はてなキーワード: 日本とは
食文化の担い手は必ずしも「その国の人間」である必要はない。世界を見渡せば、ギリシャの食堂でギリシャ料理を作るのが移民であったり、ロンドンでインド料理を支えるのがバングラデシュ系の職人であったりする。日本の外食産業もすでに多くの外国人労働者なしには成立しなくなっており、今後移民・外国人労働者の受け入れが進めば、「日本の食」の担い手は変わりながらも水準は維持・更新される可能性がある。むしろ移民が少ない現在の日本でこそ、いわゆる「本国の味」が温存されているという逆説的な見方もできる。需要の担い手と供給の担い手は別々に考える必要がある。
次に、食文化はその国の内側だけで完結するものではない。1963年、韓国は日本の明星食品から無償で技術供与を受け、インスタントラーメンの製造を開始した。以来、韓国はインスタントラーメンを独自に発展させ、今や世界一の一人あたり消費量を誇り、辛ラーメンは100カ国以上で販売されるグローバルブランドになったし、その韓国では日本式の生ラーメン文化が爆発的に広がっており、ソウルだけで約1200店舗にまで日本式ラーメン店が増え、水鶏系から油そば、家系、二郎系まで、日本のラーメン文化そのものが深く受け入れられている。中国と地続きでありながら、インスタントラーメンに続いて生ラーメン文化までもが日本から根付くというのは、食文化の伝播がいかに地理的条件を超えるかを示している。増田は日本国内の需要低下だけを見ているが、日本の食文化が「外需」として評価され、そこからまた日本へフィードバックが来るという循環も十分にあり得る。
さらに、AIと翻訳技術の発展は、世界の食の平均底上げをもたらす可能性がある。日本の食が「落ちる」方向にしか目を向けていないが、XのリアルタイムAI翻訳をはじめ、動画プラットフォームでのレシピ共有やオンライン料理教室の普及により、世界の料理人や一般人が良質な料理技術にアクセスしやすくなっている。これは日本の食の相対的優位が縮まるとも言えるが、同時に「日本の食から学びたい」という世界の需要が増大する面もある。世界交流の加速は、日本の食文化を希薄化させるとは限らず、むしろ一種の「輸出財」として再評価させる契機になり得る。また、日本人の食への飽くなき欲求は世界の食文化を吸収するポテンシャルをまだ残していると思う。
「自炊離れ→外食チェーン化→美食文化の衰退」という図式は、一定の説得力を持ちつつも、国内消費者の行動だけに議論を限定しすぎている。食文化の強度は、その国の人間が全員料理上手かどうかではなく、どれだけ多様なプレイヤーと交流しながら更新され続けるかによって決まる。
徴兵制は廃止しているが、軍拡して兵器輸出で利益を得ているのが日本とドイツ
ドイツは今は、ウクライナやフィンランドなど他国様軍拡の需要頼みだ。しかし10年後にはそれらの国と軋轢が生じてたち行かなくなるだろう
属国日本はアメリカの軍拡を支援しているから、10年後には自衛隊拠出も当たり前かもしれない
ロシアは既に自軍で戦争をしつつ、イスラエルの戦争需要で利益を得ている。トランプはそのイスラエル戦争のためにプーチンを支持してた。
そもそも日本食が世界一って思ってるのは日本人だけでしょ。というか、どこの国の人でも母国の飯が世界一うまいんじゃないの?
自炊しなくなるから外食のレベルが下るってのはちょっと違うな。外食産業は敷居が低いんだよ。だから始めようと思えば誰でも始められる。需要があれば一定の供給は生まれて、そこから競争が始まるわけ。なので、外食産業の敷居が低い限り、一定の水準は保たれる。日本の飯が世界一かどうかは知らんが、すくなくとも日本における日本食の水準はある程度保たれるんだから、心配ご無用なわけ。
日本のルールやマナーを守ってるちゃんとした外国人労働者は歓迎して厚遇するべき
ただし中露は除く
ルール違反や迷惑行為や犯罪者は国籍や人種に関わらずもっと根本的に厳しく罰するべき
不法移民は論外
難民は断るべき
「かわいそうな難民」をうわべの同情論だけで受け入れようとするのは本当に良くない
明治維新以来、日本人が白人コンプレックスをアジア人差別で代償しようとした、というのは的確で、150年経ってもその心理に気づいていない、気づきたくない人が多すぎる根深い問題
東博で今やっている加賀百万石展、前田家が東洋である日本の文化を蒐集し保存し、美意識を磨いていた長い歴史を、明治になって似合わない洋装洋画像や日本の風土にあわない欧州工芸に生活を切り替えて日本独自の文化と美に上書きしたのを見て悲しくなった
必死で脱亜入欧しようとしたことには理由があり、変化の正の面を否定はしない。だからこそ確実に負の面があったことも認知すべき
明治で日本の根幹がグラグラになったまま、アイデンティティのより所を補填する愛国や戦争に突き進んで、完全敗北から文化がほぼ完全に欧米配下に入っていったのも大きい
それでも日本文化を保存したり生活の中で江戸以前から風習として息づいている「日本」を何とか保っているが
本来の日本文化が明治以降にくいこんだ白人コンプレックスに上書きされて、アジアへの共感や帰属意識を失い、西洋の敗北とアジア興隆で文化的な帰属先もなく一人負けのガラパゴス精神鎖国になっている。そして貧しくなってまた根のないアイデンティティのより所を排外愛国に求める空気がある。かなり危険な状態
日本に住んでる人だけじゃない
観光客が大量に来てる
で、日本来たら何食いたい?
そりゃラーメンだろ
でも現状、
つまり、
って状況が普通に起きてる
これ、逆に言えば
“食いたいのに店が少ない”
ってことだからな
しかも、
需要はある
競合は少ない
こんなん勝ち確ビジネスだろ
そこ埋めるだけで市場になる
というわけで、
→特攻隊員の方々はがどこからこの日本を命がけで守ろうとしたのか
→アメリカ
→今の日本は政治的にアメリカの支配下にあり搾取されていて、全国に米軍基地があり彼らは日本の予算を使って生活し犯罪を犯しても無罪になっている
ということですよね?
以上。とはいえ1年半持ってるけどね。
一応凍結前クローズドβテスト、凍結後ネットワークテストとプレイしている。
リネージュ2Mのリリースを翌年に控え、業界全体がPC-モバイルクロスプラットフォームを前提に動いていた。
このテストの同時期にはロストアークJPサーバー(2024年クローズ)、V4(2023年クローズ)が走っていて、この両者がゲームとしてはともかくアプリの完成度は極めて高く、AAタイトル相当の出来だった。
一方ブループロトコルだが、Windows専用だった。そのうえ最適化が全く駄目で、PCが唸りを上げて破壊されないかヒヤヒヤした記憶がある。
イベントシーンの立ち姿は辛うじて戦えるレベルだったが、操作感や感触は正直リネージュ2無印レベルであり、これを2020年に出すのか?と思った
またこの時代、オープンワールドというかシームレスマップが行けるか行けないかの境目の時代であり、本作は行けなかった。
秋に原神という黒船が到来しなければギリギリ行けたかも知れないが、他の多くのゲームと一緒に時代遅れ扱いとなった。リリース凍結は順当。
正直、鹿しか覚えていない。
渓谷に囲まれた高台(そもそも何だその地形は?PS2のゲームか?)に登場するボスの鹿が突き飛ばし攻撃を繰り出してくるのだが、狙われたら最期崖下に突き落とされて死ぬっていう。
ビジュは良かったしイベントシーンのモーションが良かった記憶はあるが、ゲーム部分はエターナルカオス(ラグハイム)と変わらんなとメモに書いてあった(2001年のゲーム)
ちなみにこの2020年→2023年の時代を同時に駆け抜けたタイトルがサイバーパンク2077である。
2020年に発売されるも最適化不足で訴訟沙汰の大モメから、2023年にはパッチ2.0とDLC「仮初めの自由」が配信され評価された。
miHoYOは原神→崩壊スターレイルとリリースを続けていた。奇遇にもライザのアトリエ3も2023年だった。
あ、クラフトピアも2020年リリース→2023年シームレスアップデートだった。
でもそれ以外には無かった。ここで言う技術とはUnityやUnrealEngineを低レイヤーで触ることのできるコンピュータサイエンスや数学の事を指す。
学部卒のような素人ではなく、プロフェッショナルが活躍できる場所が日本のゲーム業界にはほとんど存在しなかった。
それは過去から2026年現在までも同じである。日本のゲーム業界には高度人材があまりにも少ない。
セガも、バンナムも、コーエーも、技術的にはしょっぱいゲームを作り続けている。
もちろん技術があれば面白いとか、なければつまらないとかはない。ただ大規模開発についていけない体質になった。
そして任天堂とソニーは自社ハードのスペックと販路の狭さという制約がある以上、作れても作らない。
スクエニはファイナルファンタジー蟻地獄に人材を注ぎ込んでいるので作れない。
経済力でも科学技術でもアメリカにダブルスコアだったのに、こんな落ちぶれた理由は、実は軍事力なんじゃないかな。
輸出が強すぎるからもっと内需の国になれと言われ、円高を容認しろと言われ、働きすぎだから休日を増やせとかまで言われ、まあ普通に内政干渉なんだけど、アメリカの言いなりに、予定調和的に落ちぶれた。
日本の食文化は衰退していく、という主張には同意するが、原因は自炊の有無ではない。
政治家や官僚が豊かでかつ階層の世襲が続いたことが原因。国の大方針を決める政治家や官僚、彼らは観光以外の解像度が低いためにこうなっている。彼らは小さい頃から豊かな家、特に東京の富裕層に生まれ育っている。という偏見を私は持っている。
彼らは小さい頃から親に観光に連れて行かれる。国内海外問わず楽しい旅行、ワクワクする体験を山ほどしてきている。または忙しい官僚の子供であってもたまに連れて行ってもらった旅行、それは素晴らしい体験だったに違いない。
大人になった彼らにとって最も素晴らしい原体験、解像度の高い産業は、観光業であったのだ。彼らに悪気はない。たまたま農業漁業工業医療などに対する解像度の高い体験を積むことができなかっただけだ。
観光は楽しい→あんな楽しいものならみんな金を出すはず、という短絡的な発想で観光立国という発想になるのも、仕方なかろうと思う。
一次産業、二次産業の実態を見ようともせず価値を貶め、触れさせようともしなかった結果が、国民が全員ペコペコ外国観光客を受け入れてればよいという観光立国政策である。
日本の実写映画の評価高いのって黒澤明ぐらいしかいなくね。後はまあそれに釣られて持ち上げられてるだけっていうか…。鬼滅の刃の横に2軍3軍の漫画置いとけば一緒に売れるみたいな感じで。
MagMixによると、今年初めに日本の経済産業省(METI)が公表した資料に基づけば、2024年に国内エンターテインメント産業が受け取った補助金は67.7億円、約4,250万ドルだった。
しかし、その総額の54.9%は実写産業に向けられており、アニメは12.6%、ゲームは10.7%にとどまっていた。これは大きな偏りがあることを示している。
それだけではない。アニメ産業の内訳を見ると、補助金の主な使途はプロモーション、ローカライズ、流通であり、実際の制作者に渡った割合は0.0%だった。つまり、アニメ制作の現場スタッフに直接行き渡る政府支援は、ほとんど存在しなかったということだ。
ここで見た限りでは、経済産業省(METI)はこの不均衡を認識しており、クリエイターが恩恵を受けられるように制度を変更したいと考えているようだ。
ただ、問題に見えるのは、これは経産省の変更が意味を持つためには、業界全体に何らかの法的な大改修が必要なタイプの話だということだ。業界の構造を理解せず、言い方や制度設計を間違えると、企業が遠回しな形でそのお金を懐に入れるだけになり、簡単に裏目に出る可能性がある。
実写が他と比べてこれほど多くのお金を受け取っていることには驚いた。もっと早い段階で、誰もそれをおかしいと思わなかったのだろうか?
①日本国外の人々は、日本で実写映画側がどれほど大きな力を持っているのか、またアニメやゲームがどれほど見下されているのかを、あまり理解していないと思う。
皮肉なことに、最も多くの収益を生み出しているのはアニメやゲームだ。それにもかかわらず、それらにもっと資金を向けようとする動きがあるたびに、「多様性の重要性」や「業界全体を底上げする必要性」といった議論が持ち出され、オタク文化にお金が流れるのを阻止するために使われる。
誰もこの状況をおかしいと思わない。なぜなら、アニメや漫画業界の人々、つまり「最下層の趣味」と見なされている分野の人々は、自分たちの「身分」に見合った扱いを受けているだけだと見なされているからだ。
②それにも十分な理由はある。日本の実写作品は長い間、非常に高く評価されてきたし、実写側の業界ははるかに長い歴史を持ち、制度的にも確立されているからだ。
一方でアニメは、実際に大きく伸びたのはここ数十年のことであり、文化的な存在感や収益性という点では、明らかに新参者の側だ。
③つまり彼らは、実際にはそれほど大きな収益を生まない、アート系映画祭での評価のような評判を気にしているということですね。
『鬼滅の刃』は今ではおよそ10億ドルほど稼いでいて、非ハリウッド映画として初めて年間世界興行収入1位になった作品ですが、その数字にその売上は含まれているのでしょうか? 日本国内のチケット売上では、日本がこれまで作ったどの作品よりも上回っています。
まあ、アニメは成功しすぎていて補助金を受ける必要がない、と言うこともできるかもしれません。ただ、実写映画側の人たちは「支援が必要な業界」というレッテルを貼られたくはないでしょうね(笑)
より高く売れる所にはいい物が集まるし、より安くしか売れない所にはそれなりの物しか来ない。
これは日本の中でも確認できて、都会にはいろいろな美味しいレストランがたくさんあるし、田舎に行けばいくほど、それなりのものしかない。
「味噌輸出にNO」毎月30日<ミソカ>に大手発酵食品企業の商品買い控え
??は味噌輸出に反対している。味噌には美味追求だけでなく塩分や危険が伴い、自分が摂取した味噌が健康にどう影響するのかを考える必要があると思っている。
濃い味の味噌ラーメンはじめ、野菜肉魚などの味噌漬けを大量に摂取すると、高血圧を招き脳血管や循環器系の疾患などから、日本が数千年かけて築いてきた健康に良い日本食という「信用資産」を味噌売却のために切り売りするような行動はやめてほしいとの思いもある。
...って書き始めてみたけど、たいしてオモロくなかった。残念
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
日本の食は世界一だと言われる。ミシュランの星の数がどうとか和食がユネスコに登録されたとか、そういう話ではなく、もっと漠然とした雰囲気、なんとなくみんなそうかもしれないと思っている。コンビニのおにぎり一個でも、町の定食屋の日替わりでも、水準が高いのは事実だ。
だが、それがいつまでも続くのかはかなり疑わしい。
独身者が増えた。昔なら女性が担っていた家庭料理の技術が家庭の中で継承されなくなり、男女ともに自炊スキルを持たないまま大人になる人間がどんどん増えている。知人の独身男性はアラサーなのに自炊スキルゼロで、冷凍食品とコンビニのヘビーユーザーだ。俺は独身中年男性だが自炊してる!とか反発する奴もいるかもしれないが、自分たちが少数派なのは分かっているだろうに。外食といえばチェーン店一択でサイゼリアを「コスパ最高」「別に美味いだろ」と絶賛する。それはまあわかる、サイゼリアはたしかにそこまで劣悪な品質ではないだろう。でもそんな連中が増えた社会は美食に関心のない社会だろう。
個人店には入りづらいという人が増えた。値段が読めないとか、雰囲気がとっつきにくいとか、各々それっぽい理由を述べる。「デパ地下で総菜買ってうちで飲むのが一番コスパいい」という話を聞くたびに、なんとも言えない気持ちになる。コスパとタイパだけで飯を選ぶようになったとき、料理人の技術や店の空気や食材の背景みたいなものはどこに行くんだろう。
そして酒だ。美食と美酒は切り離せないと、少し前まで当たり前のように言われていた。料理に合わせてワインを選ぶとか、魚には日本酒とか、そういう話ではなく、もっと根本的に、良い食事の席には良い酒があるという前提が共有されていた。それが今、飲まない、飲めない、飲みたくない、飲む人の近くにいたくない人間がものすごい勢いで増えている。ソバーキュリアスなんて言葉も出てきた。これも別に悪いことではない。でも、料理と酒が一緒に発展してきた歴史を考えると、酒を嫌う日本人が主流になっていく社会で、料理の水準だけが独立して高まり続けるというのはあり得ないだろうと思う。ラノベ作家や漫画家などサブカルチャーに携わる人間も酒が飲めない酒飲みの気持ちが分からない酒なんて要らないだろう、とXで堂々と振る舞っている。本当に興味のある文化の幅が狭い"文化人"が増えたのを感じる。
作る人間が減り、金をかけない人間が増え、個人店が潰れ、酒を飲む人間も減っていく。その社会で、日本の食の水準が今のまま維持されるか?需要がなければ供給は細る。それだけの話だ。
日本の食が世界一かもしれないというのは、まさに今この瞬間だけの話で、時間とともに終わっていくのだろうと今ここに書いておきたい。