古い店
- 2017/02/26 23:04
- Category: bologna生活・習慣
ボローニャは昔からあるものを大切にする町だ。それは古い建物に限らず、例えば昔からある店などもそのうちの入っている。近年は郊外の大きなスーパーマーケットや昼時も店を閉めずに朝から夜遅くまで営業している小型のスーパーマーケットが驚くほど増えたけれど、それでも昔ながらの店には特別な愛着があって、少々高くついてたとしても好んで足を運ぶのだ。ただ、それもここ数年、そうした昔の店が消えつつある。どうしたって大型店の価格競争には勝てないし、それからもうひとつ言えば、古い店に愛着を持って足を運んでいた世代の人々がどんどん減っているからだ。勿論、そうした習慣とは家族に受け継がれていくもので、古い人達が居なくなっても娘や孫が同じように、それらの店をひいきにすることもあるけれど。昨年の夏、スカラマーリが店を閉めた。ボローニャ旧市街の中心に建つ2本の塔の下から東に伸びるStrada Maggioreに食料品店として100年以上存在した店だった。店を閉めたと言う表現は正しくない。正確には、スカラマーリはフランス系のカラフールに吸収されたのだ。ポルティコの下に有る店の看板は取り外されてしまった。看板こそカラフール・エクスプレスとなったけれど、私たちのスカラマーリは今までどおり静かに存在している。
スカラマーリの名を初めて聞いたのは、私が相棒と共にボローニャに引っ越してきた頃だった。私たちは定着する家が無かったから、相棒の友人や幼馴染の家を渡歩いていた。あちらに2週間、こちらに2週間と言う具合に。私たちが大好きだったアメリカの海の町を離れてボローニャに来たのは、ふたりの娘を続けて亡くした相棒の両親を助ける為であったが、そうしてボローニャにやって来たら、誰もそんなことは頼んでいないぞ、と両親は私たちがボローニャに来たことを少しも喜んではくれなかった。少なくとも私はそんな風に感じた。もともと私たちは両親の家に泊まるつもりは無かったので、事前に友人に部屋を貸してもらう話をつけていた。だからあちらに2週間、こちらに2週間の生活は、了解の上でのことだった。ただ、そうと分かっていても、他人の家に居候する生活は、文字にする以上に惨めではあったけれど。両親は喜んでくれていないが、それにしても私たちは全てを引き払ってボローニャに来てしまったので、ああ、そうですか、と言ってアメリカに戻るわけにも行かなかった。相棒はボローニャ生まれのボローニャ育ちだが、しかし20年もアメリカに居たことで友人も知り合いも数えるほどしか居なかった。相棒もまた、私と同じ、零からの出発と言ってよかった。始めの2週間は旧市街の友人のアパートメントに、その後はボローニャ郊外の丘の町、ピアノーロに暮らす相棒の幼馴染の家に泊めてもらった。幼馴染は私よりいくつか若い女性、モニカだった。モニカはお祖母さんとモニカの恋人の3人暮らしだったから、其処に私たちが加わって5人暮らしの窮屈な生活だった。私が窮屈に感じたことは無いが、お祖母さんはそんな感じのことを時々ぼやいては、モニカに戒められていた。と言っても家はお祖母さんの家だったから、私はひそかに申し訳なく思っていた。私はまだイタリア語を話すことが出来なかったが、言葉をキャッチするのは早く、特に嫌なこと、嬉しくないことを言われたときは、周囲は驚くほど理解するのが早かったのだ。ある日、美味しい菓子を食べた。ボローニャに住んでいる、モニカの従姉妹の何と言う名前だったか、兎に角、モニカとは全然違うタイプの従姉妹が菓子を持ってきたのだ。彼女はお金に糸目をつけぬと言った感じの装いで、仕事で成功しているのが良く分かった。彼女が持ってきたのは、美しい箱に入った詰め合わせ、みたいなものだった。それがスカラマーリで購入したものだった。こういうものはスカラマーリが良い、みたいな暗黙の了解と言うか何というか、地元の人達にしかわからないような感じが其処に居合わせた人達の話の底辺に染み付いているような感じがあった。私はスカラマーリと言う名前を、あの日、頭の片隅にインプットしたのだ。実を言えば、私は、幾度も店の前を歩いていた。ただ、店の構えは大きいけれど割と地味な雰囲気なので、気が付かなかったのだ。何年も経って、スカラマーリに入ったのは、手土産を探していたときだった。あの日の美しい箱に入った菓子を思い出したからだ。店に入ると親切な店員がやって来て、色々相談に乗ってくれた。昔ながらの対面式の商売を快く感じた瞬間だった。古いイタリアの映画に出てくるような、客ひとりひとりを丁寧に応対してくれることに、私は恋をしたと言うか、この町の人達がこの手の店を贔屓にしている理由が分かった瞬間でもあった。それから私は、こうした手土産を求めるとき、スカラマーリに行くようになった。そんなに頻繁ではない。ほんの時々のことだけど。
何年か前、若い友人から美味しいチョコレートを貰った。何処で購入したのかと訊けば、スカラマーリだと言う。当然だった。彼女は店の目と鼻の先に住んでいて、由緒ある家系の彼女は、こうした店をごく普通に利用しているに違いなかったから。若い彼女だったが、こうしたことにはこだわりがあって、菓子はここ、パンはあの店、ボローニャ料理はあの通りのあの店と、どれも此れも昔からボローニャに根を張っている老舗の名前ばかりがあがった。恐らく彼女の家がずっと贔屓にしていたのだろう。そういう彼女の拘りを、私は好ましいと思っていた。そうか、やはりスカラマーリなのか、と彼女とお喋りをしながら思ったものである。
スカラマーリは看板を取り外したが、店の中には今も以前のようにスカラマーリのセレクト品が存在するらしい。昨年、たまたま前を通りかかったら人々にスパークリングワインを振舞っていた。何か祝い事のようだと見上げたところで、カラフール・エクスプレスの看板を見つけて酷く驚いたものだ。けれども人々の談話の中から、カラフールに吸収されたがスカラマーリの店主も店員も、そして品物も店内にそのまま存在するらしいことを聞き取って、妙にほっとしたものだ。私は常連でもなんでもない。ましてや古いボローニャ人でもなんでもない。でも、こうした習慣と言うか、何というか、私は古いものに拘るボローニャの感覚が好きなのだ。1912年に店を開けた初代の店主は、こんな風にして看板を下ろすことになったことを知って、驚いているだろう。Strada Maggioreといえば、昔から成功者や豊かな家系の人々の建物が立ち並んでいる。そして彼らはこの店をこぞって贔屓にしていたから、決して消えることはないと思っていたに違いないのだ。私にしてもそうだ。まさかスカラマーリの看板が下ろされる日が来るなんて。
時代の流れと言うものか。淋しいけれど、こんな風にしてボローニャも変わっていくのだろう。しかし旧市街の食料品市場界隈にあるパン屋のAttiだけはそんなことがあってはならぬ。あってはならぬのだ、と私は美味しいパンを求めて足繁く通うのである。