赤い鞄

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こんにちは、7月。新しい月を迎えるのが好きだ。それがこんな清々しい空気に満ちた日であるならば尚更。7月らしからぬ涼しい土曜日。それは空からの贈り物のようなものだ。私が4年間暮らしたアメリカの坂の街は、夏でも朝晩はとても涼しく、昼間だって時にはジャケットが必要になるような街だった。湾からの風や霧が街を包んだり通り抜けたりして。あの頃の私は砂漠のような暑さが恋しかったものだ。それでアリゾナやネヴァダに足を延ばしてみたりして、日常生活からは得ることが出来ぬ暑さを堪能したものだった。だからボローニャに暮らそうと相棒と決めた時、暑いと聞かされていたボローニャの夏が楽しみでならなかった。まさかこんなに蒸し暑いだなんて、想像もしていなかったから。ボローニャに暮らし始めて直ぐに体験した夏は開いた口が塞がらぬほど暑かった。前途多難だった。君は暑い夏に恋い焦がれていた筈なのに、と相棒が言うのを苦々しく思ったものだった。

2002年の夏、いや、2003年の夏だったかもしれない。私は海を越えて親友を訪ねた。トロント。アメリカ時代に知り合った彼女とは共に生活することで互いの良い部分ばかりでなく悪い部分も承知の仲。喧嘩をして疎遠になったこともあるが、そんな事があったから何でも話が出来る間柄になった。その彼女が結婚して、夫にくっついてトロントに暮らすようになったが、なかなか生活も心境も安定せず、遠くから応援しているばかりだった。そういうことはよくあることだ。承知の上で夫にくっついて行ってはみたが、自分の手の中が空っぽでやりきれない気持ちになること。私もボローニャで経験済みだから、彼女の気持ちがよく分かった。そのうち夫婦は永住権を得て彼女は良い仕事を見つけると、ようやく自分の場所と思えるようになったらしく、綴るメールの内容が軽快になった。そんなある日彼女から誘いが。彼女の様々が、夫婦の様々が安定した証拠だった。
彼女が住んでいるトロントの街中のアパートメントの階下が空いているそうで、其処を二週間ほど貸して貰うことになった。古い部屋ではあるが夫婦が綺麗にして必要なものを揃えておいてくれて有り難かった。暑くてもテラスに続く扉を開け放ってはいけないこと。アライグマが家の中に入ってきたら大変だから、と着いたその日に彼女と夫に言われて笑ったら、ねえ、本当のことなんだからと窘められて驚いたものだ。こんな街中にアライグマだなんて、と思ったけれど、ある朝、扉を開けて空気を入れ替えていたら、テラスにアライグマを発見。驚かさぬようにそおっと扉を閉めた経験がある。近所の市場に行って食料品を手に入れ、上階の彼女たちのキッチンで夕食の料理をした事。彼女たちが私の簡単なイタリアの食事を喜んでくれたのは、有り難かった。何しろ私の料理の腕は相棒曰くそれほどでも、なのだそうだから。何しろうちでは相棒が腕を振るう料理人だから。彼女の仕事帰りに街角で待ち合わせをするのは愉しかった。道の向こうから大きな声で私の名を呼びながら手を振る彼女を見ながら、ああ、彼女は本当に元気になったのだなあ、と思った。肩を並べて歩いていると、アメリカ時代に戻ったような気がした。
ある日彼女がここは私が好きな場所でと言って、質の良い小さな店が集まる建物に入った。吹き抜けの中庭を囲んであるのは確かに良い店ばかりで、その中でもこの店がいいと言って彼女が指さしたのは、革製品の店で、ガラスの向こう側に置かれた濃い赤の革の鞄を何時か手に入れたいと彼女は言った。確かに上質の革で、丁寧に作られていた。鞄の刻印を見て、えっと思ったのは、当時フィレンツェで仕事をしていた私が良く名を耳にしていた、フィレンツェの革製品ブランドの鞄だったからだ。こんなところまで進出しているのかと驚きながら、つけられた値段を見てもう一度驚いた。勿論丁寧に作られているし革も上質だけど、海を越えてくるとこんな値段になってしまうのかと。何時か自分の褒美にこの鞄を買うのだと言う彼女の話を聞きながら、それは何時か私が贈ろうと思った。優しい彼女に。自分が大変な時もいつも人のことを心配して手を差し伸べることを忘れない彼女に。しかし叶わなかった。彼女が空のお月様になったからだ。あの赤い鞄は彼女に贈れないまま、私の記憶の箱に閉じ込められた。
その鞄ブランドが再び目の前に現れた。手持ちの小さい鞄が壊れてしまい、ひとつ新調したいと思ってネットを探っていた時のことだった。ああ、そういえばこの鞄。あれから20年も経った今頃、再び私の目の前に現れた。あの日彼女と見たような高価なものでなく、もっとシンプルなものがいい。今の私に丁度良い、あまり物を入れずに外を歩くための小さな鞄。ちょっと考えてみようと思う。

7月。何て響きが良いのだろう。そう言ったら7月生まれの姉は喜ぶだろうか。愉しみたいと思う。夏の休暇までの残り5週間は忙しくなりそうだけれど、愉しむことを忘れないで肩の力を抜いていこう。今夜は7月に乾杯しよう。




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