陽のあたる場所
- 2013/05/26 22:13
- Category: bologna生活・習慣
日曜日の快晴。この青い空はボローニャの人達皆が待ち望んでいたものだ。窓から外の様子を覗く。丘のほうへと向かう車の多いこと。外を歩く人の装いが軽快なこと。青空に浮かぶ入道雲がじっと留まっていること。どうやら風もなく穏やかな天気で、誰もが外に飛び出したらしい。そんな良い天気なのに私ときたら、数日前の抜歯のあとの出血と熱と腫れと痛みが引かず、つまり体調不良で家の中でうろうろしている。でも、窓の外を眺めているだけで楽しい。太陽の光が嬉しい。太陽の威力は何と大きいのだろうと改めて実感するのである。そんなことを思いながら随分昔のことを思い出した。
私がアメリカに暮らし始めて一番目のアパートメントは5階の小さなStudioだった。知人が所有する其の建物は町の中心にあって便利だったから、日本を出発する前から押さえておいた場所だった。家賃は程ほど。家具つきの一人暮らしは快適だったが、ひとつだけ問題があった。日が差し込まないことだった。其れについて考えたことは実は其れまで一度もなく、それと言うのも今までごく当たり前のように日が差し込む家に暮らしていたからで、初めて遭遇した其の問題は日に日に大きくなるばかりだった。そのうち大家である知人と不愉快なことがあり、私は友人たちを通じて知り合った知人と共有するべきアパートメントを探し始めた。3人で始まったアパートメント探しはひと月もすると2人になった。何故ならひとりは他の町のカレッジに通うことにしたからだった。知人は酷く憤慨したが、私はそうでもなかったのは、私たち3人それぞれの希望を纏めるのが酷く難しいと感じていたからだった。そうして私たちは午後4時になるとまるで当たり前のように街角で待ち合わせて、トロリーバスに乗ることもなく自分たちが好きな界隈を歩き回った。勿論私たちには住処を探す目的があってのことだったけど、あれはなかなか楽しい散策だった。借りることが出来る筈も無いエリアの素晴らしいアパートメントの管理人に公衆電話から電話をして夢見てみたり。幾つも見て回ってやっと見つけたのは1番のトロリーバスが目の前を通る坂道に面したアパートメントだった。私たちがひと目でそれを自分たちの住処だと感じたのは、素朴な木製の床、南に面した部屋の大きな出窓、出窓から降る注ぐように差し込む太陽の光だった。私たちはふたつ返事で住処を手に入れ、勿論様々な契約に何日もの時間が必要だったけど、11月末に入居に成功した。知人は日当たりの良い、大きなクローゼットのある小さな部屋を選び、私は広くて日当たりの良い、しかしクローゼットもなければ閉めるドアもない部屋を選んだ。居間だった。ドアがないことでプライバシーはなかったし、クローゼットのない不便はあったが、広々とした部屋に驚くほど差し込む太陽の光は他の何にも代えがたく、あの日の差し込まぬStudioからの脱出に成功したことに感謝した。太陽の光の有難さ。日本で家族と暮らしていた頃には当たり前すぎて気が付かなかった。こんな風にして気が付いた。
さて、其の太陽だけど、今借りているアパートメントには其の恵みがない。外が明るいのは見えるけど、家の中には差し込まないのだ。とても残念なことである。かと言ってまだ次に購入するべき物件に遭遇できず。そんな中で小さな吉報。ここから少し歩いた所に、日当たりの良い、もう少し広いアパートメントが空くそうだ。テラスがふたつあって、喧騒からほんの少し離れた小高い場所。私と仲良しの大きな飼い猫の隣の建物で、見慣れた人達が暮らす界隈。こちらもまた購入すべき物件が見つかるまでの仮住まいだけど、太陽と周囲の緑が気に入ったらば、そのまま何時居てもよいかもしれない。そういうわけで再び引越し。抜歯の痛みが引いたらば引越しの準備だ。