若い友人

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今日も空が青い。空が晴れている分だけ気温が低いが、寒くてもいい、私は青い空が好きだ。クリスマスの翌日も祝日のイタリア。今日は聖ステファノの祝日である。少し先のイギリスでは、祝日ボクシング・デーだそうで、同じ祝日でも名前や理由が異なるのが面白いと毎年この日に思うのだ。イタリアに関して言えば昨日が一年の頂点みたいなものだったから、例え祝日であっても今日は肩の力がだいぶ抜けている。聖ステファノはがっかりしているのではないだろうかと、やはりこれに関しても毎年この日に思うのである。

先日懐かしい人からメッセージが届いた。アメリカに暮らす友人で、彼女と知り合ったのは東京で、36年も前のことだ。若かった私よりも更に10歳ほど若い彼女、そんな彼女と知り合ったことも未だに連絡を取り合うことも、考えれば考えるほど面白く思う。私がアメリカに暮らすようになった少し後、彼女もアメリカに暮らし始めた。そうだ、私と彼女を繋いでいたのはアメリカに暮らしたい気持ちだったと思う。同時期にアメリカの同じ州に居たけれど異なる街に暮らしていたから頻繁に会うことはなく、数回しか顔を合わせていない。その間は手紙、そして電話でのやり取り。当時はネットなんてものは使っていなかったから。私がイタリアに引っ越して、彼女がアメリカの反対側に移り住みと、そんな大きな変化を繰り返していたけれど、此処数年は互いの居場所が落ち着いている。最後に会ったのは、もう何年も前のこと。イタリアに来るというのでローマのスペイン階段で待ち合わせをした。あれは暑い季節のことで、何処を探しても日影のないスペイン階段で彼女を待つのは難儀だった。違う環境に身を置く私達、あまりに久し振りだから、接点も分かち合う話もないかもしれないなんて思っていたけれど、一緒に居た彼女の夫が驚くほど私達は話すことが沢山あった。今度は3月頃に北の方で会おうとの誘いだ。ミラノかヴェネツィアで。私がちっともアメリカに足を運ばないから、こんな風に彼女がイタリアに来る時に声を掛けるという訳だ。それは有り難い話だ。こんなに長く離れているのに、会いたいと思ってくれるなんて。ところでヴェネツィアで待ち合わせなんて、それだけは出来ない。何しろあの街は迷路だから、どうしたって道に迷ってしまうから。ミラノ。ミラノはどうだろう。あの美しいミラノ大聖堂の前ならば、必ず会えるに違いないから。
月に一度、列車に乗って他の街を訪れるのが私の愉しみ。3月はこれで決まり。久し振りにミラノへ行こう。

一年の終わりを目の前にして、私は身辺整理に忙しい。俗に言う断捨離という奴だ。結構潔く不用物の袋に詰め込んでいく。物は吟味して、そして少なく。シンプルに暮らす。来年は此れを目標にしたい。




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夏の記憶

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メッセージが届いていることに気づかずにひと月が過ぎてしまった。返事がないことを友人はどう思っているだろうか。友人からのメッセージには写真がついていて、それはこの夏アントワープを訪れた際に知らぬ間に友人が写した私の写真だった。友人との付き合いは13年ほどだろうか。リスボンで出会ってから、あちらこちらで再会した。友人と呼ぶには互いを知らなすぎるけど、彼女と私を友人と呼ばずに何と呼ぼうか。思い返して思い浮かぶのは爽やかな空気。爽やかな記憶なのだ、彼女と私のあの再会は。彼女と歩いた道を思い出しながら思う。近いうちにまた会いたいな。




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彼女

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まあ、よく降ること、と呟きながら窓の外を眺める。折角の週末に雨。予報通りの雨を眺めながらため息を吐く。でも安堵の溜息である。もし予報が外れて雨が降らず、青空など見ようものならば、私は自分の身体の声を無視して外に出掛けたに違いないから。少し風邪をぶり返しそうだった昨夜。週末はゆっくりして風邪を治そうと心に誓ったけれど、青空を見たら気持ちが揺らいだに違いないから。これで良し。これで心穏やかに家に居ることが出来る。勿論、私の風邪に関係ない人達にしてみれば此の雨は不運の雨。例えば相棒は朝から用事があって外に出掛けて行ったから、この雨にはがっかりしているに違いないのだ。だから誰にも聞こえないような小さな声でごめんねと囁く。明日には雨が止めばいいと思いながら。

私がフィレンツェに通っていたのは2000年から5年間のことだ。毎朝早起きしてボローニャ駅に行き、列車に乗ってフィレンツェに通った。仕事を得たからだった。それは4年間も定職のなかった私には吉報で、その誘いに飛びついたものだけど、他の街に通うことで生活が変わるのだから相棒にもひと言了解を得たほうがいいと言ったのは、その仕事のオファーをしてくれた上司だった。そんなものかしら。そういうものだよ。そんな話をして相棒に話をしたら、勿論喜んでくれて、私は春が終わる頃にフィレンツェへの通勤生活を始めた。それは口で言うほど楽ではなくて、毎朝毎夕遅れる列車に頭を悩ましたものだった。日本のあの正確さは此処では得ることが安易ではなく、少なくともあの頃は時間通りに列車が来ることも出発することもありえないことだった。それでも私は嬉しかった。自立を果たしたのだから。どんな自立かといえば経済的自立と人間関係の自立だ。私は相棒に頼る生活が私らしくないと思っていたし、相棒の奥さんと呼ばれるだけの存在であることが嫌で仕方がなかったから。相棒は大変だったと思う。何故なら朝の列車に乗るために駅まで車で送る毎日が始まったのだから。バスで駅に行くには乗り換えも含めて時間が掛かり、逆算すると随分早朝に家を出なければならないことを知っていたから、彼は一度だって文句を言うことはなく、本当に頭が下がる思いだった。そんな生活が始まったことを知った知人はボローニャでもっと割の良い仕事があるでしょうと言って私を窘めたけれど、それは探した事のない人が言う言葉。当時のボローニャには会社員なんて枠は日本人にあまりなかったから、私はこれで良いのだと思っていた。確かに時間や労力、交通費などを差し引いたら、知人が言う通りそれほど割の良い仕事ではなかったかもしれない。でも私は会社員に拘り、そしてそこで得る自分の人間関係に魅力を感じていた。
さて、小さな職場だった。職場は旧市街の、アルノ川の近くにあって、小さな広場に面した建物の一角だった。初めての職種で戸惑いながらも私は其処に通う人達の話が面白くてならなかった。百人百様とはよく言ったものだ。私はそんな彼らからの話に耳を傾けるのが好きだった。その中に、面白い女性がいた。透き通るような白い肌に黒いアイラインと赤い唇。身につけるものは一様に高価なもので、モーダ、そうだ、そう呼ぶのがぴたりとくる感じの格好いい女性だった。外見癖が強くて万人に好かれるタイプではなかったけれど、中身は大変優しくて私は大好きだった。その彼女は毎回面白い話をしてくれて、それらの話をパズルのようにつなぎ合わせるが、一向に彼女がどんな人なのかつかめない。どうやらどこか由緒ある家のお嬢さんであることは確かである。親が若かった彼女を勉学か遊学かのためにアメリカに送り込んだり。それがどうしてかフィレンツェに住むようになったのかは知らないけれど、彼女がモーダ系なのはどうやら彼女がそうしたし世界に携わっているからのようだった。彼女はミステリアスで周囲が知らない世界を沢山知っているようだった。職場に来ては淡々と話をするのだが、急に話を切り上げてあっという間に帰ってしまう彼女。お見事といいたいほど速やかで、そんな彼女のことを周囲の人達は奇妙に思っていたようだけど。フィレンツェに通っていた頃のことを思い出す時、必ず彼女のことを思い出す。でも、彼女の行方は誰にもわからない。私が職場を去って間もなく、彼女も仕事を辞めてしまったから。モーダの都ミラノに移り住んだなんて噂も聞く。少なくともフィレンツェで彼女の姿を見た人は居ないらしいから、ミラノに移り住んだ噂は案外本当なのかもしれない。もう一度彼女に会いたいと思う。彼女はこんな私のことなど過去の存在で、思い出すことも無いに違いないけれど。もし会うことが出来るなら、ミラノだってローマだって、それともパリやロンドンにだって駆けつけよう。そうして彼女の話に耳を傾けるのだ。昔そうしていたように。

そのうちフィレンツェに行くつもりだ。列車の予約はしたし、休暇も確保した。昔通った立ち飲みワインの店で、大好きなパニーノを食べながらトスカーナの赤ワインを一杯。それが楽しみのひとつ。昼時は近所で働く人達で激混みの小さな店だから、正午を目指していこうと思う。そうしたら、店に来る人達の様子を観察することも出来るし、店の人と言葉を交わすことも出来るだろう。こういう愉しみを毎月作ろうと思っている。こんな風にして生活を愉しむのがいいと思う。人生は小さなかけらの集まりだから、これから愉しいかけらを沢山作ろうと思う。




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プラネタリウム

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目を覚ませば日曜日。もう結構な時間になっていると言うのに外は其れほど明るくなかった。今日も快晴、気温がぐんぐん上がると思っていたのに。明るい鼠色の雲が覆った空を眺めながら思う。雨が降らなければいいだけのことだ。週末の朝は猫の食事の準備から始まる。その前にたっぷりブラッシングしてあげて。この時期は毛が抜けること夥しい。それに猫もこんな毛むくじゃらでは暑かろうと、頻繁に朝のブラッシングを実行しているのだ。これは猫にとって気持ちの良い習慣らしく、ブラシを取り出すと駆け寄ってきて、私の前にドスンと横たわる。その様子が可笑しくて、どんなに気分が乗らぬ朝も、私の笑いを引き出す。案外猫はそんなことまでお見通しで、わざとドスンと横たわっているのかもしれない。そしてようやく猫の朝食を整え、自分の朝食を用意して椅子に座った途端、音を立てて雨が降りだした。あっ、雨。予想外の雨だった。

今日は7月7日、七夕だ。七夕は姉の誕生日で、10年以上前に他界した舅の誕生日でもあった。どちらも大変気が強く、7月生まれっぽい性格。舅が姉と同じ誕生日だと知った時は、何か縁みたいなものを感じたものだった。関心のあることにはグイグイ進むタイプで、関心のないことには微塵も振り向くことがない。7月7日に生まれた姉と舅。小さな共通点を見つけて苦笑したのはもう随分と昔のことだ。
姉とプラネタリウムに行ったのは姉の誕生日だった。都心にプラネタリウムがあるなんて知らなかった私は、見に行こうと姉に誘われるまま、ついていった。姉はまだ若く、私は更に若かった。上を見上げて星を眺めながら、たまにはこういうのもいいねと姉が言ったのはどうしてだっただろうか。あの頃の私にはまだ姉の心を知る由もなく、そうだねなんて返事をしたものだけど、それよりも私は、姉が誕生日に私と一緒に時間を過ごすことを望んでくれたことが嬉しかった、何故なら姉は子供の頃から私の憧れだったから。何をしても一番で、妹の私は姉と比較されてばかりだったけど。姉は姉で周囲からの期待があまりに大きくて辛かったようだけど。期待が大きくて負担だったと言う姉。何の期待もされず育った私。どちらが良かったかは分からないが、近年姉がそんな私のことが羨ましかったと知った。あなたは自由気ままで、と言われたとき、ああ、そうだった、私はいつも自分のしたいことばかりしてきたのだと思った。姉は其れが出来なかったのかもしれない。背負っている期待が大きくて。姉が大人になってから自由を手に入れることが出来たならいいけれど。
プラネタリウムに行ったのはあれが最後だった。その代わりに星が降るような空を色んな土地で見た。ネヴァダ州の湖のほとりや、砂漠地帯。それからボローニャ郊外の小高い丘でも。星が降り落ちてきそうな夜空を眺めていると、何時も姉のことを思い出した。この星空、姉に見て貰いたいと。

運がいい。今日は30度にも上がらない緩い風が吹く日曜日。薄曇りの空の下で揺れるゼラニウムの花や茗荷の葉。風に膨らむレースのカーテン。蝉が弱く鳴いていて、私をリラックスさせる材料は充分揃っている。少し疲れていたから、こういう感じの日曜日が必要だった。




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今日

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6月も今日でお終い。驚きである。こんな調子で私達の夏季休暇はあっという間にやって来て、あれよあれよという間に冬の休暇がやって来るのだろう。涼しかった5月と6月。だから、ここ数日の暑さに舌を巻いている。そんな暑いさなか、昨日からツールドフランスが始まった。2日目の今日はアドリア海の街チェゼナーティコからボローニャ区間198, 7KMの自転車レース。ボローニャ市内は昨晩から様々な場所で準備がはじまった。通行止めもそのひとつだ。昔、私が丘の町ピアノーロに住んでいた頃に通勤路として使っていた田舎道もそのレース路として選ばれた。あの辺りに住む人たちがどれ程不便を強いられながらも、どれほど愉しみで浮かれているか目に浮かぶ。ボローニャ辺りでは自転車乗りが群れを成して走り抜けるのは夏の風物詩みたいなもので見慣れてはいるけれど、ツールドフランスなんて大きなレースを目にすることは滅多にないから、案外多くの人が観戦しに行ったのかもしれない。こういうアクティブな話題が必要だった。何しろ昨夕のEURO 2024でイタリアはスイスに敗北してベスト8進出ならず、皆がっかりしているから。

金曜日の夕方からしきりに蝉が鳴いている。うちの周囲には大きな樹が沢山あるから蝉にとっては恰好の居場所に違いない。昨日は栃ノ木で蝉の合唱だったが、今日はその隣のアカシアの樹から気が狂いそうなほど蝉の合唱が続いた。蝉の命は短いと聞いているから、存分堪能するがよいと思いながらも、この暑さに蝉の声で頭がこんがらがっているのは私ばかりではないだろう。と、吹き始めた風。夕方のこの時間の涼しい風は自然界からの贈り物。木が揺れると蝉の声がぴたりと止まり、残されたのは風に揺れる木の葉の音。さらさら。さらさら。この音は私の気に入りの音だ。
私と相棒はアメリカで知り合って結婚した。結婚したのは31年前の今日。市役所での簡単な結婚で、立会人は私達の親友のボブだった。私達の友人達の誰もが私達の結婚はうまく行かないと思っていたが、唯一ボブだけが私達の結婚を良いものだと思っていた。理由は何だっただろうか。友人達がうまく行かないと思っていた理由はいちいち聞かなくれも解るけど。大変簡単な結婚式で、其の後簡単な食事をして。あまりに簡単すぎると周囲の人達は口を揃えて言ったけど、それが私達らしいと思っていた。ずっと忘れていたけれど、そういえば私達は結婚して間もなく、小旅行をした。友人夫婦が私達にネヴァダ州のタホ湖畔の宿泊と湖のクルーズのパッケージを贈ってくれたのだ。本当は彼らが行こうと思っていたのだが、妻が妊娠して長いドライブは無理だからと、丁度結婚した私達にそれを譲ってくれたのだ。新婚旅行などする予定のなかった私達にとって、それは空から降ってきたような幸運に思えた。青い湖の水面が太陽に光って眩しかった。出だし好調のように思えたものだった。そんな事があったことを相棒は覚えていないだろう。私だって今日まで忘れていたのだから。出だし好調だと思っていた結婚は山あり谷ありで幾度も壊れそうになったけど、あはは、31年も続いたと、今朝相棒と笑った。ボブが生きていたら、と思う。君たち、31年も続くなんてねえ、と良い結婚と思ってくれていたとはいえ、驚くだろう。当の本人たちだって驚いているのだから。
あのタホ湖のこと。もう一度、何時かあの夫婦に会うことが出来るなら、礼を言いたいと思う。あれは本当に良い贈り物だった。あの頃の私達には贅沢な旅だった。

暑い夏が苦手になった私は、何時か涼しい土地で生活したいと思うようになった。涼しい土地ってどこだろう。ボローニャでないことだけは確かである。




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