「正治」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 正治とは

2025-12-07

真逆(まぎゃく)」はいから使われだしたか

前提


1927年アルス写真大講座 第二巻』

記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラ太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このとき直射日光レンズに当らないやうに注意をして頂きます

フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。

いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である

追記1937年写真月報』

只逆光線で太陽を前景のカメラもつている人でシエードした事が、レンズ太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。

写真関連で検索してみたが、なるほど。

写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。

逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。

検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。

1959年富士岡田紅陽

太陽富士山頂の上に輝やき、眼前の雲海の表面を真逆に照しつけていた。

一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。

ネット検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。

ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。

しかすると、文章にならないような口語俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。

さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家松田政男である

この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか

彼はそのくらい「真逆」を多用しているのである

1971年風景死滅松田政男

コスタガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆視点から革命反革命弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である


1972年キネマ旬報』「映画批評 わが緑の大地」松田政男

往年の安部公房テーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代叱咤しているのである


1973年不可能性のメディア松田政男

自動車から飛行機への発明ベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクスメディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか

エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。

チャップリンが、常に、可哀想ヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆禁欲的にまで非情に、アクション共同体映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである

そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかトロツキーとは真逆に、スターニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。


1973年キネマ旬報』「キネ旬試写室 化石の森」松田松男

この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりエンターテインメントとして消費されてしま石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。


1974年キネマ旬報』「今号の問題作 キャロル斎藤正治松田政男

私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······


1974年朝日ジャーナル』「密室国家難民キャンプ なぜ、いま、パレスチナ革命なのか』松田政男

レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルス理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスレーニンや、その他もろもろの革命理想である


1975年現代の眼』「シネマ・マンスリー

この密林の猟師年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。

これは匿名記事だが文体からして松田政男か?

1976年キネマ旬報』「自主映画の新作その(3)」松田政男

この静謐な、余りにも静謐な〈自然〉は、ゴダールとは真逆の"観念論的記録の試行なのか?


1978年シナリオ』「77から78へ日本映画の秋冬 アイデア燃えあがる日」松田政男

そこへ行くと、日活ポルノ裁判被告として四年間の沈黙余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATG提携製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。


1979年『日付のある映画論』松田政男

高橋明庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ

しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなである


1979年現代の眼』「和製B級映画現在形」松田政男

亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ


1979年現代の眼』「松田政男映画戦線への斬り込み」松田政男

そして、面白いのは、西欧的な父性原理依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州フォークロアに原型をもつ物語真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。


といった具合に、松田政男は「真逆」を使いまくっている。

いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。

1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆用法は、特に映画系のライターあいだで広まっていったようである

たとえば田原総一朗もその一人である

1975年大統領を知らない人たち アメリカで見たしたたか生き方田原総一朗

もっと地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパ絵画彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である


1978年穀物マフィア戦争田原総一朗

「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」


1979年『潮』「二都物語1 新潟VS山口 総理大臣をうんだ街」田原総一朗

松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ吉田松陰とは、真逆のように思える。


仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。

よって「真逆(まぎゃく)」が広まったのは1970年代ではないか、というところで結論としたい。

2024-12-23

靖国参拝政教分離文脈非難されたことはない

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20241222/k10014675351000.html

上記靖国参拝政教分離文脈非難されたことはないとするブコメ(あえて引用は避けてやる)がちらほらあるが、書いてるやつもスターつけてるやつも歴史修正に加担してる自覚がなさそうなのが痛いな。「靖国参拝 政教分離」で調べればいくらでも出てくるし、それこそ小泉首相時代靖国参拝への批判として政教分離を持ち出すケースは山ほどあったはずなのだが。

 

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a152001.htm

二 「戦争を二度と起こしてはいけないという気持ち」をもって靖国神社に参拝するとしても、靖国神社は一宗教法人であり、そこに公的立場にある首相が参拝することは、靖国神社宗教活動国家が大きくかつ公然と関わりを持つことになり、憲法二〇条、八九条の定める政教分離に反することになると思うがどうか。首相認識を伺いたい。

社民党北川れん子議員による質問主意書

 

https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/2001/2001_14.html

現に内閣総理大臣たる地位にある者が宗教法人である靖国神社を参拝することは、我が国憲法の拠って立つ政教分離原則に反し、憲法20条3項に反する違憲の疑いがあり、また日本国憲法がその出発点と定めた恒久平和主義に反し、過般の戦争への反省を忘れかねない行為である

 

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-10-01/2005100101_02_1.html

大阪高裁大谷正治裁判長)は三十日、首相参拝は「政教分離を定めた憲法禁止する宗教活動に当たる」として違憲判断を示しました。

違憲判断まで出ている。

 

ブクマカ若者を自認する中高年が多いからそれぐらい覚えているかと思ったが、もはや健忘が進むくらい高齢化しているのか?

2024-05-16

anond:20220728205242

長寛元年(1163年)西田敏行北条時政次男として生まれ

正治元年(1199年)西田敏行鎌倉幕府合議制に加わる

元仁元年(1224年)西田敏行急死する。「得宗」の名は西田敏行法名にちなむと伝わる。

明応2年(1493年)西田敏行が生まれたと伝わる

明応3年(1494年)西田敏行が生まれたとする説が有力

永正7年(1510年)西田敏行まれ

天文2年(1533年)西田敏行まれ

天文6年(1537年)西田敏行まれ

天文12年(1543年)西田敏行武田晴信信玄)に仕える

同 西田敏行まれ

天文13年(1544年西田敏行西田敏行と戦い大垣城を奪う

天文16年(1547年)西田敏行西田敏行居城攻撃したが敗れる

天文18年(1549年)西田敏行、息子の信長西田敏行の娘濃姫結婚させて和睦する

天文20年(1551年西田敏行急死する

天文21年(1552年)西田敏行美濃国を平定する

天文23年(1554年)頃、西田敏行織田信長に仕える

弘治2年(1556年)西田敏行、実子に討たれ死去

永禄4年(1561年)川中島の合戦でキツツキ戦法に失敗し西田敏行討ち死にする

元亀4年(1573年)西田敏行まれ

天正7年(1597年)西田敏行西田敏行の三男として生まれ

2023-11-20

あれ? 性加害しても名前変えるだけで許されるの???

女性記者への性加害で記念館の名称を「長崎人権平和資料館」変更へ 平和運動家・岡正治まさはる)氏の名前を外す

https://news.yahoo.co.jp/articles/4cc9fb307a8bf346fb0fafbd8a18bad1ef4401bc

2023-09-08

理想的高校古文の授業

1. 3か月ぐらいで文法ざっとさらう。

 * 本当にざっとで良い。助動詞の主な用法ぐらいで。活用暗記とかはさせない。

2. 『平家物語』と『宇治拾遺物語』について、先生の方で品詞分解を記入したテキストを配布し、学生現代語訳をさせる。

 * 学生品詞分解で力尽きて(飽きて)しまうことを防ぐ。

 * 品詞分解が正確にできていても訳せないという経験を早期にさせる。

 * いっそ現代語訳も配布してしまってもいいかもしれない。「なぜこの訳になるのか?」と疑問を持った点を報告させ、そこを解説するスタイルでもいいかも。

3. 2.の作業を『徒然草』→『伊勢物語』→『大和物語』→『大鏡』→『更級日記』→『枕草子』→『源氏物語』の順にさせる。

 * 『源氏物語』 がいちばんむずかしいのに、定番テキストのように高校で扱われるのは不思議

 * 方法は何でもいいから、とにかくたくさん読まないと古典は読めないということを認識させる。

4. 3.と並行して品詞分解の作業をさせる。

 * テキスト高橋正治古文読解教則本』 みたいなのがいいと思う。

 * ぶっちゃけ全員が品詞分解をできる必要はないと思うので、学生選択に委ねるのもあり。(大学受験する人だけとか)

5. 百人一首を暗記させる。

 * これはもう暗記しかないのであきらめてほしい。

2020-09-27

anond:20200927175321

ラオックス創業者谷口正治1930年墨田区で始めた電気器具行商が始まりであり、1939年開店した谷口商店を源流としている。

2009年8月中国大手家電量販店運営する蘇寧電器の傘下となり、同時に新しく社長就任した羅怡文の方針により、ラオックス中国人をはじめとする外国人観光客向けの免税店中心の店として再建を図ることとなった。

意外と古い会社だったんやね

2019-12-11

anond:20191211092410

福山正治エロいコメントしたところで別に普通だろ?

 

この話を描いた人はグレタが嫌いに決まってる、なんてことは読んだやつはみんな分かってるんだよ。

  

ついでにいえば、フルメタの作者ってのはお前らが思ってるよりもビックネームだ。

例えるなら、お前はモー娘。メンバーみたいな木端が失言をしたんだと思っているんだろうが。

失言したのは中島みゆきだ。実力が圧倒的すぎて存在するだけで許されるレベルの人だ。

 

別に言葉が汚いことは批判されりゃいいと思うけどね。

からって幻滅とはならないんだよ。

2019-07-04

女性名前に「○子」が多く四音の名前が少ない理由

anond:20190701200632

日本では個人名前は「石川麻呂(いしかわまろ)」や「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」といったふうに長い訓に漢字を当ててきたが、嵯峨天皇のころ遣唐使であった菅原清公の進言によって、男子名前漢字で二文字か一字、女子名前は「○子」とするといった、漢風の名前使用が進められ、定着した。

諱 - Wikipedia

この菅原清公っていうのは菅原道真のおじいちゃんな。

具体的な後世に残った事績としては、それまで和風だった人名のつけ方を唐風に改めたことが挙げられる。男子場合坂上田村麻呂」の「田村麻呂」のような形式から菅原道真」の「道真」や「藤原基経」の「基経」といった二文字訓読みか「源融(みなもと の とおる)」の「融」や「源信(みなもとの・まこと)」の「信」など一文字訓読みという形式にし、女性名前の「○子」という形式にすることは彼の建言によって導入されたものである

菅原清公 - Wikipedia

まず単純に、名前の二文字目が「子」で固定されると、必然的に読みは三音になりやすい。

男性名だって、「○太」とか「○斗」といった形式だとだいたい三音で、二音や四音は少ないもんな。

このあたりは音韻問題もあるのかもしれん。

で、貴族実名に付けられるこの「○子」はいちおう庶民にも広まったらしいが、

室町時代からそもそも女性に「実名」をつける風習がなくなり「通称」だけを持つようになった。

まり「松」とか「亀」みたいな二音の簡単名前がつけられて、

「お松さん」とか「お亀さん」とか呼ばれるようになった。

この傾向は江戸時代まで続いたけど、

明治になって庶民公式の姓名を名乗るようになると、

貴族の名付けである「○子」は庶民の憧れだったので一気に増加する。

女性名と[子] - nihonjin-name !

最初のうちは「〜〜氏」「〜〜女史」みたいなのと同じ敬称として扱われていて、

本名の「松」や「亀」に「子」をつけて「松子」「亀子」とか呼んでいたらしい。

津田梅子与謝野晶子本名「うめ」「しょう」だった。

それがだんだん本名として最初から「○子」と名付けられるようになった。

もとが二音、「子」を付けて三音、というのがここで増えていったわけだ。

明治安田生命の名前ランキング大正元年まで遡れる。

明治安田生命 | 名前ランキング2018 - 生まれ年別名前ベスト10 - 女の子

「○子」のピークは1956年と言われていて、そこから「○美」が増えていったらしい。

なんでこの時期に「○美」が増えたのか分からんが、

高度経済成長時代に入って社会雰囲気が変わったのもあるだろうし、

そのちょっとから「由美子」「久美子」「恵美子」「美代子」「美智子」などと「美」入りの三字名の人気があったから、

そこから自然と「子」を外すようになったのかもしれんね。

思いついて宝塚歌劇団女優芸名確認してみたけど、

1953年入団宝塚歌劇団40期生あたりから「○美」が増えている気がする。

「当時、こういう名前がかっこいいと思われていた」という傍証になりそうだ。

宝塚歌劇団40期生 - Wikipedia

(もうちょっと遡ってみたら33期生だけ特異的に「○美」が多いな…何かあったんだろうか…)

それからしばらく「○子」と「○美」の時代が続くけれども、

1970年代に入ると「美香」「美穂」「香織」「恵」「愛」などがランキング上位に登場してきて、

ようやくバリエーションが増えていったという流れ。

一方で、男性のほうのランキングを見ると、思ったよりも三音の名前が多い。

「清」「正」「茂」のような一字名はもちろん「正治」「和夫」「達也」なんかも三音。

四音の名前は「○一」「○郎」「○介」「○平」などの形になる。

これらはだいたい「生まれの順番を表す字」か「官位名に由来する字」なので、

女性名に見られないのは納得。

武士時代が長く続いたなかで男性名けが多様化していったのだと言えそうだ。

ちなみに「○郎」の由来は「○子」と同じく嵯峨天皇な。

日本において太郎という人名が登場したのは、嵯峨天皇第一皇子の幼名に命名したのが初見とされる。

以後、武士階級の名としても広まり今日では一般的命名される人名ひとつとなっている。



以上から考えると「四音の女性名が少ないのは何故か」には、

二音の女性接尾辞が無かったからだ、ということになり、

「二音の女性接尾辞が無かったのは何故か」というと、

社会的地位の低かった女性人名接尾辞バリエーションが少なかったからだ、

と言えるのではないか

(「人名接尾辞」って書きましたがたぶん正式用語ではないので「止め字」でいいと思います

2019-01-11

anond:20190110134005

せっかくなので次の元号について統計的アプローチ予測したいと思う

飛鳥時代の大化から平成まで元号は248種類あるが使われた漢字は72種類しかない

一覧にするとこんな感じ

大化白雉朱鳥宝慶雲和銅霊亀養老天平感勝字護景応延暦弘仁長承嘉祥寿斎衡

貞観元寛昌泰喜徳康保禄永祚正治万久文建福禎乾亨中武興国授至明享吉政昭成

そして室町時代の文安(1444年)から大正(1926年)までの500年弱の間、

寛政」を除く全ての元号が今まで元号で使われてきた漢字の中から選ばれている一方で

「昭」と言う漢字昭和まで「成」と言う漢字平成まで使われたことがなかった

このため、「大正」までは前に倣えの姿勢元号を決めてきたが

昭和」以降は既存漢字だけでは組み合わせがそのうち枯渇するため

新しい漢字を入れていこうとしたのではないかと推測できる

一方で「平」は今までに12回、「和」は今までに19回元号使用されたことがある

参考までに元号に使われた回数の多い漢字ランキングも貼っておく

1位 永   29回

2位 天、元 27回

4位 治   21回

5位 応   20

これを踏まえると新しい元号も、「今まで元号10回以上使った事のある漢字

使った事のない漢字から文字ずつ取るのではないか」と素人ながら予測できる

これに加え、イニシャルが被らないとか画数が多すぎないとかの条件を踏まえて

過去落選候補を見ると新しい元号はほぼ絞られてくる


まり、新しい元号

「 光 文 」 で す ! ! !

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん