ヤドリギの枝の下で
- 2016/12/31 17:47
- Category: ひとりごと
大晦日の一日は外出しない、と前々から考えていたと言うのに、急遽変更。手早く身支度をして家を出た。昼までに帰って来ようと思って。旧市街の、特に2本の塔のある辺りは大変な人混みだった。高いほうの塔に登ろうと列に並んでいる人々。こんなに沢山の人が並んでいるのを見たことが無い、と空いた口が塞がらぬほどの列だった。過去に幾度か塔に登った経験があるが、ひとりだって入場の為に並んでいる人などいなかった。がら空きで、入場券を販売している係員が暇そうで気の毒だったくらいだ。1年の最期に塔の上からボローニャを見渡す。悪くない案だと思った。
旧市街を歩きながら思い出したのは、今日が土曜日であることだった。冬の休暇に入って以来、曜日の感覚がおかしくなった。旧市街の車道が塞がれていて、道の真ん中を楽しそうに闊歩する人達を眺めながら、そんなことを思った。
食料品市場界隈にある雑貨屋さん。私は此処に用事があった。ほぼ毎日のように前を通るが、昼休みだったり、閉店後だったり、休みだったり。その度に私は思ったものだ、縁がないのかなあ、と。それで今日は絶対に開いている時間帯を狙ったと言う訳だ。この店はたいへん小さい。それから他の店より少し高い。なのにいつも混んでいるのは、他の店ではおいていないものも沢山あるからだ。革製品を手入れするクリームにしても、何にしても。それから案外歴史の長い店なので、昔からの常連さんも多いらしい。店の中があまりに混んでいたので一瞬ひるんだが、思い切って中に入った。時間はたっぷりある。自分の順番が来るまで待てばよいだけだった。そのうちやっと店員の手が空いたらしく、さあ、何をお見せいたしましょうか、と声を掛けられた。ブラシを見せてください。ブラシ? そう、ブラシ。外套の埃をとる為のブラシ。そうして店の人が見せてくれたのは、馬の毛のブラシと羊の毛のブラシだった。前者は黒くて堅い毛で、後者は白くて思わず頬擦りしたくなるほど柔らかだった。値段を訊いて驚いたが、店の人の言葉を聞いて、羊の毛のブラシを購入した。高いですよ。でも、生地を傷めません。この店の人は勧めるのがとても上手だ。気に入りの外套をあと10年着ようと考えている私の心を見抜いたような言葉だった。気に入りとは言え、既に10年着ている外套をあと10年着るなんて、と人は言うかもしれない。でも、ベーシックのこの黒いコートは流行り廃りが無いし、それに少しも傷んでいないから、やはりあと10年は着てあげたいと思う。ひょっとしたら生地が擦り切れてあと5年しかもたないかもしれないけれど。
店を出て並びの近くの花屋を見て回った。近くに花屋が2軒ある。しかしそのどちらにも求めているものを見つけることが出来なかった。その求めているものとは、ヤドリギである。イタリアではヴィスキオ(Vischio)と呼ばれている。昨晩、フランスに暮らしている女性のブログを読んでいたら、ヤドリギのことが書いてあった。フランスではヤドリギの枝の下でキスをして新年を迎えると、幸せな1年になると言う話で、彼女は郊外の森に、このヤドリギを探しに行ったそうである。写真を見てみたら、あら、これは見たことがある。イタリアにも同じ習慣があるのではないだろうかと思って相棒に訊いてみたところ、案の定、イタリアにもそうした言い伝えがあることが分かった。これは是非とも手に入れなくては。とは言っても私は彼女のように森にヤドリギを探しに行くことはない。そもそもどの森に行ったらよいのかもわからない。それで花屋に来たと言う訳だった。このどちらかの店にあると睨んでいたのに。私はがっかりしながら家に帰るべくバスに乗った。幸せな新しい1年を早くも逃してしまったような気分だった。家の近くでバスを降りると、思い出した。そう言えばこの近所に小さい花屋があるではないか。店はパキスタン人夫婦が切り盛りしていて、日曜日も祝日も、要するに一年中営業している花屋だ。花屋へ行くと奥さんが居て、彼女の足元に、あった、あった、ヤドリギがあった。縁起物らしく、購入する人が多いのだろう。既に透明のセロファンで包み赤いリボンを付けたものもあったけれど、贈り物じゃない、自分の家に飾るのだからと、丸裸の元気そうな大振りのヤドリギを選び出すと、それでもやはり縁起物だからと奥さんが枝に赤いリボンをつけてくれた。赤い色は縁起がいいからね、という言葉つきで。嬉しくてならなかった。知らないうちに鼻歌を歌っていたらしい。道端ですれ違った近所の青年に、どうしたのさ、機嫌がいいじゃないか、いいことでもあったのかい、と言われた。いいこと? うん、ヤドリギを手に入れたからね、と言って自慢げに見せると、うちじゃあ、親父が早くも居間に飾ったよ、と言って笑った。午後、相棒にヤドリギを見せたら、喜んでくれた。ヤドリギを見ると死んだ彼の父親を思い出すそうだ。父親は大晦日になると何処からかヤドリギを手に入れて家に飾っていた、と。私は一生懸命昔のことを思い出してみた。すると、古い記憶が蘇った。そう言えば、そうだ。君の家にも少し、と言って枝を分けて貰ったことが一度だけあった。もう10年も15年も前のことで、いったいどの年のことだったか思い出せないけれど。ヤドリギの話が、こんなことに結びついた。ヤドリギの枝が手に入ったことが、既に幸せな新しい1年を保証しているかのように思えて、今日の私は笑いが止まらない。
あと数時間で1年が終わる。色んなことがあったけれど、過ぎてしまえば全て思い出になる。嬉しかったことも、楽しかったことも。辛かったことも、悲しかったことも、同じように綺麗に畳まれて、記憶の小箱に収められるのだ。
沢山のことを学んだ1年でした。多くの人に支えられて、多くの人に教えて貰った素晴らしい1年でした。ありがとう、皆さん、本当にありがとう。両手で抱えきれぬほどの感謝の気持ちと共に1年を締めくくりたいと思います。