彼女
- 2009/04/27 23:54
- Category: 友達・人間関係
ボローニャの町なかで店の外から中の様子を覗き込んでいた時のことだ。後ろを通り過ぎた人からほんのり甘酸っぱい懐かしい匂いがした。鼻をくすぐるようなあの匂い。あっと思って振り向くと栗色の巻き毛の女性だった。そんなことがある筈無い、そう思いながらもその人に歩み寄って横目でさりげなく顔を覗いた。色白の目鼻立ちの美しい人だったが、当然私の知っている懐かしい人ではなかった。その晩、雨音で寝付けなかった。だからなのか昼間のことを思い出して益々寝付けなくなっていた。あの匂い。あれはアメリカで出会った匂いだ。友達というにはあまりお互いを知らな過ぎたし考え方も好みも違っていた。でも、単なる知り合いという訳でもなかった。私は彼女より幾つも年上だったから彼女から色々頼りにされたのだと思う。何かがあると電話が掛かってきたし、彼女は私のアパートメントに立ち寄っては長々と話をして、また自分の家に帰って行った。私はといえば幾つも年上なくせに案外頼りなくて、強そうでいて脆かった。人の悩みを聞くのも励ますのも得意だったが、自分のことになるとてんで駄目だった。新しい土地に住んで3ヶ月目というのは色んなことがある時期らしく、私に様々な悩みと問題が生まれて少し疲れていた。そんな時、彼女特有の笑顔をみせて、大丈夫、きっと上手くいくから、と私を励ますのだった。彼女特有の笑顔というのは、口角を大きく上に持ち上げて奇麗に並んだ白い歯を見せる、若い頃のジュリア・ロバーツがよく見せたあの笑顔に良く似ていて、それを見る度になんと美しい笑みなのだろうと嫉妬抜きに思ったのだ。実際彼女はその美しい笑みの為に沢山の人から可愛がられていた。その彼女が、行き場所がなくなってしまったの、と言って大きな荷物を抱えて私のアパートメントに転がり込んだ。小さなSTUDIO に2人は少々窮屈だったけど、来てしまったものは仕方がない。次の部屋が見つかるまで。そうして彼女は即席のルームメイトになった。気楽な一人暮らしから小さなSTUDIOでの二人暮しは、結構楽しかった。多分それは彼女が私と全く違う哲学や思想の持ち主だったからだろう。へえ、そんな考え方もあるのか。ふーん、そんなことってあるのか。そんなことを何度も思った。それから彼女は時々言うのだ。とても感謝しているの、と。色んな感謝の種類があった。そんなことがあってもそれでも感謝するのか、と思うようなこともあった。全く不思議な人だと思った。その当時、私が自分を苦しめていた自分で作った窮屈な殻を破ることが出来たのは、多分そんな風にして彼女と一緒に過ごしたからだろう。あの頃の私は、TVよりもラジオを好んで聞いていた。96,5 COIT というラジオ局が好きで、部屋にいるときは何時もそれを聞いていたような気がする。耳障りにならないイージーな音楽が主で、一緒に歌うのに丁度良かった。ある日、帰ってくると例のラジオが流れていて、そしていい匂いがした。彼女の香水に違いなかった。何日か経ち、またあのいい匂いがした。何だろう、これは一体何の匂いだろう。懐かしい感じの良い匂い。我慢できなくなって彼女に聞くと、大抵の女性がそうするように香水の種類をあまり人に教えたくない様子だった。でも、あなたには本当に良くして貰っているから。そう言って小さな角ばった、エメラルドグリーンの蓋のついた小瓶を取り出した。見たことの無い香水だった。高級品ではないの、でもいい匂いでしょう。彼女は笑って、剥き出しになった私の肘にシュッと香水をかけた。いい匂いが私を包んで魔法にかかったような気分になった。数日後彼女は部屋を見つけて私の所から出て行った。その後彼女が私の部屋に戻ることはなく、私もまた別のアパートメントへと移っていった。私達は同じ町に4年も暮らしながら、電話で話すことはしばしばあっても片手に数えるくらいしか会わなかった。そして私はボローニャに、彼女は別の町へ。反対方向に移動してそれっきりだ。それでいて時々思い出すのだ、あの数日間に得たものの大きさ。自由な考え方と感謝の心。私が持っていると思っていて、実は持っていなかった大切なふたつ。雨音を聞きながら色んなことを思い出していたらすっかり遅くなってしまった。ねえ、私も感謝しているのよ。雨音に消されそうな記憶の中の彼女にそう言って目を閉じるとそのうち深い眠りについた。