はてなキーワード: マネージャーとは
根拠はNIST SP 800-63B "Digital Identity Guidelines: Authentication and Lifecycle Management" 。
https://yigarashi.hatenablog.com/entry/2025/02/25/093000
マネージャーの仕事は、組織の成果を最大化し、組織の目標を達成することです。よって目標設定において第一に考えるべきも組織の目標達成であると考えます。個人の目標を集めたときに、組織の目標達成に必要な仕事が完遂できるようになっていなければいけません
という前提があって
メンバーの「こうすると良いのでは」「こういう仕事がしたい」という志向を聞き出し、期待に反映していくことで、自律的に組織目標に向かってもらうことも重要です。
があるので、要するに組織の成果を最大化できる目標を個人に持たせるのがEMの仕事であり、個々人において目標を持つことには意味がない。もし、個々人が納得できないなら辞めてもらうしかない。色んな面倒ごとに触れないようにそれとなく、うちでは役に立たない人材だと言い放つほかにない。
最も有効なのは干すことだ。まともな人間であれば干せば辞める。まともでなければ効果はないが、干していれば査定を無限に下げられるので最終的に最低賃金にまで落としておけばよい。
でも、実績ってさ、他人に簡単に説明できる、仕事の上澄み、ピーク値みたいなもんじゃん…
仮に実績がひとつあったとして、例えば、~のシステムを開発構築しました、ってのがあったとして、
それを開発構築するために日々何をしてたのかとか、そもそも日々何をしてたか、と、実績として書けるような内容、がリンクしないことだってあるじゃん…
例えば、業務を自動化するような雑用スクリプトとか、ゲーム開発の後方支援的なツール作ってても、それは小さな仕事にしかならない
職務経歴書からすれば、え?スプライト自動生成するツールとか、そんなのばっかり書いてたんですか?ってなるじゃん…
だけど、インディーゲーム作って、なんか賞を取ったとするじゃん…
で、そのインディーゲームが作れたのは、日々業務で雑用とか、後方支援ツールとか、雑多な仕事をやってたおかげだったとするじゃん…
でもさ、そんなの人事には分からないだよね?
だって、人事は業務に携わってない、文系人間で、採用した人間が問題起こしたら困るなぁ、みたいなことでビクビクしつつ、
採用という権限からスタンフォード実験みたいに全能感も持ってるやつばっかりで、分かるわけがない…😟
職務経歴書にデカデカと書けるのが、インディーゲームでちょっと賞とっちゃいました、えへっ!ぐらいしか自慢できない
人事からすれば、ふーん、ですわ…
自営業長いの?
多人数で連携してゲーム開発してないの?コミュニケーション能力ないんじゃね?
あのさー、会社としては若くて安い人材を束ねて、プロジェクトを進められる上司になる人を求めてるんだよ、だって、あんたの年齢ならみんなプロジェクト管理してなきゃいけない年齢でしょ?
結局、あんたは小さいゲームしか書けない、小さいミニゲームの開発しかできない、そんなんじゃ儲からないよね
まあ、言ってることは至極もっともなんで、じゃあ、若い人と一緒に安月給で働きますよ、って言っても駄目なわけよ
ぶっちゃけ、年齢=ここまで出世してないといけない、って当たり前みたいに言うけど、じゃあプレイヤーが100人いたとして、その100人全員がマネージャーに出世するわけないだろ!
出世できなかったみんなは、どこへ消えちゃったんだよ…😟
(⚠️当然の事ながら汚い話注意!)
今週のSPY×FAMILY読んでて、前からうっすら疑問に思ってた事言うね。あのね、もしかして
鼻ほじって、ハナクソ丸めて、マンガみたいにピャいって飛ばしたらそれでもうミッションクリアなんですか!?
鼻炎持ちだからなのか、鼻ほじると絶対湿ってるというか、9割鼻水もついてきます。
ごめん。よく考えたらついてこない日もあった。乾燥してる日とか。でも鼻に突っ込んでみないとわからないじゃん。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。
だから授業中とか仕事中にこっそり鼻ほじるとか不可能で、ティッシュで拭くなり洗うなりしないといけない。みんなそーする、俺だってそーする、と思ってた。
銀魂のポスター見てて「これ撮影どうしてるの?ティッシュ持ったマネージャーが片膝立てて待機してるの?そりゃ辞めるよなぁー」とか思ってたんだけど…
マジかよー。
楽でいいなぁー。
そもそも海外でも、民族や宗教上の理由がない場合は、見えるところに目立つタトゥー入れないって就業規則で当たり前に書かれてたりするし、
書かれてなくても、デザインや音楽やエンタメや多様性を対外向けにアピールする用の一部のジョブや部門、規格外の逸材(逃したくない)のケース以外は、暗黙の了解だと思うよ
ワイ上司&同僚でも、見えるところに目立つタトゥー入れてドヤ顔とか見たことない
というか下記って今でも見ると思うぞ
これ結論だと思うんだがどう?
男は獲物を的確に仕留めるチームプレイのために瞬時に自分の前後左右上下の空間把握するための能力が育てられ、
このために現代の街中でも急に立ち止まったり前を見ずにぶつかることが少ない。
一方で狩りは死亡者が出ることは織り込み済みの危険なミッションなので、
目的を達成することが最優先として個々人の感情には配慮する必要がなかった。
女は長期間にわたって木の実なんかを見つけるために能力が育てられていったから、
瞬時の状況把握を身につける必要はなく、むしろ長時間モチベーションを維持するための精神的なマネジメント能力が求められた。
女のスケジュール帳が妙にみっちり書き込まれているのもこれが関係していると思う。
1990年代半ば、九州大学病院(九大病院)は病院情報システムの全面刷新を計画していた。従来の断片化したシステムを統合し、最先端のオブジェクト指向技術を全面採用した次世代システムに生まれ変わらせるという大胆な構想である
tumblr.com
。入札条件にも「純粋なオブジェクト指向技術で実現すること」を掲げ、業界内でも前例の少ない大規模プロジェクトに挑むことになった
tumblr.com
。この計画に応札した日本IBMは、開発言語にSmalltalkを採用し、社内外からオブジェクト指向開発の専門家を総動員する。日本IBM自身のチームに加え、Smalltalkの豊富な経験を持つ多数のシステムインテグレータ各社が協力企業として参画し、一時期は約200名もの技術者が開発に従事する巨大プロジェクトとなった
tumblr.com
。医療現場からは「21世紀を先取りするシステムになる」という期待の声が上がり、IBM側も「国内最高峰の病院に最新技術を投入できる」と意気込んでいた。誰もが、この試みに大きな希望を抱いていたのである。
プロジェクトは1996年、本格的に動き始めた。九大病院の情報システム担当者たちは、院内各部門から新システムへの要望をヒアリングし、「新システムへの要望リスト」を作成して日本IBMに提示した。しかし、その内容は具体性に欠けていたと言われる。「実現したい業務の全体像がはっきりしていなかった」のだ。病院側は約1,400床を擁するマンモス病院ゆえ、部門ごとの意見をまとめ上げ全体方針を打ち出すことが難しく、提出された要件定義書は「中身はほとんどなかった」と関係者は振り返る。一方の日本IBMも、その不十分な要件定義を十分詰め直すことなく開発を進めようとし、この問題を放置してしまった。プロジェクト序盤から、実は大きな不安の種が芽生えていたのである。
それでも当初の計画は極めて野心的だった。フェーズごとに順次システムを稼働させる計画で、第1次カットオーバー(最初の稼働開始)は1997年1月と定められていた
tumblr.com
。限られた時間の中、日本IBMと協力各社の開発チームはオブジェクト指向の新手法に挑みつつ、多数のサブシステムを並行開発するという難事業に取り組み始めた。しかし要件の曖昧さは各所で影響を及ぼす。開発メンバーの一人は後に「実際にはオブジェクト指向の入り口にさえたどり着けなかった」と語っており、肝心の新技術を活かす以前に基本事項の詰め直しに追われる状況だったという。
1997年初頭:見えてきた遅れとすれ違う思惑
年が明けて1997年になると、第1次稼働予定の目前になっても開発は難航していた。結局、日本IBMは1996年10月末になって九大病院側に「当初予定の1997年1月にはシステム稼働が間に合わない」と突然伝えることになる。これは病院側にとって青天の霹靂であった。代替策として「一部機能に範囲を絞れば1月稼働も可能」といった提案すら無く、一方的に延期が告げられたことに、病院担当者たちは強い不信感を抱いたという。プロジェクト・マネージャー同士の密なコミュニケーションも欠如しており、延期決定前から両者の意思疎通は十分でなかったようだ。これが最初の綻びとなった。第1次稼働時期は当初計画より9カ月遅れの1997年10月へと大幅に後退する
tumblr.com
。
この延期表明を境に、現場は混乱に陥る。病院側は日本IBMだけに任せておけないとの思いから、一部の協力会社と直接組んで独自にプロトタイプ開発に乗り出すなど、プロジェクト体制は分裂気味になった。一方、日本IBM側の士気も下がり始める。ある協力会社メンバーは「これほど求心力のないプロジェクトも珍しい」と当時を振り返り、リーダーシップ不足だったIBMの姿勢に驚いている。複数の外部企業(延べ10社以上)が関与する巨大プロジェクトでありながら、日本IBMは1997年10月頃まで一貫して主導権を握れずにいた、と多くの関係者が指摘する。誰がハンドルを取っているのかわからないまま巨艦だけが突き進む――そんな不安定な状況であった。
事態を重く見た九大病院と日本IBMは、1997年2月から6月にかけて要件定義のやり直しに着手する。一度作成した要件定義書を更地に戻し、業務フローも含めてゼロから整理し直す作業だ。しかしこのリカバリーにも時間を要し、プロジェクトの遅延はさらに広がっていった。「ようやく問題点に光を当て始めたかに見えたが、時すでに遅し。気づけば頭上に厚い雲が垂れ込めていた」と語る関係者もいる
。プロジェクトは先の見えないトンネルに入り込み、関係者の心にも次第に不安が募っていった。
1997年春:一筋の光明 – オブジェクト指向データベースの導入
混迷を極めるプロジェクトに光が差し込んだのは、1997年春のことである。要件定義の立て直しと並行して、日本IBMはシステムの技術基盤を強化すべく重大な決断を下した。従来のリレーショナルDBではなく、米国GemStone Systems社のオブジェクト指向データベース(ODB)「GemStone」を採用する方針を固めたのだ
tumblr.com
。GemStoneはSmalltalkとの相性が良いことで知られ、オブジェクト指向開発との親和性が高い製品である
tumblr.com
。この採用決定に伴い、GemStone社から複数名のコンサルタントが来日しプロジェクトに参加。停滞していた開発体制の再整備が行われた
tumblr.com
。経験豊富な専門家の助言により設計も見直され、チームはようやく開発の目処を掴み始めたのである
tumblr.com
。
病院側もこの動きを歓迎した。長引く遅延に業を煮やしていたものの、最新のODB導入で性能や拡張性の課題が解決されるならばと期待を寄せた。協力各社の技術者たちも「ようやくトンネルの先に光が見えた」と胸をなでおろした
。現場には久々に前向きな空気が漂う。遅れを取り戻すべく、再結集した開発チームはスパートをかけた。システム全体のアーキテクチャをGemStone前提に再設計し、失われた時間を埋めるため懸命な努力が続けられる。巨大プロジェクトは今、再び軌道に乗ろうとしていたかに見えた。
しかし、その光は長くは続かなかった。1997年7月初旬、プロジェクトに再び試練が訪れる。日本IBMとGemStone社との契約交渉が突如決裂し、参画していたGemStone社コンサルタント陣が全員帰国してしまったのだ。肝心のGemStone製品も利用不能となり、頼みの綱を断たれた開発チームは一瞬にして暗闇に放り込まれた。まさに「悪夢のような出来事」であった。
7月20日になって、日本IBMはようやく協力各社を集め緊急説明会を開いた。日本IBM側の説明によれば、「GemStoneとの交渉決裂は企業(日本IBM)の根幹に関わる問題による」という。詳しい理由として、契約書の条項に**「システムのユーザー等が何らかの理由でGemStone社を訴えた場合、メイン・コントラクタである日本IBMが全ての法的対応を負わねばならない」といった内容が盛り込まれており、日本IBMはこの重い責任リスクを受け入れられなかったのだという。さらに料金面でも折り合わず、3カ月間におよぶコンサルタント8名の派遣とソフトライセンス料などに数億円近い費用**を要求されたことも判明した。法的リスクとコスト高騰――企業として譲れぬ一線を越える契約条件に、日本IBMは最終的に「ノー」を突きつけた形だ。だが、それは即ちプロジェクトの生命線を断つことを意味していた。
この報に接した開発現場は騒然となった。GemStoneを中核に据えて進めてきたアーキテクチャ設計を一から練り直す必要が生じたためである。ある協力会社の関係者は「この時点でプロジェクトの失敗を覚悟した」とまで語っている。大黒柱を失ったチームには動揺と失望が広がった。折しも夏本番を迎え、福岡の空は照りつける日差しに覆われていたが、プロジェクトには再び厚い雲が垂れ込め始めた。
GemStone脱落という非常事態に対し、日本IBMと九大病院は必死のリカバリーを図る。1997年8月上旬、急遽代替のODB製品としてフランスA.D.B社の「Matisse」を採用する決断が下された。Matisseは国内では知名度の低いODBだが、日本でも過去にSmalltalkアプリケーションのデータベースに採用された実績があり、「何とか使えるめどは立つ」と判断されたのである。
しかし代替品とはいえGemStoneとMatisseでは機能に大きな違いがあった。GemStoneで可能だったサーバ側でのSmalltalk処理実行がMatisseではできず、セキュリティ機能も貧弱だったため、開発チームは不足分を自前で作り込む必要に迫られた。この結果、システム全体の設計をクライアント中心処理へ大幅に変更せざるを得なくなり、再び設計の手戻り作業が発生した。炎天下での再出発である。エンジニアたちは寝食を忘れ、懸命にコードを書き直した。
その甲斐あってか、1997年9月末の時点で第1次開発の主要部分を年内に実現できる見通しが立ったという。一度は暗転したプロジェクトにも、わずかながら光明が見えた。病院側も「何としても年内稼働を」という思いで支援を続ける。だが、このとき水面下では別の動きが進んでいたことを、現場の多くは知らなかった。
1997年10月9日、事態は最終局面を迎えた。この日開かれた会議で、日本IBMはSmalltalkによる開発断念と、マイクロソフト社のVisual Basic(VB)への全面的な方針転換を突如宣言したのである。晴天の霹靂とも言えるこの決断に、現場は凍りついた。幾多の苦難を乗り越えようやく目指してきた最先端技術での構築を諦め、当時広く普及していたVBという「オブジェクト指向ではない」開発ツールで作り直すというのだ。九大病院が当初求めた**「純粋なオブジェクト指向」**という条件にVBが合致するかは議論の分かれるところだが
tumblr.com
、病院側ももはや背に腹は代えられない。最優先すべきはシステム稼働そのもの――この苦渋の転換を受け入れる以外になかった。
実はこの決断に至る伏線は存在した。日本IBMは1997年4月頃から密かにVB採用の可能性を九大病院に打診しており、さらに8月頃からは段階的にSmalltalk担当エンジニアを現場から引き上げ始めていたという。ある協力会社のメンバーは「裏ではVBによる開発をすでに進めていたようだ」と振り返っている。つまりGemStone交渉決裂後、表向きはMatisseによる巻き返しを図る一方で、日本IBM本体は別動隊でVB版システムの構築に乗り出していた可能性が高い。振り返れば、日本IBMにはSmalltalkに固執しない理由もあった。同社は翌98年2月の長野冬季オリンピック向けシステムをSmalltalkで構築しようとして失敗し、結局VBで作り直したという“前歴”もあったと伝えられる。アトランタ五輪(1996年)では自社Smalltalkツール(VisualAge)を投入したものの、国内の大型案件では苦戦が続いた経緯があった*4。豊富な人材がいるVBなら「最後は人海戦術で何とかできる」という計算も働いたようだ。GemStoneとの契約不成立も、IBMにとっては結果的にSmalltalkを断念する良い口実になったのではないか――協力会社メンバーの一人はそんな憶測さえ口にする。
方針転換の発表とほぼ同時に、Smalltalkで開発を担っていた協力会社の大部分はプロジェクトから撤退することになった
tumblr.com
。10月中旬には、多くの外部技術者が病院を後にしている。自ら招いた転換とはいえ、日本IBMにとっても苦渋の決断であった。投入したリソース・費用は莫大で、一からVBで開発し直すのは会社としても大きな後退だ。しかし背に腹は代えられない状況まで追い詰められていたことも事実であろう。IBMの現場責任者は病院側に深々と頭を下げ、「必ずや残された方法で間に合わせます」と約束したという。九大病院の担当者も沈痛な面持ちで頷き、「形はどうあれ、患者さんに影響を及ぼす前にシステムを動かしてほしい」と絞り出すように告げた。
以降、日本IBMは自社内のVB技術者や、自社が持つ病院向けオーダリングシステムのパッケージ製品*5などを総動員してシステム構築を続行した
tumblr.com
。データベースも、当初IBMが提案していながら見送っていた自社のリレーショナルDB「DB2」を採用する公算が高まった
tumblr.com
tumblr.com
。もはやオブジェクト指向の夢を追う余裕はない。現実的かつ確実に動く仕組みを、一刻も早く届ける――プロジェクトはその一点に向け再編成された。かつて200名近くいた開発陣は大幅に縮小され、構成メンバーも一変する。病院の看護師スケジュール管理など一部のサブシステムは、撤退しなかった協力会社が細々とSmalltalk開発を続けていたが、その姿はもはや主流から外れた存在となっていった
tumblr.com
。ある古参の協力技術者は去り際に「全力を出して戦う前に、白旗を上げてしまったという感じがする」と寂しげに語ったという。こうして九大病院プロジェクトの第1フェーズ――オブジェクト指向技術による野心的挑戦のフェーズは幕を下ろしたのであった。
VBへの方針転換後、九大病院の現場には複雑な空気が流れていた。病院スタッフにとってシステム刷新は長らく待ち望んだ悲願だったが、その中身は当初聞いていた「最新技術の結晶」から一転して、従来型の技術で作られるものになってしまった。「結局、夢物語に終わったのか」という落胆の声も一部にはあった。しかし同時に、「多少古くてもいい、とにかく業務を改善する仕組みを早く動かしてほしい」という切実な声も強まっていた。目指すゴールは変われど、一日でも早く新システムを稼働させ、慢性的な業務負荷を軽減することが現場の切実な願いとなったのだ。プロジェクトチームは日夜作業を続け、簡易な操作研修なども始めながら、年明けまでの稼働に向け突き進んだ。
そんな中、1997年11月3日付の西日本新聞朝刊一面にこのプロジェクトに関する記事が掲載される。タイトルは「九大病院システム未完 巨額費用に批判」。内容は「九大病院はシステムが未完成にもかかわらず日本IBMに月額4,250万円を支払い続けており、税金の無駄遣いとの指摘が出ている」という衝撃的なものだった。同日、このニュースは地元RKB毎日放送(東京ではTBS)のテレビニュースでも報じられ、九大病院プロジェクトは社会問題として一気に世間の注目を浴びることとなった。院内では「患者そっちのけで何をしているのか」といった批判も耳に入るようになり、大学本部や所管官庁からの問い合わせも相次いだ。追い打ちをかけるように外部からの視線が厳しくなる中、病院とIBMはただひたすら開発を前に進めるしかなかった。
結末:プロジェクトの結末と残された教訓
1998年初頭、紆余曲折を経た九大病院の新システムは、当初の構想とは似ても似つかない形でようやく一部稼働に漕ぎつけた。日本IBMは多数のVBプログラマを投入して力技でシステムを完成させ、旧来システムの置き換えを順次進めていった。最終的に納入されたのはSmalltalkでもオブジェクト指向DBでもなく、Visual BasicとリレーショナルDBによるシステムだった。かくして九大病院の「純粋オブジェクト指向システム」への挑戦は事実上の敗北に終わった。現場の医師や職員は、当初期待された華々しい先端技術の恩恵を受けることはなかったが、ひとまず業務に支障のない情報システムが手に入ったことで安堵するより他なかった。プロジェクトは当初の理念を捨てて現実路線へ舵を切ることで、なんとか沈没だけは免れたと言えるだろう。
振り返れば、この失敗の背景には最新技術への挑戦ゆえの困難もあったが、それ以上に古典的とも言えるプロジェクト運営上の Permalink | 記事への反応(0) | 21:29
男って性格が悪い。
仕事をしてて最近それをすごい思う。え、なんでそう思うかって?いやマジでナチュラルにいじめとかし始めるから。やめろよ。
私は女だが、べーつに女が性格がいいと言っているわけではない。女同士のいじめはあるし、面倒くさい部分がある。否定しない。でも、正直社会人として働いてて、男性社会で暮らしてると、男も大概というか、男の方がよほど陰湿だなと思う。
私が働いているのは外資系の総コンである。女性は増えたけどまぁまぁな男性社会である。
そんな中で働いてると、本当に割とサラッと派閥争いに巻き込まれる。男同士の。
社長派〜とか、部長派〜みたいなやつじゃない。プロジェクト内で気がつくとマネージャー同士の派閥が出来てるという狭い世界感である。
いやさ、たかだが数十人の世界で派閥とか作んなよって思うけど、マジで出来る。そして喧嘩する。
前あったのが、一つの資料を別派閥のマネージャー2人が作ってた時に、意図的に片方のマネージャーをコミュニケーションから外したうえで、「あれって〇〇さんの担当でしょ?出来てないけど大丈夫?」と宣うとかいうやばムーブである。誰ももう1人のマネージャーに伝えずに「大丈夫じゃないですか?〇〇さんですしやってるでしょw」みたいな会話をしてて戦慄した。もちろん資料が手付かずなのは認識済みである。というかコミュニケーションから外されてるので相手のマネはその状況を知る由もない。
いや怖えよ。てかその資料2時間後にはクライアントに見せるんですよね?え?え?本気ですか??社内の派閥争いのために、お客さんに迷惑かけるの?まじ?
私は空気を読まなかったので、その横で全力でそのマネにチャットを送り(もちろん口ではその場の雰囲気には合わせてる)、そのマネは2時間で資料を完璧に仕上げてみせた。ので特に何も起きず、お客さんとの会議は終わったのだけど。
いや、こわ。なんのためにこんなことするんですかね。
2時間で仕上げたというとこからも分かると思うけど、コミュニケーションから外されてた方のマネージャーは頭が良くて優秀である。まぁ正直側から見てるとあれは嫉妬によるものだし、何かで泥を塗りたい、蹴落としたいという意図が見え見えである。
本当にこの点においては男の方がマジで醜いと思う。自分が1番になりたいって気持ちが強い人が、男性の方が多い。フジテレビの騒動とか見てても思うけど。
男は競争社会で生きているのだと、男性はいう。まぁそうなんだと思う。狭いプロジェクト内で、そこそこのレベルの人同士なら、どっちが上下が結局あり、将来を考えれば自分が上になれるようにすきあらばガンガン蹴飛ばす。そんな感じなんだろう。
で、当たり前にそれを社会全体でやってるわけである。多分私は女なので真の意味で男性社会が分からないが、たぶんSNS、プライベート、学校、地域の町内会。あまたのところでその戦いが繰り広げられてるんだろう。カードゲームの大会とかもそうだ。
そりゃあ、そうしたら、ねぇ。必然的に生まれるわけですよ「弱者男性」なるものが。
だって常に競争してるのだから、全部負ける人がいるのは当然である。そして、どの界隈でも競争しだすので、男性の方が友達が出来づらい。同じレベルなら友達認定するのかもしれないけど、多分そうじゃない時点でお互い仲良くなれないから。
女性同士は意外とその辺の意識が希薄である。何というか、別に競争はどうでもいいやと思ってる節がある。いや、全くないとは言わないし、マウントをとりたいクソ女は当たり前にいるが。変な話、それは性格が悪いだけなので仲間内から弾かれて終わる。そう、謎の競争でマウント取り出す奴の方が、コミュニティから弾かれるのが女性社会である。
「女は誰かに手を差し伸べてもらえる!ずるい!」という主張があるが、これはシンプルに女性社会がそうだからとしか言いようがない。性格がまぁまともでいい子なら社会的な地位とかどうでもいいし、友達として助けるよ。ってなる。だから、多分体感として女性の方が「弱者女性」のラベリングに当たる人が少ないんだと思う。
だってまぁ、収入少なくても友達がいて、家族がいる。なら、まぁ幸せかな、と思えるからだ。困った時に手を差し伸べてくれるのは、なんだかんだで最後は女の子の友達である。
弱者男性は可哀想だから、ケアできる女性を当てがおうとか、そんなことで解決する問題ではない。
弱者男性と呼ばれる人達はどうみても同性の友達が少ない。モテないよりもよほどそちらが問題である。
競争がいけないのではなくて、友達とはそれを傍に置いて付き合うとか、プライベートにて競争を持ち込まないとか。なんというか、女性社会のいい側面だけを男性社会に持ち込んだらいいんだと思う。男同士でも助け合えれば、友達がいれば、独身でも幸せだと思えると思う。仲良くしようよ。
人間はどこまでいっても孤独だし、結局最期、死ぬ時は1人である。でもさ、生きてる間くらい、信頼出来る友人や同僚、家族と、仲良く平和に暮らせたらいいと思う。
この話は一言で言うとこうだ。
幼少期から「ドラえもん」だの「マトリックス」だの「アバター」だの「SAO」だの、
現在では考えられないような技術進歩を夢見ながら待ち遠しく生きてきた。
「VTuber」「VRChat」「ChatGPT」「生成AI」などを楽しむ人々が散見されている。
素晴らしい。
世の技術者様方には感服する。
「若者」を脱しつつある。
それはいつになる?老後か?死後か?
VRChat 等を見ると明らかなように、仮想空間へのダイブは現時点では視覚・聴覚のみが限界だ。
しかもコントローラー等の大掛かりなインターフェースを介して擬似的にダイブしているに過ぎない。
完全に五感をフルダイブさせる、脳と仮想空間を直接繋げるようになるには、あとどれだけの歳月が必要なのか?
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
再度念を押して言葉にしておくが、私は世の技術者たちを尊敬している。嘘偽りはない。
だが同時に、どうしても率直な気持ちを述べておきたいのだ。
擬似的で表面的すぎるバーチャルワールドには、物足りなさしか感じられない。
それを切に望んでいる。
「未来を手繰り寄せる」という課題は昔からずっと向き合ってきたつもりだ。
自分は幼少期から世の中に生き辛さや不満を人一倍に感じるタイプだった。
故に、思春期のよくある悩みの殆どを捨て置いて、何をどうしたら社会が良くなるかをひたすら考えていた。
その頃にインターネット、2ch、ニコニコ動画などに触れてこう感じた。
「ITの力は凄まじい!教育や政治というアプローチもあるが、それらを遥かに凌ぐパワーと影響力がある!」
そして中学を出てすぐに工学の道に進み、ITベンチャー企業に就職し、Webエンジニアという肩書きになった。
あらゆることが効率的になり、より先のことに手を出せるようになる。
世界が加速していく。そう感じていた。
だが、それでも全然遅いと感じた。
複数のプロダクトをより効率的に生み出すことでより加速させた。
それでも、あまりにも遅かった。
そこで自分の原点に立ち返った。ニコニコ動画だ。CGMと呼ばれる形態である。
大衆が集まり、目まぐるしいスピードで数多くの作品が生み出され、技術が進歩していった。
MMDなどの3D技術も発展していった。あの世界が理想的だった。
Webの力の真髄はそこだ。そこを追い求めたい。
そこから紆余曲折あり、自分の肩書きは「コミュニティマネージャー」となった。
適切に人々を集めて、適切に人々を刺激し、化学反応を起こす。
そうして狙った分野の発展を加速させる。
「人と人を適切に繋ぐ」
それが今のところの、最も世界を加速させる方法だと思っている。
---------------------------------------------------------------------------------------
コミュニティマネージャーなんて職業は世の中(特に日本)にあまり知られていないし、
でも男が賢く選んでるかっていったらやっぱりそうでもなく、なんだかんだ言って運動部のマネージャーみたいな女がモテるじゃん。
過干渉のオカンみたいなやつを気配りができるとか言って選んで、それで結婚してから束縛されたり理不尽なルール作られたりで死んでる。
あと、要求を口に出して言わない察して系、付き合ってて面倒なのわかりそうなものなのに、知り合いの嫁がみんなそんな感じで「男は見る目がないなー」って思ってる
それで自分自身はなんもせず、旦那の業績を自分のスペックに合算する寄生虫人生
自分は野球やらずにタッちゃんに甲子園に連れてってもらう女が大好物じゃん
自分で何でもできて、要求はちゃんと口に出せて、変に干渉せず、男を信頼して任せる、自分で自己実現できる、そういう女がモテてもいいと思うんだが、だいたい浮気されて負けるのはそういうタイプ。
自分はとあるソフトウェア開発の会社で、とある職種のマネージャーをやっています。
数年前まで別の会社では7年ほどヒラでしたが、給料が全然伸びないこと、人間関係が合わないことが限界に感じて転職。
自分はエンジニアではなく、エンジニアを支える様な職種で、今の会社的にはレアってのもあるでしょうが…なんか、とんとん拍子にリーダー格、マネージャー格に。しかし、その妙な評価の高さと自認のギャップに苦しんでいます。
具体的には…
・自分の出自はエンジニアではないので、正直開発力はない(最低限会話はできるが…)
・自分は組織ミッションを具体化し、スケジュールを立て、個人のタスクに落とし込み、起きている問題を拾い上げて対処…というPM的な立ち回りをしています
・↑の立ち回りでも、自分のみでは知見不足でやらかすから、周りの人とのすり合わせをしながら動く必要あり
という有様。周りの人がいなければ自分なんてコードひとつも書けないのに、なぜか自分がそのすごい人らの指揮をしているという感触。「今までの上司より仕事がわかりやすい」らしいですが…。
世間一般のマネージャーというものを知らん、というか目下勉強中なので、自分がどういう位置にいるのか分からん。世間的にもこの立ち回りが求められるのだろうか。
(文字数オーバーで後半途切れたので再投稿。読んでくれた人ごめん)
話をしよう。だいぶ昔のことだ。すでに動画投稿を引退している。
当時を懐かしむために作った文章である。気に入ったら読み進めてほしい。
ニコ動投稿者としての初期は、若手社会人だった。大学を卒業して数年経った頃かな。コンビニでゲーム雑誌をめくると、『ニコニコ動画』がサービス開始してます~これから人気が出るかも!?という宣伝記事を見つけた。
サービス名称が気になったのと、コメントが流れる機能が目に付いた。動画をひとまず10本くらい見てみた。ようつべと同じような感じで、そこにコメントが流れている仕様だった。カオスよりはシュール寄りだった。
今でいう生放送やチャンネルはないし、アニメ1話単位の投稿は(アップロード容量の関係で)されないし、画質はイマイチだし、お洒落なMADもない。ランキングは50位までで、再生数やマイリス準拠だった。歌ってみたやボカロが流行り始めるのは、2007年半ば以降である。
ゲームプレイの切り抜きとか、面白画像のまとめとか、空耳とか、エロゲーのOPのみとか、動画だったら10分くらいで料理作るのとか、販売済映像作品の切り貼りとか、そんなのばかりだった。(フタエノキワミ、アッー!)
※昨年末頃、新るろ剣で左之助が二重の極みを会得する回があった
たまにR18の画像をまとめたものや、小学生が好きそうな下ネタ動画が流れてきた(1~2日以内に運営削除)。
でも、感じるものがあったんだろうな。だんだん見ていくうち、ゲーム実況とか、アニメ転載(2~3日で削除)とか、いろんなアニメやゲームキャラが一同に会するシリーズとか、ニコニコ動画組曲とか、コンテンツが増えていって、ドハマりした。
会員登録して約半年が経って、ニコ動のプレミアム会員になったあたりで自分も動画を投稿してみようと思った。
「一体どうすればいいんだ……?」と躊躇したものの、社会人経験が活きたのだろうか。結局、最初の動画を撮り終えてアップロードしてみた。一応は料理のネタ動画だったと思う。
うん、まあ……という感じだった。再生数はそんなに伸びなかった。でも、初心者としてはイイ線いってた。それからも動画投稿を続けたけど、やはり数千、運がよくて1万以上~しかし攻めすぎて運営削除という末路だった。
ある時だった。「自分が本当に好きなモノじゃないと高再生数は厳しいのでは?」と思うようになった。
当時はすでに2007年後半だった。ランキング上位に入ってる人の投稿動画って、転載切り抜きとかを除けば、プロレベルか、それに準ずるクオリティだった。
つまり、イラストが抜群とか、楽曲作りが優れてるとか、ゲーム実況が天才的とか、遊戯王MADみたいに面白センスが光ってるとか、そういうのだ。
でも、そういうのって、自分が好きだからこそできる。好きだからこそ、動作投稿サイトのランキング上位者って、その道にのめり込んで、ここまできたわけだろう。
俺にとっての『それ』は何だろうか。考えていったところ……『エロ』という凡庸な結論にたどり着いた。
小学生の頃は河川敷やそこらへんの雑種地、空き地にエロ本が捨ててあった。そういうモノですら気になっていた。今は、そういうのはない。白ポストが駅前にできたり、電子空間でエロを鑑賞する時代である。
中学生の頃は、同級生女子が油断してイロイロ見えてるところや、都市部での夜の学習塾の帰りに、大人がそういうことをしてるのを目撃したりした。
部活の遠征先で、対戦校の女子マネージャー数名が太腿~尻肉を見せつけるかのように壁にしゃがみ座りしてたのを見た時は、対戦相手への嫉妬で殺意が湧いたよ。学校でも家庭でも趣味の場でも、俺にとってはすべてがエロだった。
高校生の時は、同級生がそういうことに大変興味をもっていて……同級生の家に集まって、今でいうセクシーな動画をみんなで鑑賞したっけ。感想を述べあっていた。
「輪姦もののAVだが、実際には輪姦をしていないというのは、道徳的に正しい行為なのだろうか? 消費者を騙していないか?」
「阿呆か。女優の負担を考えろ。しかし、○姦もののAVだというのに、女優が騎乗位なのは気になるところである」
など、意見を交わしたのを覚えている。あとは、性行為を覚えた奴がいて、ガラケーで撮った写真を見せてもらって感動したのを覚えている。
大学生になって一人暮らしを始めてからは、やっぱりそういうDVDを買ったり借りたりした。高校生の頃からすでに、一人でR18の作品を本屋で買っていた。高校の制服姿で、堂々とした立ち振る舞いで、女子店員の時をむしろ狙って、そういうコンテンツを購入する。(女子店員の時、むしろ行け!! の精神)
そのクセは大学生になっても、社会人になっても、すでに小太りのおじさん管理職になった今でも変わらない。
エロへと繋がるコンテンツで、ニコニコ動画に投稿が可能で、それでいて自分の持ち技とマッチする……と考えていった結果、「替え歌はどうか?」という結論にたどり着いた。
あとは、歌唱の腕前だ。酒席の付き合いの中で、カラオケで歌った経験はそれなりにある。が、それだけだ。全然うまいわけじゃない。むしろヘタな方だ。しかし、カラオケの採点機械で70点は取れている。後は成長すると信じるほかない。
そんなこんなで、ニコ動に下ネタ系の替え歌を投稿してみた。既存曲をそういう単語やストーリーで置き換えたものだ。ずっとこれ一本でやってきた。
簡単なイラストを数枚付けて、あとは一発勝負である。投稿した後、一晩置いて動画を見ると……まずまずだった。初級者が投稿した動画は多くても100再生しか付かないが、俺の動画は数千再生だった。
一番よかったのは、投稿した動画を「おもしろい」と言ってもらえたことだ。それだけでもう、駆け出しの投稿者としては感無量である。嬉しかった。みんなにニコニコしてもらえたのが。
イラストも凝った感じにしていった。プロには遠く及ばないけど、それでもこだわりのイラストやアニメーションを載せて、ちょっとでも面白くなるように気を遣った。
それからも、1~2か月に1本の割合で動画を投稿していった。動画再生数は伸びていった。数万再生の人気になった。当時のニコ動だと、1万再生されれば人気作品という扱いである。10万再生で一流、100万再生で神。
当時のTwitter理論において、フォロワーやお気に入りやリプライ的なやつが増えれば増えるほど、投稿した元作品がみんなの目に入るようになる――そういう感じで、元作品(新たな投稿動画)は、初心者の動画に比べると信頼性がある――それでさらに皆の目に入るようになる、みたいなロジックが紹介されていた。
『六次の隔たり』である。今時の言葉でいうとネットワーク理論や、錯覚資産だろうか。高評価はさらなる高評価を呼ぶのだ。『マタイによる福音書』にも、「持っている者は与えられてますます豊かになり、持っていないものは持っているものまで取り上げられるだろう」とある。
過去に投稿した人気動画が、今投稿したばかりの動画を支えていた。結局、2008年くらいまで投稿を続けたのかな。約1年半の活動期間だった。過去に投稿した人気動画ってなんか、不労所得感がある。ぜんぜん不労じゃないけどさ。
実は当時、人事異動で忙しい部署に行くことが決まっていた。勤め人としての役目が優先だ。動画投稿は趣味である。
忙しい部署に移った後は、やはり本当に忙しくなり、動画投稿をするだけの精神的余裕がなくなった。あとは、声か。俺の投稿動画だけど、声の加工はほぼしてなかった。声質が丸わかりである。特定が怖かった。ちょうどその頃は、Twitterでよろしくない行為をした社会人が吊るし上げに遭うことがあった。
アディダスの広報の女性がスポンサー選手をディスったとか、ホテル従業員が芸能人の利用をネットで報告したとか、そういう案件でボコボコに叩かれてるのを見ると、「自分もヤバいかも」という考えが浮かんだ。
投稿動画で使っていた曲も、許諾を取っているのは皆無だった。権利者によるお目こぼし状態である。リスク回避という社会人意識がニコ動から俺を遠ざけた。
自分の判断の結果だから後悔はしてないよ。それでよかったと思ってる。下ネタの替え歌なんか、バレたら恥ずかしいなんてものじゃない。それも法令違反。社会人としてキズが大きい。
それから長い月日が経って……忙しい部署で相当長いこと勤め上げた俺は、また別の地方支局に人事異動で移った。そして、30代後半で管理職になりましたとさ……めでたしめでたし、で終わればよかったのだが。
今度はあまりの暇具合に辟易するようになった。前の部署がキツイ部署だったので、人事部局が配慮してくれた。「暇な職場で休憩」というメッセージである。
その地方支局がある市町は、有名どころの百貨店が進出してないエリアだった。高島屋とか松坂屋とか伊勢丹とか、そんなの一切ない。天満屋ならあるのだが。
暇な時間があるなら楽しんでみては~と思ったが、ここは田舎である。東京に比べて面白いコンテンツは少ない。自分で見つけるしかない。時間がかかりそうだった。
例えば、都内だったら、今ニコ動で活躍してる有名投稿者……miniさんの友達の、東北ずん子を使う料理・旅行の実況者がいたと思うのだが、あの人達が取材で行くような面白いスポットが、この中核市にはひとつもなかった。
昔ながらのローカル百貨店と、人通りがほぼない商店街、昭和のスナックやラウンジ――中核市なので若い連中は多いはずなのに、まちおこしのイベントがロクにない。
人口はすでに飽和状態で、後は減るだけ……そんな地方都市だった。
しかも、エロに興味がある俺が、引っ越し前に入念に下調べをしたのだが……実は、この地方都市には有名な風俗街があって、1万円+αで本番ができるヘルスが立ち並ぶ地域があったのだ!!
それらの箱ヘルだが、俺が異動する数年前に警察の摘発に遭って全滅していた……悲しい事態だった。今でも、ここは中核市だというのに、ソープも含めて本番ができる店は一切ない。
残された手段は、ホテヘルやデリヘルで本番をさせてくれる、それくらい強い信頼関係を嬢と築く以外に道はない。
そんな状況で、当時の俺は……もう一度、動画投稿をしてみようと思った。ネタはもちろん替え歌である。
毎日があまりに退屈だった。刺激がほしかった。昔の投稿動画をふと見る機会があって、感慨を覚えたのがきっけである。あとはファンの声とか。
最後の投稿から長い月日が経っていたが、俺が投稿した動画には、まだ人が集まっていた。主にはノスタルジーを感じてる人達だ。ニコニコ動画の中では、俺はもう「終わった投稿者」である。
でもさ、年齢は関係ないじゃん。40才が近い投稿者でも、やってやればいいんじゃないか。
人気の投稿者だと、30才くらいまでの若い人(※先ほど挙げたminiさんの友達の青海さんなど。youtubeだと、セミやマイナー貝やザリガニを野外調理して食べる若い兄ちゃんや、下半身が動かない女の子とか)が多いんだろうけど、別におっさんだって投稿すればいいじゃん。きっと、ひろゆきだってそう言ってくれる。
もう一度、過去のネタを参考にしつつ、替え歌の動画を投稿することにした。昔に比べてやりやすそうだった。
カメラ等の撮影機材は進化してるし、下手くそな歌は社内社外のカラオケで鍛えて上手くなった。今時流行りの曲だって、80点以上は安定して出せる。編集ソフトの進化により、少しのミスは撮り直さなくていい。
一番よかったのは、ニコニコ運営が楽曲の著作権関係を整理してくれたことだ。投稿者が今時の楽曲を歌うのは、著作権を侵害しない行為になっていた。
そして……実際に、新作動画を投稿したのはいいが、昔ほど人気は集められなかった。視聴者は、昔からのファンが多かった。新規の人もいたけど。皆にニコニコしてもらえてうれしかった。
それから、何本も動画を投稿していった。暇な時間はたくさんあった。ほぼ必ず定時で上がれるので、飲みに行く日とか、セクシーな動画を見る日とか、そういう日を除けば替え歌動画を作りたい放題だった。
再生数・マイリス数は十分だった。みんな、俺が作った動画を見てニコニコしてくれた。数万回の再生がコンスタントに取れた。しかし……数年間投稿して、メガヒットはひとつも出なかった。若い層が投稿動画を見ていない。
楽曲選びのせいもある。自覚はあった。例えば、サイバーダムのカラオケ人気曲ランキングで上位になってるのがあるだろう。昔からそうだけど、あのランキングで上位になる曲って、中高年世代を基準にしてる。
有線放送もそうだ。飲食店の有線放送で流れてくる曲って、90年代~00年代の人気曲がほとんどだ。今の20代が聞いてもわかんないよ。ところで、俺が若手社会人の頃に、先輩方がよくカラオケで歌ってたのは、T-BORANや酒井法子など、あの世代の楽曲が多かった。(壊れかけのRadio~♪♪)
再生数が伸びない最大の原因は、俺自身の感性が鈍ってた。投稿動画は過去作の焼き直し感があったし、中年世代が子ども・若者時代を懐かしんでる替え歌もあった。ノスタルジーである。
しかし……今時の若い人が聴いている・歌ってるような楽曲(YOASOBIとか)の替え歌を投稿すると、再生数が伸びた。平均再生数が1~2万とすると、そういう楽曲は5万再生以上になった。
ちなみに、俺が若い頃に投稿した人気動画は、最高で300万再生である。今思えば、あそこまで情熱をもって取り組んだのは人生で初めてだった。そんな気概は……まだ少しはあるけど、創造性は燃え尽きつつある。
今はもう引退してるって、冒頭で書いた気がする。文字どおり本当の引退である。事前にファンの人に説明するまでもなく、全ての動画を削除した。問答無用である。
理由は2つあって……また新しい部署に異動になったのが1点。関東にある重要拠点のひとつだった。忙しい日々になりつつあった。
2点目が圧倒的なのだが、「著作権法違反」ということで、俺のSNSでの連絡先に警告が届いた。カラオケのランキングで上位に入るような曲を作ってる大手音楽プロダクションからである。あなたが社名を知ってる可能性はとても高い。
自分が投稿した動画、ダメなんだってさ。だって替え歌だから。ニコ動で歌うことが許されてるのは、あくまで本来の楽曲であって、替え歌は対象外である。考えが足りなかった。
これこそが、替え歌を作って投稿すること自体が法的リスクのある行為だった。わかってなかった。メール文には「今後投稿を続けるようであれば、法的措置を行います」とあった。
別の人で、同じニコ動で福山○治(ふくやまぴーはる)さんという投稿者がいたのだが、この方も、ある時いきなり投稿動画をすべて非公開or削除にしたのだった。人気の投稿者であり、HoneyWorksの「可愛くなりたい」などを福山雅治の声で歌って、500万再生以上を叩き出していた。
彼も、同じような理由なのだろうか。芸能事務所や音楽プロダクションからすると、替え歌動画ほど下品ではないにせよ、無許可の二次創作だったのは間違いない。
そんな事情で、そろそろ頃合いかと思って完全引退を決意した。ほかの投稿動画についても、警告するまでもなく訴訟という可能性もある。申し訳ないけど削除した。
悲しかったけど、しょうがないのだ。他人様のふんどしをお借りしていた。それを元に戻しただけだ。作品を天に返したのである。
これで日記は終わりだ。今は会社員として幸せにやってるつもりだ。
今これを読んでおられる方にも、替え歌動画を見てくれた方がいるかもしれない。
事前告知はできなかったけど、感謝を伝えたい。応援ありがとうございました。Permalink | 記事への反応(5) | 11:10
背景
言いたいこと
まず外見
次に行動
雑感
主に世のお母さんたちへ
【追記】
こども二人とも寝たので追記です。
■ 感謝
この殴り書きにたくさんコメント下さって、どうもありがとうございます 。 私は長い事ブクマカをやっているので、一回くらいははてぶで喧々諤々になる一石を投げたいという思いで、論調をいじった投稿をしました。
初増田でこんなにコメントをもらえたのは、ひとえに自分がはてなブックマークに投下してきた時間の見返りと思わせてください。
あと、幸せホルモンに性差なしの件や、ポジティブフィードバックの誤用の指摘もありがとうございます。
とはいえそのへんの裏取りをして書いたらバズらないとも思ったのです。主語デカなのも許してください。
■ あとがき
この文章のスコープは「新生児」という限定的な期間に「かわいさ」という愛着の要素が少ないことに限定しています。
第一子の経験から、新生児微笑みが増えてくる時期(2ヶ月目くらい?)から「かわいさ」を感じやすくなって、楽しくなってくるはずという信念を持ってます。「分かりやすく、訴求力のあるかわいさ」があるとは思えないのも事実。
そして、「かわいくない」ことは育児を困難にすることを愚痴っていますが、それと愛が無いことは別です。その点は強調します。体力が無くても理性を保っていられることこそ愛のなせる業だとは思うのですが、最初からそれ書いたら面白くないのは前述の通りです。
■ 言い訳
最後の一文を入れたきっかけですが、「夫が家事も育児もしない」みたいな知人の話をよく聞くのが切っ掛けです。
そのへんのエピソードに共通するのが「なんでそんな男と結婚した??」でした。なので最後の段落にある通り、最善策は良き伴侶と出会い、夫に育児で自走してもらうこと。
そしてそれが叶わなかった場合、つまり「自発的に家事育児をしない男性と結婚してこどもを作った場合」に、妻が夫を動かすしかないのでは、という意図で書いてます。(親なり、夫婦以外のリソースが使えるならこの限りではない。)
その補強として、育児の最初期に愛着が湧きづらい要素をレポートしたのがこの増田です。あと、単純に他人がどう感じて育児してるかも知りたかったです。
出産のダメージが甚大なことは理解してます。しかし、家庭内で育児に投下できるリソースが限定されている場合、なんとかして夫が動くように妻がプロジェクトを仕切る、遊んでいるリソースを活用することが取りうる最善策だと思います。
うちのマネージャーは若手の部下から相談を受けたときに「ここはこれでいいのかな?」とよく返す。若手は位の上の人にそう言われたら自分はどこか間違ってると思い込み、内容を見返す。そして「つまりこうじゃなくてこういうことですか?」と返信する。するとマネージャーは「いや、そうじゃなくて…」などと返す。
slackでこのやりとりを完結するまでに数時間かかったりすることもある。
別の機会にその若手と例のマネージャーについて話をしたときに「あの人の詰めてくる感じが苦手なんですよね、自分は正解を知りたいだけなのに」と言っていた。
どちらの気持ちもわかる。
マネージャーはわざと答えを教えず部下に考えさせようとしている。魚を与えるのではなく釣り方を教えているのだ。
若手は正解を知る、もしくはマネージャーからの承認を得ることで素早く仕事を進めたい。
若手になるにつれてこの傾向は高まっていると感じる。これは「タイパ」だったり「ショート動画」、「倍速再生」のようにスピード感を重視する現代で育った影響なのだと思う。
どちらが正解かは分からないが、世代ギャップを感じた瞬間だった。おじさまは若者のスピード感に理解を示さないといけない時代なのかもしれない。
正確には退職を告げただから、ちょっと違うかもだけど、思っている愚痴をここに吐き出しておく。
一応、業界業種が特定されない範囲で書くように気をつけている。
半ば言い訳だ。自分が悪かったとも反省はしている、というのが前提だ。
中には30時くらいまで残業するような人もいるレベルだったが、そういったコアな部分の人員はなかなか補充されなかった。
前提知識が法律・業界・業務それぞれで必要になるため、補充される人員の要件が高くなりすぎていた。
感覚的には「飲食店を一人で立ち上げて、5年以内に複数店舗を開店させ、全店で黒字を達成している」ことを雇用の必須条件にしているような感じ。
そらいるだろうけど、おらんやろ、という難易度だった。
だからこそ今居る人材でやりくりする必要があるのだが、今いる人材も決して暇な訳ではなく、ずっと働き続けていたので、資料は議事録にもあるけど、一番はそれぞれの頭の中、になっていて、手を動かしてコトをなすためには、その人を連れてくる必要がある構造だった。
いわゆる属人化の極みである。
だからこそ、誰かが欠けるとそこのナレッジが組織として削られるのでめっちゃ困るわけだ。
だが、そういったことは幹部目線にはなく、とにかく全員が「コトを成す」コトしか考えられない状態が長く続いた。
・待遇が上がらない
新規事業というのは成功するかどうかわからない博打のようなものだ。
それ故に、ほぼ全員が失敗したときに逃げ場があるような組織構成になっていた。他の部署との兼務だったりするわけだ。(50:50の人もいれば30:70,100:0と配分は人によってまちまち。運が悪いと100:100になっていた)
そうなると何が起きるのかというと、(まだ)成功しているわけではないから、仕事はしたとしても評価ができるわけがなくなる。
業績がまだ0の状態だからだ。その点では、業績評価は0になるし、だからといってチーム内で頑張った人を評価するかというとそうではない。
ちなみに管理職以上は役職を兼務していると、兼務的でも手当が重複でもらえるので、役職者にとっては兼務するだけ給料があがる構造だった。
そういう意味では、役職者は得(なお業務量は考慮しない)だが、平社員にとっては得するところはなかった。
・頑張りは評価されなかった
先に結論から言うと、評価されなくて当然で、平社員としては優秀、という評価しかならない働き方をしていたところに非があった。
新規事業というのはリスクもあるが、社会的意義がある新規事業だとモチベーションがあがる。
自分にとっては、かなり興味も意義も感じられる事業だったので、自ら手をあげて事業にジョインした。
当時は特に人手が足りなかったので、何から何までやる必要があった。営業なのに総務も経理も企画もやる、そんな感じだ。
全部が全部、人手不足だったが為に、お人好しで手を広げていくことになった。
当然、業務量はあがり、兼務することになり、色々なことを知っている、いわゆる動くwikipediaか動くchatGPTみたいな存在になっていた。
なんでも知っている。なんでもゴールへの持っていく手順を分かっている。
お人好しが過ぎたのだ。
こうなると何が起きるかというとありとあらゆる会議に呼ばれるようになり、自分の作業時間を確保することができなくなっていった。
組織全体としては意思決定、事業推進するための必要な人材ではあったが、個人の目標達成の観点でいえば、パフォーマンスは落ちた。
あらゆることをやっていた、手を出していたので、それぞれを推進すること自体は別の人にお願いするようになっていった。
そうなると、マネジメント、リーダーシップを発揮しているわけではない、という評価になるため、昇進もしづらい状況になった。
当然である。
自分が自分の管理職(マネージャー)だったとしても同じ評価を下す。
めっちゃ意欲的に働いてくれるけど、リーダーシップは発揮していない。だからこと評価しきれない。平社員としては頑張っているよね止まりである。
補足だが、人事評価上は決して悪くなかった。半年に一回の人事評価は100点満点換算するとここ数年80点以下を取っていないし、直近1年は100点だった。
しいていうなら、そういう状況である、というのは数年単位で言い続けていたのだが、人員が補充されることはなかった。兼務が外れることはなかった。
自分の立ち回りとして、色々外していくということもできたかもしれないが、それをさせてくれる環境ではなかった。
現職場で評価されないのであれば、評価されるところに異動するのが一番だ。
会社外の話として、自分のキャリアパスを考えたときに、分岐点に立っているという自覚があったので、そういう意味でもちょうどよかった。
今は終身雇用の時代ではない。転職や副業・兼業と働き方を自分で選び築き上げていくことができる。
その反省として、仕事においてお人好しになるのはいいかもしれないが、自分が評価される範疇を超えるかどうかは検討するしてから手を出す出さないを決めるようにしたい。
ぼくはAmazonのシアトル本社でセールの機能を開発している。Amazonでお買い物をしていると「30%引き」や「20%オフ」のようなディスカウントを発見して喜んでくださっている方もいると思うけれど、あのディスカウントを提供する仕組み自体が一つの大きなプロダクト(システムと言ってもいいかな)になっている。そしてそれを支えるためにシアトル、バンクーバー、ベルリン、バンガールにまたがるグローバルなチームによって開発・管理している。
そんなわけでぼくはPM (プロダクト・マネージャー) として日々セール機能に関するプロジェクトを回している。たくさんの刺激的で興味深いプロジェクトに恵まれてきたわけだけど、その中で一つとても記憶に残るプロジェクトがあった。
それは「定期おトク便」に関するものだ。定期おトク便というのは、平たくいうと日頃からリピートして買う商品(例えば飲料水や洗剤のような日用品)について定期購読をしていただければ最初の購入時に割引しますよというものだ。お客さんからすればディスカウントをもらえるからお得なわけだし、商品を提供している側からすると定期的に買ってもらえるようになるので嬉しいというわけだ。
つまんなそうで草