最低の気分だった金曜日。自分の気持ちを上手に扱えないこともそうだけど、そんな状況になった自分に一番腹が立った。最低の気分だった金曜日の締めくくりは雨。晩まで持ちこたえると思っていたのに、日が暮れる早々降り始めた雨。水溜りに足を突っ込まないように気を付けながら歩くのは苦手だ。傘を持って歩くのはもっと苦手。最低の気分の傷口に塩を塗るような帰り道。同僚と途中で別れてから、深い深い溜息が零れでた。救いは注文しておいたものが届いたこと。痛んだ靴を磨くためにちょっと質の良い蜜蠟を注文したのだが、5日目になってやっと届いた。こんなに時間が掛るなんて驚いたが、ドイツから届いたと知って納得した。家に帰って早速靴に蜜蝋を塗り、数分おいてから柔らかな木綿で磨いたら、驚くほど艶が出た。待った甲斐があった。もう駄目だと思っていた12年物のショートブーツが蘇った。
土曜日。今日は晴れると言われていたが、目を覚ますと鼠色の空。少し前まで雨が降っていたのか、地面も木の枝も濡れて黒く光っていた。晴れないかもしれない。また雨が降るのかもしれない。だけど旧市街へ行こうと思った。くさくさした気分を昨日から引きずっていたから、気分転換しようと思って。土曜日のカッフェはいつもより美味しい。それは時間に余裕があるからだろう。大きなカップにカッフェとたっぷりの温かい牛乳を注いだら、ふわりといい匂いが立ち上った。今日は少しは元気なのかと、猫が顔を覗き込む。猫は私がしょんぼりしていると、とても心配になるようだ。大丈夫。もう少しで元気になる。私はそう答えて彼女の頭をぐりぐりと撫でまわし、残りのカッフェラッテを飲み干して立ち上がった。さあ、旧市街へ行こう。
運がいい。大通りに出たら向こうにバスの姿を発見したので停留所の駆け寄った。私以外に乗る人もいなければ降りる人もいないのに、運転手が私の姿を見つけて止ってくれたおかげでバスに乗ることが出来た。おはようございます。そしてありがとうございます。バスに乗り込みながら元気に運転手に声を掛けたら、運転士も元気な声で返してくれた。どういたしまして、シニョーラ。こういう小さなやり取りが好きだ。挨拶は大切。たとえ知らない同士であっても。
旧市街に着くころには空が明るくなり、太陽が顔を出した。11月最終金曜日とあって人が多い。ブラックフライデーがいつの頃からかイタリアにも定着して、それを利用しての買い物客が多くなった。感謝祭は置いてきぼりで、ブラックフライデーだけがアメリカからやって来た。それがいまだに可笑しくて、この時期になると私は心の中でくすくす笑う。まあ、こういうことで商店が少しは潤うならば、そして私たち消費者も恩恵を受けることが出来るならば、悪いことではないと思う。
ポルティコの下を歩いていたら、のろのろ歩いていた4人組に追いついた。若い女性がふたり。ひとりはベビーカーを押していて、ベビーカーには小さな女の子が座っていた。もう一人の女性もベビーカーを押していたが、中は殻で、母親と手を繋いでいない小さな小さな男の子は周囲を心配させるような足取りで歩いていた。だからのんびりで、私が追い付いてしまったのだ。転びそうで転ばない。男の子の足取りを見守りながら歩いた。追い抜きたいが、何しろ横に広がっして歩いているので、追い越すことが出来ず、仕方なく後ろを歩いていたのだが、この4人組の後ろを歩くのは思いがけず面白かった。お母さん、綺麗な花だね。男の子は店の前で止まり、ガラス窓に描かれた花を指さした。本当だ、綺麗な花。皆が足を止めた。後ろに続く私も、その後ろに続く男女たちも。そしてまた歩き出す。お母さん、此処にも花がある、綺麗だね。男の子は花屋の前で止まり、切り花をひとつ抜き取った。あっ。此れには皆が声を上げ、困ったことになったと思った。すると花屋の中から女性が出てきて、男の子の手からそれを取り上げると店の中に入ってしまった。怒ったにしても子供相手にいったい。とハラハラしながら見ていたら、女性が戻ってきて男の子に花を差し出した。はい、どうぞ。見れば花には綺麗なリボンがついていて、男の子は大そう感激したらしく、花を受け取って跳ね回った。母親は花の代金を払うべく財布を取り出したが、花屋の女性はそれには及ばない、これは彼への贈り物なのだからと言ってにこにこしながら店の中に入ってしまった。歩いて跳ね回って疲れたのか、男の子が遂にベビーカーの中に納まった。その顛末をすべて見届けて、4人組を追い抜いた人たちの何と多かったこと。私たちは辛抱強い人間なのだ。イタリア人が皆、情熱的で感情的で短気なんて言うのは嘘だ。時にはこんな風に忍耐強い。特に小さな子供がいるときは。
こういうことに遭遇すると気持ちが温かくなる。優しい気持ちをありがとう。やはり週末は散策に出るのがいい。
クリスマスカードを購入した。塔のすぐ近くの文房具屋さんで。この店に行くのは一年に一度、クリスマスカードを購入する時だけ。だけど数年通っているから、店のシニョーラに顔を覚えて貰ったようだ。店に入るなり言われた、クリスマスカードでしょう? そう言われてあははと笑う。シニョーラと一緒にあれこれ選び出して4枚購入。これが第一歩。クリスマスの愉しい準備の始まり。これから色んな準備が始まるのだ。