遠い記憶。田舎暮らし。
- 2017/07/30 21:05
- Category: bologna生活・習慣
世間では夏の休暇が始まったらしい。先ほどテレビで言っていた、北から南へと続く高速道路が如何に混み合っているか、空港と言う空港が旅立つ人達で如何に混雑しているか。イタリアの子供たちはもう随分前から約3か月の夏休みだけれど、大人にも休暇の季節が遂にやってきたという訳だ。尤も私の休暇はまだ1週間先だけれど、しかしこうも町の人口が減ると、市内の交通量がぐっと減ると、それから近所の日除け戸が固く閉ざされていると、私もひと足先に休暇に入ったような気分になるというものだ。ここ数日過ごしやすかった。朝方は20度を下回って。暑さにめっきり弱くなった私にはとても有難かったけれど、それも終わりらしい。今週は連日38,39度が予想されているらしい。そんな予報を見てしまったことを後悔しているところである。あと一週間仕事に行くのになあ、と思いながら、暑さに負けぬように睡眠と栄養をたっぷりとろうと心に誓う。
夕方になって突風が吹いた。カーテンが大きくめくりあがるほどの突風。アペニン山脈の方で夕立でもあったのだろうか。それとも遠い海の方からの風だろうか。ふとした瞬間につーんと酸味がかった、果物が熟れて、木の枝から落ちて、それが腐敗し始めた感じの匂いがして、一瞬その匂いに眉をしかめたら、遠い昔の記憶が蘇った。
相棒と私が、アメリカ生活を畳んでボローニャに暮らし始めた年のことだ。こちらに2週間、あちらに2週間といった、相棒の友人たちの助けを得ての放浪生活の終わりは真夏にやってきた。私達はボローニャ郊外の田舎町、その中でも更に田舎生活をしている小規模農家の離れを借りて暮らすことになったのだ。相棒の古い友人の家だった。母屋の横の納屋、そして私達が借りたのは納屋の隣の建物で、既に100年か200年経っている、実に古い建物だった。天井には太い梁が横たわっていて、外側の壁の厚みは50センチ以上もあった。だから外が恐ろしい暑さでも家の中は涼しくて、冷房も扇風機も不要だった。不便な場所だったが、放浪生活にうんざりしていたので、私には充分有難かった。朝早く目を覚ましたのは鶏のせいだった。驚くほど早い時間で、文句を言いながらもう一度眠りに落ちた。次に目を覚ましたのは牛のせいだった。バリトン歌手のような響く声で、早く起きろ、寝坊助め、と言われているような気がした。鶏は新鮮な卵の収穫の為に、家は新鮮な牛乳の為に。小規模にやっていたから何処かの市場に卸すのではなくて、知る人ぞ知る、直売の農家だった。野菜や果物もあった。向こう、あの辺りまでがうちの敷地だ、と指さして教えてくれた。小規模とはいえ、なかなか広い農地だった。22年前のイタリアにはまだオーガニックやBIOなんて言葉はあってもあまりもてはやされてもいなければ知られていなかった。アメリカではオーガニックの野菜に拘っていた私と相棒だったから、イタリアでそうした野菜がないことに驚いていたから、ここにあった、と偶然住むことになった場所がその手の農家だったことを喜んだものだ。自家製ワインを作るらしく、ぶどうが延々と植えられていて、その横には果物の木があった。ある日家主の奥さんに声を掛けられた。プルーンが熟れて美味しいから好きなだけ取るといい。そのままにしておけば地面に落ちて腐ってしまう。だからその前に収穫してジャムを作るといい、と言うことだった。彼女は果実畑に入って、ほら、こんな風にして収穫するのよ、と見せてくれて、私に大きな籠を手渡した。私は相棒を呼んでプルーンをもいでは籠に入れた。沢山収穫した後は果実を洗って鍋で長時間煮た。出来上がったジャムは飛び切り美味しかった。鍋の中の果実をかき混ぜている間に流した汗の分だけ美味しく思えたのかもしれない。数日後、畑に残った熟れすぎのプルーンは地面に落ちて、そのうち腐敗し始めた。つーんと酸っぱい匂いがして、プルーンがさよならを言っているように思えた。収穫してあげられなくて可愛そうだったと言う私を家主の妻は笑ったけれど、やはり可愛そうだったと今でも思う。美味しい美味しいといって食べて貰いたかったに違いない、と。
あの家には半年しか居なかった。私はローマに仕事を得てひとり飛び出してしまったから。感謝は言っても文句は言うべきではない。私と相棒は助けて貰ったのだから。定住する家がなくて困っていたのを彼らに助けて貰ったのだから。ただ、私には辛すぎた。世間と隔絶された世界と、慣れない田舎暮らし。人間の数よりも牛や鶏の方が多かったあの生活よりも、街の暮らしがしたかった。あの生活が悪かったのではない。私が環境に溶け込めなかっただけなのだ。
今ならどうだろう。案外あの生活を楽しめるのではないだろうか。時間が私を変えたのか、それとも私が自ら変わったのか。いくら考えても分からないけれど。
今日は良く汗をかいた。シャツを3度も着替えた。走ったわけでも歩いたわけでもないのに。水。沢山水を飲まなくては。夏バテなんてしている場合じゃないのだから。