
ブダペストの滞在を終えてボローニャに帰って来ると、いつもの普通の生活が待っていた。普通の生活。それは実に退屈な響きを持っていながら、安心感を含んだ良い言葉だ。普通の生活がなくて毎日が特別な生活だったら、私のような普通の人間は疲れて息切れしてしまうに違いない。しかし私は決めたのだ、生活を少し変えてみよう、と。小さなことで良い、手軽に始められる小さなことを少しずつ変えていくだけで良い。例えば平日の夜の外出がとても苦手だが、たまには私の中だけで作られたつまらないルールを破って遊びに出てみるとか。互いに忙しすぎて理解が難しくなりつつある相棒と、週末は一緒に遠出をするように心掛けるとか。早速相棒に話を持ち寄ると意外にも簡単に同意を得ることが出来た。ある夏の午後のまだ強い陽射しがさす中、私達はピアノーロの家を出発した。暫く車を走らせてから、自分達がまだ行き先を決めてないことに気がついた。何処へ行こうか、と訊かれて私はBrisighella という町の名を口にした。この町へ行ったのはもう11年も前のことだ。ボローニャの生活の波に乗ることが出来なくてもがき苦しんでいた私を想って、相棒が連れて来てくれたに違いなかった。この美しい町を見たらきっと私が喜ぶのではないかと。そんな気持ちも知らずに、何故こんな田舎町に連れて来たのかと更に悲しみ、挙句の果てにはこんな町は嫌いだと言って相棒の気持ちを踏みにじった。あれから年月が大分経ち、私はボローニャが好きになり、特に田舎町を愛するようになった。あの頃の今思えばどうでも良かった自分の中の苦しみも悲しみも忘れたが、相棒に向けて放った心無い言葉は忘れていなかった。だから私がこの町の名を言った時、相棒はとても驚いたようだった。ボローニャからは南東に位置する町だ。本当ならば1時間も掛からずに着ける近郊の町なのに、私達は何度も道を間違えたのでBrisighella に着いたのはもう夕方になっていた。11年振りに訪れたこの町を美しいと思った。美しいものを美しいと感じることが出来るのは、心が健康だからである。此処に戻ってきてよかったと心の中で呟いた。やっと長年の呪文から解かれたような気がした。

丘の上の時計台を目指して私達は坂道を登った。丘の頂から町を見下ろすと、波のように続く屋根瓦が西陽に照らされて光っていた。町を取り囲む丘の斜面にはオリーブ畑やブドウ畑が続いていた。穏やかな空気が満ちたこの町が好きになりそうな予感がした。ああ、こんなに美しい町だったなんて、知らなかったな。 そう言って、素直でない私は相棒に背を向けながら、あの時の心無い言葉を詫びた。