自分が自分でいられる年
- 2025/01/01 18:16
- Category: bologna生活・習慣
静かに幕を閉じ、穏やかに幕を開けた新しい年。新年。なんて良い響きなのだろう。子供の頃は年賀状が届くのが愉しみだった。そういう時代に子供だった私は運がよかったと思う。とても平凡な生活、だけど小さな愉しみと小さな社交がごく当たり前のように存在して、それを喜べた時代。だから大人になってもこんな風だ。小さな愉しみを見つけては嬉しくてたまらない。
昨夜は年が明けると同時に丘の方で美しい花火が上がった。あの辺りはあまり知られていないがちょっと豊かな界隈で、街の生活を好まない人達が古い建物を修復して長閑に暮らしている。色とりどりの打ち上げ花火。日本の夏に上がる打ち上げ花火に比べたら全然小振りだけど、私は感謝しているのだ、うちのテラスからあの打ち上げ花火を毎年眺められることを。例年ならばもっといろんなところで打ち上げ花火が上がるのだが、今年は予算の都合なのか何なのか、何処にも花火は見当たらない。だからあの丘の方の打ち上げ花火が見れてよかった。新年の喜びがあの花火で更に華やかなものになったから。
今朝目を覚ましたら青い空。新年早々ついていると思った。連日晴天とは言え、新年の晴天には意味がある。幸先がいいというのか、それとも出だし好調というのか、兎に角ポジティブな気分である。だけど片頭痛だ。恐らく昨晩栓を抜いたシャンパンのせいだ。とても美味しかったけど、原因はシャンパン以外に考えられない。シャンパンは華やかで美味しいけれど、そして特別感があって大好きだけど、例えシャンパングラスに一杯だけでも翌日に頭痛が起きる。これに気づいたのはもう30年も前のことだけど、そうと知っていながら新年を祝うのはシャンパン以外には考えられぬ。だから我慢我慢。そのうち治るに違いない。思うに私は安上がりの人間だ。シャンパンで頭痛を起こす私は新年以外にシャンパンを欲しがらないから。その分赤ワインに投資しているから差し引きゼロかもしれないけれど。
今年はいつ帰ってくるのと訊いたのは、姉だった。毎年恒例の新年の電話で、色んなことを話してさあ切ろうというところで、姉が訊いた。夏は休暇が長いから夏を考えているけれど、兎に角航空券が高い。冬は来月辺りに購入すれば若干手頃な値段で手に入るかもしれないけれど休暇が短い。悩ましいところだとこちらの事情を説明したら、姉は言った。いつでも帰りたい時に帰ってくればいい、私達は何時でも歓迎するから。
糸の切れた凧のように日本を飛び出してアメリカへ行き、その足でイタリアに来てしまった私は、正直言って親不孝者だ。そして恒例の母のあれこれを姉に託している私は、姉に全く頭が上がらない。だけどいつも言ってくれる、いつでも帰っておいでと。
帰る場所のある幸せ。若い頃は自分を過信して夢を追い続け後ろを顧みる余裕もなかったけれど、今は思う、見守ってくれる人が居たから出来たことだと。父はもういないけど、母が居て姉が居て、そして姉の家族が居て、いつも私が帰って来るのを愉しみにしてくれる、それを私は幸せと呼んでいる。そして、この幸せに気付くことが出来たことに感謝なのだ。
歳を重ねて昔の若さも元気も手放してしまったが、手に入れたことが沢山ある。家族の有難さ。周囲の人の存在の有難さ。そういうことに気づけたのは本当によかったと思っている。
新しい年を迎えて色んなことを考えている。大小さまざまな旅をすること。色んな人に会うこと。どんな事があっても考えすぎずに、何とかなるさとやり過ごせるようになること。何時も自分が自分でいられること。それからそれから、一番大切なのは健康。身体も心も健康で居たいと思う。
私達にとって喜びと希望に満ちた一年になりますように。今年もお付き合いお願いします。