職人気質の男
- 2015/11/22 19:06
- Category: bologna生活・習慣
土曜日なのに早起きしたのには理由がある。午前中にしか店に出てこない店主に会うためだった。店は旧市街のポルティコの下にある。街の中心からはそう離れてはいないけれど、一日しかこの街の散策に時間を割けない旅行者が足を運ぶような辺りではない。だからポルティコの下ですれ違う人達は、大体が地元の人、若しくはこの街に長く居る人と言って良い。数年前からその店の存在に気が付いていた。衣類を直してくれる店で、仕立て屋さんではない。素適な内装も無ければ気の利いた看板もない。しかし客が多いこと、客が持ち込んでくる衣類の質が良さそうなことから、丁寧な仕事をする店らしいことが想像できた。これらは私がガラスの外から中を観察して得た印象で、誰に訊いたわけでもないけれど。店に入ると何時もいる南米出身の女性の姿はなく、店の入り口に背を向けてミシンを操る男性の姿があった。話によれば店主は彼女の夫とにことだった。こんにちは、と言って店に足を踏み込む私に彼は一瞬振り向いて、こんにちはと挨拶を返すと、再び背を向けてミシンを操りだした。その印象はボローニャの職人と言ったふうで、頑固そうな表情に私は一瞬戸惑った。小柄なようだが、がっしりした肩。四角いセルロイドフレームの眼鏡を掛けていた。話しかけていいのだろうかと思っていると、彼が背を向けたまま言った。何か? それで私はコートの肩幅が体に合わないので直してほしいのだけど、と来店の理由をやっと伝えることが出来た。彼は立ち上がり、少しアンバランスに歩きだした。足が悪いらしかった。彼は私が持ち込んだ黒いコートを手に取ると、瞬時に素材を見抜き、これは大切にしなくてはいけないよ、修理に高い費用は掛かってもね、といった。どうやらこの道に携わっているらしい。もしかしたら昔は服の仕立て業をしていたのかもしれない。私がコートを着て見せると、此処を少し、此処も少しとあっという間にピンでつまんだ。これでいい。これでやっと君らしくコートを着こなすことが出来るよ。彼は私に言い聞かせるのか、自分ひとりで話しているのか分からない口調で言った。彼をよく観察すると、年のころは60歳前後。髪は半分以上が白く、深いしわが顔に刻み込まれていた。四角いセルロイドフレームの眼鏡が更に彼を頑固者のように見せていた。初めてのタイプではない。むしろ、この手の頑固者は幾人も知っている。其の幾人の誰もが自分の腕に自信があって、その分野の事では相手に決して譲らない、職人気質だった。ところで、どうしてコートの肩の幅が合わないかと言えば、こういう訳だった。数年前、冬の割引の時期に、ある店に入った。良い物を置くけれど高くてねえ、と評判の店だ。ところが割引の時期になると案外思い切って値段を下げる。特に今シーズンのものでないものは。そもそも私は流行を追うタイプではない。特に冬はクラシックのスタンダードの良いものを長く着るのが好きなので、今シーズンでも昨シーズンでも全然問題ない。店に入っていろいろ見せて貰ううちに女店主が、そうだ、あなたのサイズならば・・・と二階に上がって、一着のコートを持って降りてきた。それは黒いカシミヤのコートだった。ひと目で気に入った。ごく普通の型で、さらりと薄手な分だけ秋の終わり、冬の始まり、若しくは冬の終わりに活躍しそうだった。着てみると、軽い。まるで着ていないように軽かった。それに気軽にジーンズとも合わせられるような印象が良かった。聞いてみれは昨シーズンのもので、他のサイズはすぐに売れてしまったと言うのに、此れだけは残ってしまったらしい。少々肩の位置が合わないのが気になったが、こんなコートを定価で手に入れることはこれから先に無いだろうと思い、肩は後々直せばよいと思って購入した。店で直すのを頼まなかったのは、腕の良い人に頼みたいと思ったからだった。そうして何冬か過ぎてしまった。肩の位置が合わないと思いながら、何冬も着て、その度に直したいと思いながら。さて、コートの肩の位置を直すには少なくとも2週間は待たねばならぬらしい。私の前に持ち込まれた衣服が沢山あるらしい。これはいい。つまり順番を待ってもこの店に持ってきたいと思う人が多いと言うことだから、彼の腕が良い証拠である。12月3日でいいだろうか、とすまなそうに言う店主に、急いでないので問題はない、もしそれに間に合わなくても急ぐ必要はなく、私は丁寧な仕事をしてほしいのだ、と答えると、うん、と嬉しそうに深く頷いた。もう少し店主と話をしたかった。例えば昔は仕立て屋さんだったのかとか、何とか。こういう人の話は大概奥深く、本を読んでいるような話が次から次へと出てくるものだ。しかし、後の客が店の中で待っているので、さっさと店を後にした。今度引き取りに来る時に話してみようと思いながら。雨が強かに降っていた。でも、何だか面白そうなことになりそうな予感がして気分が良かった。
昨日の雨は酷かった。その雨に強さに猫と私は何度顔を見合わせたことだろう。私の雨嫌いが移ったのか、猫も雨が嫌い。折角の土曜日なのに、昼前から雨になった。外を歩いて気に入りの靴のつま先が濡れて、気が滅入りそうになった。いくらボローニャの街にはポルティコが巡っているとは言っても、ポルティコが存在しない道だってあるのだから。そうして朝になると、嘘のような快晴。わあ、晴天だ、と窓を開けたら真冬のような寒さだった。空が青い分空気が冷たい。そろそろ冬を迎える準備をするとしようか。