春
- 2019/03/31 20:29
- Category: ひとりごと
この季節は気候が不安定で、暖かい日だと思っていたら気温が急降下して震えるほど寒くなる。用心しなければならぬ、と思う。春と言うのはそういうもの。人生長く経験しているから知っている筈なのに、毎年小さな失敗をする。今年はするまい、と思っていても。
私が彼と知り合ったのは共通の知人を介してのことだった。アメリカに暮らし始めて8か月が過ぎた頃だっただろうか。同い年ということもあったかもしれないが、話して楽しいのが私達が時々電話を掛けたり会うようになった理由だっただろう。その日は電話で話をしているうちに、外に出てこないかと誘われた。ひょっとすると濃い霧が出るかもしれない、それとも急に気温が下がるかもしれない予感のする春の匂いのする夕方だった。彼が暮らすのはパシフィックハイツと呼ばれる界隈で、私のノブヒルのアパートメントから歩けば15分ほどの場所に在った。その中間にハードロックカフェがあって、私達はそこで落ち合うことになった。理由は、私がまだその店に一度も足を踏み入れたことがないと言ったからだったに違いないが、本当のところはもう思いだせない。人気の店も平日の早い時間帯は人が少なくて、普段なら入店に長蛇の列が出来るところだが、並ぶ必要もなく、身分証明書を見せるとすんなり中に入ることが出来た。とは言え、店の中は結構な混み方で、名が世に知られたこの店には不景気は決してやってこないに違いないと思ったものだった。当たり前といえば当たり前、しかし音楽のボリュームが大きくて、私達は顔を寄せ合って大声で話さねばならなかった。テンションを上げるには良い場所だが、私向きではないようだった。ちょっと軽食をとって、お喋りをして、音の凄さと自分たちの話声の凄まじさで頭が混乱しそうになったところで店を出た。外はすっかり暗くなっていた。私達は交差点の角にある街灯の下で立ち話をした。其れで仕事は見つかったのかい? と訊かれて、私は首を横に振った。見つからない。もう見つからないのかもしれない。私がそんな弱気な言葉を吐くと、彼は驚き、そして言った。君には自由に動かせる手と、自由に動き回れる足がある。何故仕事が見つからない。それは選択できる余裕があるからだ。本当で仕事を求めているならば、彼是言っていられない筈だ。その言葉は私の中にぐさりと刺さり、しかし悔しさとか恥ずかしさとかは無く、全くその通りだと思った。私達はそんな話をした後それぞれの家に向かい、私はその道がら色んなことを考えた。私は仕事ならば何でもよいなどとは思っていなかったから、反論のひとつもすればよかったかもしれない。でも、確かに私は甘かったのだ。あれが嫌だ、これが嫌だ、これは理屈にあっていない、私には不向きだ、と我儘放題だった。私は思いださねばならなかった。此処は日本ではないこと。自分は外国人なのだ。仕事を選ぶのはまず仕事に就いて、生活を安定させてからだって遅くはないこと。それから数日、彼と話をしなかった。私は夢中になって仕事を探していた。手応えは無かったが、そんな様子を見ていた知人を通じて仕事を得た。私が求めていた職種ではなかったけれど、時給も呆れるほど低くかったけれど、生活を安定させるには充分だったし、何より知人の親切が有難かった。この辺りから私の人生観が変わっていった。周囲の人達は案外良く見ていて、一生懸命になっている人に手を差し出してくれること。自分が存在するのは自分の力ばかりではなくて、周囲の皆が居るからこそのこと。今までの人生で様々なことを学んできたが、多分これほど大切な学びは無かっただろう。仕事を得て翌日から働き始めた。そして数日経って、ようやく彼に電話をした。仕事を得て働き始めたことを報告して、そしてあの日彼が言ってくれた言葉に感謝した。あの言葉がなかったら、そのうち私はここでの生活を引き上げて日本に帰っていたに違いないのだ。彼とはその後も幾度か会ったが、散々嫌な思いをして離れた。そもそもそれほどの付き合いではなかったのだ。友達にけがは得た程度の友人関係だった。もう二度とこの人には関わりたくない。そう言いながらも、しかし彼への感謝だけは変わりない。あの日、彼が言った言葉。あれから27年経った今も色褪せていない。
そんなことを思いだしたのは、あの日と同じ春になったからだろう。
遂にとうとう、綿毛が舞う季節になった。ポプラの樹が放つ綿毛。窓を開けておこうものならいつの間にか部屋の中に侵入する招かれざる存在だ。一体何処にポプラの樹があるのだろう。この辺りのことはかなり知っていると自負しているが、幾ら頭をひねっても思いつかない。