそうなのに。驚いて目を丸くする私をみんなが笑い、ピッツァを一枚食べるくらい当り前さと口々に言った。私は半分でお腹が一杯になったけれど。みんな本当に早口でよく喋る。食欲がある分だけお喋りも旺盛なのか、此れがイタリアなのかと、分からない言葉に耳を傾けながら思った。長居して店を出ると凍るような寒さで、春は夜にまでは浸透していないのだなと思ったものだ。橙色の街灯が石畳を照らして、それが昔観た外国映画の一場面みたいだと思った。

ボローニャに4週間ほど滞在して、私はボローニャには暮らせないと思った。何がどうとも言えないけれど、此処は私が住めるような街ではないと感じたのだ。皆が良くしてくれたけど、それなりに楽しかったけれど、私はやっぱりアメリカがいい。相棒には言えなかったが、私はそんなことを思いながらアメリカのいつもの生活に戻った。ボローニャは旅行で来るのがちょうどいい。そんな風に思っていたのに。

静かな晩。音という音が何者かによって消されてしまったような晩だ。耳を澄ましたら、春が忍び寄る音が聞こえるのかもしれない。




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