兆し

朝の通勤ロードは早くも秋の色になろうとしている。少し前まで青々としていた樹々の枝葉なのに気がつけばもう黄色く色づき始めている。谷間に見える三角形の小さな池の水面に空に浮かぶ白い雲が映っているのを見つけて、ご機嫌になった。昨日から扁桃腺が痛む。色んなことがあったこの10日間に自分が感じている以上のストレスと疲れを溜めてしまったらしい。私の扁桃腺はそんなことに敏感に反応しては、赤く腫れあがって私に抗議するのである。もう少し穏やかな生活を心掛けてくださいよ。そんなことを訴えているのだと思う。谷間の池の水面を眺めながら昨日のことを思い出した。扁桃腺が痛くて堪らない。ふうふう言いながら家に帰ってきた。久し振りに雨が降らなかったからテラスに続く大きなガラスの扉を大きく開いて空気を入れ替えようとしたところ、左右に開いた扉の間からいい匂いが流れ込んできた。あ、懐かしい匂い。鼻の裏側を擽るような仄かに甘くて遠い昔を思い出すような匂い。テラスをぐるりと見回してみると、金木犀の花が咲いていた。2年前の今頃、ラヴェンナに暮らす親戚が私に金木犀を贈ってくれた。私が探しているのを覚えていたらしく、どんな異国の植物でも手に入るというスイスの植木屋に注文してくれたのだ。それでいて恩をきせるでもなく、まるでたばこ屋の店先に美味そうなチョコレートがあったからちょっと買ってきた、みたいな感じで持ってきてくれたのだ。小さな花を幾つもつけた金木犀はいい匂いを放って近所の人気者になった。大切にするからね。そう言ったくせに昨年は花がひとつもつかなかった。金木犀だけでなく、花という花が全滅だった。毎年美しい花を幾つも咲かせるサボテンは花を咲かすどころか茎からすっかり腐ってしまった。夏には放っておいても元気に咲くゼラニウムもミイラと化した。私と相棒に降りかかった数々の問題は私たちの心がささくれにして、そして私たちの大切な植物達にも伝わってしまったのかもしれなかった。今年もまた9月を向かえた。一向に花をつける気配のない金木犀を眺めながら、ひょっとしたらもう二度と花が咲かないのではないだろうか、そんなことを考えて急に悲しくなった。それは私の人生がもう二度と軽快な足取りで歩くことがないのでは、みたいなことを同時に連想させたて益々悲しくなった。毎日テラスに出ては金木犀を観察したが蕾のひとつも見当たらなかった。ああ、駄目だ。今年も駄目。そんなことを思い始めた頃、3日間雨が降り続いた。あまりに強い雨脚でテラスに続くガラス戸を開けることも出来なかった。だから昨日の夕方は4日振りにテラスに出たということになる。テラスの先に置かれた金木犀は金色の花を沢山咲かせていた。鼻をくすぐるような匂いは幸せな子供時代を呼び起こした。いい匂い。いい匂い。目を瞑って漂う匂いを深く吸っているうちに、はっとした。兆し。そう、何か良いことがある兆し。何かが始まる兆し。2年ぶりに咲いた金木犀の匂いは私にそんな気持ち満たしてくれた。そうだ、どんなことにも終わりがある。私のついていない一年にだって終わりがちゃんとあるのだ。ひょっとしたらもう終わっていて、自分が気がつかないだけで少しづつ明るい方に向っているのかもしれない。そうだといい。明るい方に向っているといい。
谷間の池の水面に映る爽やかな空を眺めながら何度もそう願った。

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Via Valdossola

こんにちは。そうです、兆しですね!私もyspringmindさんの文章を読んで、この全くついていなかった半年間が、きっと終わり(もう終わっているのかもしれない)、よいことが始まるのだ!っと思うようになりました。気持ちが変わる切っ掛けって必要ですよね。それに気づくyspringmindさんを素晴らしいと思います。さらにそれを文章にしてくださったおかげで私も切っ掛けを得られたように思いました(それが本当のものかどうかは分かりませんが、そう思っています)。ありがとうございました。
ただ金木犀の香りだけは・・・私の経験だと学校のお手洗いを連想してしまい・・・ですが、良い香りです!!
  • URL
  • 2009/09/20 11:26
  • Edit

yspringmind

Via Valdossola さん、こんにちは。兆しとはもしかしたら色んな所にあって、ただ気が付かないだけなのかもしれませんね。Via Valdossola さんもこの半年の間に様々なことがあって大変だったようですが、さあ、気持ちを切り替えて明るい方向を目指して歩きましょうよ。この兆しが単なる気のせいでもいいんです。自分がそう思って一歩前に踏み出すことが大切なのだと思います。Via Valdossola さんのこれからのボローニャ生活に大小の良いことあることを祈ってます。ところで金木犀の匂いが学校のお手洗いを連想させるとは! ひと様々ですね。私は成長期にすごしたい中の家の玄関先にあった大きな金木犀を思い出し、ただただ良い思いでばかりが浮かんでは消えていきます。

emilia2005

yspringmindさん、こんにちは。
金木犀があるとは羨ましいですね。亡き祖父母の家では、秋になると甘い香りを放っていました。この香りが漂ってくると、細長い縁側に置いた細長いテーブルで呉服屋の着物を仕立てる祖母の横で妹と遊んだことや、妹と暮した東京のアパートで卒論が進まず苦悩したことや、始まったばかりの恋に(なぜか秋に始まる恋が多かったですね)ドキドキした日々などを思い出します。ここに金木犀はありませんが、 yspringmindさんのお陰で目覚めた、遠い記憶の彼方にあった懐かしい思い出が、香りを運んできてくれました。素敵なお話をありがとうございます。

yspringmind

emiliaさん、こんにちは。幼い頃、細長い縁側に置いた細長いテーブルで呉服屋の着物を仕立てるお祖母さまの横で遊んだ思い出は良いですね。目を閉じるとそんな様子が瞼に浮かびあがり、金木犀の匂いが漂ってきそうです。私の恋は大抵初夏に始まりました。だから恋を思い出させるのは金木犀ではなくて朝露に濡れた草の匂いや雨上がりの夕方の空の色なのですよ。あの頃は楽しかったですねえ。そう思いませんか。

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