はてなキーワード: 平等とは
マジレスすると、そこは別に矛盾してない。見ている「左翼」のレイヤーが違う。
たぶん彼らが嗤っていた「左翼」は、政党・労組・学生運動・共産党・社民系みたいな、昭和型の組織左翼。
これは実際、議席・動員力・社会的威信の面ではかなり弱体化した。
一方で、彼らがいま「左翼が世界を動かしている」と言うときの「左翼」は、政党としての左翼ではなく、大学・メディア・人権団体・国際機関・企業広報・教育・SNS規範・ポリコレ・DEI・ジェンダー論・反差別言説みたいな、文化的・制度的なリベラル規範のことを指している。
要するに、「選挙には弱いが、空気やルールづくりでは強い」という認識になっている。
実際、左派政党の退潮と、文化・価値観領域でのリベラル規範の影響力は、同時に起こりうる。
左派の衰退を分析する議論でも、単に得票や政党支持だけでなく、イデオロギーや公共政策への影響力という別軸で見る必要があるとされている。
「共産党は弱い」
みたいに、途中で主語がすり替わる。ここが変。
本来は、
「旧来型左翼組織は弱体化したが、リベラルな文化規範・反差別規範・アイデンティティ政治的な言説は、一部の制度や企業・メディアでは強い影響を持つようになった」
くらいに言うべきところを、雑に「左翼が世界を支配している」に圧縮するから、話が急にオカルトになる。
さらに言うと、「文化マルクス主義」みたいな言い方は、その典型で、フランクフルト学派や進歩派運動を現代のポリコレやアイデンティティ政治の黒幕扱いする陰謀論として説明されることが多い。
つまり、現象として「制度内リベラルの影響力」はあるとしても、それを「左翼の世界支配」に変換するのは、かなり粗い。
彼らにとって左翼は、殴るときは“弱くて惨めな負け犬”で、怯えるときは“社会を裏から支配する巨大権力”になる。
これは論理というより、敵像の使い分け。
勝利感を得たいときは「左翼は終わった」と言い、被害者意識を語りたいときは「左翼に支配されている」と言う。
ただ、完全に無内容な妄想とも言い切れない。
旧来の共産党や労働左翼は弱くなった一方で、企業・大学・メディア・国際機関では、人権・多様性・反差別・ジェンダー平等のような価値観が標準語になっている場面はある。
要するに、
日本の戸籍制度は、明治維新以降、国家が国民を把握し、統治するための基盤として機能してきた。1889年に公布された明治憲法(大日本帝国憲法)下では、「家」という共同体を基礎単位とする制度が確立された。戦後、1947年の日本国憲法制定に伴い、個人の尊厳と両性の本質的平等が謳われ、戸籍制度も「家」単位から「夫婦とその未婚の子」という核家族単位へと改められた。
しかし、この戦後の改革から70年以上が経過した現在、社会構造の変化や価値観の多様化に伴い、現行の戸籍制度には深刻な「歪み」が生じている。本稿では、明治憲法下および現行制度の変遷を概観した上で、その限界を指摘し、21世紀の日本にふさわしい「子を中心とした戸籍制度」への転換を提言する。
明治憲法下の戸籍制度は、戸主が家族員(家族)を統率する「家制度」を法的に裏付けるものであった。これは儒教的な家父長制に基づき、家系の継続を最優先するシステムであり、個人は「家」の構成員としてのみ存在が認められていた側面が強い。
1947年の民法改正および戸籍法改正により、この家制度は廃止された。新制度は、日本国憲法第24条が定める「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという理念に基づき、一組の夫婦とその子を一つの編綴単位とした。これにより、個人の権利は大幅に強化され、日本の民主化を支える家族観の礎となった。
民主化の進展という功績がある一方で、現行の「夫婦単位」の戸籍は、現代社会において以下の三つの大きな「歪み」を露呈させている。
離婚・再婚の増加、事実婚、別姓婚へのニーズ、さらにはひとり親家庭の一般化など、現行の「法律婚に基づく夫婦」という枠組みでは捉えきれない家族形態が増加している。戸籍が「婚姻」を起点とする以上、そこから外れる個人は法的な「世間体」や手続き上の不利益を被ることが少なくない。
現行制度は、夫婦が同一の氏を称することを強制(あるいは強く誘導)している。これが選択的夫婦別姓議論の停滞を招き、個人のキャリアやアイデンティティの継続性を阻害する要因となっている。戸籍が「夫婦というセット」を管理の単位としているために、個人の尊厳が二の次になっている現状がある。
現行の「300日規定(離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する)」などの民法規定と連動した戸籍制度は、母親がDV等の事情で出生届を出せないケースを生み、結果として「無戸籍児」を発生させている。これは、戸籍が「親の関係性(婚姻状態)」を証明する装置であることを優先し、一人の人間としての「子の存在」を二の次にした結果と言える。
これらの歪みを解消するためには、戸籍の編綴単位を「婚姻(夫婦)」から「出生(子)」、ひいては「個人」へと抜本的にシフトさせる必要がある。ここで提言する「子を中心とした戸籍制度」とは、「一人の人間がこの世に生を受けた瞬間から、その個人を独立した主体として登録し、親の婚姻状況に左右されない永続的な記録とする制度」である。
「子を中心とする」とは、すなわち「個人単位」の戸籍への移行である。出生と同時に個人固有の戸籍(あるいは個人登録)を作成し、そこに親権者や氏名の情報を紐付ける。これにより、親が結婚しようが離婚しようが、その子の戸籍の「一貫性」は保たれる。
現在の戸籍は、親の離婚によって子が「除籍」されたり、転籍したりといった移動を伴う。これは子にとって、自分のルーツが親の都合で書き換えられるような不安定さを強いるものである。子を中心とした制度では、親の関係性はあくまで「付随的な属性情報」となり、子のアイデンティティの核を揺るがすことはなくなる。
子を中心とした制度であれば、法律婚、事実婚、養子縁組、あるいは単身での出産など、どのような形態で生まれてきても、法的な位置づけに差別が生じない。婚姻届によって新戸籍を作るのではなく、個人の記録に「パートナーシップ情報」を追記する形式をとれば、夫婦別姓問題も技術的に容易に解決可能となる。
この転換により、以下の効果が期待される。
誰の子であるか、どのような支援が必要かという情報が、親の婚姻状態に左右されず行政に把握される。
姓の選択や家族のあり方が戸籍の形式に縛られず、真の意味で「個人の尊厳」が確立される。
一方で、課題も存在する。日本社会に根強く残る「家としての連続性」を重んじる感情的な抵抗や、相続・扶養といった既存の法体系との整合性をどう図るかという点である。しかし、血縁の証明や親族関係の把握は、デジタル化された個人単位のデータベースを連結(リンケージ)させることで十分に代替可能であり、技術的な障壁はもはや存在しない。
明治の「家」中心から、戦後の「夫婦」中心へ。日本の戸籍制度は、その時々の国家像を反映して変遷してきた。しかし、少子高齢化と価値観の多様化が極限まで進んだ現代において、既存の枠組みはもはや限界に達している。
次世代を担う子供たちが、親の事情や社会的な偏見に縛られることなく、一人の自立した個人としてその存在を国家に公証されること。それこそが、憲法が掲げる「個人の尊重」の真の達成である。今こそ、過去の「家」の残滓を払拭し、「子(個人)」を起点とした新しい社会契約としての戸籍制度を構築すべき時である。
みんなおじさんになるべき
おじさんはどう頑張ってもおじさんだからさ
見た目で選ばれない
若さでも選ばれない
平等!!
ルッキズム反対!
おばさんもいない、いるのはおじさんだけだ!
恋愛もおじさん同士だ!
子供?なんとかなる!
みんなおじさんにな〜れ!!
https://x.com/takashikiso/status/2052865020284051683
木曽崇/Takashi Kiso
@takashikiso
もうね、全ての子供は麻雀かポーカーかTCGかで遊ぶべきだと思うのよ。人生っつうのは、全てのプレイヤーが平等にスタートするのではなく、配られた手札で勝負していくゲームなんだ、ってこと。
日本人の倫理観の特殊性を一番表しているのは、線引きの極端さだと思う。
日本人は、ある線の「慎みのなさ」を越えると途端に「死んでも良い命」になるという、極端な生命倫理を持っている。
例えば、親の目を盗んで深夜に外出し、コンビニの前でたむろしてる中学生。
こんな程度のことでも、たとえどのような理不尽な死に巻き込まれても(例えば、たまたま通りかかった薬中に刺されても)「そんなところに近づいたから仕方ないね」と、さらにもっと無惨な殺され方をしてもよかったくらいにはネットで叩かれる。
これ、異常だって気づいてる?
ホラー映画でも見てる感覚だろうか。主人公を作中で軽くけなしてたり(恒常的にいじめているわけでもない)、隠れていちゃついてるカップルくらいの「慎みのなさ」が、死んでもかわいそうに思わなくて良いフラグになり、当たり前のように死をエンターテインメントとして喜ぶノリを、現実でも同じ程度に内面化している。
これは本当に、一瞬たりとも越えたら戻れない線だ。
たとえばホームレスを、とにかくまず家を見つけられるように、仕事を探せるように、監督つきで金を借りやすくするくらいに支援するシステムでも作ったら、日本人の大半は怒るだろう。
一度ホームレスなんかになった、線の向こう側に足を踏み入れた「異物」を、こちら側に戻すことは侮辱だと感じるからだ。
日本人はホームレスを、戻るということを想定しない、戻ってきてはいけない「もう終わった存在」としてしか認識できない価値観を当たり前に日常の言葉遣いとして持っている。
日本人にとって「まともな人間」の線引きは、一度でも越えてはいけない、一度でも越えたら命を平等に扱ってはいけない、いわば宗教的な穢れとして不可侵のものになっている。
これが結局のところ、日本人の「真面目さ」の根源でもあるのだろう。日本人は自分でも明確に意識せず、この線に一瞬でも近づいたら終わりだと恐れている。
だから、ただルールを守るという以上に、線から可能な限り遠ざかるという努力をする。
それをしない、気の緩い人間が憎くて仕方ない。
だから、やはりそんな慎みのない存在は、一瞬でも気を抜いた瞬間に死んでも仕方ない、天罰だ、嬉しい、と心から思う。
本当に、なんでこんな精神病みたいなループに、一億人が捉えられるものかね。
不思議な話だ。
社会学には2つの極端なアプローチがあります。一方は、統計的・因果推論的に厳密にデータと解釈を分離し、反証可能性を担保する科学的手法です。
もう一方は、自分のイデオロギー・ナラティブ(構造的抑圧、弱者発見、権力批判など)を支えるためにデータを「都合よく選ぶ」(cherry-picking)手法です。この記事では後者を「ストーリーテラー(Storyteller)」と分類します。
統計・大規模調査・因果推論手法(差の差法、操作変数法、傾向スコアマッチングなど)を用い、相関関係と因果関係を明確に区別。
データ事実(Results)と研究者の解釈(Discussion)を厳密に分け、矛盾するデータも提示し、反証可能性と頑健性(robustness)を担保する。社会科学として「科学」の基準を守る。
「社会科学」の看板を借りて、自分のイデオロギー・ナラティブ(物語)を広める人。データはあくまで「自分のストーリーを魅力的に補強する道具」に過ぎず、都合の良い部分だけ選び(チェリーピッキング)、相関を即因果にすり替え、解釈をデータに混ぜ込む。文学的・運動的アプローチが強く、X(旧Twitter)やメディアで声が大きい loud minority として目立つ。
自説に有利な数字・事例だけか、全データ範囲と感度分析を示すか。
相関を即「構造的抑圧が原因」と断定し、因果推論手法名を明記しない。
結果セクションですでに文学的なナラティブ(「これは権力の証左」)が入っていないか。
質的研究・批判理論(Foucault、Butler、上野系)が先行し、計量・因果推論論文の引用が少ない。
批判されると「文脈が違う」「差別者」とレッテル貼りするか、データで再検証を提案するか。
X・メディアで構造批判・弱者発見・PC擁護が熱く、エンゲージメントが高い。
論文・発言・X投稿をチェックすれば、9割以上見分けられます。
ストーリーテラーは、社会学を「科学」ではなく「物語を語る運動の場」に変える存在です。彼らはデータを使いつつも、最終的に一貫した
を構築・拡散します。これは、イデオロギーを補強するための選択的物語化です。データは「証拠」ではなく「感情を揺さぶる小道具」として機能し、矛盾データは無視するか、「より大きな構造のせい」として相対化されます。
• 1970-90年代の「質的転回」(qualitative turn)でインタビュー・参与観察・理論解釈が主流化した歴史的土壌がある。
• X・メディアでは「弱者発見」「構造批判」といった感情に訴えるストーリーがエンゲージメントを稼ぎやすい(loud minority効果)。
• 結果、学問の「科学性」が薄れ、活動家ごっこのイメージが強まる(古市批判の核心)。
「弱者が弱者のままで尊重される社会を」「頑張っても報われない人がいる」 → 努力や個人の責任を「環境・構造のせい」に還元し、永遠の被害者像を描く。
例:東大入学式祝辞のような「恵まれた環境のおかげ」強調。データ(合格率差)を使っても、逆差別や努力差はスルー。
「家父長制・資本制・権力構造がすべてを決めている」 → 格差・ジェンダー・移民問題を「システムのせい」に帰結。解決策より批判が優先。
例:家事=「不払い労働」、教育格差を即「構造的抑圧」と断定。
「日本人は多文化に耐えられない」「加害者性・反省不足が原罪」 → 戦後教育の延長で、日本人全体を「構造的加害者」に位置づけ。
例:日本社会の「単一民族神話」批判や、歴史問題での自虐的ナラティブ。
「異性愛規範・性二元制がマイノリティを抑圧」「性自認尊重が正義」 → ポリティカルコレクトネスを「進歩の物語」として語り、反対意見を「差別」と一蹴。 例:女子枠反対を「弱者男性のワガママ・ミソジニー」とレッテル貼り。
「政府・権力の干渉が学問の自由を脅かす」「新政権のツッコミどころ」 → 学術会議問題などで「権力 vs 専門家」の二元論を展開。
「相手は差別者・歴史修正主義者・ミソジニー」 → 都合の悪い女性政治家を「中は男」と属性攻撃するなど、二重基準を隠した攻撃的ナラティブ。 ラベリング理論を武器化。
結果、社会学は「文学の亜流」や「運動の道具」と見なされやすくなります。
代表的発言:「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」(2019年東大入学式祝辞)
代表的発言:「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」(2026年頃、女子枠反対論に対するnote引用・投稿)
代表的発言:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」(2024年、立憲民主党集会での高市早苗氏批判)
代表的傾向:「病ませる社会」が弱い人を症状化させる(近年、人生相談・社会病理関連発言)
代表的発言:「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」(2020年、学術会議任命拒否問題時) → 権威主義・体制批判。
ネット右翼を「1%未満の愉快犯」と矮小化するなど、日本社会の構造・歴史ナラティブ批判。
「学術会議法人化法案が可決されてしまいました。日本は、アカデミーの自律性を弱めることに加担した国の列に加わりました。」(2025年、X投稿) → 学問の自由危機ナラティブ。
大規模調査データで家族・格差を統計分析。因果推論を意識した学術告知中心。
X・メディア・学術会議・ジェンダー/PC分野で目立つのは圧倒的にストーリーテラー。彼らのナラティブは感情に訴えやすく拡散されやすい一方、実証派は論文・データで静かに勝負するため声が小さい。結果、社会学は「科学」より「物語を広める運動」が強まりやすい構造になっています。社会科学を本当に科学に戻すには、実証派がもっと積極的に声を出していくことが重要です。
それはちょっと微妙に違うと思ってて、多分元々は「女性も希望すれば男性と平等に扱われるべきだ」だったはずなんだけど、それがいつの間にか「女も男と同じように働くべきだ」になってるんだと思うんだよな。
今の若い層は「女性の権利を守れ」ではなくて「女も男と同じ義務を負え」というように考えているのであって、別に女性の味方をしているわけではないんだよ。
でもそれは仕方なくて、女性に権利を与えるために男性の既得権益を削ってきたので、じゃあお前らも俺らと同じように義務を負えよと考えるのはまぁそりゃそうだよねって感じで。
929 :優しい名無しさん:2026/04/22(水) 08:05:11.29 ID:f5M8s7Jv0.net[1/2]
どうかなんだそうだ
つまりこれは自分が生まれて親やまわりの人にあなたが生まれてきてくれて
これがある人は大人になっても生きやすいない人は生きづらくなるらしい
930 :優しい名無しさん:2026/04/22(水) 08:15:40.22 ID:f5M8s7Jv0.net[2/2]
生きるのは難しいね
子供の頃当たり前のように身に付けた人には敵わない
935 :優しい名無しさん:2026/04/22(水) 17:48:41.47 ID:Av3w+2qq0.net
わかりすぎる
私も色々自己肯定感をあげるために色々やってきたけど
ある研究で孤児院で幼児達にみんな全てにおいて平等にお世話をしたらしい、一見良い事のように思えるのに、その子達はのちに精神疾患や病気がちになったって事だった
幼児期のうちに自分だけが特別っていう感覚を持てないとダメなんだよね
自己肯定感ってそういうことだよね
今は体からのアプローチで神経系を作り直して自己肯定感もどきを作ってるよ
あと人種が違うのに、同じ毒親育ちの一つの言葉でまとめるのは無理すぎる
954 ::2026/04/24(金) 22:40:08.58 ID:ABm52RoX0.net
そういうフラフラした態度や行動が、
968 :優しい名無しさん:2026/04/25(土) 17:12:11.14 ID:WyuwxsMD0.net[1/5]
だから、子どもを安心させようとする意思がないというよりは、おそらく子どもが不安を感じていることに気づいていない
969 :優しい名無しさん:2026/04/25(土) 17:33:03.33 ID:WyuwxsMD0.net[2/5]
つまり、子供のことは何でも把握していると思い込んでいるのは親本人だけ
973 :優しい名無しさん:2026/04/25(土) 18:13:43.40 ID:WyuwxsMD0.net[3/5]
NPDの特徴のひとつとして、恥を極度に恐れるというものがある
嘘を吐いたことが子どもにバレることは、親にとっては耐え難き恥だ
976 :優しい名無しさん:2026/04/25(土) 18:36:58.64 ID:tHXKAYR20.net[2/3]
とんでもなくバレバレの嘘を言って来る時あったな
どんなに指摘しても「知らない」「やってない」しか言わない
987 ::2026/04/25(土) 21:27:08.02 ID:ZlBuafRI0.net[2/2]
ガチ虐待親の場合、早めに救済が入るし、子供の中でも区切りを付けやすい。
なんかさ、「ジェンダー平等のパラドックス」とかいう小難しい言葉を使って、「自由な社会になれば女は理系を選ばないのが自然」とかドヤ顔で語ってる奴多すぎ。
あのさ、逆だから。
先進国で女性がSTEM(理系)に行かないのは、単純に理系コミュニティに蔓延る「弱者男性」からの差別と攻撃性がエグすぎて、賢い女性たちがそこを避けてるからでしょ。
発展途上国なら、生きるために、食い扶持を確保するために、どんなに男尊女卑な環境でも我慢して理系に行くしかない。でも、先進国は他に選択肢がある。わざわざコミュニケーション不全で、女を叩くことしか脳がない男たちの「汚物溜まり」に飛び込む必要なんてないわけ。
結局、日本の自称「弱男」たちが、ネットでも研究室でも「女は論理的じゃない」とか「女は下界にいろ」とか抜かして排除の空気を作ってるから、女性たちはその有害な環境を避けてるだけなんだよ。これのどこが「自由な選択」なの?
弱者男性たちが、自分たちのちっぽけなプライドを守るために、女性を理系の世界から追い出してるの。自分より優秀な女性が隣に来るのが怖くて、必死に門を閉ざしてる。
本当につらかったよね。
勉強したい、研究したいって真っ当な志を持った女性たちが、どれだけあの界隈の加害性に心を折られてきたか。
女性たちはさ、もう十分頑張ったよ。
今までずっと、お疲れさま。
弱男の皆さん、自分たちの加害性を「生物学的な差」とかいう便利な言葉で隠蔽するの、マジで見苦しいからやめたら? 恥ずかしくないの?
Courtesy of the Red, White and Blue
トビー・キースが2002年に発表した楽曲で、9.11テロへの強い反応として制作されました。「アメリカの旗が燃やされたなら、俺たちの答えはミサイルの雨だ」という直截的な歌詞は、復讐と正義をテーマにしています。
保守層から絶大な支持を受けましたが、反戦派からは挑発的だと批判されました。戦意高揚というより、怒りの表現としての側面が強いです。
リー・グリーンウッドが1984年に作曲した楽曲で、湾岸戦争や9.11後に広く歌われるようになった代表的な愛国歌です。「もし再び戦わねばならぬなら、私はアメリカのために戦う」という歌詞は、個人の犠牲と国家への忠誠を強調します。
野球や政治集会で頻繁に歌われ、現代アメリカの非公式な愛国歌として定着しています。
ウディ・ガスリーが1940年に作詞した楽曲で、アーヴィング・バーリンの「God Bless America」への批判として生まれました。表面的には愛国的なメロディですが、もともとの歌詞には「私たちはこの国を共有する」という平等と共有の思想が込められ、貧困や私有財産の問題にも言及しています。
https://www.counterfire.org/article/what-the-butler-didnt-see-book-review/
リンジー・ジャーマンは、ジュディス・バトラーの新著『Who’s Afraid of Gender?』における議論と概念的混乱を検討している。
著者はまず、1970年代の女性解放運動期に、米国のマルクス主義人類学者イヴリン・リードが書いた「生物学は女性の運命か」という問いを引く。リードは、女性が母親であることを理由に、社会的役割を限定されるべきではないと論じた。同時に、資本主義社会における生物学や人類学は、性役割や女性劣等視に関する社会的前提を多く含んでいるとも批判していた。
今日、性とジェンダーをめぐる論争、とりわけトランスジェンダーをめぐる論争は、自然と文化、生物学と社会的態度、性とジェンダーの関係を再び問い直している。バトラーは、いわゆるジェンダー・アイデンティティ運動における中心的な学術的人物であり、ノンバイナリーを自認し they/them 代名詞を用いている、と著者は紹介する。
ただし、著者はバトラーの新著について、以前の著作よりは読みやすいとしながらも、「読みやすい」といっても相対的なものにすぎないと述べる。中心概念はしばしば曖昧で、「phantasm」という語が100回以上出てくる一方、バトラーが反対する立場への批判は十分ではない、という評価である。
著者の基本的批判は、バトラーが「ジェンダー」も「性」も明確に定義していないという点にある。バトラーは、自分が性の存在を否定しているわけではないと言うが、実際には性とジェンダーの「共構築」を語り、両者をほとんど完全に絡み合ったものとして扱っている、と批判される。
書評は次に、バトラーの本の多くが「容易な標的」に向けられていると述べる。ジェンダーは文化戦争の一部となっており、バトラーは右派や極右による「ジェンダー理論」攻撃を大きく扱っている。取り上げられるのは、ドナルド・トランプ、イタリア首相ジョルジャ・メローニ、ハンガリーのヴィクトル・オルバーン、ローマ教皇などである。
バトラーは、反ジェンダー運動が各国の選挙で強い影響を持っていると指摘する。ブラジル、コスタリカ、コロンビア、フランス、スイス、英国、スコットランド、エクアドル、ドイツ、ハンガリー、スペインなどが例に挙げられている。スペインの極右政党 Vox は「ジェンダー・ジハード」や「フェミナチ」といった表現を用いている、と紹介される。
著者は、こうした反動的勢力が個人的・性的平等を求める人々にとって脅威であることは疑いない、と認める。彼らは、法律を制定し、国家的差別を執行できる権力を持っているからである。彼らが守ろうとするのは、キリスト教的・異性愛的家族を中心に据えた、国家と結びついた保守的な性・生殖・家族モデルである。
しかし著者は、バトラーの分析が「なぜ今このような反動が起きているのか」を十分に説明していないと批判する。バトラーは「反 woke」の感情を、家父長制・異性愛規範・白人至上主義的秩序の喪失に対する心理社会的幻想として説明する。しかし著者は、これでは新自由主義資本主義の危機、脱工業化、生活水準の低下、反移民感情や人種差別の政治的動員、米国社会の軍事化・暴力化などの物質的条件が抜け落ちると述べる。
つまり、著者の立場では、反ジェンダー運動は単なる「幻想」や「心理的不安」ではなく、資本主義の危機と社会的荒廃のなかで生じている政治現象として分析されるべきだ、ということである。
著者によれば、バトラーは実質的に「性/ジェンダー」の区別を崩壊させている。性とジェンダーを同じものとして扱い、「性が文化的規範の枠内で捉えられるなら、それはすでにジェンダーである」と論じる。
著者はこれを、現実の身体的カテゴリーをイデオロギーへと作り替えてしまう議論だと批判する。性や生殖という現実からイデオロギーが生じるのではなく、逆にイデオロギーが性を作るかのように語っている、という批判である。
さらに著者は、これは「馬車を馬の前に置く」ようなものだと言う。社会的要因が生物学的要因を完全に上書きできるかのように見えるが、それは経験的に誤りである。人間は200年生きることはできないし、食物と水を必要とし、種の再生産は生物学的事実である。人類の存続は、圧倒的には男女の性的関係に依存してきた、というのが著者の主張である。
著者は、性とジェンダーについて語る際には、自然的事実とそれに付与される社会的構築との関係を論じることができると認める。しかし、自然的事実そのものが存在しないかのように扱うのは観念論である、と批判する。
また、バトラーがスポーツをめぐる議論で、男性思春期だけでは偉大なアスリートにはなれず、テニスコートへのアクセスや個人トレーナーの存在も関係すると論じている点について、著者は「それは論理の飛躍だ」と批判する。階級的不平等があることは事実だが、それは身体的性差の問題を消すものではない、という趣旨である。
著者は、社会的構築が幼少期から始まることは認める。子どもが「男の子」「女の子」と告げられた瞬間から、服装、興味、教育機会、性格などについて多くの社会的期待が付与される。しかし、それは性という自然的事実を消すものではなく、物質的要因とイデオロギー的要因が密接に絡み合っていることを示すだけだ、と述べる。
著者は、バトラーが『ドイツ・イデオロギー』のマルクスとエンゲルスを引用しているにもかかわらず、その要点を誤解していると批判する。マルクスにとって、思想は人間の物質的生活過程から生じる。観念やイデオロギーは現実を補強することはあるが、現実から切り離されて現実そのものを作るわけではない、というのが著者の理解である。
著者は、バトラーが「phantasm」とマルクス=エンゲルスの「phantoms」を似たものとして扱っているようだが、それは違うと述べる。バトラーの議論は、人が自分でそう考えれば何者にでもなれるかのような前提に近づいており、これはマルクス主義的唯物論からは遠い、と批判する。
マルクスとエンゲルスは、人間が自然に働きかけ、食物や住居などの生存手段を獲得する過程を通じて歴史が発展し、観念も変化すると見た。人間は自然の一部であり、単なるイデオロギー的構築物ではない。したがって、ポストモダン理論に合わないからといって、この見方を時代遅れとして退けるのは、社会発展の理解を放棄することだ、と著者は述べる。
著者は続いて、マルクス主義的な家族論を説明する。初期の「原始共産制」社会には、性別間に一定の素朴な平等があり、女性の母性役割を理由とする差別は必ずしも存在しなかった。しかし、余剰富の蓄積、階級の成立、支配階級の財産を守る国家装置の形成、財産継承を保証する家族構造の成立によって、女性抑圧が階級社会の特徴となった。エンゲルスはこれを「女性の世界史的敗北」と呼んだ、とされる。
資本主義のもとでは、家庭と職場の分離が明確になり、家庭内の無償労働は有償労働から切り離され、劣ったものと見なされるようになった。資本主義的搾取の規律は、家庭と職場の分離、個人化、ヒエラルキー、同調性に適した家族を必要とした。そこには性的同調性も含まれ、女性と子どもは男性に従属し、性は結婚内の生殖のためのものとされた。
この観点から著者は、LGBT抑圧の根源は、核家族の規範への挑戦と見なされる点にあると説明する。したがって、それは家族制度と女性抑圧に結びついている。著者は、この歴史的唯物論的な家族分析は、バトラーに見られるポストモダニズムや多くのジェンダー理論よりも優れており、同時に一部ラディカル・フェミニストの生物学的決定論や実証主義よりも優れている、と主張する。
著者は、女性の再生産における役割は中心的だと述べる。女性は人類の再生産に不可欠であるだけでなく、資本主義体制における労働力の再生産、つまり養育・ケア・社会化・教育にも深く関わっている。家族は次世代の労働者を比較的低コストで育成するため、経済的・社会的役割を果たす。
女性が母親であること自体が不利益でなければならない自然的理由はない。しかし、それが資本家階級に利益をもたらす社会的・経済的理由は多く存在する、というのが著者の主張である。
この過程において、性は現実であり、大多数の人々は生物学的に明確に男性または女性である、と著者は述べる。例外的に曖昧なケースはあるが、それは性発達の差異であり、「インターセックス」という連続的スペクトラムがあると示唆するのは誤りだ、という立場である。
一方で、性が社会的にどう組織されるかは変化しうる。たとえば、2024年の英国の家族形態は、20世紀初頭の男性稼ぎ主モデルとは異なる。しかし共通しているのは、家庭内労働の多くを依然として女性が担い、家庭外のケア、料理、清掃などの社会的再生産労働も、低賃金で女性が多く担っているという点である。
著者は、自然と文化の関係は複雑だが、女性の生物学的役割に色づけられていると述べる。女性だけが出産できるという事実に、女性はより養育的で、自己主張が弱く、特定の仕事に向いているといったイデオロギー的前提が付随する。こうした前提は、生物学とは無関係で、社会関係に由来するにもかかわらず、労働市場における女性の不利益を補強する。
妊娠、授乳、更年期、月経など、女性抑圧において生物学的要因はなお大きな役割を持つ。社会主義社会であれば、それに伴う圧力や不利益の多くを取り除けるかもしれない。しかし資本主義のもとでは、女性はそれらの要因に個人的に対処することを求められ、その結果として不利益を被る、と著者は論じる。
著者は、バトラーが「子どもを産まない女性もいる」「閉経後の女性もいる」「さまざまな理由で子どもを持てない女性もいる」といった例外を挙げることで、女性抑圧に生物学的要素があるという議論を無効化しようとしている、と批判する。しかし、それは成り立たない。個々人の状況にかかわらず、家族における女性の中心的役割、出産・養育者としての役割が、女性抑圧を規定しているというのが著者の主張である。
著者は、バトラーの議論が女性抑圧という特定の問題を、より広い「ジェンダー抑圧」の一部として矮小化していると批判する。性差別を禁じる平等法も、バトラーにおいては、本人の性ではなく、ジェンダーや社会的前提に関わるものとして扱われる。著者はこれを、現実のカテゴリーである性をイデオロギーへと作り替える主観的観念論だと見る。
また著者は、バトラーが、女性専用空間や、レイプ・家庭内暴力から逃れるためのシェルターなど、フェミニストが闘ってきた現実の問題を軽視していると述べる。バトラーは「TERF」批判の章で、キャスリーン・ストックや J.K.ローリングを中心に攻撃するが、同様の懸念を持つ多様な個人や組織を十分に扱っていない、と著者は批判する。
著者は「TERF」という語を侮辱的かつ誤解を招くものだと述べる。それは、ジェンダー・アイデンティティ理論に批判的な人を信用失墜させ、議論を沈黙させる効果を持つという。著者は、反トランスの人々は存在し、それは間違っているとしつつも、左派や社会主義の立場にありながらバトラー流のジェンダー理論に納得していない女性たちがいることを強調する。
そのような人々まで、極右やファシストの側に客観的に立っていると見なすのは馬鹿げている、と著者は述べる。人種差別の分析にもさまざまな立場があるように、性とジェンダーの分析にも複数の立場がありうる。トランスの権利を支持し、あらゆる差別に反対することと、バトラーの理論全体を受け入れることは同じではない、という主張である。
著者は、ラディカル・フェミニズムについても、男性暴力や男性からの分離を強調しすぎ、女性抑圧への階級的対応を弱めていると批判する。しかし同時に、家庭内暴力、レイプ、女性の客体化と従属化の文化が深刻であることは認める。こうした問題は、女性解放運動によって政治問題化されたが、十分な資源や関心は向けられてこなかった、と述べる。
特に著者が不快に感じた箇所として、バトラーが女性刑務所や女性専用空間におけるレイプや性的暴行への恐怖を過小評価している点が挙げられる。バトラーは、男性看守による女性囚人へのレイプがすでに存在することや、レイプが必ずしもペニスによるものに限られないことを指摘する。しかし著者は、圧倒的多数の暴力は男性から女性に向けられており、レイプの大多数は男性がペニスを用いて行うものだと述べる。そのため、多くの女性が男性や男性身体に恐怖を抱くことには根拠があり、それを見下したり退けたりしてはならない、と主張する。
著者は、バトラーの理論が抽象的で、階級と抑圧の関係を十分に扱っていないと批判する。バトラーは「女性とは何か」を理解するには、グローバルかつ多言語的に考える必要があると述べるが、著者は、文化的差異だけでなく、物質的生活の現実も見なければならないと言う。
たとえば、フィリピンやスリランカの女性たちは、自分の子どもを残して海外へ行き、清掃やケア労働に従事することがある。こうした女性たちは、受け入れ国の労働者、女性・男性、黒人・白人、性的指向やジェンダーに
2026年春、短期間に複数の情報漏洩炎上が相次いだ。西日本シティ銀行の行員による顧客情報の流出、病院・学校・大手企業での内部資料の露出——いずれもSNSアプリ「BeReal」が引き金となった事案だ。
こうした炎上が起きるたびに、日本社会は「個人の意識の問題」として処理する。当事者を叩き、企業が謝罪し、「再発防止を徹底する」という定型文が出て、やがて忘れられる。しかし同種の事案が繰り返されるという事実が、この処理の仕方そのものの失敗を示している。
本稿で問いたいのは、なぜ日本でだけこれが繰り返されるのか、という点だ。そしてその答えを、「管理の不在」と「私刑による補完」という逆説的な構造に見出したい。
まず前提として確認しておきたいのは、BeRealの仕様が特別に危険というわけではない、という点だ。
確かにBeRealは1日1回のランダム通知から2分以内に即投稿を求める設計であり、「考える時間を奪う」という批判はある程度妥当だ。しかしBeRealには「Late投稿」という機能があり、通知を無視して後から投稿することも可能である。反射的に投稿しなければならない強制力はない。
より根本的な問題は、職場での私物スマホの扱いにある。BeRealがなくても、スマホを持ち込める環境と撮影を思いとどまらせる仕組みがなければ、同種の事故はInstagramでもTikTokでも起きる。実際、今回の炎上事例を見ればNTT東日本の事案ではInstagramのストーリーズも同時に問題になっている。
BeRealは問題の「引き金」ではあっても「原因」ではない。この区別が重要だ。
同様の事例が海外ではほとんど問題化していない。BeRealはフランス生まれで欧米でも普及していたが、職場での情報漏洩炎上として報じられた事例は見当たらない。なぜか。
最も説得力のある説明は、欧米の機密情報を扱う職場では私物端末の持ち込み自体が物理的・規則的に制限されているという点だ。GDPRをはじめとする法的枠組みが組織に厳格な情報管理を義務づけており、「個人の意識」に依存する前に環境が設計されている。
翻って日本の銀行営業店では、顧客の氏名や営業目標がホワイトボードに書き出され、新卒行員がスマホを手にしたままそれを日常的に目視できる。この環境設計の時点で、情報漏洩のリスクはすでに内在している。BeRealの通知はそのリスクを偶発的に顕在化させたに過ぎない。
問題が日本に集中する理由は、日本の組織が情報管理を「システム」ではなく「個人の自覚」で担保しようとしてきたことにある。
なぜ日本の組織はシステムによる管理を怠ってきたのか。ここに日本型雇用の構造的な問題がある。
情報セキュリティの基本原則に「最小権限の原則(Principle of Least Privilege)」がある。その人の業務に必要な情報にしか触れさせない、という考え方だ。これを実装するには、誰がどの情報にアクセスすべきかを職務ごとに定義する必要がある。
ところが日本の新卒一括採用は、職務を定義する前に人を採用する。「この仕事のためにこの人を雇う」ではなく「この会社のメンバーとして雇う」という発想なので、権限の範囲が職務に紐づかない。全員が同じスタートラインに立つという建前が、権限設計を不可能にしている。
加えて、同じ採用プロセスを経た全員が同じ水準のリテラシーを持つという暗黙の前提がある。実際にはリテラシーは個人差が大きく、職種・業務内容によって求められる判断能力も異なる。「研修で周知する」という対応は一見平等に見えて、実態はリテラシーの低い人間に高度な自己管理を要求するという無理な設計だ。
均質に扱うことが、かえってリスクを生む。これが「悪い意味での平等」の正体である。
ここで本稿の核心に入る。
日本の組織が情報管理をシステムで担保しない一方で、問題が起きたときに機能するのがネット上の「私刑」だ。クローズドなSNS投稿のスクリーンショットが瞬時に拡散され、特定班による個人情報の発掘、実名・顔写真の晒し、SNSアカウントの掘り起こしが組織的に行われる。
これは国家や企業による「上からの監視」ではない。市民が市民を監視・制裁する「横からの相互監視」だ。
逆説的なのは、この相互監視が組織の管理不全を補完する機能を果たしているように見える点だ。組織がシステムで防げなかったことを、事後的にネット民が制裁するという構造が出来上がっている。企業は謝罪文を出して幕引きし、当事者個人がネットの私刑を受ける。組織の設計責任は問われないまま、個人だけが燃やされる。
欧米では問題が起きても法的手続きで処理されるのに対し、日本ではネット上の私刑が事実上の社会的制裁として機能する。上からの管理が緩いほど、横からの監視が過剰になる——この逆説が、日本のSNS炎上に繰り返し見られる構造だ。
この構造が持つ最大の問題は、制裁の重さが行為の重さと全く釣り合わない点だ。
今回の当事者たちが受けた被害——実名・顔写真のデジタルタトゥー、過去のSNS投稿の全掘り起こし、勤務先・住所の特定、無期限の晒しと嘲笑——は、新卒の若者が「反射的にスマホで撮影して投稿した」という行為に対して著しく不均衡である。
問題をさらに複雑にするのは、この制裁に終わりがないという点だ。法的な手続きであれば時効があり、処分には上限がある。しかしネット上の私刑には期限がない。検索すれば半永久的に出てくる。「デジタルタトゥー」という言葉はまさにこの永続性を指している。
一方で、組織側の責任——スマホを持ち込める環境を放置したこと、権限設計を怠ったこと、教育をOJTに丸投げしたこと——は「再発防止に努める」という一文で免責される。個人が過剰に燃え、組織が軽く済む。この非対称性は偶然ではなく、構造的に生産されている。
BeRealが照らし出したのは、アプリの危険性でも当事者の愚かさでもない。「管理をシステムで行わず個人の自覚に委ね、失敗した個人を私刑で燃やす」という日本社会の処理構造だ。
この構造が維持される限り、引き金がBeRealであろうと次の何かであろうと、同じことは繰り返される。そして繰り返されるたびに、誰かの20代が終わる。
"女性に対して性的にケモノモード"とかに限らず何かもう全部ケモノなのよこいつら
声の大きさとか喋り方とか攻撃性だとか距離感のバグり方だとか政治の話題での火の付き方とか絆への執着とか全部怖いのよ
あと自分がストーカーじみた行動して相手にはっきり避けられ始めたとか、事態把握した周りからも問題視されてるとか、そういう評判地に落ちるところまでいっちゃったときに反省するどころか
「あいつは俺を無視した。挨拶を無視するのは最低の人間の最も重い罪。挨拶は人間の基本やぞ。俺に挨拶返して、俺を周りと平等に扱うまで顔をギリギリまで近づけて大声で挨拶して、四六時中コミュニケーション仕掛けてやるよ」
弱さが無さすぎて脅威なのよ。
自殺して欲しい。
ユダヤ教超正統派(Haredi)がその好例であり、日本の戦前・戦後の農村共同体(特に東北や九州の伝統的農村)も似た構造を持っていました。
外部の影響(個人の自由、キャリア優先、少子化文化)を遮断し、「大家族こそ正しい生き方」という規範を内面化させる。
出産・育児・労働(または家事労働)の二重・三重負担を「当然の役割」として美化・正当化する。Harediでは女性の就業率が80%超でも大家族を維持しており、日本の旧農村でも「子だくさんで働き者」が美徳とされました。
世俗教育を制限し、共同体内の価値観だけを伝えることで、子供の選択肢を狭め、「抜けにくい」構造を作る。
Harediは現在6.2〜6.5人、日本の戦前農村も平均4〜6人台が普通でした。
このモデルは、文化・宗教・共同体圧力をレバレッジにして、選択の自由をある程度制限することで人口を維持する「低コスト・高効率」の人口プールと言えます。
Harediの男子は世俗教育が極端に不足するため、現代社会で自立しにくい。日本の旧農村でも、長男以外は教育機会が制限され、貧困の連鎖が起きやすかった。
生まれながらに「この道しか選べない」状況に置かれる。脱コミュニティのコスト(家族絶縁、スキル不足、孤独)が極めて高く、「本当の選択」ではなく「強制された選択」に近い。
出産と労働の両立は「美徳」として称賛されますが、身体的・精神的コストは非常に大きい。長期的に見て、女性の健康問題や価値観の変化(若い世代の就労意欲上昇)が蓄積すると、モデル自体が揺らぎ始めます。
Harediの場合、兵役免除や低就業率がイスラエル全体の財政・国防・経済に負担をかけています。日本の旧農村も、都市化が進むと「人口流出+高齢化」の問題を抱えました。
先進国の低出生率問題を考えるとき、このHaredi型モデルは一つの極端な解として参考になります。しかし、現実的に先進国で適用するのは困難です。なぜなら、現代の価値観(個人の自由、ジェンダー平等、教育の機会均等)が強く根付いているからです。