記憶
- 2023/03/25 17:43
- Category: bologna生活・習慣
今日は特別な土曜日。冬時間最後の日である。それにしても朝から天気が良く、目覚まし時計が鳴る前に起床した。寝室の窓のひとつ、小さいほうの窓の雨戸を少し開けておくのが好きだ。そうすると朝目を覚ました時に、空が明るいかどうかが目を覚ました時に分かるから。それも平日の早起きともなれば夜が明けていない訳だから、雨戸を少し開けておいたって外の様子はちっとも分からないけれど。兎に角そういう訳で、目を覚ました瞬間に空の明るさを知り、もう少しベッドの中でぐずぐずしていても良かったけれど、こんな明るい朝を逃す手はないと飛び起きたのである。こんな朝は家じゅうの雨戸をあけるのが楽しい。青空。飛び切りの青空だった。いつの頃からか暖房が要らなくなった。寒がりの私が暖房を点けたいと思わないのだから、随分温暖ということになる。週末の青空は空からの贈り物。平日に溜めておいた洗濯物をやっつけるためにも週末の青空は有り難い。朝食をゆっくり頂いて、簡単に家の中を片付けて、手早く身支度をして外にでた。大きな栃ノ木が明るい緑の葉をたわわにつけて、青空に向かって腕を伸ばしている様子には驚いた。つい最近まで枯れ木だったのに。栃ノ木に限らず植物の生命力にはいつも驚かされる。もう駄目だろうと諦めていた病んだアカシアの樹だって、新芽をつけ始めた。そんな樹木に私は励まされてばかりである。
温暖な一日。冬のコートはもう要らないと、短い丈のジャケットを羽織って外にでた。足元は白いスニーカー。ジーンズからは足首が見えている。こういう軽快な姿をしたかった。近年は真冬でも足首を出してスニーカーなんて人を見るようになり、私を大いに驚かせてくれる。それが実に爽やかで格好いい。かといって寒くて真似などできる筈も無く、春が来るのを待っていたのだ。足首を出してスニーカーを履く。勿論足取りはいつもよりずっと軽い。そして周囲を見回すとジャケットを着ていない人達、シャツ姿の人達。私の季節感がおかしいのか、世間の人の季節感が先に先に行っているのか、ああ、分からない、幾ら考えても分からない。
七つの教会群の広場は、春の日差しを楽しむ人で賑わっていた。旅行者も居れば、此の街に暮らす人たちもいる。小さな子供たちが走り回り、犬たちが尻尾を振りながら優雅に歩く。私はそんな人たちの中を縫って歩いて、美しい藤の花の下に行った。こんなに美しいのに誰一人関心を持たないのが不思議でならなかった。
ローマで仕事をしていた頃、27年も前のことになるけれど、オフィスの中に古い藤の木が生えていた。その木は上階の広いテラスに延びていて、零れんばかりに沢山の花を咲かせた。私は昼休みになるとテラスに行って、藤の花の下で手紙を書いたものである。時には同僚がやってきて、手紙を書くのを中断しなければならなかったけれど、その代わりに愉しいお喋り。ローマに知り合いのいない私だったから、こうして同僚やオフィスに出入りする人たちとお喋りするのは嬉しいことであり、有り難いことでもあった。私が藤の花に特別な感情を持っている理由は、とても優雅で欧羅巴的であることばかりでなく、27年前のローマ暮らし、多分それだ。ローマを思い出すときに一番初めに思い出すのは、あのオフィスと藤の花、そして私に良くしてくれた上司や同僚たち。ひとりボローニャから飛び出してきて寂しくはないかと、何時も皆が私のことを気にしてくれた。私は仕事を辞めてしまったし、上司もとっくに引退した。同僚たちも転々ばらばら。それにあのオフィスはもともと教会の一部を借りたものだったから、暫くして立ち退かねばならなかった。でも私の記憶の中で生きている。こればかりは多くの記憶が薄れても、鮮明に私の脳と心に残る、大切な記憶。
藤の花を眺めていたら、ようやく気付いたのか人々が藤の花の下に集まり始めた。綺麗ねえなんて言いながら。うん、綺麗なのよ藤の花は、なんて私も答えたりして。
そろそろ冬物をクリーニング屋さんに持ち込もうと考えているが早すぎるだろうか。昨秋店を閉めてしまった贔屓のクリーニング屋の女主人なら、きっと言うだろう。寒さはまた戻って来るからもう少し待ちなさいよ、と。そうね、もう少し待ったほうが良いかもしれない。