運河界隈
- 2015/10/17 18:36
- Category: 小旅行・大旅行
パリの朝は寒い。ボローニャよりもずっと北にあるパリは、当然のことながら気温が低く、夜が明けるのも遅かった。遅いと言っても実際は、僅か30分遅いだけ。けれども夜明けと共に空が明るくなることのないこの季節は、1時間も2時間も遅いように感じてしまう。
朝9時、外を出たら灰色の情景があった。大きな川があるから湿度で霧が発生するのか。いや、霧と言う程のものではないが、しかし何か景色がぼやけていて、ガラスの破片が刺さるように痛い空気が立ち込めていた。朝の9時でこれならば、早朝はどんなだろう。通勤や通学の時間に一瞬遅いこの時間の街は人が少なくて、実に私好みだった。着いたばかりの頃、パリのメトロには大変手を焼いたものだけれど、それも時間が経つとこれほど便利なものは無く、次から次へと乗り継いで目的地に行けるようになった。その朝の目的地はサンマルタン運河界隈。昔、写真を見てとても心惹かれていた。ヴェネツィアのような情緒ではなく、とてもさらりとした印象で、生活に馴染んでいて、現実的なところが良かったのかも知れない。メトロの駅から地上へと出る一瞬手前に、証明書写真をとる機械が置かれていた。あの、何処の国にもあるような、箱型のあれだ。そう言えば十何年も前に見た映画、アメリに出てきたなと思い出し、そしてこれから行こうとしているサンマルタン運河界隈もアメリに出てきたことを思い出した。それで、私が心を惹かれた写真は案外アメリの映画の中の一場面だったのではないだろうかと思ったのだが、いいや、違う、もっと昔に、写真集か何かで見た写真だ。 運河の名前に関心は無く、単にパリの運河とだけ記憶していた。心惹かれながらも記憶の小箱の放り込んだままだったのは、それほど私がパリに縁がなかったからで、それほど私の身近に存在するものではなかったからだ。でも、パリに着いて、さて、と考えた時、頭に思い浮かんだのはこの運河界隈だった。メトロの駅から地上にでて、絶対向こうの方だと確信があり、暫く歩いたが急に自信がなくなった。またいつものように全く違う方向に歩いているのではないだろうかと。何しろ寒い。4度といいう寒さだったから、歩く方向を間違えることは許されなかった。と、小さな目印を見つけた。運河は向こうの方という矢印が付いていた。やはり方向を間違えていて、全くがっかりだった。この季節、水がある場所は寒い。と言うのは何処の国でも何処の町でも同じだろうか。サン・ルイ島も寒かったが、運河界隈の寒さは飛び切りだった。何が寒いって風だ。ようやく運河に辿り着き、さて、運河に沿って北へと歩いてみようと思ったが、この風が邪魔をした。とても歩けるような風ではなかった。耳を引き千切るような、頭髪の毛穴から入り込むような、鋭くて冷たくて痛い風だった。それで、運河と並行に走るように存在する、一本入った道を歩くことにした。途中でまた運河を見に出ればいいと思って。一本道を入っただけで風は止み、良い選択だったと胸をなでおろした。運河は見えないが小さな店がとぎれとぎれにある通り。カフェ、中国人が営む整体の店、その後ずっと行くと、ガラス張りの、美しい花柄の壁を持つカフェ。右手にある大きな病院を時折眺めながら、その次は、その次はと歩いていくと小さなロータリーがあって店が肩を寄せ合うようにして存在している。この辺で運河を見たくなって左折したところ人がひしめいている店を見つけた。それに何やらいい匂いだった。行ってみるとそれはパン屋さんで、近所の人たちや、近くの学校の学生たちやら何やらが辛抱強く列にきちんと並んで順番を待っていた。へええ。私は興味を持って列に並んでみた。少し小腹が空いていたのだ。寒い季節は本当にお腹が空くと、昔誰かが言っていたように。暫くすると私は店の中に入ることが出来て、ようやくどんなものを置いているのかが分かった。典型的なバケットが飛ぶように売れていく。それからバケットにチーズやハムを挟んだものも、どんどん売れていく。何にしよう、と眺めていたら奥の方にクロワッサンがあった。実は私はクロワッサンというものが好きではない。今まで美味しいものを食べたことが無いのだ。でも、職場の同僚がパリへ行ったらこれだけは食べなくてはいけないわよと言っていたのを思い出して、それでそれを一つ小さな紙に包んで貰った。店を出てかぶりつくと、笑ってしまう程美味しかった。今まで私が食べてきたクロワッサンは、クロワッサンと言う名の別ものだったのかもしれない。兎に角美味しくて、あっという間に食べ終えてしまった。ははあ、此れがクロワッサンなのか。嬉しくてまた笑いが零れた。パリに暮らす人々が羨ましいと思ったことは今まで一度だってない。でも、このクロワッサンを何時でも食することが出来ると言う点では、私は悔しいほど羨ましいと思った。そうして暫く行くとまた運河があった。何てことのない散策。でも、こういうのがしたかった。
ボローニャのいつもの生活が始まった。運河界隈を散策したあの午前が夢だったように思える。でも私は覚えている。クロワッサンの匂い、食感。溶けてなくなった後にも口に残る美味さ。これをすっかり忘れてしまわぬうちに、またパリに行きたい。贅沢者と相棒は言うに違いないけれど。
高兄
縦撮りの、御写真
新鮮で、ハッとしました^^
クロワッサンの香りに、パリの朝
ああ、良いですね~^^