はてなキーワード: 資質とは
当時彼は20代で、職場の立ち位置はルーキーでした。恋愛の腕前がどの程度かは不明でしたが、モテないということは否定できないみたいな、なんともいえない印象でした。
そんなある日、彼のところに新卒の女の人が来て業務の相談をしていました。仕事の話が終わった後で、「わたし、髪切ったんですよ♪」と、外見の変化をアピールしたのです。
そしたら、彼は「似合ってるね!」という台詞を口にして、彼女は嬉しそうにしていて、その場から去ったのですが~~その後に上司から注意を受けてました。
「今時は、そういう発言はセクハラになるからね😶」という趣旨の指導でした。
なるほど、今時はそうなのだなと思って厚労省のガイドラインを読んだら、確かにそのとおりであり、納得した記憶があります。相手によってはハラスメントになるので、相手の外見を褒めるのはNGということです。
※上記の場合はセーフだと思います。上司の発言もそれをわかったうえで釘を刺したのかと
人間一人あたりの価値ですが、時代を経るごとに上がっています。いわゆる人権というやつです。昔だったらOKだったコミュニケーションが、今ではアウトになってしまいます(..)
都会の方にある会社であれば、そういったコミュニケーションは厳に慎まれているものと存じます。皆様の職場はいかがでしょうか。
公務員増田などと呼ばれて久しいですが、確かに昔は公務員をしておりました。
私が書いたものをブクマされる方に、『はてな気砲』なるワザを編み出した方がおられるのですが、やはり業界経験のある方には見抜かれてしまうのだと思います。作品が扱うテーマがモロなこともあるのですが、文章の書き方でわかるのかと。
これは、とある電子機器メーカーでのお話です。こちらの会社に勤めていた人で、不幸なことになった女性がいました。ありていに言うと自殺です。会社の責任だと私は思ってます。
前職を辞めた理由は、先輩や同僚がやはり同様の理由で命を落としたからです。退職理由の大半です。人の命を大事にしない職場環境では、今後ずっと働けないと感じました。まさか、次の会社でもそうなるとは思いませんでした。
自殺願望というのは、案外普遍的な感情なのかもしれません。『死にいたる病』といった名著にもあるのですが、人間、視野が狭くなると必然的に誤った選択をします。死の方が楽になるのです。
迷っているときにもっとも必要となるものは、いつでも、一番思いつきにくいものなのだ――これは当然のことである。だって、そうでなかったら、それは迷いではないわけであろうから。 死にいたる病(中盤あたり)
当時を思い返すと嫌な気分になります。しかし思い出を否定しても、またやってきます。臆さずに感情を受け入れて、消化してしまうのが最良だと思います。
年末には長編を投稿することが多いです。こちらの日記もそうでした。
かつての京都府での公務員時代は、数年だけ教育の仕事に携わっていました。学校教育ではなくて、その亜種みたいなジャンルです。その頃の(大分昔ですが…)思い出を日記にまとめました。
物語の主人公の人ですが、学校の先生出身で、京都府教育委員会で長年働かれていた人です。私が教委事務局に出向になった年に定年退職し、以後は再任用で働いていました。一緒に働いていた時に、昔の話をいろいろしてくれることがあって、今でも記憶にしっかと刻まれています。
私個人の価値観ですが、仕事に対してマジになる方ではありません。それが悪いことだとは思いません。ただ単に、仕事を崇高な事だと信じる人と、そうでない人の違いです。
元厚労相の村木厚子さんのような、複数の社会で生きることを提唱するタイプです。教委事務局での仕事についても、超絶キツかったのは間違いないですが、それでも手を抜けるところは全力で抜いてました。
公務員ものを描くにあたって、難しいところがあります。私は現場の最前線で働いていたこともありますし、裏方の事務スタッフだったことも、『決める側』だったこともあります。それでも日記を書くにあたっては、現場のこと(意思決定の裏側)を書いた方が皆様にとって面白いのは間違いありません。
ただし、長年公務員をしていたわけでもありません。限界がある部分については、市町村の役場を訪問した時とか、イベント動員で出動した時とか、プライベートで役所がスポンサーになっている行事に参加した時など、思い出を活用して日記を作るようにしています。
今でも懐かしくなって、京都~大阪を訪れることがあります。昨年末も一時帰省しました。
市内には飲み屋がたくさんあるので、同じカウンターに座ったお客さんと話が盛り上がることもあります。わいわいがやがやな時もあれば、しんみりと語り合うこともあります。こちらの日記に書いたのも、その時の思い出です。
それぞれ、京都の祇園~木屋町での飲みの思い出です。語り手は、京都市内で土地家屋調査士として営業している人に据えました。お話の仕方に大変熱量のある人でした。うざいくらいに自分の考えを語るというか、素面でも酔っぱらってるみたいな人でした笑 仕事の腕前はホンモノです。
「都会と地方での若者の違い」をテーマに据えましたが、実際、そんなものはないと思ってます。それぞれの居住地を入れ替えれば~に帰結する類のつまらない話です。江戸時代の人が現代に来たら、現代人の様式にすぐ馴染むみたいな。
ただ、都会の方が若者の密集度が段違いです。特に優れた若者だと、同程度の資質を有した人と出会うことで才能が開花するものと存じます。それが、東京一極集中というか、一例として、大学が都心部に集積していることの強みだと思います。強者同士が出会うことで、『ブルーロック』で言うところの化学反応が起きるのです。
その意味では、田舎よりも都会の若者の方が視野が広くなるし、能力・資質も発展しやすいのは間違いないです。
公務員時代のお話です。同期入庁の人で福祉部門に配属された人の記録です。
フロアが近かったのもありますが、彼のことは強烈に印象に残っています。というのも、悪い意味での有名人だった時期があるからです。
日記中には、いろいろと不適切な描写がありますが、実際に起こったことです。思い出を整理する、文字にして吐き出したいという思いに抗うことは難しく、詳らかに描いてみようと思いました。
地方自治体の職場だと、あまり大きい声を出す職員はいません。一般住民に近い職場が大半であり、コンプライアンスの観点があるからです。しかし、一般住民があまり来ないような職場だと、問題のある行為をする人間も存在します。むろん少数派ですが。
主題はそっちではなく、作中で取り上げた人のことです。「彼が福祉部門なの!?」と若かりし頃の私は思いました。彼の高校時代を振り返っても、福祉への適性があるとは思えませんでした。
しかし、何年も経ってみると、彼は実際に適応してました。直接見聞きした回数は少ないですが、府民からも業者からも、一定の信頼は得ているものと思いました。
彼は今でも公務員として働いているはずです。彼と一緒に仕事をした経験はそこまでなく、食事や飲みに行った回数も同様です。日常的な絡みはありませんでした。ただ、学生時代に同じクラスだったから知ってるというだけです。
それでもわかるのです。今でも、彼は自らの人生の目的を達するために、公僕としての勤めを果たしているのだと。
実は、昨年末頃に職場を観に行ったら、オフィスのすみっコに彼が座ってました。奥の方だったので役職が付いたのかもしれません(^^)/
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【閑話③】よくブクマしてくれる方
以下の表中のコメント回数(期間:2023.1~2023.12)ですが、概算になります。
データは整理していますが、専門的なスクレイピング・データ加工はしていません。
コメント回数は、すべて「少なくとも」です。確実にこれだけの回数があります。
以下、ブクマカ名は一部を除いてぼかします。ある程度わかる表現にはしています。
| ブクマカ名 | 私個人の感想 | コメント回数 |
|---|---|---|
| ネコとグラス | いつもコメントありがとうございます(^^) | 11回 |
| はてな気砲の人 | いつも流石です。私を見抜くAIを作られては? | 10回 |
| スター数1位 | 含蓄あるコメント。今では引退されたのですね泣 | 7回 |
| ゆっくり風の女性 | 同じく2023年からブクマが増えてます。転生された? | 7回 |
| ハックルベリー | 心にドーンとくるコメントが多いです(;'∀') | 7回 |
| 目がデカい女性 | 私にとっての伝統的なブクマカです(..) | 7回 |
| 口紅 | 理性的なコメントが多し。今後もよろしくお願いします | 7回 |
| ひげおじさん | 小説作品へのブクマが多いですね | 5回 |
| ゆかり | またいつか釣り針パクーしてくださいw | 4回 |
| ナニカを飲んでるおじさん | ビジネス面に鋭いコメントをなされますね | 4回 |
| firststar_hateno | お前が№1だ……!! | 4回 |
| おたまじゃくし | 小説作品がお好きなんですねぇ笑 | 4回 |
| スーツ姿の男性 | パワーのあるコメントをされます笑 | 4回 |
| 忍者 | 目線が鋭いですね。私ですら気が付かない視点を…… | 4回 |
| eggman | 無言ブクマ歓迎です!(^^)! | 3回 |
| 介錯 | 芸術肌の方。もっと温かい雰囲気の日記を増やしますね | 3回 |
| 悩んでそうな女性 | 小説作品の読み込みがすごいです。勉強になります | 3回 |
| fossilcat | 会長視点じゃないですけど今年投稿したいです | 3回 |
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【最後に】
昨年末頃は、皆さまに大変ご迷惑をおかけしました。諸事情により詳細を申しあげることはできませんが、深く反省しております。
今後につきましては、お読みになる方に、(怒りや悲しみといった負の感情ではなく)ポジティブな感情を与える作品づくりをめざします。
満員電車の窓ガラスに映る自分の顔を、彼はときどき中古レコードのジャケットでも眺めるみたいな目つきで見ることがあった。
朝の光は本来もっと柔らかくて、パン屋の棚に並ぶ焼きたてのクロワッサンみたいに、人の輪郭をやさしく縁取るはずなのに、そのときの顔だけは夜通し冷蔵庫に忘れられていた野菜みたいに妙に疲れていて、アウトラインが水に落としたインクのように静かに溶けていた。
どこの誰とも知れない経営者たちが、会議室の白いテーブルの上で決めた数字や方針のために、名前も知られないまま働き続ける人間の顔。いわば、ラベルの剥がれた缶詰のような顔だった。
世の中には、あまりにも「社畜」でありすぎるがゆえに、静かな音を立てながら壊れていく人たちがいるらしい。
ニュースサイトの画面の片隅に、広告ブロックに挟まれた小さなバナーみたいに載る体調不良や過労や、あるいはもっと直接的な終わり方。
そこには映画館の予告編みたいにドラマティックな物語はほとんどなくて、ただ、安い蛍光灯がチカチカするオフィスのような単調な繰り返しだけが延々と続いている。
朝起きて、会社に行き、配られた台本どおりの役割をこなし、帰ってベッドに沈み込む。その循環の中で、消しゴムの角が気づかないうちに丸まっていくみたいに、何かが少しずつ削り取られていく。
それはまるで、見えない歯車の一部にいつのまにか身体ごと組み込まれてしまったみたいだ、と彼は思う。
歯車は、自分がどの装置のどのあたりにはめ込まれているのか知らないし、全体のかたちなんてもちろんわからない。
ただ、回ることだけを求められている。
そして回転をやめた瞬間、壊れたボールペンが引き出しの奥に無言で放り込まれるみたいに、静かに別の歯車と交換される。
起業して成功する人間は、おそらくどこかで別の種類の地図をポケットに忍ばせている。
あるいは、地図そのものを持たずに、砂漠の真ん中を歩くことをそれほど恐れない資質を持っている。
でも、多くの人はそうじゃない。
なるべく穴の少ない舗装道路を選び、あらかじめ敷かれたレールの上を、自分のサイズに合わない通勤靴のまま歩き続けることに慣れてしまう。
慣れるというのは便利な機能だ。スマートフォンの自動スリープみたいに、余計なエネルギーを使わずに済む。
けれど、その機能がいつのまにか見えない檻に変わってしまうこともある。
彼は考える。これは本当に、多少デザインを変えただけの現代版の奴隷制なのではないか、と。
鎖や鞭は、目に見える鉄や革の形を捨てて、契約だとか責任だとか評価だとかいう、ビジネス書の索引に並びそうな言葉に姿を変えただけではないか、と。
本質は、古い映画館のフィルムみたいに、ほとんど変わらないまま回り続けているのではないか。
階級という言葉は、今どきの若い人の耳には少し黄ばんだ紙の匂いと一緒に届くかもしれないけれど、その実体は、冷蔵庫の奥に居座る氷みたいに、しぶとく残り続けている。
上にいる人間は透明なバルコニーから下を見下ろし、下にいる人間は上を想像することしかできない。
エレベーターの行き先ボタンを眺めながら、決して点灯しない階のことを考えているみたいに。
それでも、彼らは朝になるとまた電車に乗る。
ホームに立ち、同じ方向に視線を向ける人々の列に、音もなく混ざり込む。
その風景はどこか奇妙に静かで、巨大な水槽の中を一定の速度で回遊する魚の群れや、よく調律されたメトロノームの列のようでもある。
誰もが何かをあきらめ、同時に何かを支えながら、同じようなリズムで息を吸い込み、吐き出している。
靴音が、まだ目を覚ましきらない街のアスファルトを淡々と叩いていく。
彼は思う。その群れの中にいるかぎり、自分が哀れなのかどうかすら、うまく判断できなくなるのかもしれない、と。
ただ、日々が小さなパケットデータのように送信されていき、季節がアプリのバージョンアップみたいに巡り、気がつけば自分でも戻り方のわからない場所まで来ている。
満員電車の窓に映る自分の顔を、彼はときどき他人のもののように眺めることがあった。朝の光はまだやわらかいはずなのに、その顔だけが妙に疲れていて、輪郭が曖昧に滲んでいる。どこの誰とも知れない経営者たちの決めた数字や方針のために、名前も知られずに働き続ける人間の顔だった。
世の中には、あまりに「社畜」であるがゆえに、静かに壊れていく人がいるらしい。ニュースの片隅に小さく載るだけの、体調不良とか過労とか、あるいはもっと直接的な終わり方とか。そこには劇的な物語はなくて、ただひたすらに単調な繰り返しがあるだけだ。朝起きて、会社に行き、決められた役割をこなし、帰って寝る。その循環の中で、少しずつ何かが削れていく。
それはまるで、見えない歯車の一部になってしまったみたいだ、と彼は思う。歯車は自分がどこに組み込まれているのか知らないし、全体の形もわからない。ただ回ることだけを求められている。そして回ることをやめた瞬間に、静かに交換される。
もちろん、誰もが自由にそこから抜け出せるわけじゃない。起業して成功する人間は、どこかで別の種類の地図を持っている。あるいは、地図がなくても迷うことを恐れない資質を持っている。でも多くの人はそうじゃない。安全な道を選び、与えられたレールの上を歩くことに慣れてしまう。慣れるというのは便利なことだけれど、ときどきそれは檻にもなる。
彼は考える。これは本当に現代の奴隷制度ではないのか、と。鎖や鞭は見えない形に変わり、契約や責任や評価といった言葉に置き換えられているだけで、本質はそれほど違わないのではないか、と。階級という言葉は古びて聞こえるけれど、実際にはずっとしぶとく残り続けている。上にいる人間は下を見下ろし、下にいる人間は上を想像することしかできない。
それでも、彼らは朝になるとまた電車に乗る。ホームに立ち、同じ方向を見つめる人々の中に紛れ込む。その風景はどこか奇妙に静かで、巨大な水槽の中を群れで泳ぐ魚のようでもある。誰もが何かを諦め、同時に何かを支えながら、同じリズムで呼吸している。
彼は思う。その中にいる限り、自分が哀れなのかどうかすら、うまく判断できなくなるのかもしれない、と。ただ日々が過ぎていき、季節が巡り、気がつけば取り返しのつかないところまで来ている。そういう種類の物語が、この世界には驚くほどたくさんあるのだ。
かつての日本では、結婚それ自体に制度的なベネフィットがかなり内蔵されていた。会社員の妻として扶養に入れば、第3号被保険者制度によって自分で保険料を前面で負担しなくても基礎年金の権利を持ちやすく、配偶者控除なども含めて、結婚は生活保障と老後保障を得るための現実的な装置として機能していた。 さらに、男性正社員の長期安定雇用を前提に、夫が大黒柱となる家族モデルが広く成立していたため、女性にとって結婚は、個々の夫の性格や能力以前に、制度と雇用慣行によって一定の利益が担保された仕組みでもあった。当時の女性が結婚するために必死になっていたのも、少し考えれば当然のことであった。
しかし1990年代後半以降、この前提は大きく変わった。共働き世帯は専業主婦世帯を上回る状態が長く続き、短時間労働者への社会保険適用拡大などを通じて、専業主婦・扶養内就労を優遇する仕組みは縮小方向にある。 その結果、昔のように「結婚すれば制度的に得をしやすい」という構造は弱まり、結婚の損得は、制度が自動的に補ってくれるものではなくなった。
そうなると、女性にとって結婚がベネフィットになるか、むしろコストが上回るかは、夫となる男性の資質に強く左右される。十分な収入を安定して得る力があるか、家事や育児を分担する意思と実行力があるか、情緒的に安定していて配偶者の負担を増やさないか、相手の就業継続や資産形成を妨げず、むしろ支えられるか――こうした条件を満たす男性であれば、結婚は女性の生活水準と安心感を押し上げ、QOLの上昇に直結しうる。 逆に、収入が不安定で、家事育児にも消極的で、妻のキャリア形成にも非協力的な男性であれば、現代の結婚は制度的な下支えが弱いぶん、女性にとって経済的・時間的・心理的負担の大きい契約になりやすい。
この意味で、現代の結婚市場では「結婚そのもの」よりも「誰と結婚するか」の比重が以前よりはるかに大きい。社会保険や扶養優遇が厚かった時代には、平均的な男性と結婚しても制度が一定の利益を補完してくれたが、その補完が薄れるほど、女性のQOLを実際に引き上げられる男性、すなわち経済力・協働力・人格的安定性を備えた男性ほど人気が集まりやすくなる。 現代で選ばれる男性とは、女性の可処分時間、可処分所得、精神的安定を増やせる男だと言える。
| 項目 | 昭和後期までの主担当 | 1990年代以降の移行 | 2020年代の主担当 |
|---|---|---|---|
| 防犯・対外防衛 | 夫や父兄が守る | 警察・相談窓口へ公的化が進行 | 公的機関が中心、自衛は本人補完、夫依存は縮小 |
| 稼得・生活費 | 夫が大黒柱 | パートレベルの共働き化で本人就業が拡大 | 生活費折半とペアローンで本人補完 |
| 老後保障・医療保険 | 夫経由の扶養優遇が大きい | 第3号被保険者を残しつつ個人加入へ誘導 | 本人就業による加入が重要化、公的機関の個人単位化が進行 |
| 家事・育児 | すべて妻が担当 | 保育整備・育休制度が徐々に新設 | 家事は本人負担が重く、育児は保育園等の公的機関が一部補完 |
| 生活困窮時の安全網 | 夫や親族への依存が相対的に大きい | 生活保護や母子福祉が制度化・一般化 | 公的機関が最後の支え、本人就業が第一選択 |
| 離脱・再出発支援 | 夫婦関係からの離脱コストが高い(ほぼ離婚できない) | DV防止法で国家介入が始まる | 公的保護命令・相談・住宅就業支援が整備 |
昔の結婚は女性に必要な機能を夫が束で提供する制度に近かったのに対し、現代はその機能が「本人」「国家」「配偶者」に分散した。
そのため現代の結婚は、制度だけで自動的に得になるのではなく、夫がこの分散した機能のうち何をどれだけ実際に担えるかが、生活の質を左右しやすくなっている。
男女間のトラブルにおいて常に女性が責められる背景には、「男性には責任能力がない」という前提に基づいた、以下のような特異な論理構造があります。
トラブルの主導権や非がどこにあるかにかかわらず、最終的な責任を女性に帰結させる論理が展開されています。
女性が被害に遭った際、加害者である男性を責めるのではなく、被害者である女性側に落ち度を求める論理です。
男性の不適切な行動(マナー違反や衛生観念の欠如)さえも、周囲の女性の責任とされる論理です。
これらの論理の根底には、男性を「常に心神喪失状態」にある存在として扱う、皮肉的な前提があります。
男性には「ありとあらゆる能力が欠如している」ため、そもそも責任を問うこと自体が無意味であり、消去法的に女性が全ての責任を負うべきだという極端な思考モデルが提示されています。
このように、「男性は責任を取れない存在である」という免責と、「女性はあらゆる事態を予測・管理すべきである」という過度な責任付けが組み合わさることで、「あらゆるトラブルにおいて常に女性が責められる」という不条理な論理が完成しています。
出典の内容に基づくと、男女間のトラブルにおいて常に女性が責められる背景には、「男性には責任能力がない」という前提に基づいた、以下のような特異な論理構造があります。
この主張の中では、トラブルの主導権や非がどこにあるかにかかわらず、最終的な責任を女性に帰結させる論理が展開されています。
女性が被害に遭った際、加害者である男性を責めるのではなく、被害者である女性側に落ち度を求める論理です。
男性の不適切な行動(マナー違反や衛生観念の欠如)さえも、周囲の女性の責任とされる論理です。
これらの論理の根底には、男性を「認知症」や「常に心神喪失状態」にある存在として扱う、皮肉的な前提があります。
このように、「男性は責任を取れない存在である」という免責と、「女性はあらゆる事態を予測・管理すべきである」という過度な責任付けが組み合わさることで、「常に女性が責められる」という不条理な論理が完成しています。
猫への感情が虐待や憎悪へと転じてしまう背景には、個人の資質だけでなく、複数の社会的・構造的な要因が複雑に絡み合っていることが読み取れます。
主な要因は以下の通りです。
欧米などの一部の文化圏では、猫を飼うことと「独身女性」を強く結びつける蔑視的なステレオタイプが存在します。
虐待を行う人々は、実社会での孤立をオンラインでの「悪名」によって埋めようとする傾向があります。
自分たちが社会的に救われていないという不満が、保護の対象となる動物への憎悪に変わるケースです。
虐待行為が単なる個人の逸脱を超え、組織化されたビジネスとなっている側面もあります。
特に中国などの事例では、動物虐待を直接取り締まる法律がないことが、虐待をエスカレートさせる要因となっています。
これらの要因が組み合わさることで、猫への個人的な感情が、社会的な憎悪や凄惨な虐待行為へと発展してしまう構造が浮き彫りになっています。
スレッド内では、一般的に言われている「男性は論理的である」という言説に対し、実際の行動や統計、社会的な背景から多くの疑問が投げかけられています。その詳細は以下の通りです。
「男性は論理的」という主張と矛盾する、感情的あるいは短絡的な行動が具体例として挙げられています。
「論理的」という言葉が「理性的・合理的」という意味を含むのであれば、統計上の事実と整合性が取れないという指摘があります。
なぜ根拠が乏しいにもかかわらず「男性は論理的」と信じられているのか、その構造についての考察もなされています。
いじめもない、家庭トラブルもない、学校も普通、けがも病気もないけど学校に行かなくなってしまう「マイルド不登校」が増えているらしいという話
https://togetter.com/li/2684194
この件さあ。無茶苦茶なんだけど同意している人が多くてドン引きしてる。こんな不登校ビジネスの連中に耳を貸すべきではない。
事実として、文部科学省の調査だが、不登校の直接的なきっかけとしては
ぐらいの割合で多くは変わってない。昔からトップが連中が言う「マイルド不登校」ってやつで、具体的な問題があって不登校であるという事の方が少ない。
なので「増えている」ということそのものがミスリードでおかしい。全体の認知件数は増えているが、特段連中が「マイルド不登校」と称するものが割合的に有意に増えていると言うことはない。
恐らくこれを言うと「マイルド不登校」という定義不明の理屈をひねり出して「私もかなり精査しました」とか主張するんでしょうがね。
また、ここでいう「きっかけ」や「原因」と言うのは、それを取り除いたら復帰できた、という結果から逆算されるケースがほとんどなので、それが分かった時点で解決したも同然なのである。
むしろその原因を丁寧に探って言語化していくことこそが問題を解決するプロセスの一つのルートであって、分からないことが普通なのだから、それを「マイルド不登校」などという定義を作って煽ること自体がナンセンスだ。
これも印象論で、これもきちんとした追跡踏査が行われているが、おおよそ不登校の8割が継続した就学就労についているなど、いわゆる「社会適合」している。
そしてこの「継続し就学就労についている」といった「社会適合」の定義でいくと、労働人口の1割強が適合できていないと分類されるので、不登校を経験している人たちが特別に高いかというとそうでもない。
一方で、短大・大学・専門学校進学率でいくと4割強で、一般の5割強よりもこれも1割ほど少ないと言う数字になっているが、これでも大幅に少ないわけではない。
生涯年収については不登校というよりも進学先の学校による違いほぼ同じという事にはなっている。
これは同じ人間が不登校になった場合と、強引な手を使って強制的に学校に行かせた場合と、超高額なフリースクールなり塾なりの業者に金を払った場合で、対照実験できるわけではないのでわからない。
例えば、元々本人が備えた資質が、集団行動に馴染まないものであった場合、強引な手を使って学校に行かせた方が良いとは言えない。
ただ言える事は、高額な塾に金を払ったら問題が解決した、というようなコンセンサスが取れた研究例は存在しない。
それから「もし自分があの時不登校にならなかった活躍していたに違いないから、なんであの時強制的に学校にいれてくれなかったの?」みたいな事を言うのは、本人の勝手ではあるが、それは何も担保しないのであんまり全体の議論に資するものではない。
それは結局「あの時無理矢理学校にいかされたせいで社会に適合できなくなって、今は引きこもりで仕事ができない」(場合によっては自殺さえも多く発生して社会問題になった)と言う多く発生した問題を解決するために今の考え方になっているということをまるっと無視しているからである。
不登校の件数は右肩上がりで増えている。これは割合も件数も全体的に増えている。
それに対して、不安を煽った上で、高額の料金をふっかけて対策をする、と称する業者が登場している。
当たり前だが、多くの不登校児はそんな高額の金を払う事はできないわけで、彼らを利用して問題の解決ができた例は少ない。
なので、彼らが持っている例というのはどこまで行っても一般化することが難しい特殊例であり、彼らが見えている部分で全て語ることはできないのである。
幸運にも彼らに払える金があって、その環境に合うのなら否定はしないけれど、彼らを使わなければ問題外解決できないと思い込むことは間違いであり、利用には冷静になりたい。
不登校になって、そのまま引きこもりになって、一度も就職しないまま今に至るらしい。40-70問題が解決しないまま50-80問題になって、このまま60-90問題に名前が変わるだけなんじゃないか、みたいな空気がある。
他人事みたいに言ってるけど、うちの弟もかなり危ない。高校を中退してからずっと家にいて、ゲームばかりしている。バイトすらしない。将来のことは何も考えてなさそうというか、考えないようにしてるのかもしれないけど、外から見たら「何も考えてない人」にしか見えない。親が何か言っても不機嫌になるだけだし、かといって本気で追い出せるほど家庭も強くない。たぶんこういう家が、じわじわ問題を熟成させていくんだろうなと思う。
私は会社員をしつつ、世間的にはそろそろ結婚だの出産だのをふわっと意識し始めてもいい年齢なんだろうけど、正直ぜんぜんそういう気分になれない。子どもが欲しいと思えないし、産むのが怖い。うちの家系、なんかおかしくないか、とずっと思ってるから。もちろん、遺伝子で全部決まるなんて乱暴な話なのはわかってる。環境の影響だって大きいだろうし、本人の資質とか、家庭の対応とか、時代とか、そういうものが複雑に絡むんだろうとは思う。でも、そうやって理屈では否定しながらも、感情のほうは全然納得してくれない。
だって現実に、親戚には長年引きこもっている人がいて、弟も似たようなコースに片足を突っ込んでいて、私はそれをかなり近い距離で見てしまっている。こういうのを見て、「でも私は明るく未来を信じて子どもを産みます」みたいな気持ちに、どうやってなればいいんだろう。なれる人はすごいと思う。私には無理だ。楽観的になれる材料がひとつもない。
弟を見ていて腹が立つこともある。バイトくらいしろよ、とか、将来どうするつもりなんだよ、とか、思う。でも本当に腹が立つのは、たぶん弟本人だけじゃない。そうなるまで放置してきた家とか、見て見ぬふりをしてきた親族とか、問題を問題として認識しながら「まあそのうち」って先送りしてきた時間そのものに腹が立つ。で、いちばん嫌なのは、その血と空気の中に自分もちゃんと含まれてることだ。弟だけがおかしいわけじゃなくて、この家全体がじわっとおかしいんじゃないかと思ってしまう。
私は一応、学校も卒業したし、表面上は正社員として普通に生きてる。でもそれって、ギリギリ踏み外さなかっただけで、何かが少し違ったら自分だってそっち側にいたかもしれない、みたいな感覚がずっとある。だから余計に怖い。自分の中にも、同じものがあるんじゃないかと思う。怠惰とか無気力とか現実逃避とか、名前は何でもいいけど、そういうものの種がある感じがする。
子どもを産まない理由なんて、本当はもっと前向きに言えればいいのかもしれない。「仕事を頑張りたいから」とか、「まだ自由でいたいから」とか。でも私の中にあるのはもっと後ろ向きで、もっと暗い理由だ。自分の家系に対する信頼がない。自分自身に対する信頼もない。この先、自分が誰かをちゃんと育てられるとも思えないし、もし育てた子が弟みたいになったら、あるいは親戚みたいになったら、私は耐えられる気がしない。
こういうことを言うと、極端だとか、考えすぎだとか、まだ若いんだからわからないとか言われるんだろうけど、親が老いて、弟がそのままで、「ああやっぱり」と答え合わせされる未来のほうが簡単に想像できる。
別に、子どもを産む人を否定したいわけじゃない。ただ私は、私の見てきたもののせいで、どうしてもそっちに気持ちが向かないというだけだ。希望より先に不安が来る。愛情より先に責任の重さが来る。祝福より先に再現性への恐怖が来る。
なんというか、人生って連鎖するんだなと思う。いい連鎖もあるんだろうけど、うちにあるのはたぶんそうじゃないほうだ。だから私は、その連鎖を自分のところで止めたいと思ってしまう。前向きな選択というより、消極的な遮断。それでも、産まないという判断が、今の私にできるいちばん誠実なことのように思えてしまう。
夕方は混む。
ある日、店長に言われた。
怒られたわけじゃない。
怖く見える。
怒ってなんかいない。
ただ、普通にしているだけだ。
でもどうやら、私の“普通”は
「怒ってる?」に変換されやすいらしい。
小学生の頃を思い出す。
黙っていたら「機嫌悪い?」と聞かれた日。
笑ってみたら「急にどうしたの?」と笑われた日。
私が黙っていると、「怖い」になる。
あのズレを、私はちゃんと覚えている。
よく笑う人だ。
袋を渡すときに、
そのやりとりは、努力している感じがしない。
ただ、流れている。
私は隣のレジで、それを見ている。
正直、羨ましい。
同じ制服を着て、
同じ「ありがとうございました」を言っているのに、
空気の柔らかさが違う。
人は、報われた行動を繰り返す。
歓迎された振る舞いは増える。
歓迎されなかった振る舞いは減る。
笑って空気が明るくなった経験が何度もあれば、笑顔は自然になる。
笑っても空気が変わらなかったり馬鹿にされたりする経験が何度もあれば、回数は減る。
学習は正直だ。
強化された行動は、自然になる。
私は何度か「愛嬌」を試して、私には大して報酬が出ないと知った。
だから今の私は、愛想が薄い。
これまで受け取ってきた反応の総量が、今の私を作っている。
でも感情の出し方まで、個人の資質や努力に回収されると、少しだけ苦しい。
私は怠けているわけじゃない。
これまで学習した結果が、今の私だ。
愛想を“性格”として語る前に、
少しだけ想像してほしい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4785574440925169154/comment/Gl17
◎クリエイタの個人資質もあろうけど、原作からこういう作風で、
かなりオタ向けド真ん中ジャンルながら普通にこういう開明性を含み、
当時社会がまだ良識を自然に尊重するものと内面化していた時代が出ている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4742477410485629295/comment/worris
◎最近は法華狼さんがエントリを上げると即座にブコメを付けに来る
ratepuroika さんの仲間がずいぶん増えたな。
そのうちロンクハラライスがどうのこうのと書くようになるのだろう。
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(弁護士)
【視点】雑誌「選択」等が報じたところによれば、首脳会談の舞台裏はさらにひどいものであった可能性が高い。高市首相はトランプ米大統領の要請に応じ、事実上封鎖されているホルムズ海峡に自衛隊を派遣する腹積もりだったが、今井尚哉内閣官房参与ら周囲の強い反対で翻意に至ったという。事実であれば、憲法上も国際法上も疑義のある自衛隊のホルムズ海峡派遣という悪夢の選択は、間一髪で回避されたということになる。信じがたい話であるが、トランプ氏にどこまでも追従する、首相の訪米時のパフォーマンスと確かに符合している。
事実であれば、高市氏が日本の首相として、国益と自衛官ら国民の生命と安全を守る、正しい判断をなしうる資質と見識を持った人物なのかを強く疑わせるものである。国会で十分に審議し解明して、首脳会談に至る経緯を検証してほしい。
そのうえで、中長期的に考えると、本記事が指摘する通り、日米の枠に閉じ込められない多国間外交を日本が構築していくことは喫緊の課題である。
石破政権の時代も、核兵器禁止条約締約国会合のオブザーバー参加や、パレスチナ国家承認など、日本が仮に進めたくとも、米国の顔色を窺って決断できなかった外交課題があったようである。その根幹は、日本は中国・ロシア・北朝鮮を周辺国に持ち、難しい安全保障環境であるにもかかわらず、同盟国が米国しか存在せず、米国との二国間関係に依存せざるを得ない、孤立した環境に置かれていることにある。
この点、NATOやEUという経済・安全保障上の地域機構に参加している欧州諸国とは異なる点だ。いざというときに頼れる仲間が、米国しかいない、という現実と、このことを重く受け止める関連省庁・政府与党の過剰ともいえる認識が、日本の選択肢を著しく狭めていると思われる。
まずは、同じ立場にある韓国との友好・協力関係を強化すること、そしてアセアンやオーストラリア、ニュージーランド、カナダ等も含め、アジア太平洋地域に広く新しい多国間協定・多国間条約を締結するなどの動きを早急につくり、さらにはこうした枠組みとEUとの関係性を強化することが求められるだろう。米国に依存せず、権威主義とも一線を画する、戦略的な外交構想とそのための戦略的な多国間対話をを待ったなしで進めていくことが必要だと考える。
前編
https://anond.hatelabo.jp/20260324191631
社協から指定された担当者「Bさん」に電話をかけ、再び福祉課との交渉が始まりました。
社協と役所を行ったり来たり、まるで無限ループのようなたらい回し。本当にうんざりしますが、これが彼らの消耗戦術(こちらの心を折るための高品質なシステム)なのだとしみじみと感じました。
話の結果、翌日、Bさんが友人の自宅まで来て「相談」に乗るという言質を取りました。
しかし、ここで油断はできません。「相談」という名目で訪問し、「今回は申請は難しいですね」と言いくるめて帰るのが、彼らの常套手段だからです。
私は通話中の友人に、裏チャットで強い指示を飛ばしました。 「『相談したい』ではなく、必ず『生活保護を申請したい』と言葉にして伝えて」
そして通話の最後、私はついに「友人」越しではなく、自分の声で直接、Bさんに話しかけました。
これまで背後で指示を出していた私が、初めて表舞台に出た瞬間です。
「明日の訪問時、支援者として私が(オンラインで)同席させていただきます」 そう通告した上で、私は努めて冷静に、しかし最大限の圧力を込めてこう告げました。
「Bさん。明日はぜひ、法的に適切で、福祉課として誠実な対応をお願いします」
そして、ダメ押しの一言を付け加えました。 「なお、これまでの社協や窓口とのやり取りは全て録音しています。 もちろん、明日の会話も全て記録させていただきますので、そのつもりでお願いします」
電話の向こうの空気が、ピリッと張り詰めるのが分かりました。 これで舞台は整いました。もう、あやふやな対応は許されません。
翌日、Bさんは約束通り友人の自宅にやってきました。 驚いたことに、同行していたもう一人の職員は、最初の電話で横柄な態度を取り、ガチャ切りをした「先鋒部隊」でした。 ここが最後の正念場。システムが本番稼働(申請受理)するかどうかの「実地監査」です。私はスピーカーフォン越しに「監査役」として同席しました。
彼らは部屋を見回した後、聞き取りを開始しました。 序盤、Bさんは事務的に、そして少し意地悪くこう聞きました。 「でも、本気で自殺を考えることなんて、実際にはなかったんですよね?」
これは、「希死念慮(緊急性)がない」という言質を取り、保護の必要性を下げるための誘導尋問ではないかと感じました。
しかし、友人は震える声で、否定しました。 「いいえ。本気で死にたいと思っていましたし、今もその衝動があります」
こちらの「本気度」と、私の監視(録音)があること、そして何より友人の切実な訴えが通じたのか。 あんなに攻撃的だった彼らの態度が、徐々に軟化していったのです。
「これまで、本当に大変でしたね……」
中盤からは、友人の苦しい境遇に耳を傾け、親身になって書類を作成してくれました。 結果として調査は1時間半にも及びましたが、全ての書類を書き終えた頃には、最初の険悪な雰囲気は消えていました。
帰り際、あの横柄だった職員が、友人に頭を下げました。 「電話口では、申し訳ありませんでした」
そしてBさんも、「申請は確かに受理しました。審査結果が出たら、また家まで説明に来ます」と約束してくれました。
冷静に振り返れば、彼らにとっても私たちは「厄介なデスマーチ案件」だったはずです。 何の状況の説明もなしに警察に通報していきなり申請し、電話でゴネて、正体不明の支援者がリモートで介入してくる。現場からすれば「どういうことやねん」と警戒して当然のイレギュラー対応だったでしょう。 それでも、彼らは最終的に、法に則り誠実に、行政としての職務を全うしてくれました。
私たちも、あまりにスピーディーで強引な申請だったねと振り返りました。しかし、友人の命を守るためには、このスピード感しかあり得なかったと思っています。
申請書は受理され、水際作戦というバグは”運用によってカバー”され、”友人の生活”がシステムのフローに乗りました。
そして何より、友人が「やっと安心できた感じがする」と言っていました。
友人が、この世界に対して感じていた「生きづらさ」、その一つから解放するきっかけを与えられたのだと、心から嬉しい気持ちでした。
なお、その後社協の担当者の方には、今までの非礼と協力への感謝を伝えました。
まず、今回の勝利はあくまで「水際作戦という理不尽なブロックを突破した」というだけであり、友人が救われたわけではありません。
友人の困難な状況から救われたわけでも、貧困から脱出したわけでもない。あくまで「生存権を行使するスタートライン」に立っただけです。
これからの生活の立て直しこそが本番であり、私たちはまだ課題の渦中にいます。
私は法律の専門家でもなんでもない、ただのQAエンジニアです。
今回の私の行動は、YouTubeで見た「こたけ正義感」さんの「弁論」に感化され、見よう見まねで権利を主張しただけのものです。
はたから見れば、”正義感”に酔った「痛い素人」に映ったかもしれません。
それでも、私は間違っていなかったと断言できます。
私の倫理観に照らし合わせて、目の前の友人が今日生き延びるための道を開くことができた。その結果こそがすべてだからです。
たとえ手法が素人の模倣であったとしても、それが人の命を守るトリガーになったのなら、それは「正しい運用」だったと私は考えます。
そして友人自身が「安心できた」と言っていた一言を漏らしたこと、これは私自身が友人に心から理解して欲しかったことです。
「あなたは安心して生きてていいし、そのために戦える人がいる(私です)」
今回の件で行政や担当者を「悪人」と断じるのは簡単ですが、それに対しても、私は少し違和感を持ちます。
しかし、私が今思いを馳せるのは、「供給不正」とでも呼ぶべき現象です。
これは、担当者個人の資質というよりも、「制度設計そのもののバグ」であり、「運用プロセスの破綻」だと思えてなりません。
現場の人間が、設計ミスの起きた歪んだシステムを、無理やり人力で運用している。その「歪み」のしわ寄せが、弱い立場の人間の生存権を脅かしているのです。
行政が悪い、担当者が悪い、で終わらせてはいけないと考えています。
この歪んだシステムそのものを根本分析し、直していかなければ、私たちは大切な人の命を守ることができない。
「1人のエンジニア」として、そう強く感じざるを得ない一件でした。
ChatGPTに概算させてみたんだけど、紀元前3000年から20世紀までに、世界で生まれて30歳まで生き延びた人間は約240億人らしい。
いわゆる「古典作品」は、この膨大な母集団の中から生まれてきたわけだ。
村上春樹の『ノルウェイの森』には「出版から半世紀生き残った作品しか読まない」というセリフが出てくる。
人と時間のフィルターをくぐり抜けた作品だけが残る。効率はいい。
でも、よく考えるとこの考え方は「前提が違う」。
これらをすべてクリアしたごく一部だけが「作品」として世に出る。
240億人の中で、その条件を満たして作品を残せた人間は、せいぜい数百万、下手すれば数十万だろう。
つまり古典とは、「最初から選ばれた母集団」+「時間フィルター」を通過したものだ。
一方で現代はどうか。
誰でも書ける、公開できる、残る。
その代わり、フィルターは「事前」ではなく「事後」にかかる。
しかも速度が異常に速い。
音楽も同じだ。
当時、プロの音楽家になれる人間は環境的に極端に限られていた。
今はどうか。
数万円で楽器が手に入る。
その代わり、生き残れるのはほんの一握り。
フィルターは桁違いに厳しい。
ここまで考えると疑問が出てくる。
なら、「ある程度フィルターがかかって、まだ古びていない現代作品」の方が合理的じゃないか?
で、個人的な話。俺語りのターン
「人間の本質はすべてシェイクスピアに書かれている」なんて聞けばシェイクスピアを読む
人間関係も、権力も、愛も、裏切りも、全部わかる、だってさ。ふむ。
筒井康隆が山下洋輔と遊んでいると知れば、赤塚不二夫まで繋がり新宿カルチャー文学も一通りおさえた。
でも21歳くらいで、ぱたりと小説を読まなくなった。
「もう大体わかったから」。
清く正しく生きろ。
それでも生きろ。
もちろん表現は無数にある。
でも骨子はほぼ同じ。論語とて同じ。
それを一度見切ると、残るのは「娯楽」だけになる。
いわゆる転生アニメで脳を休ませてる。いいんだよああいう馬鹿っぽいので
俺はピアノが弾ける(た)しクラシックにも知見がある、が、YOASOBIと上白石萌音しか聞かん
それでいいと思ってる。
「裸の豚がいる! スブタ!」という7秒だけの曲。所ジョージさん史上(オレが知る限り)最短w
「女大嫌い、女大嫌い、女大嫌い、嫌い嫌い嫌い...」 というミソジニストに御用達な曲
「鈴虫のように ゴキブリも鳴いた 冷蔵庫の裏で鳴いて スプレーされた 鳴いても鳴いても スプレーされた」という、これも31秒の短い曲
ルッキズム的に第一印象で嫌われると、内面的・才能的にどんなに良い資質を持っていても一生否定され続けがちという世の風潮に対するプロテスト・ソングだw
9歳の頃が一番生きづらかった。ADHDの母と二人暮らしで夜更かし・ゴミ屋敷のコンボを食らい、遅刻となくし物の常習犯だった。担任の教師は母の外面に騙されて「まともな母親」だと思っていたため、それらの瑕疵は全て増田自身の資質のせいだと決めつけられて怒られた。今思えば、完全に生育環境の影響だった。
そこから先は大学に入って家を出て、一人暮らしを始めるまで似たような状況だった。基本的には、担任に叱り飛ばされ、同級生の厄介な奴に目を付けられていじめられ、まともな奴からは遠巻きに見られる。
転機はその一人暮らしと大学という場所だった。自分は精神がどこかおかしいと自覚があったので、大学の保健センター的な施設を予約し、精神の診察を受けた。結果はADHDと抑うつ状態。なるほど診断が出るのも安心だが、一番安心したのは「相手が自分の生育環境の話を疑わずに聞いてくれる」という状況だった。いわゆる傾聴というやつなんだろうが、他人が自分の家庭の内情を信じてくれるというのは新鮮な驚きだった。
大人になって就職したがうまく行かず、休職した。この時は精神科に通ったが、そこでも他責的な分析を許された。他責というか、自分の内にも外にもうまく行かない原因があるとする両責というべきか。
いずれにせよ、歳をとるほど話を信じてもらえるようになっている。自分自身は何一つ変わっていないのに、話す内容も変わらないのに、受け取られ方だけが変化していく。そして掛けられる言葉も、年々優しくなっている。
これはつまり増田が成熟したとか信頼に足る人間になったとかいうよりは、未成年が信用されていなさすぎるということなのだと思う。都会は知らないが、地方の未成年が家庭でトラブルになると、大抵子ども側が何か問題を抱えているとされる。
結果的に母から子への家庭内暴力および育児放棄があったのだろうな、と思うのだけど、それを子どもの立場で発信することの難しさである。ありのままを話したとて信じて助けてくれる大人がいない。それは世界から否定されたような恐ろしい気分になる。
歳をとるだけで信じてもらえるようになるのだから、それを希望に耐えなさいというべきか。あるいはもっと未成年の言うことを信用してもいいですよというべきか。どちらもなんだろう。どちらも主張した上で、増田としては今後、SOSを出している身近な子どもの味方でありたいと思う。