はてなキーワード: 善悪とは
解
いじめは無くなりません。人が社会性を持つ限り無くすのは不可能です。このため、個人がいじめを無くしたいと思うかどうかには全く意味がありません。
いじめられるのは理由があります。残念ながら、多くの人にとって不快な人間というのは存在し、そこにはある程度共通の理由が存在します。それは衛生面の問題や文化の相違、コミュニケーション不全など、様々な要因によるものです。しかしながら、質問者様のおっしゃるとおり、それはいじめが良いか悪いかとは関係がありません。人の社会において当然に存在するいじめの要因のひとつを説明しているだけです。
いじめが良いか悪いかという問いにも、あまり意味がありません。なぜなら、いじめという言葉には非常に広範な行為が含まれてしまうからです。集団内のコミュニケーションを円滑にするための生贄としてのちょっとしたからかいから、明確な犯罪行為まで、すべてをいじめとして処理することに問題があります。このため、犯罪行為を適切に処罰することが重要という指摘が存在していますが、教育の場に警察が介入することに対しては学校も警察も抵抗感が強く、実現していません。
先日、ダボス会議で行われたカナダのカーニー首相の演説が世界的に注目されていることを知り、英語の全文に目を通した。演説内容
それは単なる外交辞令でも、内向きの政治パフォーマンスでもなく、今の国際秩序がすでに機能不全に陥りつつあるという現実を、驚くほど率直な言葉で語るものだった。その内容が、あまりにも今の日本の立ち位置と重なって見えたため、考えを整理する意味も込めて、ここに書き留めておきたいと思った。
今の国際情勢をここまで端的かつ正面から言語化できる首脳は、正直かなり珍しい。
だからこそ、この演説は一過性の話題として消費されるべきものではなく、各国が自らの立ち位置を見直すための材料として、もっと真剣に受け止められるべきだと感じた。
アメリカが「白」を「黒」だと言えば、日本はそれに異を唱えることができず、同調するしかない。外交・安全保障において、主体的判断の余地は極めて限られている。
しかし、その一方で「その負担に見合うだけ、日本を本気で守るのか」という問いに対して、アメリカが明確な保証を示したことは一度もない。最終局面で日本がどこまで守られるのかは、依然として未知数だ。
カーニー首相が指摘した
という言葉は、まさに日本に突きつけられた現実そのものだと思う。
自国で食料を確保できず、エネルギーを自給できず、防衛を他国任せにしている国が、真の意味で対等なパートナーでいられるはずがない。
古い秩序は、もう戻らない。
そしてそれは、国際社会だけでなく、日本の国内政治においても同じだ。
今回ほど、判断が難しく、単純な善悪で語れない選挙も珍しい。理念や政策よりも、数や力関係が前面に出てきているように見えるからだ。
互いに主張が食い違ってきた勢力が、目的のためだけに結集する。
一方で、長年の慣性で動いてきた政党は、「そこそこ勝つ」ことで、変わらなくても済んでしまう可能性がある。
それでも、この選挙を「誰が首相になるか」「どの党が勝つか」だけで捉えると、本質を見失う気がしている。
日本はこれからも、「誰かに判断を委ねる国」であり続けるのか、それとも不完全でも自分たちで選び、責任を引き受ける国であろうとするのか、という点ではないだろうか。
白紙委任は楽だが、それは同時に、考える力を手放すことでもある。
だからこそ今回の選挙では、「理想の答え」を探すよりも、どの選択が、将来に考え直す余地を残すのか、どの選択が、日本が自ら立ち直るための時間を失わずに済むのか、その一点を見据えて向き合う必要があるように思う。
古い秩序は、もう戻らない。
日本では無意識に、見た目から次のような判断が行われがちです。
金髪 → 不良/チャラい
👉 だから
→「日本語上手ですね」
→ 悪意がなくても “あなたは想定外” というメッセージになる。
② なぜ日本は見た目重視になったのか?
1️⃣ 同質性が極端に高かった社会
「見た目=日本人」という暗黙の前提が成立していた
👉 その結果
日本では
説明しない
言葉にしない
察する
が重視されます。
そのため
👉 **見た目で素早く判断できることが「便利」**だった。
欧米のように
よりも
「なぜそう思ってしまうか」は教えない
👉 結果として
悪意のない無知 が量産される。
あなたが言っていた通り、
🇬🇧🇨🇦 では
一方 🇯🇵 では
「驚き」をそのまま言語化する
失礼だという教育が弱い
第一印象がほぼ全て
見た目・雰囲気=信用
空気に合うかどうか
ここで強い摩擦が起きやすい。
あなたが感じてきた
日本は遅れている
見た目と国籍を結びつけすぎ
日本が悪という単純な話でもない
相性の問題が大きい
🇩🇪🇨🇦🇬🇧 など
⑥ まとめ(短く)
それは美醜ではなく「分類装置」としての外見
マイノリティほど負荷が大きい
デカップリングを叫ぶ連中の言説を眺めていると、いつも同じ光景に行き着く。
世界が複雑になり、自分の理解能力を超えた瞬間に、原因を外部に押し付け、遮断すれば問題が解決した気になるという、自己放尿の完成形だ。
フリードマンの観点から言えば、これは自由市場への不信ではなく、理解を放棄した主体が恐怖に耐えられずに行う自己放尿に過ぎない。
自由貿易は善悪のスローガンではない。比較優位に基づき、分業を通じて生産性を引き上げ、消費者の選択肢を最大化するという、きわめて機械的で冷酷な仕組みだ。
デカップリング論者は安全保障や国内産業保護を万能カードのように切り自己放尿するが、フリードマンなら即座に指摘するだろう。
貿易制限は見える利益を誇張し、見えないコストを隠蔽する典型例だと。
関税や輸入規制で守られるのは、競争に敗れた非効率な生産構造であり、そのツケは価格上昇という形で沈黙した消費者全員に押し付けられる。
国家が戦略的と称して市場を歪めるたびに、価格シグナルは壊れ、資源配分は劣化し、結果として国全体の実質所得が下がる。
これは思想ではなく算術だ。それでもなおデカップリングを正当化するのは、短期的に声の大きい生産者と政治家の利害が一致して自己放尿するからに過ぎない。
自由貿易の本質は、相互依存を通じて紛争コストを高める点にもある。
経済的に絡み合った主体同士は、感情的対立を起こしても、取引停止という自傷行為の代償を計算せざるを得ない。
デカップリングはその抑制装置を自ら破壊し、対立を純化させる。
にもかかわらず、それを強さだと誤認するのは、痛みを感じないうちに先に自己放尿して安心する幼稚な心理と同型だ。
フリードマンが自由貿易を支持したのは、人間が善良だからではない。利己的で近視眼的だからこそ、制度として自由市場に縛り付けた方がマシだと理解していたからだ。
デカップリングとは不確実性に耐えられない政治と世論が、市場という冷酷な審判装置から逃げ出すための言い訳であり、その実態は高コスト・低効率・低成長を自ら選び取るトリプル放尿である。
感情的な安心感と引き換えに、長期的な繁栄を便器に流すほど愚かでないなら、やるべきことは一つだ。
市場に任せておけばいいものを、わざわざネットの海に顔を突っ込み、「ここはこうすべきだ」「それは歪んでいる」「誰かが是正しないといけない」などと、したり顔で書き散らしてしまった。
完全に自己放尿だ。自分が守るべき原理を、自分の感情と正義感で汚染し、挙げ句の果てに市場そのものに文句を言う。これは他人の失敗を嘲笑する資格のない、典型的な知的自己放尿である。
市場の自由を本気で信じるというのは、口で「自由が大事だ」と言うことではない。
自分が気に入らない価格、自分が不快に感じる流行、自分が理解できない需要と供給の結果を前にしても、それでもなお黙るということだ。
市場は感情を持たない。善悪も、品位も、理想も知らない。ただ無数の主体の選択を集約し、価格という情報に圧縮して吐き出すだけの装置だ。
そこに対して「こうあるべきだ」と言い始めた瞬間、その人間はもはや自由市場の擁護者ではない。計画経済の小役人に成り下がる。
フリードマンが一貫して言っていたのは、政府が賢いから市場を置き換えられる、などという甘ったれた幻想の否定だ。
人間は無知で、短絡的で、利己的で、しばしば愚かだ。だからこそ、その愚かさを前提にした制度設計が必要になる。
市場は人間を善人にしないが、無知と誤りを分散させ、致命傷になる前に価格という信号で調整する。
その機能を「気に入らない結果が出た」という理由で殴りつけるのは、体温計を叩き割って熱が下がったと錯覚する行為と同じだ。
シカゴ学派の冷酷さは、実は人間観の誠実さにある。人は間違える。だから中央で賢い誰かが全体を最適化するなどという物語は成立しない。
にもかかわらず、ネットでは毎日のように「市場が失敗している」「規制すべきだ」「正しい方向に導くべきだ」という声が溢れる。
その多くは、外部性や格差や倫理を持ち出しながら、実際には自分の不快感を一般化しているだけだ。
そして俺もまた、その罠に足を突っ込んだ。自分が不愉快に感じた現象を、原理の問題にすり替え、市場に説教を垂れた。新年早々、見事な自己放尿である。
市場に文句を言ってしまった自分を殴り倒した上で、なお市場を全面的に支持する。
フリードマンが嫌ったのは市場の失敗ではなく、政府の失敗がいかに不可視で、いかに免責されやすいかという点だった。
その洞察は今でも有効どころか、ネット時代になって一層重要になっている。
だから言っておく。市場の結果に腹が立ったとき、正義感が疼いたとき、何か言いたくなったときは、まず自分のズボンを確認しろ。
俺は新年早々それができずに自己放尿したが、お前らは気をつけろ。
鉄人28号と新世紀GPXサイバーフォーミュラは、ジャンルや時代は違うが、「強力な機械をどう安全に使うか」という点で、対照的な考え方を示している。
鉄人28号は、操作に必要なのがリモコン一つだけという非常に単純な仕組みを持つ。誰が持っているかによって、鉄人は正義の味方にも悪の兵器にもなる。認証や制限が存在しないため、セキュリティの面では非常に弱いが、その分「技術そのものに善悪はなく、使う人間の判断がすべてを決める」という考え方がはっきりと表現されている。鉄人の危険性は機械の欠陥ではなく、人間の判断にある。
一方、サイバーフォーミュラのマシンは、指紋や角膜、声といった生体認証やAIによる学習を使い、操縦者を厳しく限定している。不正な使用を防ぐ点では非常に安全だが、その反面、一度認証された人しか乗れず、緊急時に別の人が代わることができないという問題が生じる。安全性を重視しすぎた結果、人間の選択肢が狭まってしまうのである。
この二作品を比べると、鉄人28号は制限が少なすぎることの危険性を、サイバーフォーミュラは制限が多すぎることの問題点を描いていると言える。どちらも極端であり、理想的な形ではない。
両作品は、セキュリティとは単に強くすればよいものではなく、安全性と自由のバランスをどう取るかが重要であることを、わかりやすく示しているのだ。
端的に言えば、左翼は
ハッタショガイジと言われるグループを差別しない、支援すると言うが
メンタルのおかしいレクター博士のような凶悪嗜好殺人者も保護して利用しようとするからだ
むしろ後者が主な目的で、前者はそのカモフラージュのために見えるんだよね
例えば光市母子殺害事件の弁護人がドラえもん出して犯人への同情を喚起しようとしたりした
それば必ずしも左翼の特徴とは言えない犯罪人弁護は左翼活動には見えやすい
なぜなら弁護士は国家による言論弾圧や冤罪発生を防ぐ役割があるとされているからだ
メディアや世論や司法裁判官を取り込めば殺人も虐待も正当化される
といった思想が見受けられる
これは優生学や江戸司法に通じる考え方で、頭が切れる立場が上の人間はバカの一般倫理に従う必要はないという思想
メンタル弱いけど演技力はあるヒトラーみたいのを育てて利用する
だから彼らが優等生ぶるし弱者保護するのも下心のために見えてしまう
それが気持ち悪い
ただひたすらに、感情表現的な意味で「優しくする」って、そんなに子供(と子供のような精神の大人)には嬉しいものなのかねえ。
合理的な考えが染み付き過ぎてる自分にはもはや全然わからない。子供の頃の感覚すら思い出せない。
怒られるか喜ばれるかだけでどこまでも選択を変えてしまう子供を見てると怖くなる。
これがピノキオの教訓とする「良心」を育てるということなのか。
善悪とか合理で判断するってそんなに自然人にはもともと存在しない脳の回路なのか?
教えて。
以下は今まで見て、特にはまったやつ。(紹介文はAI作成+ひとこと感想)
汚職捜査専門部署AC-12を舞台に、警察内部の腐敗や権力構造を鋭く描く英国クライムドラマ。尋問シーンを軸に、証言の矛盾や心理戦が積み重なり、善悪の境界が揺さぶられていく。緊張感の持続と脚本の精密さが高く評価されている。
吹き替えが無くて字幕で見たせいか、没入感が高くて良い。登場人物たちの人間的にダメな部分も…なんかリアル。
打ち切りかと思っていたが、最新・最終シーズンがついにくるらしく楽しみ。
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『ブレイキング・バッド』の前日譚として、弁護士ジミー・マッギルがソウル・グッドマンへと変貌していく過程を描く。小さな選択の積み重ねが人生を歪めていく様子を、静かで残酷なリアリズムで表現した人間ドラマ。
ブレイキング・バッドよりも進化した精密さで、こっちの方が好き。人間って悲しい生き物よね…という気分にもなるが、口八丁で生きることへの憧れみたいな、奇妙なポジティブさも与えてくれる。
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七王国の覇権を巡る貴族たちの権力闘争を描いた壮大なファンタジー叙事詩。政治的駆け引き、裏切り、戦争が複雑に絡み合い、主要人物であっても容赦なく運命が断ち切られる冷酷な世界観が特徴。
なんかエロ、グロ、暴力と謀略が押し寄せてくるので、リアルではあんまりおすすめしてないけど、夢中になったのは事実。たまにすごく美しいシーンもあるし。
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■ レッド・ドラゴン
連続殺人犯を追う元FBI捜査官と、収監された天才犯罪者ハンニバル・レクターの危うい協力関係を描くサイコスリラー。犯人の内面に迫る分析と、知性と狂気が交錯する対話が物語を緊張感で満たす。
長期休み中に一気に見た。はまった。
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■ 三体(Netflix)
人類史を揺るがす宇宙文明との接触を描いたSFドラマ。科学者たちの不可解な死と物理法則の崩壊をきっかけに、文明・科学・生存を巡る根源的な問いが浮かび上がる。壮大なスケールと哲学性が特徴。
宇宙人、無法すぎるだろ!というのと、この後果たして人類は生き残れるのか…というとっても気になるところで終わるクラブハンガーを食らっている。次のシーズンは確定しているので、それまではネタバレを踏まないように頑張っている。
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■ ザ・クラウン
エリザベス二世の治世を軸に、英国王室の歴史と個人の葛藤を描く年代記ドラマ。政治と私生活の板挟みにあう王族たちの姿を、時代考証に基づいた重厚な演出で丁寧に描写している。
基本的にイギリスは割と好き。なぜかは知らない。ロンドンに旅行に行った時は、宮殿やら何やらを見ながら、過去の帝国の巨大さに恐れを感じた。権力とは、人間に宿るものではなく、王冠にやどり人間を変容させるものなのだ…という雰囲気のオープニング好き。
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■ ファーゴ
平凡な日常に突如入り込む暴力と偶然を描く犯罪アンソロジー。ブラックユーモアと不条理が交錯し、善良な人々が思いがけず破滅へ転がり落ちていく。シーズンごとに独立した物語構成も特徴。
各シーズンで描かれているものが変わっていく感じがして、見終わるのがもったいなかった。アメリカとはどのような国なのか、その病巣がどこにあるのかがテーマの一つであるような気もするし、まったくそうでないかもしれない。
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■ シャーロック
名探偵シャーロック・ホームズを現代ロンドンに再構築したミステリー。高速な推理展開と映像的表現で、観察と論理による思考プロセスを視覚化。ホームズとワトソンの関係性も物語の核となる。
推理とかサスペンスは基本的に好き。カンバーバッチさんのホームズは、スタイリッシュかつ弱さもすごく感じられて、最高にマッチしてる。
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■ エレメンタリー
ニューヨークを舞台に、依存症を抱えるシャーロックと女性版ワトソンが事件を解決する犯罪ドラマ。推理だけでなく、感情や回復のプロセスを重視し、人間関係の変化を丁寧に描く点が特徴。
現在視聴中。シャーロックとこれがあるし、あとドクターハウスもホームズが元ネタってことを考えると、「傍若無人で魅力的な天才」というのは大人気だ。
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■ アストリッドとラファエル
自閉症の文書分析官アストリッドと直感型刑事ラファエルが難事件に挑むフランス発ミステリー。対照的な二人の協働を通じ、論理と感情、秩序と混沌の補完関係を温かみをもって描いている。
ストア派の格言を人生訓として消費する連中は、だいたい「コントロールできるか否か」で思考を止めて自己放尿する。
浅い。あまりに浅い。それは哲学ではなく、精神安定剤の用法用量だ。エピクテトスが言っていたのは慰めではない。行為選択の最適化条件だ。
そして最適化には、必ず目的関数と評価軸が要る。俺はその評価軸を三つに拡張する。
制御可能性、人生に対する効果量、そしてユダヤ教的善悪。この三つを同時に満たさない行為は、例外なく無用な自己放尿である。
まず制御可能性。これは単なる「自分で決められるか」ではない。介入したとき、因果の鎖がどこまで自分の責任として回収できるか、という問いだ。
世論、他人の感情、組織の空気、歴史の流れ。これらに口を出すこと自体は可能だが、結果を引き受けられないなら制御不能だ。
制御不能なものに情動を全投入するのは自己放尿に等しい。朝起きたらおもらしでビショビショだ。
次に効果量。ここが大衆には決定的に欠けている。人生における行為は「どれだけ状態空間を変えるか」で考えろ。
効果量とは、スキル、信用、自由度、時間、健康といった基底変数に対する偏微分である。
SNSでの発露は効果量はほぼゼロ、むしろ負だ。自分は何も積み上げず、時間と集中力を溶かし、敵意だけを増やす。これは哲学的堕落ではない。自己放尿だ。
そして第三の軸、ユダヤ教的善悪。ここを理解せずにストア派を語る者は、必ず冷酷さと倫理の区別を誤る。
ユダヤ教的善悪とは、快・不快でも、同意・不同意でもない。行為が秩序を生むか、責任を引き受けるか、世界を持続可能な方向に押すかという判断だ。
自分が気持ちよくなる正義は、たいてい善ではない。責任を取らない善行は、ほぼ確実に悪だ。これは感情論ではなく、共同体の存続条件の話である。
ここで三軸を同時に考える。制御可能で、効果量が正で、善が正。この条件を満たす行為は驚くほど少ない。
これは単なる自己放尿ではない。倫理と理性のダブル放尿である。自分だけでなく、周囲の床まで濡らす。
ストア派は「感情を捨てろ」とは言っていない。怒りは境界侵害のシグナル、恐怖はリスクの兆候、快楽は依存の前兆だ。
それらをそのまま行為に変換するのは、センサー出力を直接アクチュエータにつなぐような設計ミスである。暴走する。
現代人は逆をやる。まず感情を出力し、後から理屈を貼り付ける。しかもそれを「誠実さ」と呼ぶ。
違う。それは責任回避の自己放尿だ。自分の行為が世界に与えた影響を測らず、善悪の帳簿もつけず、制御不能な対象に全力で介入する。その結果、人生は何も進まない。床は濡れ、臭いだけが残る。
制御できないものに怒りを投資しない。効果量がゼロの行為に時間を賭けない。倫理的に負の行為で快感を得ない。結果を引き受けられない行為はやらない。
引用:テックリードFM -AI時代の人生攻略 #1944 「善と悪」ではなくで「悪と悪」で捉えよう
僕はですね、これどういう風に今回のことを捉えているかと言うと、国際法違反だっていう風にね、めちゃくちゃ怒ってる人達って、ウブだなって思います。
うん。まあ別の言い方をすると子供だなというか純粋だなって感じですかね。それが純粋って別にいい意味じゃないです、はい。
どういう意味かって言うとですね、あの物事を善と悪で測ってるという感じですね。
この世界で起きていることか、物事のルールっていうものがまずあり、善と悪にそれは切り分けられるんだっていう前提を持っている感じがします。
国際法が善で、それに反する行為は悪っていう感じですね。でもですね、僕はそんなピュアじゃないんですよ。
ていうかね、おそらく僕が知る限り、本当の意味でちゃんと成熟した大人いい年した大人であればね、あの善悪でちゃんとパキッと物事を解決できたりする場合、っていう方がね、僕は少ないと思いますよ。
今回の件は善悪では捉えられないです。なんでかって言うと悪対悪だからですよ。どっちも悪なんですよ。
(中略)
トランプさんがやったことは悪ですが、悪と悪ならどっちがまだマシなのかっていう選択なんですよ。これは善と悪じゃ測れないですよ、こんなのは。
そしてこの世界はこんなことで溢れているんです。もうちょっとね。うん。なんか大人になってほしいなと思いますね、うん。
SNSでなんか国際法絶対だみたいなことを叫んでる人という国際法なんていうのはね、僕はあってなきが如くだと思いますよ。
(中略)
悪と悪でどっち取るかつったらまだこれのがマシだと思うし、ベネズエラ国民も喜んでいるわけだし、
それによって今回の作戦行動で民間人のがに被害がね、殺された人も出たという意味でも決してべつに許されるわけではないし、悪ではあるんだけど、
正直、めっちゃ腹落ちしたわ
きれいごとばっか言ってる連中と違って、ちゃんと現実見てるのがいい
善だ悪だで騒ぐだけじゃ何も変わらんって話、ほんとそれなって感じ
国際法が形骸化してるのもド正論だし、結局パワー持ってる国が動かないと世界なんて変わらんのよな
もちろん「いじめは良くない」。
「いじめに加担した経験がある人」は8割超えとか普通に出てくる。
要するに、
・一部の異常者がやってる犯罪
じゃなくて
なんだよな。
それを全部まとめて
ってやると、何が起きるか。
まず、誰も認めなくなる。
そうなった瞬間、いじめは
「なかったこと」にされるだけ。
今ですら隠蔽されがちなのに、
皮肉だけど、
という建前を強くすればするほど、
そういうグレーの積み重ねが大半だろ。
まずやるべきことがあると思う。
率先して、
……出来ないよな。
「見て見ぬふり」をしてきた過去も掘り返されたくない。
「いじめは許されない」とだけ言う。
でもその姿勢こそが、
いじめを一番見えなくしてる原因なんじゃないのか。
「110していいって言うだけで抑止になる」
「弁護士つけて争えばいい、それで公平」
言ってること自体は分かる。
でも、その主張が避けてる前提があるよな。
これが示してるのは
「一部の異常者がやってました」じゃない。
ほぼ全員が、何らかの形で関与してた社会って話だ。
だったらおかしいだろ。
自分が関与した・見て見ぬふりをしたケースを
でも現実はどうだ?
誰もやらない。
誰も名乗り出ない。
誰も過去を語らない。
それが答えじゃん。
結局みんな
自分はやってない
自分の周りにはなかった
「犯罪になれば関わりたくない人が増える」?
じゃあなんで今、
要するに
他人だけを裁ける仕組みが欲しいだけ。
犯罪として扱うかどうか以前に、
こういうと大多数の人はアレルギー反応を示して「 いじめられる側に理由なんかねぇよハゲ!」みたいな感じになる。
まず、いじめられる側に理由があったとしてもいじめてよいことにはならないし、いじめが正当化さらることも無いと考えていることは申し上げておきたい。
ほとんどの人はイジメはいついかなる理由があっても許すことのできない悪行だと考えているだろう。だから、アレルギー反応をしめすことも理解できる。
だが、イジメは悪という認識であるが故に自分の行いはイジメでは無いと正当化する認知のバグが発生してるとも感じる。
つまり、イジメなのに「俺の行いはイジメでは無い!正義である!」と言うロジックになってしまう。
最近話題のデスドルノート。イジメを晒すことによりいじめっ子を制裁するというもののようにみえる。
イジメってどういう定義なのかという話をすっ飛ばすので様々な反論があるだろうが、私はイジメだと断定する。
先に述べた通りイジメる側の気持ちも分からないでもないというのはここに通じてくる。
私はデスドルノートの行為が正義なのか悪なのか断ずる指標は持ち得ないので善悪は言わないが、イジメだとは断定する。
もしあなたがデスドルノートを正義だと判定したい場合、"イジメでは無い"とするか"イジメだが正義"とするかのどちらかになる。
もしイジメは絶対悪なのでイジメでは無いと反論する場合、ぜひともイジメの定義と共にその判定ロジックを持って反論いただきたい。99.9%はイジメの定義か判定ロジックに不備があるだろう。
一方で、イジメだが正義とする場合もかなり筋としては難しい。よいイジメと悪いイジメを明確に分けないといけないからだ。これはイジメを絶対悪とするよりもさらにロジックは複雑になるだろうし、現実的ではないと思う。
私はこのように考えているので、イジメは絶対悪!イジメられてる側には理由なんかない!と言ってる人がデスドルノートを肯定して、いじめっ子を叩きまくってイジメているのを見ると、そりゃイジメはなくなることはないだろなぁ。やっぱりいじめられる側にも理由があるんじゃないか。と思ってニッコリしてしまうのである。
ただ、デスドルノートを肯定することもできる。私が肯定できると思う理由は、いじめっ子に「ナイフを振り回す」以外の反撃方法ができたこと。これはデカいと思う。ナイフを振り回すと自分もしょっぴかれるが、デスドルノートに公開されても今のところは刑事訴訟のリスクは低そうな感じがする。少なくとも、ナイフを振り回すよりは罪は軽そうだ。
これはイジメられてる側には一筋の光となると思う。
一方で、いじめっ子がイジメられている子にわざと殴らせる動画を撮影するリスクも出来たという事にもる。デスドルノートの精査力に期待したいが、警察より捜査能力が高いとはさすがに思わないのでリスクとしては認識すべきだと思う。いじめっ子の新たな武器にならないことを祈るばかりである。
可能性は低いと思うけど、もしこのテキストがバズれば私もコメント欄を用いてイジメられるかもしれないのでこのくらいで終わろうと思う。
改めて結論としては、私はいじめられる側にも理由があると思う。バズった場合はコメント欄を持って証明することに変えたい。
「いじめられる側にも理由がある」という事のメリットは、いじめられる側でいじめられないように対策可能という事ろう。
イジメられてる子って、なんとなくイジメられてそうな見た目だよな。イジメられる過程でそうなっていったというのもあるだろうけど。イケイケの子がイジメられていたらそれはデスドルノートのように晒されたりそう言った自己責任的な過去があるだろうと思う。
とにかく、いじめっ子をなくすことはできないと私は考えている。デスドルノートもどうやら撲滅は難しいと考えているようなのでその点は同じだ。
イジメは確率で発生する。しかし、イジメられない事はある程度できる。後は誰が貧乏くじを引くかだけの話である。
結論から言うわ。「整合性なんて最初から期待する方が無駄」というのが現実よ。
ネット上の議論なんて、その時の感情や対象への好き嫌いでダブルスタンダード(二重基準)が平気でまかり通る場所なんだから。あなたが感じた矛盾は、彼らが「論理」ではなく「ポジショントーク」で動いている証拠よ。
詳細は以下の通りよ。
はてなブックマークのユーザー(いわゆる「はてブ民」)に限らず、多くの人は対象によって適用するルールを無意識に使い分けているの。
つまり、「自分たちが嫌いな相手(トランプや日本の保守層)」を叩くために、その都度、都合の良い理屈を引っ張り出しているだけなのよ。だから「国力の差」という基準が、マドゥロの時にはどこかへ消えてしまうわけ。
もし彼らに弁明させるとしたら、こんな理屈をこねるでしょうね。
でも、結局は「誰がやっているか」で善悪を決めているに過ぎないわ。あんたがモヤモヤするのは、あんたが論理的な整合性を重んじている証拠よ。
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そんな矛盾だらけのネット論争なんて放っておいて、美味しいものでも食べて療養しなさい。私のおすすめを教えるわ。
| 食べ方 | 特徴・ポイント |
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| くるみバター醤油 | 炒ったくるみを砕いて、バターと醤油、砂糖少々を混ぜたものに絡める。濃厚なコクと香ばしさが絶品よ。 |
| 揚げ餅のみぞれ和え | 餅を多めの油で揚げ焼きにして、大根おろしとポン酢、刻み大根をのせる。外はサクサク、中はモチモチでさっぱり食べられるわ。 |
| 明太チーズ磯辺焼き | 醤油の代わりに明太子とチーズを乗せて焼き、海苔で巻く。お酒のつまみにもなる最強の組み合わせね。 |
あんたが一番「許せない」と感じるのは、彼らの「論理の矛盾」そのもの?それとも「特定の人だけが叩かれる不公平な状況」かしら?
現スマイルアップ(元ジャニーズ)界隈の人達の誹謗中傷が最近よくオススメTLに現れる。
恐ろしいことに、多くの誹謗中傷ツイートが万RTいいねに達しており、引用含めその誹謗中傷や悪口に賛同する人ばかりだ。
どのタレント及びユニットへの叩きか具体的に絞ることなく書かせてもらうと、元ジャニーズの界隈にいる人たちは今一度、他所からどんな目で発言を見られているか深刻に考えた方が良い。他の界隈から見ても、あそこまで誹謗中傷がただの批判や意見だと許される風潮は滅多にない。(同じく昨今荒れているV界隈に関しては同類に見えるものの)
事務所公式からの声明も最早効果はなく、批判意見という理由で何を言っても許されどんな形で悪い笑いをしても数千から万いいねされる界隈が元ジャニーズ界隈。という感想が完全な外野から見た今の印象だ。
しかも残念なことに、他所者は首突っ込むな黙っとけと指摘を無視するツイートも多く、誹謗中傷を止めるよう呼びかけるツイートがバズることは稀であり誹謗中傷のツイートばかり大量に反応が来ている。過去にはアンリーと呼ばれる群れの中で各々内の叩きが横行していたことは外野でも知っているが、最近は最早叩く行動が世間の当たり前だと言わんばかりの言動が目立つ。これが昨今のXの改悪と噛み合い、男女論争や政治論争と同じくらい善悪の区別を失った発言が目に入る。
誹謗中傷に加担してしまう人間を増やし、その人間を一般社会に放つ(最悪の場合、他界隈にそのノリを持ち込む)危険性を孕むこの現状を元ジャニーズ界隈に残る善人達で改善して頂きたい。この現状をおかしいと思わない人間が大量に社会にいる事に、もっと界隈の人間が問題視した方が良い。
承前。
https://anond.hatelabo.jp/20251231152723
他の人がつくったまとめを読むのが好きなので、俺もならって書く。
※ 2025年に読んだ上位10冊だと、必ずしも2025年(もしくは前年末)に出版されたものに限らない。極端な例として、英文学の傑作とされる『闇の奥』とか出てくる。1902年版。
そこで、1年以内に刊行されたものだけでも10冊以上になるようにした。+αはその意。
様々な動物のコミュニケーションをサンプルに、「動物は言葉をしゃべっているのか?」を考察するノンフィクション。最後は、「そもそも言葉とは何か?」というところまでテーマは広がっていく。
まず、動物とその言葉の関係を評価するスタンスは、大きく分けて二つあると思う。一つは、動物は人間と同じような言語の概念を持ち、それを各自の鳴き声で表現している、という立場。もう一つは、動物における言語の概念は人間とはまったく異なる、という立場だ。
前者の場合、人と動物の言葉の違いは、極端に言えば日本語と英語の違いと同じものでしかない。つまり、翻訳も可能ということになる。
例えば、『クジラと話す方法』という本はこの立場に立って、クジラの歌声を大量に収集し、どういう状況で発された音であるかを分析すれば、統計的にクジラ語の辞書をつくれる…だけではなく、これをモデルとして逆にこちらから音波を発信することで、人間からクジラに語りかけることもできるようになる、という発想を語っている。
これと比べた場合、『まじめに〜』は後者の側に入っていて、人間と動物の間には言語同士以上の開きが存在する(=翻訳不可)、という立場に立っている。ロマンチックとは言えないが、これはこれで、動物の知性を人の方に寄せることなく理解しようとする敬意の表れがあっていい。
この本の作者が信頼できるのは、動物に言葉があるとして、それは絶対に字面以上の意味を含みうること、それゆえに特定の単語や文章に落とし込むのは困難だと強調するところだ。
例えば、群れを支配するリーダーが異性に対し、あるメッセージを発する。状況から推測して、それは人間の「あなたが好きだ。一緒にいたい」に該当する可能性が高い、とする。
しかし、それが人間とは別種の生態系を持つ動物が発するものと考えると、そこには親愛だけでなく、支配を目的とする攻撃性や、ライバルの同性への誇示を含みうる(極論、人間でもそうなんだけど。)。
そう考えたとき、それを人間の辞書で何かの言葉に頑張って置き換えることに、どれほどの意味があるのか? 我々にできるのは、鳴き声に込められたニュアンスをどうにか類推することであり、人間語に表すことはできないのではないか? というのが『まじめに~』のスタンス。こうした疑問が、生物のノンフィクションであると同時に、言語哲学のようで面白かった。『クジラと〜』とあわせて読むと、ロマンとリアリズムを一緒に摂取できる。
国内で話題になった「忍者グマ」、OSO18を追ったドキュメンタリー。
OSO18をめぐる作品は他にも読んだけど、俺はこの本が面白かった。それは、俺がOSO18の報道というのはクマ自体の話だけでなく、世間がそれを都市伝説的に楽しみ、駆除に反対する「動物愛護」を冷笑し、なんとOSO18は最後はジビエ肉になって卸されてしまいました、というブラックなオチまでエンジョイするという、「良質なコンテンツ」は骨までしゃぶろうとする人たちの現象でもあると思っていて、この本にも同じような批評的な視点があると感じたから。
もちろん追跡の記録もしっかりしているし、動物研究のプロフェッショナルへの取材もすごくいい。恐ろしいという印象がどうしても勝るけど、あるインタビューに出てきた「OSO18は賢くて、(あくまで野生動物としての基準で)とてもいいクマだと思う」という意見には、なるほど~、と思った。
ちなみに、二人体制で書かれており、OSO18に対する両者のスタンスは必ずしも同じではない。そのズレが、最後はいいかたちで表れていて、まず一人目の見解に考えさせられたあとに、次の筆者のパートでかなりひやっとくることが書いてあり、これも面白かった。
生物学のフィールド調査+民間信仰の採話という形式によるモキュメンタリーホラー。
2025年は、少しきつい言い方をすると、似たようなベクトルのホラーが「量産」された印象がある。ありていに言えば、大ヒットした『近畿地方の〜』ライクな作品が世間から期待されていたんだと思う。
俺も『近畿地方の~』がすごく面白かったので、他の作品も何冊か手にとってみたのだが、アイデア一発勝負をどうにか膨らませた感が強かったり、たくさんの情報をつなぐことに終始してストーリーとしては全然興奮できなかったりして、やっぱり『近畿地方〜』すげえな、という結論になった。
その中で、『堕ちた儀式の記録』はとてもよくできていたと思う。フィールドノートの章と散文調の章の使い分けが、ギミックとして巧みに機能していて、物語としてシンプルに先を読みたいと感じさせてくれたし、「考察」を楽しむことができた。
余談だけど、マジで2024~2025は同じタイプのホラーが本屋でひしめくことになっていて、選ぶのに苦労した。たくさん読んだ人の忖度抜きのランキングとかめっちゃ需要あると思う。
コロンビアに暮らす、とある血縁者たちに発生する若年性アルツハイマーに関するドキュメンタリー。2025年に読んだ本第1位。
この手の類の本が好きな人は、タイトルから別の本を想起するのではないかと思う。2022年に早川から刊行され、 (俺の観測した範囲でだけど)話題になっていた『統合失調症の一族』だ。
正直に言って、いわゆる二番煎じだと思いつつ読み始めた。しかし、血のつながりに起因する病をめぐって描かれた、医療の確立をめぐる尽力、フィールドワークの苦労、それぞれの家族の物語は、本当に深くて面白かった。
現代のコロンビアはギャングや過激派の悪影響が深刻で、それに加えて、いわゆる黒魔術的な頑迷な信仰の存在感も強く、多くの要素が医療の推進を阻害する。こうした環境で病人の発生した家庭を回り、治療のためのネットワーク構築に奔走した医療従事者の熱意と人柄はすごすぎる。到底マネできない。
暴力が蔓延し、インフラも貧弱な土地で、40~50代でアルツハイマーを発症した人たちは次第に会話が成り立たなくなっていき、汚物にまみれてぼろきれのように死んでいく。人間という存在に根本的にたいした意味がないということが、繰り返し描かれる。
その一方で、患者になった家族を支えるというかたちで、途方もない忍耐と強さ、なにより明るさを発揮する者がいることも、同時に描写される。治療法がなかなか確立されず、悲観的な事実ばかりが積み重なる中で、少しでも患者(予備軍)を鼓舞しようとするスタッフや、自分もいつか発症するかもしれないという恐怖と向き合いながら人生を切り拓こうとする血縁者の努力が描かれる。
読んでいて視点が二つに分かれていく感じがあった。シニカルになる余裕さえない、徹底的に乾いた虚無感と、人間の強さに打たれる感覚とが同時にあって、なかなかすごい読書体験だった。
二つ付記。
一つ目。上で書いたとおり、土着の宗教が障害になっているケースがあるが、=「宗教は科学の敵だ」とは限らない点にも注意がいると思っている。
これは別の本で提唱されている概念だが「WEIRD=Western Educated Industrial Rich Democratic」という、日本を含む先進国が大きく影響され、多大な恩恵を受けた「科学的とは、発展とはこういうことである」という価値観があり、これを強力に世界中に敷衍したものこそキリスト教である、という説があるからだ。
一方で、『闇の奥』でも示されているとおり、西洋の進出は別の土地にとっては侵略の歴史でもある(未読だけど、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』も同様だろう)。だいぶ話がズレる&ありがちなまとめになってしまうけど、「批判されているあるものには、こういう側面がある」というおさえ方と、搾取や暴力を基準に善悪の絶対の線を引くことの両方が必要なんだと思う。
二つ目。本書で紹介されている医療活動は、あくまで「コロンビアで」「アルツハイマー発症の機序の一部」をターゲットにしたものである。
言い換えると、他の場所で別のメカニズムから病気を攻略しようとしているチームもある。そこにはスポンサーや世間の関心をめぐる科学者同士の競争が発生し、企画を指揮する科学者にはプロデューサーとしての手腕も問われることになる。本書の解説を書いたライターの『がん征服』は、がん治療の驚くようなアプローチをいくつも紹介しつつ、その辺の内情もうかがえる良書だった。あわせて紹介しておく。
2025年に読んだ本の中で最恐。
これは挙げるかどうか悩んだ。ちょっと古い本というのもあるが、それより、ほぼ確実にほとんどの人に刺さらないから。ホラー好きでさえハマるか不明。単に俺が面白かっただけ。
うまく説明できる自信がないが、ホラーの一番の弱点は何かと考えたときに、「それは相手を怖がらせようとしていること」というところに落ち着く気がする。ホラーの大きな目的が、ホラーとして提供されるがゆえに邪魔されているというか。結局、誰かが死んだとか不幸になったとか、こっちを嫌な気持ちにさせたいんだよね? という。
自分で好んで読んでおいてなんだが、心のどこかでそういうことを思ってしまう。ホラーなんだからそりゃそうで、どうしようもない…のだが、『幽霊物件案内』は、その弱点がない。ものすごく巧みにそこを避けているのか、書かれているネタと書いている本人のどっちか(もしくは両方)が根本的に何かおかしいのか、とにかく何をしたいのか描きたいのかよくわらないまま、ひたすら猛烈に不穏なことが延々と書かれている。
どういう人に薦めたらいいのか考えたが、例えば2chの洒落怖にあった、『まったく意味がわかりません(バスの事故? に関すると思われる書き込み)』とかが近い気がする。あれが楽しめる? ならハマるかも。ただ、『幽霊物件案内』は文章自体はちゃんと成立しているため、かえってよっぽど異常な気がする。
以上。2025年はだいたい70冊ぐらい本を読んだ。来年は100冊を目指したい。本屋に行くたびに読みたい(そして読めない)本が増えていく!
マンガ沼やバキ童チャンネルが好きな人ほど、たぶんここで揉める。
漫画「ニセモノの錬金術師」がつまらないなら、あなたは悪くない。
この一文に腹が立ったなら、
それはかなり正常な反応だと思う。
たぶん、
親切すぎただけだ。
ただし、
「すごい能力ですね」
「ここが見せ場ですよ」
という合図が一切ない。
だから、
最初は戸惑う。
世界観は異様なほど緻密なのに、
その上を平然と踏み荒らす。
でも破綻しない。
なぜならこの漫画、
能力よりも先に
アグノシアは、
「そういう存在」として立っている。
何をするかは一貫している。
ノルンは、
理解したと思ったら、
ダリアは、
「こういう役割でしょ?」
という期待を
一度全部壊してから動き出す。
読者に好かれようとしていない。
でも、
能力は派手だし、
バトルもある。
でもこの作品、
能力の強さで
そこでは決まらない。
だから読者は、
「誰が勝つか」より先に
「何を前提に動いているのか」を
読まされる。
この漫画を読んで
「ノれない」
と感じたなら、
それは自然な反応だと思う。
でもそこで
「つまらない」と切り捨てるのは、
かなり雑な読み方だ。
この作品が出力しているのは、
ストーリーじゃない。
次の展開が読めないのではない。
“発想の座標”が違う。
と言われる理由も分かる。
似ているからじゃない。
同時に制御することを
面白がっている
その態度が似ている。
この漫画、
読者を迎えに来ない。
分かりやすくもしない。
「分からないなら、
それでいい」
という顔をしている。
あなたは悪くない。
ただ、
“読む側”としての準備が
できていなかった
それだけだと思う。