はてなキーワード: パレスチナとは
やはりナクバを想定して書かれた詩を「2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩です」と説明することは問題がある。
『おうちってなに?』がガザ戦争を描写していると誤解されることは、倫理的に明らかに不味い。
それはおじさんがお祈りにつかう敷物、冬の夜は何十匹ものアリがその下で休んでいたんだ 盗まれて博物館に入れられる前のこと。
この一節は、イスラエルによる略奪収蔵を描写しているわけだが、ナクバならともかく、ガザ戦争で略奪品が博物館に収蔵されたなどという話は聞いたことがない。
イスラエルがナクバで行った略奪収蔵行為を、ガザ戦争でも行ったものとして想像させて構わないだろうという姿勢は、まさにイスラエルが言うところの「反ユダヤ主義」にほかならない。
『おうちってなに?』はナクバを想定して書かれたことを前提として、ガザ戦争でナクバからの連続性を与えられ、再解釈されたのだという文脈は外してはならない。
あとオマケとして試験問題として見るなら、入試世界史の余計な知識がノイズになる問題と同じ構造になっている。
「ナクバで自分たちの資産が破壊され奪われたことを、過去の出来事として回想しており、既成事実化するようにきこえたから。」
という回答は何点になる?
もちろん国語の試験なんだから、こんな回答はするべきじゃないが、じゃあ朝日で語られた「国際情勢についても日々、興味関心をもってほしいという思いで出題した」という理念はどうなるんだろうね、という疑念は浮かぶ。
俺もお前の粗チンの周りの毛の話なんかしてなくてパレスチナの女の話だが
https://www.asahi.com/articles/ASV1N25FTV1NPTIL010M.html
朝日の記事本文と画像から「2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩です」として、ムスアブ・アブトーハー『おうちってなに?』が出題されていることが分かる。
作者本人もXにて言及しており(https://x.com/MosabAbuToha/status/2013339491868537160)、Mosab Abu Toha “What Is Home?”と同一なのは間違いなさそう。
ところで作者はこの詩についてインタビュー(https://www.instagram.com/reel/DM02VbJMr6b/)で
"When I wrote this poem in 2021, our house still existed. So I wrote about the home that my grandparents used to have in Jaffa, in 1948, before the settlers came and stole everything. And I talked about the fear of my house getting bombed by the Israelis."
と語っており、ナクバを想定して書かれた詩が、ガザで再解釈されたことが分かる。ポエムサイト(https://poets.org/poem/what-home)のクレジットも2022年である。
「2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩」はさすがにちょっと…。
入試問題として不適だとかそういうことを言いたいのではないし、有名学校が取り上げる意義は大変評価したいのだけれど、事実誤認入ってないだろうか。
あと、力が全てというか法さえも力を根拠にしてるってだけなんだよ
だから、不安定になってきたら強権的になるわねで、それを権威主義だの、民主主義だの、マジでくだらんよ
どの国も等しくそう
民主主義とか言ってるドイツやフランスのパレスチナやベネズエラのデモに対する制圧ぶり見たら分かるんだよ。そういう動画は転がってんだよ
ほとんど誰もこの国では気にしてないし、気づいてないがな
国際法ってのも常任理事国の力による支配の形態に過ぎないんだわ
なーんもわかってねーんだよ、右も左も
全国屈指の進学校として知られる私立灘中学校(神戸市)で17、18両日に実施された入試で、イスラエル軍とイスラム組織ハマスによる戦闘により多くの市民が犠牲となったパレスチナ自治区を巡る詩が題材として使われ、SNS上で話題となっている。
出題されたのは国語の読解問題。「2023年からパレスチナで起きていることをきっかけに書かれた詩です」として「おうちってなに?」「おなまえ かいて」という二つの詩の日本語訳が掲載された。
「おなまえ かいて」からは、「『ママのあしにも/ママのとパパの おなまえかいて』とありますが、この時の家族の状況はどのようなものですか、答えなさい」といった記述問題が出された。この詩の末尾には「ガザでは、自分や子どもが殺されても身元がわかるよう、子の名前をその足に書くことにした親もいる」と記されている。
SNS上で問題が拡散されると、「解きながら涙が出てくる」「常に世界にアンテナを張れというメッセージだ」などと大きな反響を呼んだ。
どのような狙いがある出題だったのか。
灘中の久下正史教頭に出題の意図を尋ねたところ、「本校の試験科目には社会がない。かといって社会を勉強しなくて良いわけではなく、社会的な問題についても日々ニュースや新聞に目を向けて関心を持って欲しいという思いがある」と答えた。
今回の詩は、「国際情勢についても日々、興味関心をもってほしいという思いで出題した」という。そのうえで、政治信条を問うものではなく、あくまで読解力を問う問題だと説明する。
また例年、詩を出題しているといい、「論理的な読解を超えた感性を問おうとしている」という。「子どもたちには、表面的に読むのではなく、詩の比喩が何を表そうとしているのか、本質を読み取って欲しい」と話す。
同中では、国語科の教員が毎年の入試問題の題材探しをしており、「良いものがないかなと日々、目を光らせている」。灘中が求める生徒像を尋ねると、「自分でいろいろなことを考え、興味をもって、行動できる人」だと話した。
https://digital.asahi.com/articles/ASV1N25FTV1NPTIL010M.html
commentatorHeader
武田緑
【視点】記事を通して、この2つの詩に触れることができてよかったです。ありがとうございます。涙なしには読めませんでした。詩の力ってすごいですね。
灘中のようなポジションの学校がこういう試験問題を出してくれることに、日に日に悪くなっていく世界・社会の中で、一縷の望みも感じました。
情報・知識が想像力や読解力を補うのだな、学ぶ・考えるって総合的なものなのだなということも確認させられます。
【視点】 灘中の入試問題となれば、これから何年も、過去問として多くの子供たちが、この詩を読み、そこに描かれた状況を想像し、その背景を考えたり学んだりすることになると思います。それがパレスチナを巡る問題に触れる最初の機会となり、関心を広げていく子どももいるかもしれません。
まずベネズエラの経済が崩壊したのはアメリカの制裁のせいで、それがあるなら政治家の手腕なんかほとんど関係ない
しかも異常なインフレが起きたのはマドゥロ政権だけだし、それも原因はやはり制裁と原油価格の下落っつー政治家の手腕ではどうしようもないことだろ
民主主義が正義、専制政治が悪みたいに言ってるのも馬鹿馬鹿しいしな 民主主義は世界の中では少数派に過ぎない、アラブの専制国家には何もしないくせにダブスタなんだよ
チャベス政権はアメリカを煽り続けたけどちゃんと経済成長してたし国民からの支持率も高かった、んでマドゥロ政権でのこないだの選挙も結局「不正選挙だ」と主張してるのは反体制派とそれを支援してたアメリカだけ
ノーベル平和賞の女が完全な売国奴でパレスチナ虐殺支持派な上、アメリカがこういう暴挙に出た以上その主張の信頼性なんか波平の毛ほどもないと思うけどな
世界のたがが外れつつある。
2度の世界大戦を経て国際社会が築いてきた規範や秩序を、大国が公然と蹂躙(じゅうりん)し、自国中心主義を振り回している。
「法の支配」は「力の支配」の前に無力なのか。人類が互いの利害を公正に調停し、戦争を一掃する未来は、見果てぬ夢なのか。
法哲学者の井上達夫・東大名誉教授は、法とは正義を追い求めそれを体現すべきもの、と説く。それなら、世界が見据えるべき「正義」とは何か。私たちの飽くなき挑戦は、どこを目指すべきなのか。
――人類が戦乱の歴史を経て曲がりなりにも築いてきた国際秩序が、崩れかけています。
「国際社会の法と秩序、その基礎にある人権尊重や戦力乱用の禁止という『正義』の原則が、危機に瀕(ひん)しています。これらを公然と蹂躙(じゅうりん)する国家による暴力が荒れ狂っているからです」
「もちろん無法な戦乱は今に始まったことではなく、集団間の殺し合いがなかった時代はない。特に20世紀は、史上最も陰惨に血塗られた世紀でした。だからこそ人類は自らの蛮行を制止すべく、戦争を統御する様々な試みを続けてきました。第1次大戦後に国際連盟を結成し、1928年のパリ不戦条約で、国益追求と紛争解決の手段としての戦争を違法化します。第2次大戦後には、戦争を抑止できなかった反省から国際連合をつくり、国際法の諸原則を再確立させました」
「自衛権行使であっても正当な理由や意図などを求める『戦争への正義(jus ad bellum)』つまり『開戦法規』と、無差別攻撃の禁止や捕虜の処遇など『戦争における正義(jus in bello)』つまり『交戦法規』を強化します。また、武力行使に代わる平和的手段による紛争解決を促進する努力もなされてきました。冷戦終結後の一時期、世界はありありと『国連による平和』の夢を見ました」
「しかし、この夢は破れました。武力行使を規制する国際法秩序に責任を負うべき国連安全保障理事会常任理事国のロシアが公然とウクライナを侵略し、民間施設への攻撃を続けています。これは明白に開戦法規及び交戦法規違反です。ロシアは開戦時、ドンバス地方の親ロ派政府との安全保障条約に基づく集団的自衛権だと説明しましたが、この傀儡(かいらい)政府に対するロシアの承認は旧満州国への日本の承認と同様、国際法上無効です」
「パレスチナ自治区ガザでは、前世紀の『人道に対する罪』の最大の被害者であるユダヤ人国家イスラエルが、パレスチナの民に対してこの罪を犯しています。イスラム組織ハマスの侵攻に対する自衛措置として攻撃を開始した時点では、イスラエルは開戦法規に反してはいませんでした。しかし、民間人への無差別攻撃や難民キャンプへの空爆は自衛の範囲をはるかに超え、ハマスが住民を『人間の盾』に使ったのと同様、交戦法規を蹂躙しています。また、ヨルダン川西岸への入植拡大を同時に進めたことは、不純な政治意図を含んでいるという点で開戦法規にも違反しています。停戦合意から2カ月以上が経つのに、ガザへの散発的な攻撃をやめていません」
――「法の支配」をあざ笑うかのような「力の支配」の論理が跋扈(ばっこ)しています。
「『法の支配』の危機は、単に強国が国際法秩序を侵しているというだけではありません。より深刻なのは、法と正義の原則の規範的権威そのものを掘り崩す、シニシズム(冷笑主義)が広がっていることです」
「それが端的に表れているのが、欧米や日本でも唱えられている対ロ宥和(ゆうわ)論です。戦争長期化の責任を、ウクライナの抗戦と西側諸国の支援に転嫁する言説です。知識人にも多い対ロ宥和主義者は、ウクライナ支援を停止してロシアに領土的譲歩をすべきだとして、侵略したロシアではなくウクライナに停戦の圧力をかけることを実質的に説いています。中には、北大西洋条約機構(NATO)の東進がロシアを刺激し戦争を誘発したという誤った歴史観に基づくものも多い。実際には冷戦後、NATOは集団的自衛権体制から地域的な集団安全保障体制に変容しており、旧東側が『西進』して新加盟国になったというのが事実です。ロシアも一時、準加盟国になりました。その友好関係を、南オセチア紛争とクリミア侵攻で悪化させたのは、他ならぬロシアです」
――トランプ米大統領も、ロシアに一方的に有利な和平案をウクライナに押し付けようとしています。
「これでは持続可能な平和を実現できないことは明白です。ウクライナの中立化(NATO非加盟)だけでなく非軍事化に固執するプーチン大統領の狙いが傀儡国家化にある以上、仮に一時的停戦をのんでも、再侵攻に走ることは必至です」
「こうした対ロ宥和論は、武力で現状を自国に有利に変更できる、侵略はペイする、というメッセージを世界に発しています。侵略を抑止するどころか、武力による現状変更を望む他の潜在的侵略者、例えば台湾や南沙諸島に野心を持つ中国、イエメンに触手を伸ばすイラン、韓国を標的にする北朝鮮などに、実行のインセンティブを与えてしまう。ドイツへの宥和政策が第2次大戦を招いた、1938年のミュンヘン会談の教訓を忘れたのでしょうか?」
「強者の支配を排し、武力による現状変更を禁じるという国際法の原則を尊重するならば、国際社会が協力して、ロシアに軍事的・経済的圧力を断固として加えることが必要です。それができずに弱小国にだけ譲歩が押しつけられるなら、国際法は強者の支配のイデオロギー的隠れみのとみなされ、規範的権威を喪失します」
――米国が主導したガザの和平計画も、ハマスが武装解除に抵抗する構えで、暗雲が垂れこめています。
「長年の紛争解決と平和構築のためには、90年代のオスロ合意が道筋を引こうとした『二国家解決』しかありません。すなわち、ガザとヨルダン川西岸の分断統治を解消してパレスチナを統一的に統治する国家を樹立し、イスラエルと相互承認し共存する体制です。しかし、イスラエルのネタニヤフ首相は『パレスチナ国家のいかなる試みにも反対する』と二国家解決を強硬に拒否し、トランプ大統領もイスラエルのパレスチナ支配強化を支持するかのような発言を繰り返しています」
「停戦後の暫定的な統治機関『平和評議会』のメンバーは未定ですが、米国やイスラエルがガザ復興を主導するなら、ハマスを殲滅(せんめつ)できたとしても、第2、第3のハマスがゲリラ的抵抗を続けるでしょう。パレスチナ国家樹立をゴールに掲げたうえで、暫定的にはアラブ諸国を中心にガザの治安維持と住民保護を委ね、現在の腐敗したパレスチナ自治政府を統治能力ある組織に改編する。国際社会はそのためのロードマップを支援する――。それしかガザ戦争の出口はありません」
「『法の支配』は規範的な理念ですが、自動的に実現する力を持っているわけではない。理念を実現するのは、それを順守しようとする様々な行動主体が、協力して行う実践です。強者の力を抑える、いっそう大きな『力』を協働して組織し、行使しなければならないのです」
――プーチン大統領は2014年にクリミアを「併合」した際、西側諸国の過去の侵略や軍事介入と同じことをやっているだけだ、という趣旨の発言をしています。
「他者の悪が、自己の同様の悪を免責する――。これは開き直りの詭弁(きべん)ですが、問題は、西側の多くの『批判的知識人』までもが、この思想のわなにはまっていることです」
「例えば、03年のイラク侵攻など米国の軍事介入を強く批判してきた米国の思想家ノーム・チョムスキーも、このプーチン大統領の欧米批判を擁護してしまっています。自国の戦争犯罪を追及すること自体は、間違ってはいない。しかし、それゆえに他者の罪を許容するのは、論理的にも倫理的にも倒錯しています」
https://digital.asahi.com/articles/ASTDM4V8YTDMUPQJ00FM.html
直近の事実関係に基づけば、**「実際に力による現状変更を行った国」**として挙げられるのは、現状、以下の4か国と整理できます。
---
■ 実際に「力による現状変更」を行った国(直近の事実に基づく)
1. ロシア
• ウクライナへの軍事侵攻および占領行為が、国連安保理でも「力による現状変更」と明確に非難されている。1
• 北朝鮮軍がウクライナで戦闘に加わっている事実が指摘されており、これはロシアの侵略による現状変更を実質的に支援する武力行使と評価されている。1
3. アメリカ
• 2026年1月3日未明、ベネズエラに対して大規模な軍事攻撃を行い、ニコラス・マドゥロ大統領とその妻を拘束し国外へ移送した。これは明白に既遂の武力による現状変更。23
4. イスラエル
• ガザ地区における長期的な大規模軍事攻撃、インフラ破壊、支援団体の排除、ガザの事実上の分断、また西岸での拘束や家屋破壊など、既にパレスチナ側の生活環境・支配状況を実力で変更している現実が確認されている。45
ロシアがウクライナ侵攻を理由に、オリンピックやW杯などあらゆる国際大会から締め出されたことを忘れていない。
それなのに、パレスチナ・ガザ地区であれだけの虐殺と人道危機を引き起こしているイスラエルが、何食わぬ顔でWBCに出場できるのは明らかなダブルスタンダードだ。
「スポーツと政治は別」という理屈は、ロシア排除の時点ですでに崩壊している。欧米の顔色を窺って判断基準を変えるのは欺瞞でしかない。
主催側が出場停止処分を下さないのであれば、日本代表の方から「イスラエルが出場する大会には参加しない」と表明し、ボイコットしてほしい。平和の祭典や国際交流を謳うなら、日本はそのくらいの気概を見せるべきだ。
今いちばん熱心に見てる番組だと思う。オープニングのコーラスがうるさい
サブカル系。興味の幅が広がる感じ
・知恵泉
同上。ただしこっちは近代の実業家なんかもカバーしてる。偉い人がいっぱいいたもんだ
・ヒューマニエンス
かなり好き。新シリーズが始まってうれしい。長く続け
・カネオくん
チコちゃんより好き。中川家の工場見学と似たようなジャンル。スタジオの掛け合いも嫌いじゃない
・世界ふれあい街歩き
王道。真剣に見なくてもいいのが良い。もちろん真剣に見てもいい
・3カ月で学ぶシリーズ
・ドクターG
街歩き枠。最近になって始まったのかな? 気軽につけてられる
・美の壺
街歩き枠。街歩きじゃないけど。気軽につけてられるのは同上。
あとは魚スターとか、俳句と短歌の番組とか。世界の研究者が日本を研究してる番組も結構見てたなあ。
BS世界のドキュメンタリーも興味があって、イスラエルとパレスチナの問題を扱った番組をいくつか録画してたけど、削除しちゃった。
ちょっとねー、気合いが必要なんすよ、あそこらへんの番組。溜まる一方だし、気分は乗らないしで、消してしまった
消さなきゃよかった
いや理由は明らかでしょ。
人権侵害を訴えてきた伊藤氏自身が、他者の人権を侵害して映画を作っている。
擁護派からも批判が始まったのは、「当時の担当弁護士だった西廣さんたちが上記のことを訴えたから」。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyo-np.co.jp/article/361658
決して「なんとなく」批判されるようになったわけではない。
さらにその後、映画の中で「伊藤氏にとって不利な証拠」について一切触れていないことも暴露された。
「それだけ不利な証拠が提出されたにも関わらず、民事では二審・最高裁ともに性被害を認定され、勝訴した」
という事実があるのだから、映画の中でも不利な証拠について触れれば良かっただろう。
その上で、見た人たちに判断を委ねればよい。
(まあドキュメンタリー映画というのはたいてい一方的なアングルで作られる不誠実なものではあるが)
それをせずに「一切落ち度のない、無謬で完璧な被害者」として扱われることを選び、
そうした映画を海外で上映して味方を増やそうとした卑怯で愚かな態度も失望を買っている。
あと鬼の首を取ったように「やはりこの事件は伊藤の虚言だった」みたいに断定して書いちゃってる人らも注意した方がいいよ。
伊藤氏が最高裁でも勝訴したのには、それらの不利な証拠があってもなお勝てるほど有利な証拠があったからだろう。(それだけが映画では描かれているはずだが)
法のプロたちがプロとして吟味した末の判決である。もちろん最高裁だろうと誤審の可能性は常にあるが、
めちゃくちゃ不利な証拠も全部提出された上での司法判断を尊重しないのはダブスタにならないか?
西廣さんも「彼女は性被害者で事件は真実。この話と裁判は別問題で性被害への誹謗(ひぼう)中傷はやめてほしい」と言っている。
映画にまつわる伊藤氏の悪行への批判と、性被害を嘘扱いしての誹謗中傷は分けて考えるべき。
なぜか勢い余って後者にまで踏み込んじゃってる人たち、大丈夫かね?
たとえばウクライナにもパレスチナにも「非」はあって当たり前であるように、
被害者に落ち度があったり、人間的に問題があったりするのはごく普通のことである。
「どっちが完全な正義か」「どっちが全面的に正しいか」でしか語れないのは愚昧な話で、
その意味においては「ほら見ろ、伊藤に落ち度があったので完全逆転だ」とばかりに鬼の首を取った人々もまた
伊藤氏と同じ過ちを犯していると言える。
是々非々という切り分けができないリベラルの欺瞞を普段非難している良識あるブクマカにも
この誤謬に陥っている人がいて残念な限り。
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。