長電話
- 2021/02/28 16:32
- Category: 友達・人間関係
異様に静かな日曜日。上階の住人も隣の住人も、階下の住人まで不在らしい。物音ひとつしない一日。空がこの上なく青く、目に痛いほどの青に心を突かれる。此れほどの快晴と言うのに外を歩く人もいなければ、行き交う車もない。地上に一人取り残されてしまったかと思えば、庭やテラスに椅子を出して太陽を浴びる人達を発見して安堵の吐息をつく。多くのボローニャに暮らす人達は、私達が今置かれている状況に辟易して、其の気持ちを言い表す言葉もない。黙って此の状況が良くなるのを待つしかない。そう思っているに違いない。
昨夕、友人と話をした。最後に話をしてから数えて3ヵ月振りくらい。話したいことは沢山あった筈なのに、それらについては話もせず、しかし2時間弱も話したのだから驚きである。私達はそういう仲で、そんな仲が30年も続いている。どんな話をしたかと思い返してみて一番初めに出てきたのが、差別の話。差別をしてはいけないと私達は子供の頃から親や学校から教えられた筈なのに、人間が同じ人間を差別するのは何故だろうということ。それはこの冬の休暇中に観た映画、あん、から始まった話題で、この映画を観て以来私の心の中に釘刺さって離れなかったことである。人は自分の権利を主張するが、他人の権利は認めないことがある。それどころか差別をして、痛めつける。自分がそうなったらどんな気持ちになるかも考えずに。救いは友人がこの映画を見たことがあって、同じように思っていたこと。話をしながら私に気付かれぬように幾度か目元を拭った彼女を眺めながら、彼女と友達でよかったと思った。それから私達は餃子の話をした。友人は料理人。只今ロックダウン中で仕事は時々しかないらしい。それで他の店に頼まれて、時々大量の餃子を包むのだそうだ。店で持ち帰り用に売る餃子で、手先の器用な彼女が店の人とひたすら3時間も包むのだから、それは驚くほどの数だそうで、台の上に綺麗に包まれ行儀よく並べられた莫大な量の餃子の様子を想像して、ああ、その場にいたら写真の一枚も取りたいものだと思いながら話に耳を傾けた。恐らく多くは冷凍保存するのだろうが、一週間を待たずに売り切れるので、また呼ばれて餃子を包むらしい。近くに住んでいたら私も仲間に入れてほしいと思ったけれど、昔ほど手先が器用でない今の私ではあまり助けにならないだろうなどと大笑いした。その合間に彼女の夫や猫が登場したり、私は紅茶を淹れたり。本当ならばヴィエンナへ行ったついでにバスか列車で足を延ばしてブダペストの彼女の家を訪問したいところである。そしていつものようにソファの上に転がったり、キッチンの小さなテーブルに着いて美味しいものを齧りながら話をしたいけれど、其れもここ1年お預け。まさか何時か会いたくても会えない日が来るなんて思っても居なかった私達は、其れが歯がゆくて堪らない。いつでも会えると思ったら大間違い、と言うことを、私達はこのコロナで学んだ。どうして君達はそんなに話すことが沢山あるのか、と何時も相棒が驚くけれど、ふふふ、実は当の本人たちも同じように思っている。
夕方が美しい。今は18時まで空が明るくて、それが私の小さな救い。それから枯れ木だとばかり思っていた、今の窓の前の栃ノ木の枝に、小さな芽が吹いているのを発見して、逞しいなあと感動する。栃ノ木はあれこれ文句も言わずに、ちゃんと春を見極めて、芽を吹くタイミングを計っているのだ。私だって負けてはいられぬ。コロナだって何だって、私には両手と自由に歩ける足がある。そして想像力豊かな小さな脳みそ。色んな工夫をして愉しく生活するのだ。何かを理由に怠けるのはもう辞めた。窓の前の栃ノ木は、何時も大切なことを私に教えてくれる。