はてなキーワード: 福田とは
ぶっちゃけ増田の地元がどこかわからないから選挙区わからんねんから、うちの話をする。ワイは自民党に投票する。
宇都宮なもんで、船田元っていう自民党の衆議院議員がおるんやけども、こいつは野球とかで有名な作新学院の理事長で、まぁいわゆる宇都宮のドン的な存在でもあるわけや。でもワイは今回はこいつにまた投票する。なぜかって?立憲や共産は最近話題の宇都宮の「LRT」(路面電車)事業に永遠に反対してきたからや。おかしい話やろ?LRTの当初の目的地は郊外の工業団地と宇都宮駅を結ぶ道路の渋滞緩和で、労働者側に本来立つはずに野党どもが永遠に通勤渋滞を緩和するために動こうとする船田やら知事の福田、市長の佐藤に楯突いてきたんよ。LRTは国の交付金を大きく活用して作られている。その国と地元のパイプがLRT反対とかいうアタオカじゃ話にならないのよ。
今度は駅の反対側に延伸して、今度は工業団地じゃないんだけども、街の大通り部分にLRTを通そうという話になってる。終点は作新学院付近、これはもうほぼ船田の利益誘導と言ってもおかしくはない範囲や。だけども実際に目を向ければ作新学院に向かう宇都宮駅のバス停は朝夜あふれんばかりに人がいるし(学校組織としては作新学院は全国最大規模のマンモス小中高だからね)、作新学院の手前までは街の中心部が広がっていて、バスがたくさん走っていて空気も汚いし無駄が多い。LRTに置き換えられたら駅の東西のアクセスは抜群に良くなるし、それによって人口が減る中でももう少しまとまりのある街になりそうな感じがする。
インフレ気味で総工費は膨れるばかりだが、ある程度目を瞑るべきやと思っている。変わらなければ宇都宮は、栃木県は人がいなくなる一方やから。西武デパートも無くなった、パルコも居なくなった、ララスクエア(ららぽーとの小規模版?)も無くなった、客観的に街の魅力はどんどん落ちてる。具体的な策を立ててそれにあがこうとしている限り、ワイは船田元に投票せざるを得ないと思う。
続編をどうやってネタにするのかの決定版のような傑作おバカコメディだったと思う。86点。
あらすじとしては。
前作で高校に潜入しドラッグの元締めの逮捕に成功したチャニング・テイタムとジョナ・ヒルの2人。意気揚々と地元警察に戻るも再び捜査で失敗した2人は再び大学内で蔓延するドラッグ捜査のために今度は大学に行かされることに。
開始1秒でいきなりスポーツカーからギラギラの銃をとりだし両手で構え、2人で背中合わせになったり向き合ったりカッコイイポーズを駐車場で連発しバッドボーイズネタをさらっと消化。もうこの時点で前作を面白く見てた俺的には当たり感がすごい。
前作では自転車勤務だった2人がヤクの売人を自転車とダッシュで追いかけ逮捕するも手続きに失敗するというオープニングアクションがあったが、今作では逃走する禁止動物密売組織のトラックの荷台を使った肉体アクションに進化。そして失敗。
そして前作通り署長から潜入専門部署への異動を命じられる。そこで言われるのは「誰も期待していなかった前作が奇跡的に成功したから、今回は莫大な予算をつぎ込む。だから前回と全く同じことをしろ」というビックリするくらい直球なメタネタ。その後も「いいから前と同じことをしろ」というセリフが繰り返し登場。
21ジャンプストリート署は廃止されており、向かいの通りに22ジャンプストリート署が前作の倍近い規模で設置されている。しかもそのはす向かいの23ジャンプストリートには次のさらに巨大な施設の工事が進んでいて「次は23ジャンプストリートかもな」とシリーズものあるあるの「その時点ではあるかわからん次回作匂わせ」ネタを披露。
22ジャンプストリート署はあばら家の教会だった前署と違いハイテクな秘密基地のようになっており後に署長のアイスキューブから「アイアンマンの家みたいだ」とチクリ。
そしてストーリー中盤で「もう予算が尽きたからこれ以上ハデなことはするな」「こんなバカみたいな基地を立てて」「俺の靴は800ドルだ、誰も見てないのに」と「ビッグバジェット続編、予算無駄遣いしがちネタ」を堂々とぶち込むもその後のアクションシーンで無駄にいろんなオブジェを破壊して「これ高いよ~」とネタにするもの忘れない。
そしてエンドロールでは23ジャンプストリート~2121ジャンプストリートまでの嘘予告編が次々と披露される。ウソシリーズだけでなく途中でゲーム化、アクションフィギュア化まで入れていて余念がない。
監督脚本のロード&ミラーの「シリーズものとして消費されていく作品」への厳しい風刺が効いている最高に楽しいエンドロールだ。特に笑ったのは途中で相棒のジョナ・ヒルが別人に変わり、次回作で戻っていて「やっと戻ってきたな」とテイタムが言うとヒルが「別に契約で揉めてないよ」と答えるシーン。続編で契約で揉めて急に主要人物代わるのあるあるすぎる。
そしてある意味で言えばこれは「続編商法はなし。ここでおしまい」というロード&ミラーによる潔い決別宣言でもあると思う。実際、この作品以降10年以上続編は撮られていないし。まぁロード&ミラー&ソニーがめっちゃ貧乏になったらどうなるかはわからんけど。
前作に引き続きうっかりドラッグをキメてしまった2人が異様なハイテンションでミッションインポッシブルのヒットから始まった潜入スパイアクションビームをパロディし大学内のクラブ棟に潜入するシーンは筋肉バカテイタムとデブで運痴のヒルのデコボコアクションが楽しくて◯。
前作では意識高い系イケメンがモテていた高校とは違い、大学ではアメフト部が覇権を握っており今度はテイタムが本領発揮し人の輪の中心になり新キャラズークとアチアチのブロマンスを展開する。この二人の触れ合いのシーンではなぜか100回くらいスローモーションが登場し、妙にエモい仕上がりになっているのは向こうの青春アメフトもののパロディ。
しかしその一方、ヒルは前作のテイタムのように相方に置いていかれて孤独を深めていく。
徐々に険悪になる2人が警察専属のカウンセラーにカウンセリングを受けるシーンは完全に離婚夫婦もののカウンセリングシーンのパロディになっていると同時に、2人の関係が相方を越えたほぼ夫婦のような関係になりつつあることを示していて何気にエモい。ふと思ったけどBL好きネキはこのシリーズ必見かもしれない。
前作ではインテリ組とそこでできた彼女に影響されて大学進学まで考えていたヒルと同じように、今作ではアメフトチームとそこでできたソウルメイトに影響されたテイタムはアメフトでの成功を考えはじめる。前作ではその結果、2人の関係は決定的に決裂し下宿していたヒルの家を出て行ったテイタムと同じく、今作では同じく2人の関係は決定的に決裂し今度はヒルが大学の寮を出て警察に戻る。
そして2人はそれぞれの進むべき道を邁進しながらも、遠く離れてしまったことでお互いを思うようになりそしてある日、前作で2人が向き合って行った遊びをしながら再会し再び手を組んで事件の解決に乗り出す。
俺がこの作品を強く支持するのは「続編あるあるネタ」と同時に常に「続編であるならやらなければならないこと」を真剣に考え、それをきっちりこなし続けているからだと思う。引用ネタ、パロディネタを強く下支えする一本の映画としての強度がある。
唐突にDisるけど福田雄一の映画作品がダメなのはネタをやりたいがためだけにネタをやっているからだと思う。そのネタを乗せておく一本の映画としての強度が非常に弱いのでネタをやり散らかしているだけになってしまっている。福田はロード&ミラーの下で100年くらい修業した方がいいと思う。
まぁその後も前作ではプロムだったのが今作ではフェスになり、悪役を追い詰めたと思った後は前作と同じように同じように銃を突き付けられ不利な状態になったかと思ったら今度はあらかじめ呼んでおいた味方が駆けつける。前作ではカーチェイスだったのがヘリアクションになり。としっかりと前作を踏まえた上でそれを越える展開が用意されていてにっこり。
犯人を追いかけるシーンで雑に鳩を蹴散らして前作でのアクション映画鳩あるあるも消化。
しかも最後の決着のつけ方が「人を殺して捨て台詞」のパロディとなっていてこの脚本、本当に隙がないなと感心。
2作見た上で個人的に面白いなと思ったのは典型的なジョックスでモテ男のテイタムは前作ではオタクの友達を作り、今作ではアメフト部で心の友を作る。両作で彼女を作ったヒルとは違い一貫して「認め合える男の友人」を作るために奔走している。ジョックスに対するホモソーシャリズム、マッチョな世界ほど「男に認められることがすべて」という価値観への皮肉な目線が提示されているように思えて、そこもよかった。
ネタも規模も前作より大幅アップしていて前作を踏まえないと作れない続編としての満点回答。あえて苦言を呈するとしたらメタネタやりたすぎてる感が若干鼻につく感じもあるのでメタネタ嫌いには前作よりも厳しくなってる可能性はあるかも。
佐賀の街は今、揺れている! 科学捜査研究所で何が行われていたのか!?
7年超、130件以上! 捜査の根幹を揺るがす「DNA鑑定不正」が次々と明るみに出たのだ!
「鑑定結果に影響はない」 県警はそう言い張る。だが市民の胸に走ったのは 怒りと不安 だ。
もしもその“わずかな操作”が、真犯人を逃がし、無実の者を牢に追い込んでいたとしたら!?
記録改ざん!
手順の省略!
誰が? なぜ? その背後には、 「科学捜査は絶対に正しい」という幻想 を武器に、市民の信頼を食い物にした組織の慢心があったのだ!
だが市民の耳には響かない! 外部委員会を拒否し「内部対応で十分」と言い張るその姿に、怒りは爆発寸前だ!
結論 ― 信頼は灰と化した!
この国で最も“科学的”と信じられていた証拠が、裏切りの象徴となった。
トラバで追記。気に入らない法案だと「強行採決だ!」と騒ぐのに似ている。強行ではない、ただの採決なのに。反対なのは良いが制度的なレギュレーションを理解せずに咬み付くなら(民主主義において何より大切な)話し合いができない。
首相が公選でなく“第一党”の総裁が事実上自動的に就任する仕組みであるのを忘れて「党は支持しないが石破首相がいい」も意味ないし、「料亭政治で福田みたいなしみったれた奴にも首相ポスト回したりして政治の私物化だ」とか言っても意味ない(意味ないが後者は思っていた)。
元々「首相直接選挙の投票権が¥4000くらいで売ってること」つまり自民党政権に文句があったら自民党員になれという仕組みが、なにかバグってる気がしないでもなかった。だが現状そういう仕組みである事実は踏まえなければ文字通り話にならない。
自民や相方の立憲の凋落が多党連立政権時代の幕を開けるとしたらまた少々状況は変わってくるが。
首相を公選にしないのは間接民主主義の一環であり主権が行使されるプロセスの冗漫化の知恵である。国法を法律と憲法に分けて“粘稠度”を上げるのも同じだ。システムファイルは奥の方にあるべきということ。
大衆は自分の選択の理由を言語化できない。本当の理由でなく、聞かれたなりの答えを返してしまう。投票行動がどういう「本当のニーズ」を担ってのものか炙り出す上では、マスコミの実施する世論調査は常にミスリーディングなものでしかない。
しかしそうすると小選挙区制というのはいかにも異物だ。僅差をもデフォルメして大差にしようとする。まるでアメリカ大統領選の州ごとのウィナーテイクオール方式みたいな異質な思想が木に竹を接いだように挿入されているように見える。
死に票の多さを問題にして全国比例のみで選挙区そのものを無くすのもまた別の“直接化”である。
k duke
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先日の参議院選挙での参政党の街頭演説での様子がたまたまXで見れたのだが、その映像の中で排外主義を主張する参政党へのカウンターに対して参政党の支持者が「十円五十銭って言ってみろ」と言い出したことに衝撃を受けた。
この輩もそうだろうが、参政党の支持者は参政党の標語「日本人ファースト」に惹かれ、どうやら自分の出自が日本の日本人である事だけを誇りにしているようだ。
60代と思われる痩せた男性であったが、戦後どんな環境下で何を学んで生きたらこういう風に悲惨になれるのかと同じ人間として恥ずかしく切なく怒りが湧いてきた。
戦時中、特に関東大震災後色んな所で差別によって無残に殺された人が沢山いたが、住まいの近隣で言えば、この野田市福田の地を訪れ手を合わせなければならない、という衝動に駆られた。
日本人が犯した差別による虐殺という大罪に対して、日本人である事を誇る一方で同じ日本人が犯したこの大罪には日本人として無反省なこの種のおぞましい輩が時を越えて来たかの如く現れた今こそ、忘れてはならないことなんだと、この地を訪れ手を合わせて来なければならない、という衝動に駆られた。
しかし国民民主党がそういう動きを取ったのは理解できなくはないというお話。
参政党が大躍進した2025年参院選。朝日新聞の記事によると国民民主党の支持者が参政党に流れたらしい。自身のXのタイムラインを見ていると国民民主から参政に鞍替えした人ってのは見当たらない。個人的には今回の参院選において国民民主党がやらかした一番大きな失策は須藤元気氏の擁立だと思っていて、5月に観測気球が上がった時から私自身も猛烈な反発を覚えた。この擁立によって医療・農業関係者の一部からそっぽをむかれ、結果として自民党に流れた票もあるだろう。しかし今回選挙活動を追いかけ、この擁立は理解できるところもあるなと思ったので増田に書いておこうと思う。
結論から言えば「国民民主党の広告塔になる議員を増やしたかった」のが目的だったのだろうと推察する。選挙活動を追っかけている人ならわかるが、知名度のある政治家の現地入りというのは選挙への効果がかなり大きい。国民民主党で言えば玉木代表、榛葉幹事長が現地入りするとかなりの数の聴衆が集まり票獲得につながる。今回の参院選では玉木氏、榛葉氏はそれはそれは全国を駆け回って各地の有権者へのPRを続けていた。誰かが「誰もが認める玉木雄一郎評は”体力おばけ”」と言っていたが、正直マジで常人離れしたスケジュールをこなしていたと思う。榛葉氏も同様に常人離れした遊説を繰り返していた。が、結局知名度を活かした数打つ遊説ができる議員はあの2人に偏ってしまっていた。2つのリソースをぶん回すには限界がある。代表や幹事長はメディアで政策論をぶつけながらの遊説であったので限界を超えた稼働率になっていたのは想像に難く無い。
須藤元気氏は知名度のある体力おばけである。どさ回りに強く、挨拶やビラ配りの能力が人外レベルに高い。一方で政策論が弱く、医療や農業の話では民間療法・農法を熱く語る人に騙されて間違った意見にハマっていく。こういう言い方は須藤元気氏に大変失礼ではあるが「政策を語れない玉木雄一郎」という評価が(少なくとも今時点では)当てはまると思っている。ただ、須藤氏は本当に素直で実直に活動することができるため、正しく学ぶ機会さえあれば国民民主党の強い力になったのは間違いないだろう。福田とおる代議士から説明を受け、話を聞き理解を示そうとした姿勢は嘘ではないと信じたい。
選挙の街頭演説はどうしても単語と名前を覚えてもらうのが主。正直なところ党代表や幹事長が労力を割くとコストパフォーマンスが悪く、できることなら他の人に任せておいて上層部はメディア戦略や討論で大きく網を張るべきである。地上戦では須藤元気氏が戦い、空中戦で代表・幹事長が戦うという体制が取れれば次の選挙、その次の選挙も盤石であったという目論見での擁立であったのではないだろうか。
という仮説が正しかった場合、責められるべきは党の擁立の説明が不足していたという点である。「我々は党の知名度を上げ、次の選挙を戦い抜くために須藤元気氏を擁立する」「国民民主党には医師もいる、農業に詳しい人もいる。これまで彼が語ってきた政策面の誤りは党として責任をもって指導し、一緒によい政治を目指していく」というようなことを重ね重ね有権者に語るべきだったのではないか(誓約書って何??)。国民民主党の支持者で須藤元気氏の擁立に納得いかなかった層もこの説明であれば飲み込めなくはなかったと思っている。擁立反対派の全員が肯定するとは言えないが。
そりゃ「須藤元気氏を玉木代表の代替として選挙戦のリソースとして使います」と言えば須藤氏は嫌だろうけど、これまでの負の言動を党の力で軽減する+公認候補とするという扱いのバーターとするならそこは飲んで貰うのが筋ではないだろうか。有権者への説明と須藤氏との協議がきちんとなされていれば国民民主党は更に勢力を伸ばし、この複雑怪奇になった与党政治のいいカンフル剤となったと思う。そのような未来にならなかったのが重ね重ね残念である。
↓のブコメのナイーヴな反応を見て思ったけど、みんなアメリカが世襲政治家だらけの国という現実を知らんのやな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3586012
ブッシュ父子やクリントン夫妻がどうこう以前に、第6代大統領ジョン・クインジー・アダムズが既に第2代大統領ジョン・アダムズの息子だからね。第23代大統領ベンジャミン・ハリソンは第9代大統領ウィリアム・H・ハリソンの孫。
日本で親子関係にある総理大臣は福田赳夫・福田康夫だけで(鈴木善幸の娘が麻生太郎の妻なので2人は義理の親子だが、ここではカウントしない)、総理大臣経験者は65人いるので、「親子総理大臣」の割合は3パーセント。ところがアメリカの場合は全47人中親子が2組(アダムズ・ブッシュ)なので、「親子大統領」の割合は8パーセントになる。実はイメージと違って、アメリカの方が世襲度が高かったりするのだ。
(ちなみに、苗字の漢字と読みが一致する歴代総理大臣は加藤(友三郎・高明)・田中(義一・角栄)・鈴木(貫太郎・善幸)・鳩山(一郎・由紀夫)・福田(赳夫・康夫)の5組10人いるが、血縁関係はそのうち2組(鳩山・福田)に過ぎない。いっぽう、苗字が同じ米国大統領5組10人(アダムズ・ハリソン・ジョンソン・ルーズベルト・ブッシュ)のうちアンドリュー・ジョンソンとリンドン・ジョンソン以外の4組は血縁関係にある)
アメリカに滞在した福沢諭吉は、初代大統領ワシントンの子孫のことを周りに尋ねてみたけど誰も知らない、門閥がない民主共和政ってすごい! と感動したという有名な話があるけど、それは単にワシントンが子梨だったからだという身も蓋もないオチがつく。実際には世襲の門閥貴族めいた家系はいくつもある。
ジョン・F・ケネディ大統領は弟ロバートを司法長官に任命したし,彼らの弟テッドは上院の重鎮だった(不倫飲酒ドライブ中に事故を起こして不倫相手を死なせてなければ大統領になれていただろう)。
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の長男ジョージ・ウォーカーはテキサス州知事を経て大統領になったが、次男ジェブもまたフロリダ州知事を経て大統領を目指した(が、トランプに敗れて撤退した。このときの民主党候補はヒラリー・クリントンだったので、元大統領の息子&前大統領の弟 vs. 元大統領の嫁という世襲ドリームマッチになる可能性があった。結果はご存じの通り)。
リバタリアン派の名物議員ランド・ポールは、ジョン・マケインと指名争いをしたロン・ポールの息子。マサチューセッツ州知事を務めてバラク・オバマと大統領の座を争ったミット・ロムニーは、ミシガン州知事だったジョージ・ロムニーの息子。共和党内の反トランプ派として有名なリズ・チェイニーは、元副大統領ディック・チェイニーの娘。現ケンタッキー州知事アンディ・ベシアは親父もケンタッキー州知事だし、コロナんときのニューヨーク州知事アンドリュー・クオモの親父もニューヨーク州知事。爽やかなイメージの元副大統領アル・ゴアだって親父が連邦上院議員。
考えてみればそれはそうで、アメリカの選挙は非常にカネがかかり、個人本位だ。比例代表制ではなく小選挙区制、しかも個々の政党が極めて分権的、ということは、つまり政治家個々人が党に頼らず自分の力で票をかき集める必要があるということだ。良く言えば二大政党制なのに多様な意見の議員が選ばれるということだが、悪く言えば政治家になるための個人のハードルがものすごく高い。政治家になるためのハードルが高い社会では、「親も政治家だった」というアドがめっちゃ効く。
(日本が世襲政治家だらけなのも、政治家になるためのハードルが高いからだ。中選挙区制から小選挙区制になって必要なカネは少なくなったとはいえ、まだまだカネがかかる事業であることには変わりがない。そして政治家になっても実入りが乏しい(これ自体は良いことではある)。それなら親から地盤・看板を受け継げる世襲候補が有利になるに決まっている。世襲政治家を減らしたいのなら、議席数を増やす(=選挙区あたりの有権者数を小さくして選挙にかかるカネを減らす)とか完全比例代表制にするとか逆に完全小選挙区制にする(衆院の比例区部分の定数をすべて小選挙区に割り振れば、議席数を増やすのと同じ効果がある)とか、そういうハードルを下げる取り組みが必要だろう)
もともとアメリカは民主政を嫌っていた。古典古代の民主政の要諦とは籤引きだった。古代アテーナイで籤引きが用いられていたことはよく知られている。アメリカの建国者たちは民主政よりも共和政を志向し、籤引きを採用しようとはしなかった。現在の「共和政」とは単に王のいない政体のことを指す(したがって王政とは矛盾するが民主政とは矛盾しない)が、伝統的な西洋政治思想では「有徳者による統治」のことを指していた(したがって君主制とは必ずしも矛盾しない(※)が、どれだけ愚かな人間でも政治参加できる民主政とは矛盾する)。アメリカ独立戦争は「民主政にするために貴族政を追い払ったのではなく、選挙貴族政にするために世襲貴族政を追い払った」(ダーヴィッド・ヴァン・レイブルック『選挙制を疑う』)に過ぎない。ジェイムズ・マディソンは『フェデラリスト』で統治者と被治者の区別を主張していた。個人本位の選挙は擬似的な貴族階級を生み出す仕組みである。その仕組みを数百年にもわたって続けてきたアメリカが世襲政治家だらけなのは、さもありなん、という感じだ。
そうすると、果たしてこのような政治貴族だらけの国を「民主主義のリーダー」であるかのように扱うことがふさわしいのだろうか? という疑問が湧く。実際に、アメリカは『エコノミスト』の民主主義指数では韓国やイスラエル、ポーランドと同じ「脆弱な民主主義」とされている(日本は台湾やカナダ、ノルウェーと同じ「完全民主主義」)。私たちはアメリカに対する幻想を捨て去り、現実と向き合うべきなのかもしれない。アメリカは事実上の門閥貴族に牛耳られた寡頭制国家なのである、という現実に。
※ 近年、「王がいる共和政」についての歴史研究は進展しているが、現代において「王がいる共和国」としてオーストラリアやバハマが挙げられる。これらの国の国号はCommonwealth of AustraliaにCommonwealth of The Bahamas、すなわち「オーストラリア共和国」に「バハマ共和国」だが(commonwealthには様々な意味があるが、語源はもちろんラテン語のres publicaであり、清教徒革命で王を処刑した後の国号がcommonwealthであったように「共和国」の意味も持つ)、両方ともチャールズ3世を国王とする立憲君主国である。「最近のラノベには共和国に王がいるんだけどwww」とか嘲笑う向きにおかれては近世ヨーロッパ史を真面目に勉強してほしい。王制と共和政は背反ではないのである。