ご挨拶
- 2018/01/01 17:58
- Category: ご挨拶
新しい一年の初日は、いつも記憶の箱から引っ張り出すことがある。25年も前のことだけど記憶は鮮明。と、ずっと信じていたけれど、最近は記憶の糸が巧みに交差して、困ったことになっている。
アメリカに暮らし始めて予想していなかったといえば嘘になるけれど、言葉の壁にぶつかって悶々とした毎日を送っていた。思えば特別英語が得意だったわけでもなければ、アメリカに暮らすにあたって言葉の準備をしてきたわけでもなかったから、当然というべきかもしれなかった。何とかなると思っていたのは若さのせいだっただろう。今の自分ならばもう少し慎重に行動したに違いない。兎に角悶々とした毎日を周囲の人達は距離を持って見守っていたようだ。いよいよ一年が終わるという日の晩も遅く、ダウンタウンに暮らす友人のアパートメントに行ったのは、街の中心のスクエアで行われるカウントダウンの為だった。どんな混雑か予想もしていなかったスクエア。山ほどの人に埋もれながら新年を迎えて、誰が持ってきたのかわからぬシャンパンを分けて貰って、知らない人達が抱き合って祝って、終いには一緒に行った友人とはぐれてしまった。居間ならあんな大騒ぎの場所には行くまい。でも、あの時の私は、何か吹っ切るような大騒ぎが必要だったのだろう。清々した気持ちで歩いていたらはぐれた友人の後姿を見つけて、やった、やったと後ろから抱き着いたものだ。それから年越し蕎麦などをご馳走して貰って家に帰ったのは夜中をとっくに過ぎてからだった。新年の昼、私は友人達に連れられて誰かの大きな家に行って、上階の大きなテラスにアマンダが居て、清々した気分で、もう怖がらない、間違うことを怖がらないで恥ずかしがらずに話すことにしたという私の報告にアマンダは自分のことのように喜んでくれて、幾度も抱き合ったものだ。ほら、ピアスもしたのよ。そう言って見せた私の耳朶は少し赤く腫れていて痛そうだったようだ。怖くて耳に穴など開けられない気持ちを打ち破ることが一年の締めくくりにしたかったから、友人に幾度も本当に穴をあけるのかと確認されながら坂道を下って大きな店に入ったのだ。穴をあけるのなんてほんの一瞬だった。済んでみたら、何だこんな簡単なことだったのか、と長いこと怖がっていたのが可笑しく思えた。そんな風にして開けたピアスの穴だったが、少し腫れて赤くなっていた耳朶は、いつの日か炎症が引いて、そしてまた腫れての繰り返しで、5年も経たぬうちに穴が塞がってしまったけれど。体質に合わなかった、というのが結果だけど、それは忘れがたい体験のひとつで、もう塞がった穴の後を触ると若かったあの時の自分を思いだして、ふふふと笑みが零れる。
乗り越えるものが沢山あって目が回りそうだったが、良く考えてみたらあの頃ばかりではない、今だって小さなあれこれを乗り越えながら、小さなチャレンジを繰り返しながら生活している。それでいいのだ、と思う。何もかもが安定している生活など、今の私には退屈だ。そういう生活は私がもっと歳を取って体力的にも精神的にも楽に生活したくなった時の為に取っておけばいい。
日が少し長くなった。17時を過ぎても空がぼんやりと蒼い。その蒼い空に限りなく満月に近い月。新しい年の始まりに相応しい真珠色で、窓辺にたたずんで感嘆の吐息を漏らす。何が嬉しいって、健康に暮らせること。毎日の食事が美味しいと思えること。それから自分がしたいことを続けることができること。時には喧嘩をしながら相棒と、長く一緒に居られること。怖がりの猫が元気で淋しがらないこと。それから私を取り囲む人達が幸せであること。
A Happy new year.
私の小さな願い。新しい年もすべての人達が幸せで、笑顔の絶えぬ一年となりますように。今年もお付き合いお願いします。