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この季節は気候が不安定で、暖かい日だと思っていたら気温が急降下して震えるほど寒くなる。用心しなければならぬ、と思う。春と言うのはそういうもの。人生長く経験しているから知っている筈なのに、毎年小さな失敗をする。今年はするまい、と思っていても。

私が彼と知り合ったのは共通の知人を介してのことだった。アメリカに暮らし始めて8か月が過ぎた頃だっただろうか。同い年ということもあったかもしれないが、話して楽しいのが私達が時々電話を掛けたり会うようになった理由だっただろう。その日は電話で話をしているうちに、外に出てこないかと誘われた。ひょっとすると濃い霧が出るかもしれない、それとも急に気温が下がるかもしれない予感のする春の匂いのする夕方だった。彼が暮らすのはパシフィックハイツと呼ばれる界隈で、私のノブヒルのアパートメントから歩けば15分ほどの場所に在った。その中間にハードロックカフェがあって、私達はそこで落ち合うことになった。理由は、私がまだその店に一度も足を踏み入れたことがないと言ったからだったに違いないが、本当のところはもう思いだせない。人気の店も平日の早い時間帯は人が少なくて、普段なら入店に長蛇の列が出来るところだが、並ぶ必要もなく、身分証明書を見せるとすんなり中に入ることが出来た。とは言え、店の中は結構な混み方で、名が世に知られたこの店には不景気は決してやってこないに違いないと思ったものだった。当たり前といえば当たり前、しかし音楽のボリュームが大きくて、私達は顔を寄せ合って大声で話さねばならなかった。テンションを上げるには良い場所だが、私向きではないようだった。ちょっと軽食をとって、お喋りをして、音の凄さと自分たちの話声の凄まじさで頭が混乱しそうになったところで店を出た。外はすっかり暗くなっていた。私達は交差点の角にある街灯の下で立ち話をした。其れで仕事は見つかったのかい? と訊かれて、私は首を横に振った。見つからない。もう見つからないのかもしれない。私がそんな弱気な言葉を吐くと、彼は驚き、そして言った。君には自由に動かせる手と、自由に動き回れる足がある。何故仕事が見つからない。それは選択できる余裕があるからだ。本当で仕事を求めているならば、彼是言っていられない筈だ。その言葉は私の中にぐさりと刺さり、しかし悔しさとか恥ずかしさとかは無く、全くその通りだと思った。私達はそんな話をした後それぞれの家に向かい、私はその道がら色んなことを考えた。私は仕事ならば何でもよいなどとは思っていなかったから、反論のひとつもすればよかったかもしれない。でも、確かに私は甘かったのだ。あれが嫌だ、これが嫌だ、これは理屈にあっていない、私には不向きだ、と我儘放題だった。私は思いださねばならなかった。此処は日本ではないこと。自分は外国人なのだ。仕事を選ぶのはまず仕事に就いて、生活を安定させてからだって遅くはないこと。それから数日、彼と話をしなかった。私は夢中になって仕事を探していた。手応えは無かったが、そんな様子を見ていた知人を通じて仕事を得た。私が求めていた職種ではなかったけれど、時給も呆れるほど低くかったけれど、生活を安定させるには充分だったし、何より知人の親切が有難かった。この辺りから私の人生観が変わっていった。周囲の人達は案外良く見ていて、一生懸命になっている人に手を差し出してくれること。自分が存在するのは自分の力ばかりではなくて、周囲の皆が居るからこそのこと。今までの人生で様々なことを学んできたが、多分これほど大切な学びは無かっただろう。仕事を得て翌日から働き始めた。そして数日経って、ようやく彼に電話をした。仕事を得て働き始めたことを報告して、そしてあの日彼が言ってくれた言葉に感謝した。あの言葉がなかったら、そのうち私はここでの生活を引き上げて日本に帰っていたに違いないのだ。彼とはその後も幾度か会ったが、散々嫌な思いをして離れた。そもそもそれほどの付き合いではなかったのだ。友達にけがは得た程度の友人関係だった。もう二度とこの人には関わりたくない。そう言いながらも、しかし彼への感謝だけは変わりない。あの日、彼が言った言葉。あれから27年経った今も色褪せていない。
そんなことを思いだしたのは、あの日と同じ春になったからだろう。

遂にとうとう、綿毛が舞う季節になった。ポプラの樹が放つ綿毛。窓を開けておこうものならいつの間にか部屋の中に侵入する招かれざる存在だ。一体何処にポプラの樹があるのだろう。この辺りのことはかなり知っていると自負しているが、幾ら頭をひねっても思いつかない。




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絵本のこと

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眩しくて目を開けられぬほどの快晴。気温は上がりつつあるに違いないが、なにぶんにも風が吹いて、日差しの恩恵を拭い去る。3月最後の週末。明日の朝は夏時間が始まり、夜明けが遅くなる分だけ、夕方の明るさを楽しむ時間も長くなる。夏時間と言う習慣が良いか悪いかは分から無い。僅か1時間のことなのに、毎度時差に悩まされる人が何と多いことか。そんな負の部分をカバーするのが夕方の明るい空。こういうのを一長一短と言うのだろう。
このところボローニャには訪問者が多い。見本市の季節とでも呼べばよいのか、多くの人に名をが知られた大きな見本市が次から次へと開かれているからだ。例えば明後日からは絵本の見本市が始まる。これについてはもう何年も耳にしていて、一度覗いてみたいものだと毎年思うのに、まだ一度も足を踏み入れていない聖域。素晴らしい見本市らしい。大人になっても絵本を読むのが好きな私だ。時には本屋の店先で絵本に恋することもある。そうして手に入れた数冊が、相棒が愛情をこめて修復した骨董家具の中に納まっている。部屋に飾りたいが何しろ猫がいるし、それに光で色が覚めてしまっても困る。ということで中にしまいこんでいるが、これらの存在は大きく、忘れることなどはない。夜眠る前や週末ののんびりした時間に取り出しては時間をかけて堪能する。大人になって絵本なんてと思うなかれ。良いものは良い。それでよいではないか。兎に角今年も絵本の見本市には行く予定はなく、しかし其れに合わせて様々な絵本が店頭に並ぶに違いない旧市街の本屋を数軒渡り歩こうと思っている。

昔、大昔のことになるが、絵を描いていたことがある。高校生だった私と友人は週末になると美術館へ行ったものだ。彼女は一般的にみて大変可愛いくて長い髪も大きな瞳も私に無いものばかりだった。性格も愛らしいと呼ぶに等しいもので、直ぐに頬を染めて恥ずかしがる。私はそんな彼女が大好きだった。そんな彼女と一緒に居た私だが、見た目も性格も異なっていた。髪は短くしていたし、恥ずかしがること自体があまりなかった。性格はさっぱりと淡白で、周囲が何をしていても、私は自分がしたいことに没頭する、俗に言う我が道を行く性格だっただろう。それだから私達がいつも一緒に居ることを周囲は不思議がったかもしれない。面白い組み合わせ、と思っていたかもしれない。類は友を呼ぶ、という言葉を、あの頃の私が知っていたとしたら、自分も不思議に思っただろう。大人になって私達は別々の道を歩むようになったが、時々連絡を取り合い、顔を合わせた。ある日、帰りの電車で偶然一緒になり、肩を並べて話をしたとき、彼女が外国へ行くことを知った。それは予想していたような、していなかったような。遠くへ行ってしまうのが淋しいような、これで良いような。彼女が飛び立ち、そして帰ってくると、入れ違えのように私がアメリカへ飛び立った。外見も性格も異なると思っていた私達だったけれど、案外共通項があったのかもしれない。鉄砲玉のようなところ。こうと思ったら飛び出してしまうようなところ。その彼女と2年前の夏、25年振りに再会した。それぞれの道を歩くようになって長い私達だが基本的なところは変わっていなくて、彼女はやはり恥ずかしがると頬を染める愛らしい人で、私は淡々としていて実にけろりとした人で。こんなに異なるのに互いに好意を持っていて、会えば話すことが沢山ある。そして次の帰省の時にはまた会いたいと思う。長い年月が私達の間に憚ることがなく、あの頃のように話が出来る友人が居ることを、私は幸運と思っている。元気で居ればまた会える友人関係。大切なことを相談できる間柄で居たいと思う。どうしてそんなことを思いだしたのか。多分、絵本の見本市が始まるせいだろう。

春は曙、と題した絵を書いたことがある。子供の頃のことだ。それがちょっとした賞をとり、絵を描くのがますます好きになった、そんなことを思いだして苦笑する。父も母も喜んだが、結局、大人になって絵を描くことをやめてしまった。その時の両親の気持ちは想像することもできない。残念だっただろう。それとも娘が決めたことならばと、思ってくれただろうか。私の気持ちを尊重してくれた父はもう14年も前に他界して、母は随分と老いた。親孝行はまだしていない。何をしてあげたらいいのか、私には、分からない。




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彼女と犬

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一昨日の晩は風の音が怖くて、なかなか眠りにつけなかった。こんなすごい風が時々吹く。特に私が住む界隈では。あまり凄いのでベッドから抜け出して、テラスに続く大窓から外を眺めた。日除けのカーテンがぱたぱた音を立てながら揺れていた。そして驚いたことに小振りの植木鉢が今にも飛び立とうとしているではないか。私は上着を着こんで、意を決して外に出た。こんな小降りとはいえ、植木鉢が飛んで行ったら大変なことになる。危ない、危ないと言いながら植木鉢を抱えて家に入る。今夜は家の中で過ごしてもらうよ、、植木鉢さん。窓の数近くに植木鉢を置いて、再びベッドに潜ると、あっという間に深い眠りに落ちた。

そうして目を覚ますと冬のような寒さが待っていた。気温を確認してみたら6度。このところ暖かい日が続いていたのでがっかりしたが、しかし焼く晩大風の後に雨がふんだんに降ったらしく、地面が黒く光っていて、窓の前の栃ノ木の新芽も美しい緑を誇っていた。自然は喜んでいるようだった。私は再び冬のコートを引っ張り出さねばならなかったけれど、其れもまた良し。最後の寒さだと思えばよい。
そんな風にして気温が下がるとなかなか上がらないらしく、今日に至る。皆、春めいた軽装で歩いているが、寒くはないのだろうか、と思う。私は再び冬姿。風邪を引くよりはずっといいでしょう?と自分に言い聞かせたうえでのことだ。人々の短いジャケットや、薄手のセーターが目に美しい。私は腰よりも長めの温かいコートを着こんで、人がじろじろ見て居心地が悪い。そんな夕方、同じ停留所から若い女性がバスに乗りこんだ。彼女は黒い犬を連れていていた。俗に言う雑種の中型犬。痩せていて、黒い毛がふさふさ滑らかで、まだ若いらしくそわそわして、バスの乗客の足元に行っては、飼い主に窘められていた。犬は首に美しい青色のバンダナをつけていて、それがとても可愛かった。ふと見れば、飼い主も黒いコートと黒のジーンズに同じ青のセーターを着こんでいた。青いバンダナをした黒い犬がついに私の足元にやって来た。犬は私の足元に猫の匂いを感じたらしく、くんくんと鼻を寄せ、そしてまた飼い主に窘められた。いいのよ、大丈夫よ。と私が彼女に言うと、でもね、と言ってまた犬を窘めた。立て続けに窘められた犬はしょんぼりしながら彼女の元に戻り、彼女と犬が並ぶと面白い具合になった。面白い、まるでお揃いの服を着た仲良しの姉妹みたいだ、と私が言うと、そうなの、お揃いなのよ、と彼女が笑いながら答えたので、あっという間にバスの中に笑いが広がった。先ほどまで犬を敬遠していた人達も、とても優しい表情になった。犬は敏感にこの穏やかな空気を読み、嬉しそうな声を上げると、これがやぶ蛇で、また飼い主に窘められることになり、再び笑いの渦が広がった。
彼女と犬を眺めながら、私は子供の頃のことを思いだしていた。姉と私。時々、私達は揃いのワンピースを着て出掛けた。母が出掛ける前日の晩までかかって縫ってくれた揃いのワンピース。しかし其れも姉が10歳を過ぎる頃になると妹と同じ服を着るのを嫌がり、母は揃いのワンピースを縫わなくなった。私は、自慢の姉と揃いの服を着て歩くのが好きだったけれど。随分と昔のことを思いだしたものだ。姉と私。彼女と犬。どちらもとても仲良しさんだ。
彼女と犬がバスを降りてしまうと、ぽっかりと穴が開いたように淋しくなった。あんなに犬を嫌がっていた人達すら、何だか少しツマラナソウ。可愛かったな、青いバンダナを首に巻いた黒い犬。

3月が駆け抜けていく。残りあと3日。そして夏時間がやって来る。




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苺な想い

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連日の春日。寒がりの私も軽装になり、足取りが軽い。これで足元のブーツをモカシンに替えたら、完全に春。しかし慎重にいこうと思っている。話によれば今夜から明日の明け方にかけて雨が降るらしい。春のような雨かと思えば案外冷たい雨らしく、夜が開けたらまた寒い朝が待っているだろう。三寒四温とはよく言ったもので、まさにその通りだと頷く。

昨日、相棒が苺を買って帰ってきた。今の時期に出回っているのはスペイン産。スペインはイタリアよりも早く春がやって来るらしい。赤くて大きな苺。中身は白くて案外酸っぱい。だから思い切り三温糖と檸檬をふって頂いた。いい匂い。春の匂いといえばいいだろうか。
もう随分と前のことだ。4月初旬にブダペストへ行った。友人夫婦に会いに行くためと言いながら、実は私はブダペストに恋をしていたのだ。何がどうといった理屈など通過して、兎に角好きだった。初めての訪問は12月の寒い時期だったから、是非春に、と勇んで行ったが、ブダペストの4月はまだ冬の終わりと言った感じだった。ある日ブダペスト郊外に暮らす友人の夫の母親の家を訪れた。もうすぐ家にたどり着くと言う田舎道の曲がり角で、苺を売る男を発見。苺だ、と喜ぶ私に友人の夫は窘めるような声で、この時期に出回っているのはスペイン産だから、と言った。だから何なの、と訊き返したかったが、その口調に含まれた、だから買わないよ、みたいな意味をくみ取って私は口を噤んだ。彼の言わんとしていることがよく分から無かった。スペイン産だから値段が高い、くらいにしか理解していなかっただろうか。その後、私は6月初旬という素晴らしい季節にブダペストを再訪する機会に恵まれた。友人とドナウ河沿いを散策をして、夕方、家に帰る前に市場に立ち寄ったのは友人が夕食に腕を振るってくれると言ったからだった。新鮮な野菜を沢山買いこみ、さあ、帰ろうと言う時に真っ赤な苺を見つけた。いや、見つけたと言うよりは、向こうの方から苺の甘い匂いが漂ってきて、苺は此処にあるよと呼びかけられているような感じだった。私達は苺を売る出店に行き、歓喜した。粒はそれ程大きくない。大きさも形もまちまちだけど、真っ赤に熟れた、甘い匂いを放つ苺を入れたケースが並んでいた。其れも驚くほど安い。店の人が試してごらんと言うので一粒口に放り込んだら、目を丸くしてしまうほど美味しかった。もう持てないほど野菜を買いこんでいたと言うのに、私達は更に苺を山ほど買いこんで家に帰った。その晩、私達3人はこれでもかと言うほど苺を食べた。ほら甘くて美味しい。ハンガリー産の苺だから、と言う友人の夫の言葉で思いだした。彼が言った、あの日言った、スペイン産だから、との言葉。あれは別にスペイン産だから高いとか何とかではなくて、こんなに美味しいハンガリー産の苺がこれから出回るんだから少し待ちなさいよ、と言う意味だったのかもしれない。そして彼は国産物を好む人なのかもしれないと思った。あれから私にもいろんな変化があった。国産物を好むようになったのである。例えばイタリアのさくらんぼ。イタリアの苺。イタリアのオレンジ。イタリアの大蒜。イタリアのどこの町のが良いなどと言って通ぶると相棒に嫌な顔をされるが、知り始めると面白いほど質の良い国産物があることが分かって、拘りたくもなるのである。
国産品に拘りがあると言いながらもこの時期はスペイン産の苺に頼るしかあるまい。私は友人の夫のように国産の苺が出回るまで待つことが出来ないのだ。苺が好きだ。春を運んでくる苺。がぶりと齧り付いた時に口の中に広がる幸せ。言うなれば魔法のような物だ。

雨は降り始めただろうかと思って窓の外を覗く。風は吹き始めたが、まだ降り始めていない。困ったな。案外ずれ込んで、明日は一日雨になるのかもしれない。




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歩く

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一週間後の今日は夏時間。大窓の向こう側に広がる明るい空を眺めながら思う。長くて終わりそうにないように思われた冬も、そろそろ終わり。物事には必ず終わりがあり、そして新しく始まるのだと、この時期になるといつも同じことを思いだす。例えば辛いことも、苦しいことも、必ず終わりがあるのだ。私のボローニャの生活の始まりは想像していたのとは異なり、閉塞的で辛くて出口のないトンネルのように思えたものだが、気が付けば明るい空の下に居て、トンネルを抜け出したことにすら気づかなかった。気付けば悠々と散歩などして、気付けば仕事帰りにワインなど嗜んでいて。夏になれば糸の切れた凧のように家から飛び出して。こんな生活を手に入れることが出来るなんて、あの頃には想像もできなかった。それは勿論自分だけの力ではなくて、周囲に存在する遠くや近くの人達の応援や助けであり、そして見えない不思議な力もあったかもしれない。運が良かったのかのかもしれない。何にしろ、冬が終わって春が来るように、私達の人生にも、そういう時期があると言うことだ。春が好きなのはそんなことからかもしれない。一年に一度くらい、このことを思いだして感謝するのは良いことだと思っている。

昨日の散策。少ししか歩いていないのに、今日は足がガタガタだ。昔は8時間も歩いて、歩き過ぎだと皆に窘められたと言うのに。日本に暮らしている時もそんな風に歩いた。日本橋から銀座、そして新橋まで歩くなんてのはよくある話だったし、曙橋辺りから何処をどうやって歩いたかは覚えていないけれど、東京タワーの袂まで歩いたものだ。何がそんなに楽しいのかと友人に訊かれたけれど、楽しいと言うよりは交通機関を利用していたら見ることも発見することもない小さなものに歩いていれば出会えるから、と言うことだ。そしてそれはアメリカへ行っても同じで、あれほどバスが発達しているのに、バスの月ぎめパスも持っていたのに、空が明るい時間はひたすら歩いた。ちょっと出掛けてくる、という私に、一緒に暮らしていた友人や、そして後には相棒も、いつも同じ言葉を私の背に投げかけた。何処へ行くの? その問いが一番苦手だった。何故なら私には目的地なるものは無かったからだ。何時だって気が向く方向へ。海の方へ行こうと思いながら反対の丘の方へ行くことも多々あった。あれほど歩いても足が痛くてもう歩けないなんてことが無かったのは、やはり若かったからだろう。20年、30年という年月は自分が感じているよりもはるかに大きいと言うことなのだろう。
ところで昨日は久しぶりにVia D’azeglioを歩いた。此処にはちょっとした思い出がある。1995年、ボローニャに暮らし始めたばかりの頃、ほんの数回だけ無料の学校に通ってみた。週に一度か二度か、そんなことも覚えていない遠い昔のこと。イタリア語の授業で、1,2時間のクラスだっただろうか。そこにはヨーロッパ各地から集まった若者が居て、そしてその中に日本人の若い夫婦が居た。夫婦は音楽家で、音楽のためにボローニャに来たとのことだった。旧市街の古い由緒ある建物にアパートメントを借りることが出来る豊かな人達に違いないのに、決して其れをひけらかすことの無い、とても感じの良い穏やかな人達だった。その彼らと歩いた道。時々足を止めて店のショーウィンドウを見入ったが、驚くことにその小さな店は今も残っている。あれから随分経つ。その間に彼らは活動基地と住まいをローマに移したらしい。もう15年ほど前にローマへ行き、帰りの列車を待つべくテルミニ駅のホームに立っていた時、偶然見かけた。夫の方しかいなかったので確信は無かったが、声を掛けてみたところ、そうだと言う。昔ボローニャで一緒に帰り道を歩いたことがあると言う私に言葉に彼は目を丸くして、覚えていると喜んでくれた。どうやら彼らはローマで名を上げ、ローマでの生活に満足しているらしかった。どんなふうにして別れたかも覚えていない。また何時かイタリアの何処かで。そんな具合だっただろうか。そんなことを思いだしながら、久しぶりに同じ道を歩いた。あまり変わっていない。変わったとしたら、新しいバールくらいのもので。この辺りはいつもマイペースな空気が漂っていて、此れから先も変わることがないのだろうと思う。思えば、イタリア語が全然わからずに飛び込んだボローニャの生活が、うまく行く筈がなかった。私がこの街の生活に馴染み出したのは、自分の言いたいことを曲げることなく伝えることができるようになった頃と丁度一致するのかもしれbない。

22度。窓を開けて空気を入れ替える。多少鼻がむずむずするけれど。こんにちは、春。一緒に存分楽しもうではないか。




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