はてなキーワード: 侮辱とは
もちろん全員ではない。
ただ、少なくとも私はそうだった。
十五歳で負けていれば、私はたぶん助かった。
十八歳まで勝ってしまったから、負け方を知らないまま大人になった。
私はどこで間違えたのだろう。
若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。その恐れはたしかに私を東大まで連れていった。けれど同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。
私は今、四十七歳になる。
前の会社は、私から見れば理不尽な理由で私を遠ざけ、最後には私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も似たようなものだった。
今でも半分くらいはそう思っている。
ただ、半分はもう思っていない。
これから書くのは、その「半分」の話だ。
先日、ある雑誌に頼まれて大学新入生向けの短いエッセイを書くことになった。
私は引き受けた。
引き受けながら、ふざけるなと思っていた。
社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん編集者は、私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。
一行目だけは綺麗だ。
二行目以降は読まないほうがいい。
私は二日間、机の前に座った。
何も書けなかった。
「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。
書けば嘘になる。
私は夢を持っていなかった。
努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。
これは雑誌には載らない。
たぶん誰にも届かない。
けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが読んでくれるなら、一つだけ伝えたいことがある。
素直になれ。
よりにもよって私が言うことか。
私はずっと素直ではなかった。
性格も悪かった。
懺悔だ。
懺悔は聞かなくてもいい。
ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して少しだけ覗いてみてほしい。
第一部 正解者だった頃
地名は伏せておく。
妹が一人いた。
家は古かったが、貧しくはなかった。
私はわかっていた。
手を挙げた。
当てられて答えを言った。
正解だった。
先生が褒めてくれた。
私は嬉しかった。
書きながら本当にそう思う。
あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生にもう一度も訪れなかった。
二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。
周りもそう扱った。
先生も、親戚も、近所のおばさんも。
中学校のとき、母が近所の人にそう言われているのを二回か三回聞いたことがある。
母は嬉しそうに笑っていた。
否定はしなかった。
私は、否定しなかった母を嫌いにはなれなかった。
中学まではまだ良かった。
授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。
班活動もそれなりに楽しんでいた。
私はクラスで浮いていなかった。
背は普通だった。
顔は、まあ、普通だった。
私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。
OBに地元選出の国会議員と県知事がいる、というのが地元の自慢だった。
今思えば、それも大した自慢ではない。
けれど当時は、その校門をくぐることに確かな誇りを持っていた。
入ってみると、勉強はやはり私が一番だった。
自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。
期末試験で一番を取った。
決まる過程で、私は反対した。
もう新鮮味がない。
準備期間は二週間しかない。
私は別の案を提案した。
模擬店で何か食べ物を出すほうが客の回転が早く、利益も出やすい。
これは数字で示した。
前年度の各クラスの売上データを、わざわざ生徒会から借りてきていた。
却下した中心は、クラスで人気のあった明るくてうるさい男子だった。
彼は私の数字を見もせずに言った。
私は食い下がった。
「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」
誰かが小さく「うわ」と言った。
私はその「うわ」の意味が今ならわかる。
当時はわからなかった。
担任が温和な顔で言った。
「みんなで決めたんだから、それでいこう」
私は黙った。
黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。
当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。
客は数えるほどしか来なかった。
打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。
クラスの全員が笑った。
私は笑えなかった。
笑えない、というのは笑顔の筋肉が動かないという意味ではない。
心が笑い方を覚えていない、という意味だ。
彼らは間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次へ進んでいた。
私は一人だけ間違えていなかった。
間違えていないのに、その輪の中にいなかった。
そして結論を出した。
人に合わせると間違える。
多数派は正しさを選ばない。
この結論は、十六歳の私にとってほとんど真理として体に入った。
そして最悪のことに、それは半分は事実だった。
これが後で書くことのすべての始まりだ。
似たような出来事はその後何度もあった。
一つだけ、もう一つ書いておく。
班員は四人。
私はすぐに気づいた。
私は班員にそれを伝えた。
「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を上流と下流で比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」
班員の三人は、ぼんやりと私を見ていた。
一人の女子が言った。
「先生は最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」
そこで私は致命的なことを言った。
今でも覚えている。
そのとき私は、自分が何かまずいことを言ったことには気づいていた。
けれど何がまずいのか、正確にはわからなかった。
今ならわかる。
ただ、四人で何かを一緒にやる時間そのものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。
発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。
私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。
彼女たちも私を呼ばなくなった。
私たちは最後まで、お互いの名前をフルネームで言えるような関係にはならなかった。
その夏、私は塾の自習室にこもって一人で勉強するようになった。
そのほうが効率が良かった。
私の偏差値は上がった。
この時期に、もう一つ私の中で固まったことがある。
「言い方」という言葉が嫌いになった。
正しいことを言うと、決まって誰かが「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。
私には、それが奇妙な反論に見えた。
内容が正しければ、それでいいではないか。
なぜ正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。
それは内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。
知性に対する侮辱ではないのか。
私はそう考えた。
内容が正しければ、いずれ理解される。
これは私の中で信仰になった。
ここで君に一つだけ言わせてほしい。
「言い方」は装飾ではない。
内容を相手に届けるための、内容の一部だ。
ただの独り言だ。
三十年遅かった。
君はこれを、十八歳のうちに知ってほしい。
東京大学の合格発表は、その時代はまだ本郷キャンパスの掲示板に紙が貼り出された。
私は二月の終わりに東京へ出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。
三月十日だった。
寒い日だった。
これは嘘ではない。
本当のことだ。
「やった」とは思った。
けれど、それだけだった。
模試の判定はずっとAだった。
直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。
落ちる理由がなかった。
掲示板の前では、合格した人たちが抱き合ったり、泣いたり、家族に電話したりしていた。
私は誰にも電話しなかった。
けれど誰の声を聞きたいとも思わなかった。
私は一人で本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入り、かけそばを食べた。
蕎麦はぬるかった。
それでも最後まで食べた。
この四年間、誰と過ごすんだろう。
喜びではなく、空白に近い感情だった。
私はこれから、知らない街で知らない四年間を過ごす。
誰も私を「すごい」と言わない。
少しだけ怖かった。
けれど私は、その怖さをその日のうちに押し込めた。
「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも一人でやればいい」
そう自分に言い聞かせた。
これは合格した日に、十八歳の私が自分自身に与えた呪いだった。
その呪いに私は気づかなかった。
二十年以上、気づかなかった。
メフィスト賞取りそうなインド発のミステリサスペンス映画の珍作。47点。
ある日、警察署に自首してきたひげ面の男。何をしたのかと問われると彼は「人を殺しました」と告げる。それも9人。彼は今世間を騒がせている連続女性殺人犯だった。主人公の刑事と友人の犯罪心理カウンセラーは公判に向けてそれぞれ証拠集めと彼の責任能力の追及を行っていく。その中で2人は彼の呪われた過去の闇と向き合っていくことになる。
みたいな話。ではなかった……
冒頭、ひげ面の男が自首してきたところから始まり、殺されていった女性たちがどう殺されていったのかを映す。その後、事件を捜査し犯人に迫っていく警官たちと町中をうろうろするひげ面の男。警官たちが犯人に近づくにつれてひげ面はどんどんと警察署に近づいて行って、警官たちがついに犯人の家にたどり着くと同時に、ひげ面は警察署に自首にしに入るのであった。
という、自首までの警察側のアレコレをただ見せるんじゃなくて、彼らが捜査している間に犯人は自首を考え裏をかくように自首してきたことを見せることで犯人の手ごわさを表現しているのはなかなかようやっとる。
こんな感じでインド映画だけど、わりと正統派の演出から入って途中でやっぱり歌で全部説明するターンが入ったりするのも草が生えてよい。
あと、ライティングで善の心は青、悪の心は赤というわかりやすい処理しているのはさすがに近年ではあんま見かけない実直さだなぁと思ったり。
で、話としてはカウンセリングと捜査で犯人の過去を追っていく形になり、そこでミステリが二転三転していく。
彼の父親は母親を殺し電話で自首するも警官が到着する前に自殺していたことが明らかになるが、その捜査の過程で実は父親が母親を殺し心中を図ってきたので彼が反撃し身を守る形で父親を殺害していたことがわかる。到着した警官が彼の父親に恨みを持っていた人物だったので事件を隠ぺいしていたのだった。
犯人がカウンセリング中に噓をついていると疑っている2人は、カウンセリングで彼にこの質問をぶつける。両親の死について教えてほしい、と。
仮に世間的に公開されている両親が殺しあったと答えれば彼はうそつき。父親を自分が殺したことを話せば正直者。
彼が答えた真実はこうだった。
強権的でアル中。彼と母親を容赦なく虐待し、彼が拾ってきた子犬すら殺してしまうような父親に育てられるが、ある日、父親は盗撮の罪で捕まり盗撮された娘の親族にぼこぼこにされ大怪我を負う。そのことで家庭内では立場が逆転し、今度は母親が父親と息子である彼を強権的に虐待する立場に。
そしてある日、彼が都会での仕事が決まった日、いろいろあっていつも通り2人を虐待し始めた母親がその仕事の書類を見つけてしまう。都会に行かせてくれと頼む彼を母親は嘲笑い書類を破り捨てる。さすがにブチ切れた彼が母親を刺殺。虐待に鬱憤がたまっていた父親は俺が殺した!と言い張り自首。さらに母親を侮辱しようとした父親に怒り、彼は父親も殺害した。
父親を殺したか殺してないかどちらと答えるかで彼を測ろうとしていた2人は困惑。さらにわからなくなってしまう。
その後、犯人の家に残されていた遺留品から殺されていない被害者が存在することがわかり、彼女の捜索が始まり、そこでまたミステリっぽいリストアップからの条件による絞り込み、残った人たちを教会に呼び出してチェックするも教会内と受付で人数が合わないミステリがあってからの、実はその1人は受付に座っていました~というベタベタの展開で、その彼女の証言から犯人の恋人の存在がわかる。
犯人の幼馴染で両親の死後に再開、恋に落ちて付き合い始めるがそのうち犯人によって両親を自分が殺したことを告げられる。受け入れようとするがむしろ犯人側が疑心暗鬼になってしまい、彼女が自首しないようにストーキングをはじめさらに精神を病んでしまい両親を殺した人間は別にいて今もついてきていると言い出す。そしてお互い限界に到達してしまい、犯人は恋人を殺してしまう。
しかしそれが受け入れられない犯人は恋人とやり直すために恋人とのやり取りをいろいろな女性とカメラの前で行うことで自己カウンセリングをしようとするも結局、怒りのあまり女性を殺すということを繰り返していたのだった。
強権的な親の元で虐待を受け、そこから抜け出すために殺人を犯してしまい、さらにその殺人のせいで恋人とも悲劇的な別れ方をしてしまい、それを受け入れられなくて殺人を繰り返していたが、カウンセリングでその事実を認めることで心から反省した。ということで、裁判では罪を認めて罪状は二重の終身刑。
移送のバスに乗り込む犯人を横目に哀しい真実を突き止めた刑事は「判決は出た。できることはもうない」と話すのだった。
が、ここでUNICRONが流れ出し、コメント欄は「ん?流れ変わったな」と大盛り上がり。
バスの中が急にもわっとしだして、犯人の精神世界に接続される。バスの中には犯人と被害者たちが勢ぞろいし口々に真実を告げる。
「犬を殺したのも犯人」「母親は殺そうと思って殺した」「父親を脅して自首電話をさせて殺した」「なんなら盗撮したのも犯人だった」「生まれつき小動物を殺して過ごしていた」「幼馴染は通報しそうだなと思ったからすぐ殺した」「9人の女たちは恋人が死んで寂しかったから引き込んで飽きて殺した」
そして、殺されなかった被害者は幼馴染に導くために残した、彼女を殺していたら自首が間に合わなくて射殺されるのはわかっていた(インドでは凶悪犯は逮捕前なら射殺していい)、刑事たちを自主的に幼馴染に導くことで自身に憐憫の情を沸かせられることはわかっていた。そしてそうなれば裁判では死刑にならないように持っていけると思っていた。終身刑だが模範囚になれば死ぬまでに出られるのもわかっている。
そう、刑事たちが自分たちで見つけたと思った真実はすべて犯人によって用意されたものだった。
この映画が映し出していたことは全てうそだったことがわかり、バスは走り続け、なんかよくわからん続編を示唆して終わる。
まぁ、このオチがやりたくて撮ったんだろうし、実際のところこのオチは結構驚いたんだけど2時間映画見せられてきてそれ全部嘘でした~は体験として面白いかどうかはかなり怪しいところ。せめてもうちょっとなんかそれとわかるヒントは欲しかったかな。じゃないと、この2時間はなんやったんや?という徒労感が強くなりすぎる気はする。
ただ、その2時間のサイコミステリ部分は技法的につたないところはありつつもちゃんと真面目に作られていたので、だからこそのアンチミステリ的なこのひっくり返しはメフィスト賞っぽさあるなぁと思って、俺はメフィスト賞嫌いじゃないのでまぁまぁ、こういう作品もあるよなと思いました。
そんな感じで、あんまり真面目に見すぎるとハァ?ってなる可能性はあるけど、ビックリオチ一発のインド系か珍作ミステリと思ってみるといいと思う。メフィスト賞みたいなちょっとひねったミステリ好きな人におすすめ。
日本人の倫理観の特殊性を一番表しているのは、線引きの極端さだと思う。
日本人は、ある線の「慎みのなさ」を越えると途端に「死んでも良い命」になるという、極端な生命倫理を持っている。
例えば、親の目を盗んで深夜に外出し、コンビニの前でたむろしてる中学生。
こんな程度のことでも、たとえどのような理不尽な死に巻き込まれても(例えば、たまたま通りかかった薬中に刺されても)「そんなところに近づいたから仕方ないね」と、さらにもっと無惨な殺され方をしてもよかったくらいにはネットで叩かれる。
これ、異常だって気づいてる?
ホラー映画でも見てる感覚だろうか。主人公を作中で軽くけなしてたり(恒常的にいじめているわけでもない)、隠れていちゃついてるカップルくらいの「慎みのなさ」が、死んでもかわいそうに思わなくて良いフラグになり、当たり前のように死をエンターテインメントとして喜ぶノリを、現実でも同じ程度に内面化している。
これは本当に、一瞬たりとも越えたら戻れない線だ。
たとえばホームレスを、とにかくまず家を見つけられるように、仕事を探せるように、監督つきで金を借りやすくするくらいに支援するシステムでも作ったら、日本人の大半は怒るだろう。
一度ホームレスなんかになった、線の向こう側に足を踏み入れた「異物」を、こちら側に戻すことは侮辱だと感じるからだ。
日本人はホームレスを、戻るということを想定しない、戻ってきてはいけない「もう終わった存在」としてしか認識できない価値観を当たり前に日常の言葉遣いとして持っている。
日本人にとって「まともな人間」の線引きは、一度でも越えてはいけない、一度でも越えたら命を平等に扱ってはいけない、いわば宗教的な穢れとして不可侵のものになっている。
これが結局のところ、日本人の「真面目さ」の根源でもあるのだろう。日本人は自分でも明確に意識せず、この線に一瞬でも近づいたら終わりだと恐れている。
だから、ただルールを守るという以上に、線から可能な限り遠ざかるという努力をする。
それをしない、気の緩い人間が憎くて仕方ない。
だから、やはりそんな慎みのない存在は、一瞬でも気を抜いた瞬間に死んでも仕方ない、天罰だ、嬉しい、と心から思う。
本当に、なんでこんな精神病みたいなループに、一億人が捉えられるものかね。
不思議な話だ。
いや~・・・主人公の設定はドン引きしたよ、共感性死んでそう・・・って思った
あのバカみたいな設定書けるの、よっぽど苦労したことないんだろうな、みたいな
でも、みんなフツーなキャラは自分と重なってフィクションとしてみれなくなる傾向があるんだってさ
なので、あの雑に盛り過ぎのキャラの方が見やすい人が多いみたいんなんだけど、
かぐや「(母の事を愛しているかと聞いた自分に)怒ったってよかったのに。“かぐやには分かんない”って言いたかったっしょ?」
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
アカデミアのトランスカルト化に関して苦言を呈すのが女性の学生が多いのに、あれこれ屁理屈こねて侮辱するのは男性の教員が多いの、このイデオロギーが誰にとって得なのかよくわかりますね。
アメリカ海軍国立博物館が特攻機をジャパニーズ・バカ爆弾といってても発揮されない程度のミジメな強がりで笑う
Baka ("Idiot") bomb. Idiotだ
舐めてるってレベルじゃなく侮辱されてるのに、アメリカ様の無礼にはいつも何も言わないのダサすぎ
今知ったなら言ってきなよ。殺すって
日本もリベラル先進国のドイツを見習って女性首相を侮辱するミサンドリーの言論の自由戦士どもを投獄して欲しい
https://x.com/ReclaimTheNetHQ/status/2048795909501141025
ドイツの首相は、自分を侮辱した人々に対して約300件の刑事捜査を開始しました。彼の事務所は、数か月にわたって裁判で、どの検察官がこれらを担当しているかを隠そうと試みました。彼らは敗訴しました。
https://anond.hatelabo.jp/20260429183147#
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260429183928#
まあ数年前までは合法だったぐらいなものでデジタル万引き自体ほとんどの場合どっちにしろ買わない人がやってるだけなんで実害ないと言えるわけで。
dorawiiより
普通に捕まる奴
https://anond.hatelabo.jp/20260429185952#
意気地なしだからできないんだよね…
https://medaka.5ch.io/test/read.cgi/doujin/1776499567/l50
dorawiiより
性格腐り果てて草
dorawiiより
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https://anond.hatelabo.jp/20260421150739#
財力?高校にいたとき同級生からisoもらったりしてるからそれやってるだけよ。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260421150920#
https://anond.hatelabo.jp/20260421151006#
https://anond.hatelabo.jp/20260429173136#
うるせえ割れ厨
犯罪行為をやめろ
https://anond.hatelabo.jp/20260429173258#
割れ厨なんていくらでもいるのになんで増田って変なほうに偏ってるのかね。
その点ではあまりにクリーンすぎる。その倫理観は少しは捨てていいからモラルにステ振りすべきだろう。
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260429173513#
なにいってんだ犯罪者
違法行為をやめろって言ってるだけ
https://anond.hatelabo.jp/20260429173543#
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20260429173805#
どういう倫理観してるんだ?
https://anond.hatelabo.jp/20260429183147#
dorawiiより
dorawiiより
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刑事責任(名誉毀損罪・侮辱罪)の場合:刑事では、拡散者も「公然と」名誉を毀損したとして責任を問われる可能性があります。ただし、初発者と拡散者の量刑を直接比較した「拡散者の方が重い」という明確な判決は公表事例で確認しにくいです。
拡散の規模(リーチの広さ、フォロワー数、拡散回数)が大きいほど、被害の深刻さが増し、情状として重く評価されやすい傾向があります。名誉毀損罪の法定刑は3年以下の懲役・禁錮または50万円以下の罰金で、初犯では罰金刑が中心ですが、拡散による被害拡大が悪質と見なされれば実刑や執行猶予付きの重い判決になるリスクが高まります。
侮辱罪(2022年厳罰化後:1年以下の懲役・禁錮または30万円以下の罰金)でも同様に、拡散行為が「公然性」を強める要素となります。
民事責任(損害賠償)の場合:拡散者は共同不法行為者として責任を負うことが多く、初発者と連帯して賠償を命じられるケースがあります。
被害拡大の度合い(閲覧数、二次拡散の影響)で慰謝料額が左右されやすく、拡散者の行為が被害を「より広く深刻にした」点が加重要素になることがあります。自ら投稿せず拡散しただけでも、数十万円の賠償が認められた事例があります。
dorawiiより
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それあなたの中ではそういう整理になってるだけで、現実の運用とはだいぶズレてると思うんですよね。
まず「IDが付与されてるかどうかしか違わない」って言ってますけど、そこが一番重要なんですよ。
Xみたいなプラットフォームはアカウントに対してログや登録情報が紐づいてるので、発信者情報開示請求をすれば特定に進める可能性があるわけで、完全匿名掲示板とはハードルが全然違いますよね。そこを「ほぼ同じ」って言っちゃうのはちょっと雑かなと。
あと「誰に向けて言ってるかはトラバ先で推測できる」って言ってますけど、推測でいいなら裁判いらないんですよ。実務では“特定の個人に向けられたかどうか”はかなり厳密に見られるので、「たぶんこの人向けですよね?」だと普通に否定されます。
さらに「必要なのは暴言かどうかと診断書だけ」っていうのも、だいぶ端折りすぎですね。実際には違法性(名誉毀損・侮辱の成立要件)、公共性・公益性の有無、真実相当性、そして損害との因果関係まで全部見られます。診断書があっても、それだけで通るほど単純じゃないです。
なので、「匿名かどうかは因果関係の立証にほぼ影響しない」というよりは、そもそも“誰が言ったのか”を確定できるかどうかの時点で大きく影響してる、というのが実態ですね。そこを無視して話を進めると、結論だけシンプルで実務的にはほぼ使えない議論になっちゃうと思います。