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努力は報われます。

匠の国日本、そしてドイツと呼ばれております。
日本でも職人という職業があり、ドイツではマイスターという称号があります。
その二つの国は戦前、戦中、戦後と資源はなくとも人材で暮らしてきた国と言われています。
日本において魂を込めた作品を作り続けている職人、匠の技その熟練の技は神話時代から感動と尊敬の念を人々にもたらしてきました。
日本酒、漆器、和紙、茅葺、金箔、和ろうそく、織物、仏像と修理、人形、日本刀、花火、陶芸・・・
様々な伝統で培われてきた品物たち、そして最先端を受け入れ共存しつつさらに高みを目指して日々鍛錬を重ねる職人たちの技、それは今もなお伝わり、我が国日本の尊き美質であり、国を支えてゆく礎であり、我が国の誇りでもあります。
そして、その職人たちの作品を買い、そして使い続けている我が国の国民の支えがあってこそ続いているのです。

戦後、吉田茂と白洲次郎は荒廃の極みにあったわが国土を前にして、それでもそこにまだ「日本人」が残っていることに一筋の光明を見出した。
それは匠の伝統を受け継いだ、手先が器用で我慢強く、向上心旺盛な、世界有数の勤勉な国民である。
日本には天然資源はない。しかし「日本人」がいる。それを誇らずして何を誇ろというのでしょうか?

古くは水田開発により生活に余裕の出た農民たちが繕いものを行い、生活必需品を作ることから始まったといわれている伝統工芸品、律令制度にて国家運営されていたその昔税金として工芸品も納税されていました。
その土壌があってこその伝統工芸品、素晴らしいものがあります。

さて、我が国のことはなんとなくわかるのですがドイツに対してこんな記事を見つけました。
「努力は必ず報われる」は日本だけ?  日本は「努力社会」、ドイツは「才能社会」
ドイツから日本に来て常々感じているのが、「日本は努力の社会」だということ。日本では努力がとても大事にされていると様々な場面で感じます。
たとえば日本のマスコミは、ノーベル賞を受賞した人や、スポーツで成功した人を取り上げる時に、「その裏にある長年の努力」にスポットをあてることが多いですよね。
子どもの勉強に関しても、一生懸命勉強すれば、成績が上がる! 努力すれば受かる!と励ましたりします。「どんな子でも頑張ればできる!」という信念に近いものがあるのですね。
その点、筆者の出身国であるドイツはもっと残酷です。ドイツの小学校では4年生、つまり10歳で卒業なのですが、なんと4年生が終了したその時点で、将来大学へ行くために進学するか、職人になるための学校へ進むかを選ばなければなりません。わずか10歳で進路の選択を迫られるのです。そして、どの道に進めるかは「小学校4年生の時点での成績」がモノをいうので、これも日本の感覚からしたらかなり酷な気がします。
日本の場合、10歳ぐらいの子の成績があまりよくなくても、「これから頑張ればなんとかなるかも!」とまだ夢見ていられる段階なのではないでしょうか。10歳ぐらいであれば、まだまだ「これからの努力」でなんとかなるという考え方ですよね。
また日本は「努力」が重んじられますが、ドイツの場合は努力よりも「生まれ持った才能」が重視される傾向があります。たとえば数学が苦手な子どもがいたとして、日本であれば「これからがんばれば苦手を克服できるはず!」となります。でもドイツの場合は、極論をいうと、「数学に向いていないのかもしれない、職人コースに進んだほうが良いのでは」というような考え方がされがちです。日本のほうが「苦手でも上を目指して努力をする」ことが市民権を得ているのですね。
筆者は子どものころドイツ人と日本人の両方に囲まれて育ちましたが、確かに日本人の大人は「人間は『やるか、やらないか』で差が出るだけ。だから努力が大事」というようなことを言う人が多かったです。逆にドイツ人の大人は、苦手な分野に関しては早々と諦める人が多かった印象です。
20代や30代になっても「今から英語を頑張ればアメリカで女優さんになれる!」というような夢を持ち続けるのは非現実的なことかもしれませんが、「10歳でスパッと色んなことを諦めさせてしまう」よりはいいかもしれません。
スパッと諦めるか、それとも苦手な分野でも努力して夢を持ち続けるか......そんなところにも文化の違いがあるのですね。
もちろん、人によるところも大きいのですけれど。みなさんは、どちら派ですか?

日本とドイツの考えの違いが出ています。日本では何時何時でも努力を行います。才能はある程度極めてから差が出てくると考えます。寧ろ才能があっても努力しない人間は軽んじられます。
成功している人間はすべからず努力をしているものです。才能では賄えきれないと考える風潮があります。
その風潮がやればできるという考えを産んでおり、努力偏重主義とも言われたりしています。
時々日本は一度社会のレールを外れると戻ることのできないやさしくない国と言われたりしますが、私はそのように思えません。犯罪を犯さない限りその社会のレールからは外れることはないと思っています。
中卒でも高卒でもしっかりと働いている人はしっかりと働いて尊敬を集めています。
逆に大学院を卒業しても尊敬されることはありません。
たくさんお金を稼いでいても尊敬を集めることはありません。現場を知らないトップほど馬鹿にされます。
それに対してドイツは早くから自分の人生の仕事が決まるようですね。
しかし、この記事で出ている『数学ができないから職人』という言葉には違和感があります。
職人ほど緻密な計算が必要になります。単純な計算はパソコンにでも任せればいい話です。
必要なのは現物を見て設計図には書くことのできない公差をその場で計算してつじつまを合わせる能力です。
建設現場などではその都度現場で設計図を閣下得ていることをご存知でしょうか?
いちいち事務所に戻って作業することはありません。現場に任されることはほとんどです。

ではドイツの考える数学とはなんなのでしょうか?アメリカなどでは会計士などが幅を利かせているようですね。
おそらく経営学とかいう学問?で使う計算の話なのでしょう。
様々な資料を基に数値化してこじつけをするのは確かに才能が必要なのかもしれませんが、アメリカで経営の神様とか言われているジャック・ウェルチなんかがやったことといえば社員を護らずに株主だけをみて利益を上げ結果、アメリカの失業者が増え社会不安を増大させたにすぎません。
会社を守るが人材を守らないといわれています。

それに対して日本の経営の神様と言われる松下幸之助はこのような言葉を残しています。

「社員を守り、その家族を守る経営とは、規模の競争や売上高の競争、利益の競争といったシェア争いをやめる経営、そして他社との比較をやめる経営をするべきである。他社のことはどうでもいい。今年のわが社の経営内容はいいのか、悪いのか。
昨年比一万円でも、売上や利益、業績が上回っているか。社員に100円でも高い賃金を支給できるようになっているのか…。そういった点をよく見て、昨年の実績を少しでも上回る経営をめざすべきである」

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「君んとこの社員は今、何人や? …350人か。しかしな、君、350人の社員のことだけを考えとったらいかんよ。その人たちには家族がおるやろ。四人家族とすれば、君は1400人の人間の命を預かり、生活を預かっていると考えんといかん」
これは国民性の違いからくる価値観の違いなのでしょうか?
それとも幸福に対する考え方の相違なのでしょうか?
努力に関しても違いが出ておりますし、お金に対する価値観も異なります。労働に対する価値観も違うことでしょう。
それだけ職人の国と言われているドイツと日本であっても価値観が異なるのです。

我が国は努力は報われる、いつかは努力の結果が出ると信じて頑張っている人間が多く存在します。
そしてそれを支える土壌がありました。この価値観を忘れないようにしていきましょう。
我が国の技術の源である努力を軽視しないようにしていきましょう。
(ブラッキー)

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技術 | コメント:(0) | トラックバック:(0) | 2015/03/20 06:00
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