素適な人

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暑い一日だった。明日からはもう8月かと思うと、不思議な気分になる。そして、思い出すのだ。数年前まで現役で働いていたテレーザ。
同じ会社ではないけれど、仲の良い会社で同じような仕事をしていた彼女は、私が今の仕事を始めるにあたって様々なことを教えてくれた。同じ建物に会社があったのだ。彼女に訊けば色んなことを教えてくれるよ。そう言ったのは私の同僚だった。同僚の言葉は本当で、私が教えて欲しいと頼めば彼女は快く教えてくれた。無駄なことはひとつも言わない。本当に必要なことだけ教えてくれたから、分かりやすくて助かった。私が知っていることで良いのなら。彼女はいつもそんな風に言っていたけれど。私が彼女を素敵だと思うようになったのは、彼女を知ってから少したってのことだった。彼女はあまり不平不満を言う人ではなかった。彼女は暑いのが苦手だった。暑くて今夜は夕食なんか作れないわ。彼女が漏らした不平不満らしき言葉は、そんな程度のものだった。暑いのが苦手だったが、夏休みが近づくと、飛び切り機嫌がよかった。だってそうでしょう? クリスマス休暇からずっとまとまった休暇が無かったんだもの。これは真面目に働いたご褒美なの。そんな風に彼女は言っていた。そんな彼女の休暇先は大抵海だった。大金をはたいて購入した大きなキャンピングカーで夫と一緒にあちらの海へ、こちらの海へと渡り歩いていた。無駄遣いじゃない、投資なのよ、と言っていたが、実際、キャンピングカーは有効に使われていたようだ。テレーザは50歳を過ぎたくらいで早期定年退職してしまった。もういいの、十分働いたわ、と言って。会うことも話すこともなくなったけれど、夏休みが近づくと彼女のことを必ず思い出す。テレーザと呼んでいたけれど、テレーザさんと呼びたくなるような、とても丁寧な人柄だった。今頃どうしているだろう。クロアチアの海でも楽しんでいるだろうか。

近郊の街で雨が降ったようだ。一瞬だけ涼しい風が吹いた。その後に押し寄せた蒸し暑さ。これがボローニャの夏。そう思えば、諦めがつくというものだ。来週の今頃は空の上。もうひと頑張りだ。




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蝉が鳴く、風が吹く。

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7月最後の週末。土曜日と言うのに辺りが静かなのは、随分多くの人達が休暇に出掛けてしまったからである。近所のバールでさえも常連客達は休暇らしく、見せる顔は半分ほどだ。残っているのは、まだ休暇に入っていない人達と、既に休暇から戻ってきた人達と、この夏もボローニャで夏を楽しむと腹を決めた老人たち。後者の老人たちは、何処へ行く必要もない、毎日が休暇だからいいんだよと、言って笑う。そうかもしれない。夏は何処へ行っても人が一杯だし、値段も跳ね上がっているから。それよりもひと気の引いた時期に、ぶらりと旅が出来るのが、仕事から引退した人達の特権なのかもしれない。それでいて、こんなに暑いボローニャにごろごろしているのは身体に悪くないのか、涼しい山へ逃避したほうが良いのではないかと思うのは、お節介というものであろうか。

外にはしきりに鳴く蝉。蝉の命は短いから、命ある限り鳴き続けるらしい。そう思えば、暑苦しい蝉の声も不快には感じない。一生懸命な蝉に限らず、一生懸命な人が好きだ。私がそうしたタイプの人間ではないからかもしれない。私は淡々としているから。そんな私も何かに一生懸命だった頃がある。もう随分と前のことで、記憶の小箱の蓋を閉めて、更に紐でしっかりと結わいてしまったから、そうそう簡単には復活することは無い。あれは情熱だったのだろうか。それとも夢。そう言う訳で、今の私は自分が一生懸命でない分、一生懸命な人が好きだ。そんなことを考えながら、風に膨らむレースのカーテンを眺める。

私は文通なんて今では存在しないかもしれないことが流行っていた時代に育った。初めて文通を始めたのは10歳くらいの頃で、どんな形でそんな相手を得たのかは、いくら考えても思い出せない。見知らぬ相手から時々届く手紙。そして、自分が考えていることや身の回りで起きたことを書き綴って郵便ポストに手紙を投げ込む自分。それは不思議な体験で、手紙を書く楽しみを覚えた。そのうち私は夏に知り合った遠方に暮らす人達と手紙を交わすようになった。夏だけに会える友達。また会いたい、そんなことを胸に、私達は手紙を幾度も交わしたものだ。そのうち範囲が広がって、海の向こうの人達とも手紙を交わすようになった。英語の音が好きだけど、手紙を書くのは全く苦手だった。その証拠に英語の成績はさっぱりだったが、それでいて私はそうしたにととの交流にはとても積極的だったようだ。アメリカの東側、ペンシルヴァニアに暮らす少女。少女と言っても私達はもう16歳になっていて、気持ちだけは立派な大人だと思っていたけれど。リタと言う名前だった。彼女が紙に書きつける文字は大変読みにくくて、いや、とても丁寧に書いているのだが字体に癖があったから解読が難しく、時々学校の、英語の先生に読んでもらわねばならなかった。英語の成績はさっぱりなくせに、こんなことをしている私に先生は好意的で、時々海の向こうのことを話してくれた。成績なんて気にすることなどない。型に嵌められる必要もない。先生は確かこんなことも言っていたっけ。冷たい感じであまり人気は無かったけれど、私は先生の本当の部分を見たような気がして嬉しかった。リタとの文通は3年ほど続いたが、互いに成長していくうちに忙しくなって疎遠になった。今日、私が彼女を思い出したように、彼女もそんなことを思い出すことはあるのだろうか。海の向こう側に住んでいた思春期だった頃の文通友達。

昼下がりは静か。恐らく皆、昼寝をしているのだろう。それともソファに体を横たえているのか、眠れないにしても。昼寝は良い習慣、とても健康的だと思うけれど、それでも私は昼寝が苦手。今に始まったことではない。子供の頃からずっとそうだ。猫も相棒も昼寝中に、そんな私だけがあれこれ考えながら机に向かっている。




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愉快なこと

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7月も下旬になると、街の人口が少なくなる。それもローマやフィレンツェと言った街ならば、入れ替わりに旅行者がやって来るから差し引きゼロだろう。その点から言えば、以前に比べると随分とボローニャも有名になって旅行者の数が増えたけれど、しかし街から脱出するボローニャの住人の数に比べれば断然少ない。それが良いかどうかは私には分からない。そんなに有名にならないで、素朴でのんびりなボローニャで居て欲しいような気もするから。夏には人口が減る。それがボローニャらしいのかもしれない。

今日は家でのんびり。そういう時間は大切だ。毎日忙しくても大丈夫なんて時期は、もう数年前に通過していて、以来私は週に一日くらいは自分の時間を欲するようになった。私はこんなことをしています、などと周囲の人たちに胸を張って言うようなことはひとつもしていない。素朴で普通。それが自分なのだと思っている。そしてそんな自分でいたいとも思っているのだ。考えてみたらボローニャの街とよく似ていて、苦笑してしまう。似た者同士とでも言おうか。この街の生活に本当になじむまでに随分と長い歳月を要したが、案外来るべくして此処に来たのかもしれないとも思う。21年経った今でもアメリカの生活が恋しいのに。あの街の空気やリズムがこれほど恋しいと言うのに。自分のことながら分からない。時々、分からない、分からないと首を横に振りたくなる。人間の気持ちとは何と微妙なのだろう。そして微妙は愉快さをもたらす。分からない、それは愉快なことでもある。

最近店の前を歩いて、愉快な気分になった。其処は今では靴屋になっている。旧市街にある大きな郵便局の脇に存在する小路に面して在るその店は、古い由緒ある建物に入っている。短い階段を上がって店に入るのだが、階段を上がること自体が既に貴重な体験に感じられるのは、建物の古さから来るものだろう。私がこの街に暮らし始めたばかりの頃は、いったいどんな店だったのだろうと考えても、全然思い出せない。他の人達にも聞いてみたが、誰一人覚えていないところをみると、あまり流行っていなかったか、地味な店だったかのどちらかだろう。私が覚えているのは眼鏡屋さんがあったこと。どれくらい前のことかはわからないが、大変洒落た眼鏡の店があった。ガラス越しに素敵な眼鏡を見つけたけれど、中に入ることが出来なかったのは、店の人が格好良過ぎたからだった。眼鏡の似合う、きちんとした身なりだけど上手く崩した、ファッション雑誌から抜け出てきたみたいな男性だった。前髪がツンと前に跳ねていて、セルロイドフレームの眼鏡を掛けていた。何故もこんなによく覚えているのかと言えば、それくらい毎日のようにショーウィンドウを眺めていたからだ。趣味の良い人達が吸い込まれていった店。店が洒落ていると入る人も洒落ているなあ、などと感心した物だ。趣味の良い眼鏡が並んでいて、趣味の良い店員が居て、趣味の良い客が居て。だからまさかこの店が何時か閉まるだなんて夢にも思っていなかった。その後、衣服を置く店になった。男性向けと女性向け。両方あって、雰囲気のあるそれらは万人向けとは言い難かった。だから店に入っていく人は限られていて、暫くすると閉店した。長いこと放置されたままの空っぽの店。家賃が高いからねえ。そんなことを前を通る人達が話していたのを覚えている。そうだろう、この場所でこの建物だ。高くて当然だった。そのうち靴屋になった。美しい靴たち。結構客が入っている。ある日、興味を持って私も入ってみた。階段を初めて上って、神妙な気分を味わった。美しい内装の店の中には美しい靴が並んでいて、店の人は大変感じが良かった。気に入った幾つかを試してみたが、残念ながらぴたりとこなかった。ああ、残念と思ったけれど、其れで良かったのかもしれないとも思った。私は店に入って見たかっただけだから。靴は浮気をせずに、いつもの店で買うのが確かだから。靴に関してはあまり冒険をしたくないのが本当のところだった。それでいてこの店の前を歩く時は足を止める。気の利いたディスプレイ。誰もがちょっと足を止めたくなる。私がこの店にもう一度入ることは無いかもしれないけれど、この店は長続きしそうだと思った。お洒落でちょっと遊び心。ボローニャの厳めしい建物に、こんな店が入っているなんて愉快ではないか。

夕食に、オリーブオイルとバルサミコ酢で和えた、生の玉葱のスライスを食べた。玉葱はトロペア産の赤い玉葱。生で食する玉葱だ。最近毎日これを食べているには理由がある。蚊に刺されないようになるために、である。トロペア産の玉葱を食べているから、私と娘は蚊に刺されない、と知人が毎夏自慢げに言うので、私も、と毎日少しづつ食べていると言う訳だ。さあ、どうだ。そのうち蚊が近寄らなくなるのか。それにしたって生の玉葱を食べた後は、自分の口ながら憎いほど臭い。




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土曜日は外に出るのが楽しい

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昨夜の涼しい風が予告だったかのように、涼しい土曜日の朝、相棒と猫が目を丸くしているのを横目に、早起きをして外に出た。元々早起きをして暑くなる前に出掛けようと思っていたのだが、目を覚ましてみたら雨が降りそうな気配だったから、雨が降る前に出掛けてしまおうと思ったのだ。髪の手入れをして貰いに旧市街へ。何処の誰にして貰っても同じではないかと言う人もいるけれど、あちらの方が安いと言う人もいるけれど、これは私の拘りなのだ。自分の気に入った人に手入れをして貰うこと。それは髪の毛であったり、爪であったり。誰にでも少なからずともそうした拘りがあるに違いなく、そしてそうした物事があっても良いのではないかと私は思う。

店に着いたのはもう10時半を回っていた。バスのせいだ。今日もバスを逃して、次のバスがなかなか来なかった。ああ、遅くなってしまったと思いながら中に入ると、店は酷く空いていた。いつもの土曜日ならば開店時にわっと客が入ってきて小一時間も待たされるのに、先客はたったのふたり。私と同時に入ってきた他の2人の客達も、何という幸運、と嬉しい歓声をあげた。あっという間に手入れが終わった。正午前だった。新記録だと喜ぶ私と他の客達に、毎日がこんなでは経営が成り立たないと笑う店の人達。全くその通りだと頷きながら、これからやって来る楽しい夏の休暇を願う言葉を交わして店を出た。
雨が降っていた。小さな傘が鞄の中に入ってはいたが、差さずにいたいと思ったのはどうしてだろう。ポルティコからポルティコへ。それがボローニャのよいところだ。見回せば誰もいがそんな風にして歩いている。週末は車の乗り入れ禁止だから歩行者の私達は堂々と道の真ん中を歩けると言うのに、誰も歩いている人などいなかった。酷い降りでもないのに。私達は皆ポルティコの下を歩いていた。まるで寄り添うかのように。早くに用事が済んだので、食料品市場へ行った。数週間前、私は友人たちとこの道を歩いていた。暑くて、暑くて、目が回りそうだった。暑かったのは、それでなくとも気温が高かったのに、軽い昼食をと、皆で入った店でうっかり冷えた白ワインを注文してしまったからだ。どんなに冷えていても、ワインを飲むと体温が上がる。だから夏場はワインを控えていたと言うのに。入った店は、食料品界隈に長く店を構える、シモーニと言う名のサラミ屋さんが新しく出した軽食の店。同じ通りにあるが、店の雰囲気は全く違う。かたや昔ながらのサラミ屋さん。シモーニ家の人達が働いている。平均年齢はとても高く、ベテランさんばかりである。どれが良いかと訊けばすぐに答えが返ってくる。そうして勧められたものは、絶対はずれが無い。もう一方は新しくて洒落た雰囲気。ガラスケースの中に並べられた美味しいものたち。そして店内と、店の前に並べられた足の長いイスとテーブル。店内の壁には丸ごとの生ハムとパルミッジャーノ・レッジャーノが並べられていて、それすらもがお洒落に見える、そんな店だ。それから働いている人達もかなり厳選されているように見える。すらりとした、見掛けの良い若い男性ばかり。外国人客が来ても困らないように皆英語を話すことが出来るようだ。友人達はそれを喜んで、店の人達との話を楽しむことが出来たようだ。隣に着席していたのは、60代後半と見受けられる女性がふたり。どうやらこの店を贔屓にしているらしく、店の人達と親しい。食事をしている最中に、彼女たちと言葉を交わすことになったのだけど、だって此処はシモーニだもの、絶対間違いがないのよ、それにここは感じがいいわ、とのことであった。彼女たちは夏のサルディを利用しての買い物を楽しんでいる途中らしい。テーブルの上には山盛りの生ハムやサラミ、チーズとワイングラスがふたつ。彼女たちの人生を楽しんでいる感じが素敵だと思った。私が何時か彼女たちの年齢になった時、そんな風に楽しむことに旺盛でありたいと思った。いや、願いと言っても良かった。
さて、いつもの青果店でいい匂いの桃と、さやいんげんをふた掴み購入した。夏になくてはならないものと誰かに訊かれたら、私はこのふたつを挙げるだろう。少なくとも私の夏になくてはならないもの。このふたつがあれば大丈夫。どんなに暑くても、うまくやっていけるだろう。

土曜日は外に出るのが楽しい。そうして家に帰ったら、テーブルの上に四角い石鹸。近所の手作り石鹸屋さんのものだ。小さなセロファンの袋に入れて、リボンが掛けられていた。石鹸は私の気に入りのラヴェンダーだった。最近シナモンの石鹸は作らないらしく、余儀なく他の気に入りを探すことになったのだ。今朝、小さくなった石鹸がついに終わってしまったのを、相棒が気づいてくれたらしい。頼んでもいないのに私の留守の間に石鹸を買ってきてくれるとは、気が利いているではないか。勿論猫は、そのいい匂いの石鹸は自分あての贈り物だと思い込んでいる。自分の都合の良いほうに考えるところに関して言えば、私と猫はいい勝負だ。




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夏を祝う

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空があまりに白く光っているのでテラスに出てみたら、向こうの空に限りなく満月に近い真珠色の月。ボローニャの何処かでも誰かが同じ月を見ているだろうと思ったら、不思議な気分になった。そのうち遠くで打ち上げ花火の音が鳴り始めた。ドン、ドーン、と聞き慣れぬ音に猫は驚いているらしく、家の中を馬の様に走り回る。落ち着け、落ち着け。テラスから声を掛けてみたが無駄のようだ。暫く走らせておくことにした。そのうち疲れて床に寝転がるに違いないから。遠くの花火。北東の空に美しい花火が上がるのが見えた。何かの祝いだろうか。それとも単に夏を祝っているのか。
夏休みは何時だって楽しみだけど、今年ほど愉しみなことも滅多にない。周囲の人がひとり、ふたりと休みに入り、そのうち私にもその順番が回って来る。母は私の3年振りの帰宅を楽しみにしているだろうか。随分昔に家を飛び出したきりの糸の切れた凧のような娘を、いつも遠くから見守ってくれる愛しい人。そして娘は老いていく母親を想う。母と娘とはそういうものだ。いや、母と私が何時の頃からかそんな風になっただけだ。

明日も暑くなるらしい。この暑さとうまく付き合う方法を考えなくては。




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