はてなキーワード: 曽祖父とは
35歳独身。この増田を見て興味を持ち、家系図を作成しようと決意する.
https://anond.hatelabo.jp/20240521221155
お盆に実家に帰るし、その時に話のタネになるかなと思い、作成し始めたが.
作成する過程及び作って共有したことがとても充実していたので、共有する.
2024年の春から、広域交付という制度が始まり、従来戸籍のある市町村でしか発行できなかった戸籍が.
どこの市民センター、市役所でも取得することができるようになった.
なので住んでいる近くの市民センターへ行き、家系図を作りたいので、遡れるだけ遡って戸籍を取得したいと相談した.
戸籍の知識がほぼない状態でいったので、相手の言っていることが最初はわからなかった。
知っておくべきは、「結婚するまでは親(筆頭者)の戸籍に入っている」こと。
なのでまずは自分の親の戸籍を請求して、次は親が結婚するまでに入っていた祖父母の戸籍を請求する、ということを繰り返す.
あとは広域交付では、戸籍係の人が戸籍データベースみたいのにアクセスして戸籍を探してくれるが、
1件1件電話するので、地味に時間がかかる。なので早い時間に市民センターに行くべし。
家系図は馬の血統図のように単純ではなかった。兄弟の存在もあるし、私の家系の場合は、養子縁組で家系が飛んでいることがとても多かった。
例えば、父方の祖母の家は富山の松本という家であった。しかし曽祖父の戸籍をとってみると、曽祖父は玉井という家から松本家に来た養子であり、
松本家の血筋はなかった。さらに高祖父(祖父の祖父)である松本さんは、同じく玉井家から養子で来ており、親子とも玉井家の養子であった。
また、母方の祖父は秋田県の佐藤という家であったが、曽祖父、曽祖母ともに佐藤家に来た養子と婿養子であり、佐藤家の血筋はなかった。
このように、昔は養子縁組が当たり前のように行われており、私の家系は割と旧家と呼ばれる家であったことから、
家の存続のために、養子を取って子供を残すということがかなりあったようだ。
養子を出す先の家も、1回養子に出して終わりというわけではなく、時が経ち、養子元に子供に恵まれなくなった場合、養子先の家から養子先の家に別の養子を出す、という
養子の交換のようなことが行われており、家同士が強い結びつきがあることがよくあった。
親戚と話して後ほど発覚するのだが、血のつながりがないと思っていた松本家は、実は昔の玉井家に養子を出しており、
のようなことが行われており、養子交換を通じて実は松本家の血筋が生きていることが判明した.
このように戸籍を追っていることは、推理小説を読んでいるかのように、事実関係を明らかにしていく行為のようであり、とても楽しい.
さらに当時の家の関係性などを想像することができるし、さらに年配の親戚と話すことで答え合わせができるので、想像だけで終わらず、
戸籍の年代をみると、古くは江戸時代後期(弘化3年、1846年生まれの人の戸籍があった)、明治、大正、昭和と.
これは歴史に相当する話であるが、自分の先祖であるので、歴史の中に自分ごとが入ってくる妙な感覚がある
お墓参りでは、自分が物心付く前に亡くなった人のお墓をなんとなくお参りするイベントだと思っていた。
しかし家系図を作ると、このお墓には○○さんが入っていて、家系図で言うとここの人物で、自分とどういう関係の人なのか、が解像度高く理解できる.
より先祖に思いを馳せて、お参りすることができる
祖母に家系図を見せてあげたところ、この人とよく遊んでもらった、結婚式で顔を見た!、まだ生きててどこそこに住んでる、という生きた情報が聞けた.
自分にとっては紙面上の文字だけの人ではあるが、年配の祖母にとっては、思い出の中にいる生きた人物なのだ.
年寄りは昔話が好きだとよく言われるが、 若者がそれを聞いても普通は面白く感じないだろう.
だけど自分が必死で戸籍を取って、明治時代の読みづらい文字を頑張って解読し、頑張って作った家系図を作った後には
その昔話がとても面白く感じるのである。これは端的に言えば、ご先祖に対する興味が格段に向上したからである.
さらには、祖母と一緒に、本家の跡を継いでいる松本家の親戚に家系図を見せてあげようということになり、本家に行ってきた.
本家の人に家系図を見せてあげると、実はウチも家系図を作ったことがあると言って、奥からパソコンで作成した家系図が出てきた.
その家系図は、自分のように戸籍を取得して作ったものではなく、親戚から聞き取り調査を地道に行なって作成したものであった.
自分が作成した家系図と比較すると、かなりの部分は一致しているが、片方には載っているがもう片方に載っていない関係などが多数あり、お互いに補完し合える家系図であった.
ある種、答え合わせもできたし、本家の人しか知らない、戸籍では分からない情報もたくさん話すことができた。
母は私が小さい頃離婚している.
私の場合は、成人した後に母と連絡を取り合い、たまに会うことがあるが、
もし離婚した親の行方がわからなくても、自分と血が繋がった人であれば、現在どこに住んでいて、今誰と結婚しているか、子供はいるのか、などが
親の戸籍を取得すると、離婚した際に除籍されて、その後どの市町村のどの戸籍に入ったのかが分かるのだが
それを追いかけていくと、何回引っ越していようが、現在の戸籍まで辿ることができる
私の場合、母は離婚して神奈川県藤沢市で新しい戸籍を作成して独り身になり、その後横浜市でとある人と結婚し、子供が一人いることが戸籍から分かる.
もちろん母の家系も、戸籍を遡って取得することで家系図を作成することができる。
母が亡くなった際には、離婚していても、子供に相続が発生するので.
相続管理人になる人物は、母の戸籍が存在した市町村全ての戸籍を取得して、前夫の子供として私の存在を知ることになるだろう.
今度母と会った時には、作成した家系図を持って行って、疎遠になっている母方の家族の話でもしてこようと思う
除籍謄本は1通750円です。私の場合、全部で20通取得したので、15000円かかった。
大抵、明治前半〜後半の戸籍まで遡ると、それ以前は廃棄しましたと伝えられた
戸籍に入っている人の生まれが江戸時代なことはありましたが、戸主の生まれは大体明治初期が限界だった。
中学生のいとこがいるので、自由研究として一緒にやろうかとも思いましたが、結構難しいかもしれない
まず本人が、家系図やご先祖に興味を持つか、やる気があるのか、という問題に直面する
さらには、未成年だと本人確認が難しいので、親権者が一緒に行く必要があるので、一人では戸籍の取得は難しい。
親がやる気でも、結局親が子供の代わりにやった自由研究、みたいな感じになりそう。
実家は田舎の山奥にあるので、寺とか共同墓地とかそういったものではなく、山に墓が設置されているタイプであった。
しかしその山に設置されている墓地の量がどうも尋常ではないようである、ということに、だいぶ大きくなってから気づいた。
墓参りの当日は、墓参りなのにちょっとした山登り並みの準備をしていた。といっても標高は50メートルくらいしかない。
まず墓の場所が3箇所に分かれていた。最初の場所には最新の墓が置かれていた。自分から見ると父方の祖母と祖父、父方の曽祖父とその妻である。
そこの墓参りを済ませると次の場所に移動した。次の場所は墓石が5個くらい置かれていた。墓石には江戸時代の年号が書かれていた自分との関係は誰もわからない。
その墓参りが終わったら三箇所めに移動した。最後の場所は墓石が20個くらい置かれていた。こちらも墓石には江戸時代のような年号が描かれていて、自分との関係は誰もわからない。墓石かどうか怪しいものもずいぶんあった。
そのような墓参りを、物心がついてからずっと続けていた。実家を離れて生活するようになって、どうもこれはおかしいのでは、と思い始めた。
別に実家は裕福なわけでもなく単に田舎なので田んぼとか山とか所有しているようである(というよりも経済的には中の下であった)。
どうも墓石を処分するにも随分と手間と費用がかかるようである。
いや何なら私が把握している限り曽祖父曾祖母の代の時点でクリスチャン家庭だ。
「神?居たら面白いよね。妖怪や妖精、幽霊が居ても面白いと思う。居ないよりも居たほうが面白いっしょ」
夫へ出会った当初は驚いた。何せ私が誰かへクリスチャンであると明かせばちょっと引かれるか「神社参拝しないの?」と興味本位でイジられるかみたいな感じの人が大半なのに夫だけは「居たら面白い」というスタンスで他の人と全く違った。
夫は神を否定しなければ肯定もしない。存在が否定されていないので保留、そして出来れば居てくれたほうが世の中に面白いものが減らなくて良いというスタンスなのだ。ゼロであることが証明されると面白さが減るってスタンスなのだ。
世の中に存在するであろう面白いものを探求する人であり、夫からすると神の存在もまた面白いものであり探求する価値のあるものなのだ。
神を疑うとか信じるとかそういう価値観に縛られない。本当に本当に彼のそういうスタンスを知った時は驚愕した。
私は正直に言ってしまえば私自身がついつい神を疑ってしまうことへ恐怖感を持っていたが彼は信じる信じない疑う疑わないとかそういう次元にないのだ。
「キミが言うように神が世界を創造したなら神が作った世界を、神の意志を最も知ってるのは科学者かもね」
開いた口が塞がらないっていうのを初めて体験した。
「なっ何だこの人!!!」という衝撃が心にガツンと来て、もうその日から彼のことしか考えられなくなった。
その2週間後に告白したがフラレた。当たり前である、そんな関係を一切築いていない状態だったのだから。
でも全く諦めずに猛アピールを繰り返し何とか捕まえた。「この人しか居ねぇ!!!」ってなってたわけだし。
結婚するってなたときはクリスチャンではない彼に対して親族が物凄く嫌な顔をしたけど何を言ってるんだと、こんな最高の非クリスチャン居ないぞと、駄目なら私は駆け落ちしてでも一緒になる!と説得して認めさせた。
今では私が通っている教会でも非クリスチャンな人として非常に好意的に受け入れられており、この前は13世紀のフランシスコ会に所属していたロージャー・ベーコンなる人物についての話で教会の人と盛り上がっていた。意味がわからん方向でキリスト教に詳しくなってて笑う。
・俺の高祖父
学校を出たかどうかは不明だが豪農の大地主だった。投機に失敗して行方不明になったらしい。
・俺の曽祖父
幼少期に高祖父が行方不明になったため地元の師範学校と東京高等師範学校を卒業して中学や女学校で教師をしていた。
教師として生活費を稼いで中学校を卒業させた弟は海軍兵学校を卒業して戦死した。
俺が生まれたばかりの頃は生きていて抱っこされたこともあるらしいが記憶にはない。
・俺の祖父
区立小学校、区立中学校、都立高等学校、東京大学法学部を卒業して自治省に入った。
某局長を務めてから退官し日本宝くじ協会の偉い人をやっていた。
・俺の父親
区立小学校、私立中高一貫校、東京大学法学部を卒業して司法修習を経て判か検のどちらかに任官。
・俺
区立小学校、私立中高一貫校、一浪を経てMARCH文系に入学し、仮面浪人を経て慶應義塾大学経済学部に進学。
これが勝ち組だ。
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
うちの家族は全員日本生まれ日本育ちの日本人。祖父母も曽祖父母も日本人。ただ、どういうわけか父も母も妹も日本語が苦手っぽい。
父は耳から入った情報を脳で処理する過程で異物が混入する。「これはペンです」という文章は「これはペンです」以上の意味はないのに、「これはペンのようですが実はペンではなく箸なんですそれに気づかない貴方はバカですね」ぐらい会話が改変されちゃう。そして「バカにされた」「騙された」とキレている。
母も会話を謎解釈する。それに加えて主語を省いて話すくせがある。昔交通事故にあった母から電話がかかってきた時のことが忘れられない。「人を轢いちゃったから動揺してるの。どうしよ〜」と言うもんだからてっきり母が誰か轢いてしまったと思ったら轢かれたのは母だった。そして車の運転手が事故直後謝罪したのを「(こんなに動揺してしまい)申し訳ありません」と解釈したみたい。運転手は冷静に警察や救急車の手配をしてくれていた。
妹は単語で喋る。小さい子どもが喋るような2語文を中学生が使っている。妹の口から複雑な文章を聞いた覚えがない。というか「○○買って」ばかり言っている印象。
私の日本語もだいぶあやしい。特に助詞や接続詞が苦手で違和感のある文章をよく作り出している。この文おかしいと気づけるならマシで、誰かに指摘されないと気づけないミスが今までたくさんあった。多分この文章もあちこちやらかしていると思う。
それでも家族の中ではマシな方なのと、家族が言いたいことを察する能力はあったので家族の言いたいことを翻訳している。母が言いたいことに適宜主語を足して父に伝え、父がキレたらどんな脳内変換されたか察して「そんなこと誰も言ってないよ。父さんは馬鹿にされてないよ」と落ち着かせる。ここに妹が加わることもある。物心ついた時からこんな調子でやってきた。なので家族は会話が噛み合わなくなると「ちょっと通訳さーん」と私を呼びつける。私のことを皆便利に使うけれど、私の話を聞いてもらった覚えはない。通訳要請を無視すればよかったのだろうけれど、朝だろうと夜中だろうと大声で喚いているのに耐えられなかった。ご近所にも嫌味を言われるし。
家族間で会話が噛み合わないならまだいい方。市役所などで手続きする時なんかは地獄だ。職員さんの話を翻訳して家族に伝えていたら、「よかったらどうぞ」と市の通訳サービスの案内をもらってしまった。ヤングケアラー支援の一環で外国人の親の通訳をする子どもの代わりをしてくれるサービスだそうだ。「日本人の家庭でも使えますか」と聞いたらびっくりされ、遠回しに無理だと言われた。
通訳さんにほとほと疲れてしまったので家から出ることにした。本当は就職するタイミングで実家から出る予定だったけれどトラブルが相次いで1ヶ月近くずれてしまった。それでも明日、ついに通訳さんを引退する。
家族に引っ越し先どころか引っ越すことも教えていない。ちょっとずつ荷物は運び出していたけど気づいていなさそうなので、私には通訳以外期待されていなかったのだと改めて思い知らされてちょっと悲しかった。
母方の実家は福島の浜通り、ということで2011年に曾祖母はがっつり被災している。それ以来「様子がずっとおかしかった」と聞いている。心のね。
そりゃそうだろうって感じ。なんせそっちのほうの親類は流されて、未だに見つかってない人も、沢山居たらしいから。
私は顔も名前も知らないけど、それで亡くなった血の繋がった人はわりといたらしい。
最後に曾祖母に会ったの、私が小学生のとき。もう何十年も会ってなかった。会ったところで私と分からないかもしれないが、携帯も持たず施設にいて大叔母にあたる人が世話をしてたので結婚した報告もしてなかった。
両親に「お前は若いし忙しいんだから参列も香典もいらないからね」と言われたので、通夜の最後の対面の時に、私の代わりに謝っておいてくれとだけ伝えておいた。
古い考え方の人ではあったので、嫁入りしてきた祖母や、叔父らのお嫁さんたちとは折り合いがよくなかったことは知っている。鎌で蛇の頭狙い撃ちにしたり、素手でイタチとっ捕まえたり、豪快で偏屈な人ではあったけど、私には優しかったし、優しかったという年頃の記憶で止まっている。
10歳未満の子供なんて役に立たなかっただろうに、田んぼや畑に一緒に行って手伝いをして、大した仕事もできないのに、偉いねえって褒めてくれた。
ほかにも従兄弟がいるけれど、曾祖母とそうして過ごしたのは一番年長の私だけ。
軟膏や樟脳、線香のにおいがする曾祖母だった。腰が曲がってて、骨と皮みたいな手で、爪が丸くて。目と爪は、曾祖母と、母と、私は同じ形だなとか。
そんなことだけはよく覚えている。
この10年しんどそうだった、と今になって教えられたので3.11だし誰かに連れていかれたのかもしれないな、楽になったのであれば良かったんじゃないか、なんて思っている。
母方の実家の墓、車でないと行けないようなとんでもない山の中にある。数える程しか墓石がなく、戦没者墓地のほうが大きいような、山の斜面にあるような場所。
そこに曽祖父も、祖父もいる。ゆくゆくは祖母もそこにいくんだろう。もう後継ぎのいないあの家の墓に入る人は以降いない。
宿題と漫画雑誌を持ち込んで夏休みを過ごした、あの日本家屋はいずれ取り壊すらしい。そこに曾祖母はいないし、あの畑もない。仏壇もない。夜中に鳴り出す柱時計も、ネジを巻く人がもういない。掘りごたつに炭を入れることもないし、縁側の雨戸も腐り落ちていくんだろう。
もう一度くらい、顔を見せておけばよかったな。そしたらそういう思い出に上書きしてボケたなぁ、嫌な人になったなぁとか、可哀想だなぁと思ったかもしれない。そしたらこんなに寂しくなかったかもしれないし、こういう後悔もしなかったと思う。今日明日、曾祖母の葬式らしいので、もう少しだけ、曾祖母の顔を思い浮かべて過ごしてみようかと思う。