一番の幸せ

18102024small.jpg


あれほど気をつけていたのに、と思う。月曜日の頭痛は風邪の前触れで、晩には熱を出して寝込むことになった。天敵の扁桃腺が暴れて、痛い、辛い、苦しいの三重苦を経験した、それも3日間も。最近の私は2日もあれば元気になるのに、である。思えばおかしいと思い始めたのは日曜日の夕方だった。あの時に身体を休めておけばよかったのかもしれないと後悔するが後の祭り。ああ、後の祭りとはこういう時に使うとピタリと丁度良いのだなあ、なんてベッドの中で思いながら、まあ、そんなことを考える余裕があるのだから私は大丈夫、じきに治るだろうなんて思ったものである。

3日間兎に角眠って、色んな夢を見た。鮮明に覚えているのは私がまだ小さな子供だった頃のこと。夢と言いながら、本当にあったこと。いつもは忘れていることなのに、何かの折に思い出すこと。私は瘦せの大食いで真っ黒に日に焼けて、外を走り回ったり木登りする様な元気そうな子供だったが、歩いているうちに足が脱臼してしまったり、頻繁に高熱を出したり、原因不明の咳がとまらなくなったりと、健康上に多少の難がある子供だった。そもそも生まれた時に泣かなくて、医者が逆さにして尻を叩いたらようやく産声を上げたらしいし、体重だって今でこそ充分過ぎるけれど、生まれた時は未熟児寸前の小さな身体だったらしい。親不孝は今もだけれど、生まれた時から親に心配をかけてきた、それが私なのだ。
あれは私が4歳になるかならないかの頃だったと思う。私の掛りつけの病院は私が生まれた病院だった。何かあるたびに私はその病院に連れていかれたものだけど、ある日姉も一緒で、病院を出ると母と姉と私はタクシーに乗って小高い山の方に行った。樹が沢山茂っていて、バスもなければ電車も通っていない、人里離れた場所、そんなところに病院らしきものがあった。子供ながら嫌な感じがして、私はタクシーを降りるのが怖かった。母はそんな私の手を引いて、姉をタクシーの中に残したまま建物の中に入っていった。其処からの記憶はないから、夢にも出てこなかった。すっぽり肝心なところが抜けて、再び記憶が蘇るのが母が私の手を引いて建物から出てきたこと、そしてタクシーの中が退屈だったのか、外に出て落ちていた木の枝で地面に何かを描いていた姉のこと。姉は私を見るなり、ああ、よかったとかなんとか言って、早く家に帰ろうと母をせかしてタクシーに乗り込んで。
私が覚えているのはそれだけで、だから夢もそれだけ。でも私は10年ほど前に知ったのだ。あれは私に肺結核の疑いがあると病院で言われたこと、それでその足で人里離れた結核患者の為の病院に連れていかれたこと、でも調べたら肺に確かに黒い影があるけれど結核ではないことが分かったこと。4歳半年上の姉は私に何が起きているのか理解していたそうで、だから私が母に連れられて建物の中に吸い込まれていく様子をタクシーの中から眺めながら、妹ともう会えないのかもしれないと思ったらしい。だから私が再び外に出てきた時はとても嬉しくて、一刻も早く山を下りて家に帰りたい、みんなで家に帰りたいと思ったのだそうだ。姉に言わせれば、私はあの建物の中に1時間以上いたらしい。でも記憶は一切ない。小さな子供時代のこともよく覚えているのに、このことだけは何処を叩いても何処を探しても記憶を見つけ出すことが出来ない。でも、それでいいのかもしれないとも思う。あれはきっと、忘れたほうが良いことだったに違いないのだ。
目を覚ました時に思ったのは、確かに風邪を引いて寝込んではいるけれど、確かに痛いし辛いし苦しいけれど、風邪が治れば元気に生活が出来て、仕事に行けて、夕方散策して、時には日帰り旅行をしたり、長い休暇を利用して帰省したり欧羅巴の何処かに飛んでいくことが出来る健康があることの幸せ。欲を言えばきりなくあるけれど、でも一番の幸せは多分健康。そのほかのことはその後についてくる付属品みたいなもの。子供の頃の記憶は思い出すたびに私をしんみりさせるけど、それを通じて私は大切なことを学んだのだと思う。

今日は3日振りに社会復帰。昼過ぎには体力低下でボロボロだったけど、外に出る喜びは大きくて、仕事に行くことや仲間に会う喜びも大きくて、これで良かったと思っている。なあに、週末ゆっくりすればいいだけさ。週末はあまり欲を出さずに休養しようと思っている。それにしても満月。昨晩は大雨で見ることが出来なかったけど、今朝通勤時に向こうの空に大きなな満月を発見。姉曰く、この満月は今年最大のスーパームーンらしい。本当に大きくて驚いた、ほうら、ちょっと無理してでも仕事に出てきて本当に良かったなんて思いながら。




人気ブログランキングへ 

20代の心

13102024small.jpg


最近続けて天気がいい。これは恵み。誰にとっても恵みに違いなく、この良い気候を満喫しようと近所の人達は朝のうちに家を出て、周囲は静かなものである。私はと言えば、今日は家でしたいことが満載。小さな沢山をひとつづつ丁寧に終わらせようと思って家に籠る日曜日。朝のスタートが肝心で、昼までに幾つも終えることができた。そのうちのひとつは美しい黄色に色付いた柚子の実の収穫。皮を薄く剥いたものは薬味の為。此れから一年間愉しめるように冷凍庫へ。其れから実は薄い輪切りにしてアカシアの蜂蜜に漬けた。柚子蜂蜜と私が呼んでいるこれは、熱い紅茶に入れても美味しいし、風邪気味の時に熱い湯に入れてふーふー言いながら飲むのもいい。身体が温まってぐっすり眠ることが出来るから。大きな種を取り除きながらのこの作業は少々手間が掛かるけど、その分飛び切り美味しいから、嬉しい手間のかかる作業と言っていい。

時々20代の頃のことを思い出す。周囲にそんな年頃の女性が存在するからだろうか。無鉄砲で元気が良くて、眺めていると嫌でも20代の頃の自分を思い出すのである。20代前半は色んな事があった。仕事をして仕事を辞めて勉強して。両親はそんな私をどんな気持ちで見守っていたのだろう。23歳でやっといい仕事に就いて安泰と両親は喜んだに違いないが、それも5年しかもたなかった。私がアメリカに通い始めた頃から家族の誰もが案じていたとうり、私はアメリカへと飛び出してしまった。特に母は落胆したに違いないけれど、自分がしたいことをするのが一番と言って背中を押してくれたのが、私には有難かった。あの頃の私は、図書館の本にあった「Aim So High You’ll Never Be Bored / 望みが高ければ退屈しない」ウォール・ストリートジャーナルに掲載された ハリー・グレイの言葉を胸に前進するのみだった。自分のことで一生懸命だった時代。でもそんな若い時代を過ごすことが出来たことを、今は大変幸運だったと思う。世の中には20代の若さでも家族のことを考えなければいけない人が沢山居るのだから。
夢に見たアメリカ生活。でも良いことばかりだったわけではない。それなりに悩み、苦しみ、それでも耐えられたのは自分で選んだ道だったからだろう。それに自分の好きな街に暮らしているのだから、文句などある筈がなかった。仕事をしながらも気ままな生活だった。自由と義務のバランスが絶妙だった私のアメリカ生活は、私の黄金時代と言っていい。
元に戻ることはできないし、その頃のことを思い出してもがくのも宜しくない。だからこんがらがった毛糸のような私のボローニャの生活を、少しづつほぐして絶妙なバランスの生活にしようと思う。
昨冬から日本が恋しい病が始まり、初夏を迎える頃には予期せぬことが起き、自分をコントロールするのが大変だった。平気なふりをしていたけれど、ひとりになると、そしてベッドに入って目を瞑ると、何とも言えぬ感情が押し寄せた。ようやく落ち着いたのは夏の終わり頃、実につい最近のことである。長かったトンネル。先が見えなくて途方に暮れたけれど、潜り抜けることが出来たのは運が良かった。もう大丈夫。これからは毎月愉しいことをしようと思う。ようやくそんな気持ちになることが出来た。フィレンツェへ行こう。あの街には特別な感情を持っているから。それから、それから。時々ある特急列車の割引を利用して、私は愉しいことにどんどん積極的になっていく。多分、それが自分らしい自分。20代の頃の心を思い出したからかもしれない。

欲しいものがある。一眼レフカメラ。鞄にちょいと突っ込んで出かけられるような軽くて小さいものがいい。20年近く前に知人から頂いたお下がりのカメラは大きくて重いので、引き出しの中で眠りつつある。もうひとつの簡単なものがあるけれど最近調子が悪い。写真は単に好きなだけ、だけど大昔に絵筆を置いた私にとっては自分表現の手段みたいなものなのだ。ふーん、誕生日とクリスマスが近いのね。なんて、カレンダーを眺めながら思う。ちょっと考えてみようか。自分への贈り物、みたいなもの。




人気ブログランキングへ 

始まり

DSC_0007 small


昨晩、遅い夕食時に降り始めた雨。降り始めはポツリ、ポツリ、と。そしてあっという間に激しい雨になった。東の空が稲妻で幾度も白く光ったが、猫が1メートルも高く飛び上がって抽斗箪笥の下に潜りこんだ時の稲妻は、人間の私でさえ背筋がザワザワとざわめいた。後にやって来たのは涼しさではなく生温い沢山の湿度を含んだ風。おかげで寝つきがひどく悪くて、夜中に幾度も目が覚めた。こんな風に目覚めた日はしんどい。その上、朝から蝉がしきりに鳴いている。しかし其の蝉が鳴かなければ、夏の情緒も半減するのかもしれない。それでなくとも私が過ごした子供時代の夏らしさが何処を探しても存在しなくなった今、蝉くらい鳴いてもらわねば、という感もあるから、思い存分鳴いてもらうことにしよう。

色んな夏を通過したけれど、思いだすのは1992年の夏。アメリカに渡ってもうじき1年経つころで、手強かった言葉の壁を乗り越えて、知人を通じて得た仕事に就いて、ようやく自分らしく生活できるようになった、そんな時期だ。経済難という難問を抱えていたけれど、私にはそれさえも楽しかったのだと思う。一時はここを去らねばならないかもしれないと思った、その辛さや悲しみ寂しさを思えば、貧乏でも自分の好きな街に暮らせるのは幸せ以外の何物でもなかった。洗いざらしのシャツにジーンズやショートパンツ。若かったからどんなものでも良かったというのもあったけれど、若かったからどんなものでも似合ったと言ったら自信過剰だろうか。それに周囲もそんな風だった。あの時代のあの街の人達は、そんな、さらりとした感じがあったから。私は坂に面したアパートメントで友人3人と共同生活をしていた。扉のない広い部屋は私の部屋だった。あまりにプライヴァシーがないので入り口にカーテンを吊るしたが、しかし部屋の窓とキッチンの扉を開けると、カーテンが大きく膨らんで目隠しになどならなかった。それでも私はその部屋が好きだった。出窓越しに時々挨拶を交わす隣人。彼は病んでいたから、大抵ベッドに横たわっていて、だから窓辺で挨拶を交わせるということは、彼の調子が良い証拠だった。その彼には実は引っ越してきた当初に随分と悩まされたことがある。家に帰ってきたら、入り口に張り紙が残されていた。扉をバタンと閉めないように。そんな張り紙だった。扉をバタンと閉めた覚えはないけれど、しかし、とその日から気を付けるようになった。少しするとまた張り紙があった。それで彼と話をする為に部屋を訪ねたところ、彼が病人で、枕もとで扉の閉じる音が大変煩わしいことを知った。しかし私達はバタンと扉を閉めていないけれど、と話し始めたところで扉を閉じる大きな音がした。私が部屋を飛び出して犯人を捕まえに行くと、それは反対側の部屋の住人だった。私がそう報告すると、彼はすまなかったね、僕はいつも横たわっているのだけど、方向感覚が悪くなっていたのだろう、と詫びた。そういう形で私達は親しくなり、彼が出窓の外に並べた小さな植木鉢に水やりをする時に出くわすと、挨拶を交わすようになったという訳だ。時には窓から腕を長く伸ばして、私の植木鉢にも水をくべてくれた。そうして目が合うと、弱々しく手を振ってくれて、私を嬉しくさせ、そして心配させた。彼のところには時々友人が訪れた。最後に友人が訪れた時は、もう彼は空の星となった後だった。君が彼がよく話していた東洋人の女の子。彼の友人は私にそう言った。彼は私のことを大変気に入っていたらしく、名前は全然覚えていなかったから、東洋人の女のこと呼んでいたらしい。女の子と言ったって私はとっくに成人して、大人だと自覚していたけれど、彼からすればそんな風に見えたのかもしれない。友人は彼の部屋を片付けながら、部屋の片隅から箱を取り上げて言った。これは君宛の箱だよ。単なる隣人なのに彼は私に形見を残していった。でも、私は既に形見を貰っていた。彼が前の日に病院に運ばれたという日の晩、と言っても私はそれを後日知ったのだけど、私は見たのだから、彼の姿を。いつものように窓越しに腕を長く伸ばして私の植木に水をくべて、目が合った私に手を振った。それが彼の形見。最後まで私に手を振ってくれた彼の姿。あれから26年が経ち、様々な記憶が薄れていく中で、こればかりは昨日のことのように鮮明だ。彼は隣に住む気に入りの東洋人の女の子に最後の挨拶をしに来たのだ。財産がないどころかひと月先の生活の予定もつかぬ不安定な生活をしていた私だったけれど、あの頃には沢山の思い出が詰まっている。私の手の中には何もなかったが、周囲の人達がいつも見守っていてくれた。必要な時に手を差し伸べてくれた。悲しい時には必ず誰かがふらりと現れて心を癒してくれた。貧乏生活だったくせに豊かだと感じた時代だった。その豊かさは自分が作り上げたものではなくて、周りの人が与えてくれたものだった。それまで私は自分を運がいい人間だと思ったことはなかったけれど、あの頃から自分の運を信じるようになった。そして助けてくれる周囲の人達を悲しませないためにも、私は正しい人間でいよう、チャレンジ精神を失わないでいよう、そう思うようになった。それに気づいたこと、それが私の新しい生活の始まり。1992年の夏のことだ。

今日も雨が降った。夕立で、南からの強い雨と雹が降った。今日の雨は恵みの雨。気温が8度ほど下がって、剥き出しになった肩と足首が痛いくらいだ。猫は何処かに行ってしまった。多分また抽斗箪笥の下に違いない。あの抽斗箪笥の下。どんな感じなのだろう。一度私も潜りこんでみたいものだ。




人気ブログランキングへ 

冬空

DSCF0184 small


雨はもう止んでしまった。残ったのは窓ガラスを叩く風、風、風。風の音を聞きながら日本の冬を思いだした。生まれ育った東京の端っこの街から場所を移して思春期を過ごした田舎の町は、冬になると強風が吹き、がたがたと外の音が聞こえるたびに不安に駆られたものだった。夜であれば雨戸が、昼間であれば窓ガラスが音を立てて、何か地球の端っこに追いやられてしまったような気分になった。思春期と言うこともあって、風の音は私に様々なことを考えさせた。どうしてこんな所へ来てしまったのだろうとか、この風が止まなかったらどうするのだろうとか。今思えば詰まらないことばかりこと。でも思春期と言うのはそんなものなのかもしれないと思う。そうして窓の外を見れば、いつの間にか雨が降り始めて、地面を黒く光らせる。今日はこんな一日らしい。外出には不向きな一日。どちらにしても数日前から、私は寝たり起きたりの生活だ。

こんな暗い空を眺めていたら思いだしたことがある。ローマで職のオファーを得て、ボローニャから飛び出した頃のこと。ローマに暮らす相棒の古い友人の家での居候生活を経て、街の中心の厳めしいアパートメントに部屋を借りた頃のことだ。2月という季節柄、ボローニャより南のローマであっても空は確実に冬色で、快晴の時には果てしなく明るい空も、曇りの日は限りなく憂鬱で暗かった。私は老女の家の一部屋を借りていた。相棒の友人の家の居候生活をやめるには、それしか方法がなかったからだ。ボローニャを飛び出す頃は簡単に見つかると思っていた部屋探しだったが、現実はそんなに簡単ではなかった。新聞に載せられた部屋を貸します広告を読んでは電話を掛けて、断られての繰り返し。だからやっと了解を得たこの老女の部屋に文句を言う筋合いなどなかった。ただ、留守の間に老女が部屋に入って物色するのが嫌だったし、時には物が紛失して困った。節約の為に給湯器を昼間に一度しかつけないから、夜帰ってくる私はシャワーが出来ない。共同で使えるはずのキッチンも制限があって、不満は積もるばかりだった。でも、安眠するベッドと暖かい部屋があった。それ以上望むのは罪だと思ったのは、私が相棒をボローニャに残してローマに飛び出して来た後ろ冷たさだっただろう。そんな私を相棒は手放しに応援してくれたから、望んでばかりいてはいけないと、私は自分を制限していた時期だった。自由と責任。私はいつもそれを忘れていなかったけれど、ローマに暮らすことになったこの時期の私は、確実に自由と権利ばかりが勝っていて、責任や義務は放棄していた。それが私の負い目で、だから安眠できるベッドと暖かい部屋以上望んではいけないと思っていた。私の部屋は小さくて、そして天井がとてつもなく高かった。その天井にあわせるように長細い両開きの大窓があって、これが私には救いだった。窓から見えるのは公園で、冬でも手入れがされているそれは眺めていると心が和んだ。この辺りはその昔は裕福な人達が住まいを構えていたらしく、公園の周りのどの建物を見てもがっしりとした構えで美しかった。そうしたことを大家さんである老女は誇りにしていて、暇になると私を呼びつけてそんな話を聞かせた。とはいえ、私のイタリア語はそれほど上級ではなかったから、話の半分ほどしか理解できなかったし、老女にしても、あなたには理解できないかもしれないけれど、と言って話を閉じたものだ。兎に角ここに部屋を借りていた一か月間。休みの日になるとどう言う訳か空が暗かった。外の空気は切るように冷たかったけれど、部屋の中に居たら病気になってしまいそうで、行く当てもなく外に出たものだ。職場の近くの切り売りピッツァ屋さんに足が向くのは、そこに行けば見慣れた顔があるからだった。何が美味しいかも知っていたし、店に入っていくと店主が機嫌よく迎えてくれるのが嬉しくて、仕事が休みだというのに職場の近くへ行ってしまった。今思えばそんな自分が不憫でもあるが、しかし良い選択だったと思う。おかげで私は誰かと楽しく会話をして、寂しさを紛らわすことが出来たから。そうして2月最後の休みの日にこの部屋を出た。素晴らしい快晴だった、いつも休みの日は雨でも降りだしそうな暗い空だったのに。それは春へと移り変わる時期だったからかもしれない。でも、空までもが自分を応援してくれているような気分になって、勇気づけられたものだった。冬は必ず終わって春になる。嫌なことも必ず終わってよい状況になる。海の向こうに暮らす友人が手紙に書いてくれたように、私のローマの生活は徐々に明るい方に向かっていくような気がした。あの暗い部屋で考えたことは今でも覚えている。暗い時期だったが、それは私には必要なことだったのかもしれないと今は思う。無駄なことなどひとつもありはしない。どんな経験からも学ぶことがあるものだ。母はいつもそう言っていたけれど、全くその通りだと思う。あの時期の私があるから今の自分があるのだろう。そう思えばどんなことも愛おしい。そんなことを思いだしたのは、この暗い空だけのせい。でも、何事もが順調にいく生活に慣れ過ぎていた私には、必要だったことだ。

ところでクリスマス前夜に体調を崩した。多分、休暇前に無理をし過ぎたせいだ。すぐに良くなるさと甘く見て、もう3日も経つのに治らない。旧市街を散歩するなんて夢のまた夢。今のうちにしっかり治して、元気に新年を迎えることが出来ればそれでいい。ポジティブにいこう。




人気ブログランキングへ 

よく歩いた道

DSC_0035 small


随分前に枝をバッサリ切られて直立不動していた2本の樹。背丈が高い分だけ幹だけになったそれらの存在は、奇妙としか言いようがなかったけれど、いつの間にか新芽を出して天辺だけは緑でふさふさと豊かになった。背高のっぽ達が緑の帽子を被っている、と言ったらちょうどいい。僕たちは元気だから、と周囲に知らせているように見えた。
このところ大変忙しい。忙しい生活をとうの昔に止めたはずの私だったから、ベッドに潜り込むと直ぐに眠りに落ちる。何年か前に眠れなかったのが嘘のようだ。どんな物音にも目が覚めない、身動き一つしない私に、相棒は毎晩心配するのだそうだ。息をしているのだろうか。そうして呼吸をしていることを確かめると、やっと安心して自分も眠りに就けるらしい。

ボローニャの小路を歩きながら思い出したのは、私がまだ20代初めの頃のことで、小さな広告デザイン会社にいた頃のことだ。新入りの私はあちらこちらへ行かされて、様々な人に会いながら様々なことを学んでいたが、其の中にひとつだけ仕事らしい仕事があった。ある会社の毎月発行の小冊子を任されたのだ。それで毎月、月に何度か、客先に足を運んで打ち合わせをしたり、訂正をしたりで、緊張の連続ではあったけれど、楽しいことでもあった。客先の会社は表参道と明治通りの交差点から直ぐ傍のグリーンファンタジアと言う名の建物に入っていた。私が自分が所属する事務所からどんな風にして其処に通っていたかは、いくら考えても思い出せない。多分、地下鉄を乗り継いで行ったに違いない。若くてまだ学生気分が抜けていなかった私が興奮するには、その建物に足を踏み込むだけで十分だった。この辺りはよく知っていたけれど、でも、まさかいつか自分が仕事でこんな場所に来るとは思っていなかった。愉快としか言いようがなかった。大通りに面したその建物の前はそれまでにも幾度となく歩いた。週末に、学校帰りに友人たちと、それともひとりでぶらぶらと。60年代。表参道のセントラルアパートと同時期くらいに建てられた。その頃には名の知れた人々しか入居できなかったに違いない此の建物の前を、今はどんな人達が中に居るのだろうなどと想像しながら通り過ぎた。その建物に初めて立ち寄ったのは、まだ学生の頃だった。大好きな千疋屋が入っていたからだ。当時の千疋屋の存在は美しい洋菓子を置く店に比べたら少々時代がかっていたから、そんな店を好む私は同年齢の友人たちから揶揄われたけれど、何と言われようが私は千疋屋が好きだった。ところで、千疋屋、千疋屋と簡単にうけれど、結構奥が深い。創業して既に100年以上経っている筈だ。初めは日本橋千疋屋が生まれ、その後、京橋千疋屋、銀座千疋屋がのれん分けするような形で生まれたと聞いている。それを教えてくれたのは母だ。母は千疋屋が大好きだったから、そんな話を子供にするのも好きだったようだ。家族で銀座に行くと必ず千疋屋へ行った。他の選択は無い、とでも言うように。そもそも母はそう言う人で、好きになると其処にばかり足を運ぶタイプの人だ。その点から見ると、私は母によく似ていると言うことになるのだろう。学生の頃に立ち寄った千疋屋。周囲の客の洗練された姿を眺めながら、此処に足を踏み入れても良かったのだろうかと思ったことを覚えている。皆大人びていた。何か特別な能力を持った人達が、この華やかな街を作り出すのに加担した人達が、あちらにもこちらにも居るような気がしてならなかった。自分の能力を生かして、仕事をする人々。もっと上へ、と向上心に満ちた人々。そう言う人達が眩しくて眩しくてならなかった時代だった。学生時代を締めくくって仕事を始めたばかりの私に飛び込んできた小冊子の仕事は、私を不安がらせながら興奮させた。手あたり次第頑張った私のとても懐かしい時代のひとつだ。そしてこの建物のなかですれ違う人達。イタリアならば見知らぬ人とも挨拶を交わすところだが、ちらりと眺めながら無言で通過していく。私はどんな風に見えただろう。やせっぽちで髪の短い、風のような若者といったところか。何しろ私はふわふわしていたから。私からは見る人見る人が、才能を持つ、何かクリエイティブな仕事についているように見えてならなかったけれど。

随分昔のことを思い出したものだ。3年ほど前に帰省した時、用があってその界隈を歩いたが、グリーンファンタジアはまだ存在していた。しかし、驚いたことに、その少し先にあるセントラルアパートの姿が無くなっていた。時代の象徴とも言われていたあの建物が。多くの人達がその存在を楽しんでいたのに。時代の流れとはこういうことなのか。あの建物に愛着を持っていた人達は沢山いると思うけど。変化を続けるこの街に私は置いてきぼりにされたような気分になったけれど、いいや、違う。私もまた変化を続けていているのだ。自分の居場所が無くなったのではない。私は、自分らしく居られる場所を求めて、常に歩いているのだ。




人気ブログランキングへ 

Pagination

Utility

プロフィール

yspringmind

Author:yspringmind
ボローニャで考えたこと。

雑記帖の連絡先は
こちら。
[email protected] 

月別アーカイブ

QRコード

QR