美しさ

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朝から雨が降っていた。傘を差すほどではなく、しかし長く歩けばじっとり濡れてしまうような霧雨。ようやく本格的な秋になったと、今朝窓を開けた時に思った。11月を目の前にしてようやく本格的な秋と言うのも妙だけど、温暖な今年は本当に数日前まで薄着で過ごすことが出来たから。そろそろ郊外の街でトリュフ祭りが開かれる頃だ。茸を堪能する時期でもある秋とはそうした美味しいものが其処此処に存在する季節である。

ボローニャに暮らし始めたばかりの頃、私と相棒の身近にはボローニャ生まれボローニャ育ちの若い女性が幾人もいた。彼女たちの共通点は自立していること。仕事を持ち、同じ街に居ながらも親元から離れて生活していた。そしてもうひとつの共通点はボローニャの美を誇りに思っていることだった。彼女たちに言わせるボローニャの美とは、決して旧市街に点在する中世に建てられた塔や、古い教会、街の中心のマッジョーレ広場ではなく、ましてやボローニャに無くてはならぬポルティコでもなかった。では何が美なのかと言えば、2本の塔から放射線状に伸びる主要道からひょいと目をそらした瞬間に目に入る路地の存在だった。そう言われて路地を歩いてみるとその朽ちた様子に驚いたものだが、彼女たちに言わせれば、それこそが美なのだと言うことだった。そうかしら。口にこそ出さなかったが私はいつもそう思っていた。確かに赤に近い橙色の壁の色は美しかったし、微妙にくねった道なりも情緒があった。それに石畳が実に欧羅巴らしく思えたし。ただ、朽ちているのがボローニャの美と言うのは理解しがたい、と思っていた。面白いもので、そんなことを思ったのは初めの数年だけ。いつの間にか私も彼女たち同様にそれを好むようになり、確かにこれがボローニャの美なのだと思うようになった。時々そんな朽ちた様子をレンズに納めている旅行者を見かけるが、ああ、あなた達は良く分かっている、ボローニャの良さをわかっているなどと思うのだから、私も随分と変わったものだ。今の私が彼女たちと話すことがあるならば、きっと大いに気が合うに違いない。そして彼女たちは言うだろう。あなた、随分好みが変わったわねえ。

明日は10月最後の日。そしてその後は3連休だ。金曜日には故人をいたわりにお墓参りに行く人が多いだろうか。私は色付いた葉を探しに郊外へ行きたいと思う。そして週末には旧市街をポツリポツリと歩こうと思う。空よ、どうか雨を降らせないで。3連休を楽しみにしている私達の為に。




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寄り道

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昔、こうした店に通ったものだ。通い始めたのはアメリカの頃。グラスや皿を手に入れたくて。どんなものでも良かったわけではなかったから、行っても何も買わずに店を出ることも多かった。その代わり気に入るものがあると話しが早く、考える間もなく手に入れた。時には店の人に値段の交渉をせねばならぬこともあったけれど、そもそも当時の私の英語はあまりにつたなくて、交渉は失敗に終わることが多かった。あれから28年が経つが、今もあの頃手に入れたものがうちに在る。食器棚に並んでいて、時々食卓に登場する。そんな時、私は思いだすのだ。あの当時の自分。周囲の人達とうまく話しが出来なかった自分。私が一緒に住んでいた友人は、その点私と正反対で、英語が堪能で、周囲の人と話をする才能のある人だった。私はそんな彼女が羨ましくて、彼女のようになりたいといつも思っていた。あの頃は、いつか自分がこんなにお喋りになるとは想像もできなかった。そうして分かったのは、言葉が出来るとかできないとかが問題なのではなくて、どれだけ人と話をしたいかと言うこと。其れに気付いたのはイタリアに来てからだから、それだけでもここに来たかいがあったというものだ。ポルティコの下の店を外から眺めながら、昔のことを思いだした。次回は中に入ってみよう。もう皿もグラスも必要ないけれど。

日が暮れるのがいきなり早くなり、戸惑っている。帰り道は夜のように暗く、そして随分冷え込んで、季節が駆け足で先に進んでいるのを実感する。仕事帰りの寄り道がしにくい季節。家にまっすぐ帰りたくなる季節。




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夏時間を終えて

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夏時間が終わった。それは予定通りのことで、サプライズでも何でもない。カレンダーに印をつけていたし、昨晩相棒と夏時間が終わる話もしたし。慣れ親しんだ習慣であり、生活の一部のようなもの。けれども朝目を覚まして異様に外が明るくて驚いたのは、しまった、寝過ごしてしまったと思ったからだ。一時間早く陽が昇り、一時間早く陽が沈む。その証拠に日が一時間早く沈んだ。夕方5時を前に薄暗くなり始めたのは濃霧のせいだ。そして間もなく夜がやって来た。秋の日は釣瓶落としと言っていたのは私の母。私がまだ子供だった頃、若くて美しくて私の自慢だった。こんな言葉は今でも使われているのだろうか。近年は夏にばかり帰省しているから、この時期にこの言葉が世間で使われているのか、想像もつかない。

一頃テレビを見なかった。ボローニャに暮らし始めた頃はテレビばかり見ていたと言うのに。テレビは私の先生だった。イタリア語の学校に通わなかった私には近所に暮らす人達と、数少ない、ごく僅かな友人知人と、そしてテレビだけが頼りだった。ローマで1年働いてボローニャに戻ってくると安定した仕事に就けなくて家にばかり居た私は、お金は無いけれど時間が沢山あった。だから貰い物のイタリア語教本を使いながら、後は周囲の人とテレビに頼った訳だ。それが最良の方法だったとは思わないけれど、学校へ行くには家賃程の学費が必要だったから、当時の私にはあまり選択の余地が無かったと言えよう。数年後、仕事に就くと今度は経済的に安定し始めたが時間が無くなった。フィレンツェに通う毎日は充実しながらも忙しくて、息をつく暇もない生活だった。5年間。だからその5年間はせいぜい天気予報くらいだろう。テレビを見る時間の代わりに本を読む時間、外に出掛けて気分転換する時間が欲しかった。ボローニャで仕事に就くと今度は友人達と会う時間が欲しかった。いつもの生活と友人達と共有する時間。時には2時間にも及ぶ長電話をしたり。そんな生活もピアノーロに暮らすようになると友人と会い時間は少なくなり、代わりに近所に暮らし始めた体の不自由な姑が生活の中心になった。其れに通勤時間にも時間が掛り、冬場は暖房をつけても家が温まらず、夜は早く眠るのが得策だった。そのうちピアノーロの家を手放してボローニャに暮らすようになった。仮住まいが2年続いた。その間のことはあまり覚えていない。相棒と喧嘩ばかりしていた。あまり幸せではなかったと思う。相棒も私も外にばかり出ていた筈だ。家に居たくなかったから。そうして今の家に暮らすようになると、まるで不足していたひとつのパズルがパチリと嵌ったかのように私と相棒の喧嘩はおさまり、外に出ずっぱりだった私と相棒は家で過ごす時間が多くなった。そうしているうちにテレビを見る習慣が戻ってきた。昔に比べると驚くほどチェンネルが多くて選ぶのに困る程だった。そうして夕食後の時間帯に見つけた番組。フランスの刑事番組だ。イタリアのものとは色合いも違えば考え方も異なる、音にしても。私には新鮮なものだった。気に入りのリヨンが舞台の番組が終わると、パリが舞台の番組がふたつ始まった。4年前に歩いたパリの街並みが画面に映る。河沿いの遊歩道に腰を下ろして陽を浴びる人達の様子。まるでパリが私を誘っているかのようで、番組が終わるたびに小さな溜息をつく。昔のイタリアの人達はフランスやフランスを拒む風習があったようだが、それは単にフランスへの羨望とか憧れだったのではあるまいか。今の人達は違う。好きなものは好き。良いものは良い。その証拠がフランス番組の多さであり、その証拠が私の周囲の人達だ。フランスへ学びに行く人達もいれば、フランス語を学ぶ人も居るし、住まいをフランスに移す人も居る。自由になったのだ。生活も考え方も心も。私はと言えばパリの様子を眺めながら、次はいつごろいけるだろうかと思いを巡らす。ちょっと飛行機に乗ってしまえばいいだけなのに。えいっと気持ちを固めればいいだけなのに。

舅が生きていたら、パリの様子をテレビで見ながら溜息をつく私を笑うだろう。そして言うに違いないのだ。ボローニャの方がいい。ボローニャが一番いいんだよ、と。彼はそういう人だったから。根っからのボローニャ人だったから。兎に角、夏時間を終えた。これからテレビの前で時間を過ごすのがますます楽しいのは、私だけではない筈だ。




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嬉しくてたまらない

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天気の良い日は気分もよい。午後に約束があったので、その前に散歩ができるように少し早めに外に出た。半袖を着るほどではないにしても、しかしこんな軽装で散歩が出来る10月には正直言って驚いている。まだコットンの薄手のジャケットを羽織る程度で良いなんて。素の足首をむき出しにしても足が痛くならないなんて。こんな良い10月はボローニャに暮らし始めてからの過去を振り返ってもあまりない。異常と言えばそうだが、感謝して堪能しよう。そんな風に思ったのは私ばかりでないらしく、旧市街は人で賑わっていて、特にジェラート屋さんの前には長い列が出来るほどだった。

昨夜は金曜日の晩を迎えたのが嬉しくて、相棒と乾杯した。とっておきのフランスはプロヴァンス辺りの赤ワインで2006年もの。相棒は勿体ない、特別な日の為にとっておこうと言うけれど、この手のワインはあまり長く待ち過ぎない方がいいと店の主人が言っていたし、それに私にとっては金曜日の晩と言うだけで大した特別な日であるし、それから健康でワインを飲みたいと思える日に楽しんでおいた方が良い、などと相棒を丸めこんで栓を抜いた。そうして分かったのは、コルク栓が朽ち始めていたことだ。もう少し、もう少しと先延ばしにしていたら栓が朽ちて抜けなくなってしまったかもしれない。とっておきのワインは本当に美味しくて、相棒は大そう機嫌が良かった。先週末から風邪を引いて辛そうだったが、どうやらそれも終盤に来たらしい。ワインが美味しいと思えることは、そういうことだ。そうそう、と棚の中にあったフォアグラを取り出す私に、君、言ってごらん、一体どんな良いことがあったんだい? と訊くけれど、金曜日の晩を迎えたのが嬉しいとしか言いようがない。風邪を引いて辛かった相棒同様、私にとってもしんどい一週間だったから。私達には一緒に外にアペリティーヴォに行く習慣は無い。家でこんな風にするのが好きだからだ。だから時々美味しいのを買ってくる。ワインとか。フォアグラとか。それからよく熟成したチーズとか。そうそう、近いうちにトリュフの入ったチーズを探しに行こう。これが無ければ秋の夜長は始まらない。逆にこれさえあれば家でのアペリティーヴォが楽しめると言うことだ。
美味しいもの探しは楽しい。美しい形の靴や、美しい色合いのスカーフ、それからラインの美しいコートを店のショーウィンドウで見つけるのも好きだけど、年配の人達が通うような、食に拘りのあるような人達が通うような食料品店で、長々と待たされながらガラスケースの中に陳列されたチーズを眺めるのが好きだ。時には長く待たされた挙句の果てに目当てのものを先客に購入されてしまい涙を飲むこともある。其れもよし。つまりはそれが美味しい証拠だから。
それにしても土曜日の昼過ぎだから食料品店の半分は店を閉めてしまっていた。何時も店の外にまで客が溢れているサント・ステファノ通りの小さな精肉店も。他にも肉屋は沢山あるのに何故皆此処に来るのか。きっと理由がある筈だ。私はまだこの店で肉を購入したことはないが、一度は試してみたいと思う。そうしたら私もこの店の虜になって、こんな長い列に並ぶようになるのかもしれない。列に並ぶのが大嫌いな私にしても。
そうしているうちに約束の時間になり、楽しいお喋りを堪能した。大粒のマロングラッセをつまみながら、でも、互いにあまり時間がなくて2時間もしないうちに別れてしまったけれど。女同士のお喋りはどうしてこうも楽しいのか。時間がいくらあっても足らない、といつも思う。

家に帰ると猫が扉の前で待っていた。遅い、遅い。週末は家に居てほしいのに。そんな感じに。土曜日はいい。まだ日曜日が控えている。あれもしたい、これもしたい。したいことが目白押しな週末。元気に生活できることが嬉しくてたまらない、そんな今日の私だ。




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美しいスカーフ

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天気予報が的中した。さほど酷い雨ではないが、しかし傘なしでは歩けぬ、そんな雨の一日。こんな日は家にまっすぐ帰えるのが得策と寄り道もせずに帰ってきたが、しかし明日はストライキの一日でバスが動いたり動かなかったりと不自由になるから、出来れば今日は旧市街に寄り道したかったと思いながらの帰宅だった。こうした雨の日は不機嫌な人が多い。バスの中でイライラした人が多くて閉口したが、そんな人達を眺めながらふと思ったのは、自分もまた雨のせいで不機嫌になってはいやしないかと言うことだった。雨の日も楽しめる心の余裕を持ちたいものだ。雨の日も寄り道など楽しめるようになりたいものだ。バスを降りて雨の中を歩きながら、時々アスファルトの水溜りを避けながら、私はそんなことを考えていた。

素敵なジャケットなどと考えていたのに結局手に入れたのはスカーフ。昨夕のことだ。ジャケットを見たくて店に入ったら好みのものが直ぐに見つかったのに店を出てきてしまったのは予算が全然合わなかったからだ。そう言うことがよくある。そんな時、無理して購入してもよくなければ、予算内に納まるものを妥協して購入するのもよくない。こんな時は店を出てしまうのが一番なのだ。それにしてもあのジャケットは格好良かった。しかしあの値段のことだから、冬のサルディの初日まで店にあるに違いない。だから諦めたと言うよりは新たなる期待。手に入れるのを先延ばしにしたと思えばよい。それで手ぶらで歩いているうちにフランス屋に立ち寄りたくなった。店の前まで来たところで隣の店に入ったのは、単なる思い付きだった。
隣の店はスカーフ屋さん。間口の狭い、本当に小さな店だ。何時からあったかは覚えていないが結構前から存在する。ショーウィンドウの飾りつけがぱっとしないからなのか、それともスカーフに関心を持つ人が世間に少ないからなのか、店に客が居るところを見たことはあまりない。私が初めて店に入ったのは確か10年ほど前のことで、小さなシルクの四角いスカーフを購入した時のことだ。其れよりも前から店の存在には気づいていたが、何となく入りにくい、と思っていた。ところがところが店の女主人は結構感じの良い人で、綺麗に畳んで棚に積み上げてあるスカーフを惜しみなく広げて見せてくれた。たった一枚購入するために20枚も30枚も見せてくれた彼女に礼を言ったら、気に入るものが見つかってよかったわ、と言って喜んでくれたのが印象的だった。探していた首に巻く小さなバンダナサイズのシルクのスカーフ。新作の類は置いていないが、その分だけ割引価格で手に入った。もともとシーズンの新作を追うようなタイプではない私である。気に入ることが大切なのである。気に入った物が少しでも安く手に入れば、これ以上良いことはない。と言うことで、時々店に立ち寄るようになった。もっとも毎回気に入るものが見つかる訳でもなく、ただ見せて貰うだけのことも多かったけれど。此処数年は店から足が遠のいていて、隣にあるフランス屋に立ち寄るたびに女主人は元気だろうかと思っていた。
店に入ると彼女の他に上背のある女性がふたりいて、彼女たちは何か仕事上のことを話しているようだった。特に女主人は経理上の何か難しいことをしていたので、手の空いているブロンドのショートカットが印象的な化粧の濃い女性が私の相手をすることになった。シルクのスカーフを、と言う私に彼女は色々見せてくれたが少しも好みのものが見つからない。ほら、これが素敵などと言って差し出されては、私はこれを素敵だという彼女の感覚を疑わんばかりに彼女を見返して、ううん、好みじゃないわ、と答えた。私が何かを言うたびに彼女は、え、分からないわ、と言った。私のイタリア語が分からないと言うことだ。分からないと言うよりは、彼女は分かろうと努めなかったのだ。兎に角、それを数回繰り返されると私は彼女と話をする気が無くなってしまった。彼女は客商売が下手だと思った。客をそんな気持ちにさせるものじゃない。そのうち私は目の前に出された綺麗に畳まれたスカーフの束の中程に驚くほど発色の良い、まさに好みのものを見つけた。あった。此れよ、これが見たいわ。指をさす私にそれまで事の成り行きを黙って眺めていた女主人がにやりと笑って言った。あなたは目がいい。自分に似合うものが良く分かっている。束からそれを引き抜いて私の顔の近くに持っていくと肌や髪の色とよく合った。其れから決めるまでは早かった。ジャケットは予算オーバーだったがスカーフくらいなら手が出るものだ。其れにスカーフは素敵なのだ。暖かいばかりでなく、気分を上げるのにもとても役立つ。だから綺麗な色、発色の良いものがいい。支払いをしながら女主人と話をした。近年店はあまりうまく行っていないらしい。でも、多分また良い時期が来ると思うから、暫くは続けたいと思っていると彼女は言った。スカーフというもの自体、はやりすたりがあるのだろう。私のようなスカーフ好きは今の時代あまり居ないのかもしれない。貴方の好きそうなものがまた入荷すると思うから、時々立ち寄るといいと彼女は言った。私にしても彼女のような感じの良い人が居る店ならば、時々立ち寄りたいと思った。其れにもう一枚くらいスカーフを新調したい。美しい黄色を使ったシルクのスカーフを。但し、ブロンドショートカットの彼女はいただけない。彼女が居ない日に立ち寄るのが良いだろう。

クローゼットに新しく加わったシルクのスカーフ。首に巻いて外に出掛けるのが今から楽しみだ。此れから冬に向かって衣類が兎角ダークカラーになりがちな私だから、この美しい色のスカーフが良く映えることだろう。そういう楽しみ方もある。そういうお洒落も楽しいものだ。




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