サン・ルイ島

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サン・ルイ島。私は其処がどんなところかも知らずにアパートメントを予約したのは8月のことだった。2,3日ならばホテルで良い。しかしそれ以上になると、アパートメントの方が都合がよかった。理由はいくつかある。ホテルの朝食時間に合わせて起床するのが嫌いなこと。部屋の掃除に急き立てられるようにして部屋を出なければならない事。どちらも時間を気にせねばならない。そういうことが苦手なのだ、特に休暇中は。それから、時々、私が立ち寄るフランス屋の店主と職場の同僚が、パリで居心地の良いレベルのアパートメントは非常に高いと前に言っていたこと。それでネットで調べてみたら驚くほどレンタルアパートメント情報が溢れていた。見かけの良いアパートメントは沢山あったし、手ごろな値段のものから手が届かないような高級なものまである中で、最後まで残ったのがサン・ルイ島の小さなアパートメントだった。何がよかったのだろうか。島という響きが良かったのか、それとも写真で見る路地の寂れ具合が気に入ったのか、今考えても良く分からない。ただ、あ、此処にしよう、と、まるでここでなければならないような気がしたように覚えている。休暇を目の前にして時々立ち寄るフランス屋に赤ワインを一杯頂きに行くと店主と彼の妻が居たので、サン・ルイ島にアパートメントを予約したこと、パリに着いてから何をするかを考えると伝えると、サン・ルイ島に居たらそれだけで十分楽しいと言われた。いったいどんなところなのだろう。それが私が初めてこの島に関心を持った瞬間だった。
と言いながらも、私が得たこの島についての情報は少ない。セーヌ川の真ん中にシテ島と並んで存在することくらいだった。アパートメントの持ち主の説明に従って列車やメトロを乗り継ぎ、地上に上がって橋を渡り、荷物を引きずって其処に着いた時だって、まだ分からなかった。

人との接触が旅行先での楽しみのひとつであるとしたら、このアパートメントの持ち主との出会いは私にとっては忘れがたい旅先での記憶だ。70年代半ばにパリに降り立ってからずっと其処に住んで居る日本人女性であることは事前に知っていたことだ。レンタルアパートメントのサイトに記されていたからだ。私より年上であろう、35年もパリに居る女性。どんな人だろう、と楽しみにしていなかったと言えば嘘になる。外国に長年暮らす日本人と言うのは、時として大変癖があるものだけど、私はそういう人たちが案外好きだ。面白い話が一杯詰まっている。自分が見たことも聴いたこともない経験を体の中に一杯秘めているからだ。そんなことを考えながら彼女が上階から降りてくるのを建物の扉の前で待っていたら、古くて重い扉の中から出てきたのは、一瞬肩透かしを食らったように思う程、さっぱりとした軽やかな女性だった。鍵の使い方からごみの捨て方から、鍵を持つ住人だけが使えるエレベーターの説明を受けながら上の階に辿り着き、セルリアンブルーに塗られた小さな扉を開けたら、其処が私が数日過ごす部屋だった。こじんまりとした天井の低い部屋。これは欧羅巴ではよくある屋根裏部屋の特徴で、私はそれを昔から好んでいたこともあって、一目で気に入った。正面にある窓。屋根に備え付けられた小さな窓。どれもこれもボローニャの生活にはない情景。ああ、私はパリに居るのだと実感した瞬間だった。
彼女が私に腰を下ろすように促したのをよいことに質問をしてみた。そうすることが許されると思わせるような空気が、この部屋に存在したからだ。そして彼女もまた、そういうことを訊かれて迷惑がったり嫌悪を覚えるような人ではないように思えたからだった。70年代半ばに鞄を一つ持ってパリに降り立ったのはどうしてなのか。私がずっと知りたかったこと。するとまるで楽しかったことを思い出すようにして話してくれた。あの当時の日本。パリに来たきっかけ。パリに来た当時の事。外国人に貸してくれるアパートメントは酷く少なくて、恐ろしいほど高い部屋に住まねばならなかったこと。それからの事。今までのこと。耳を傾けながら、案外彼女と私は似た者同士なのかもしれないと思いながら、いいや、彼女と似たもの同士でありたい願望しているだけなのかもしれない、と私は心の中で様々なことを考えていた。皆にそうするのか、どうなのか。彼女が腰を上げて、それじゃ、何かあったら連絡をしてね、と言った時は1時間半がとうに過ぎていた。1時間半に私が彼女から感じたことはとても多かった。私がこのところふっきれなかった何かをことごとく抹消してくれるような快活さ。単に運が良かっただけでなくて、何かに向かって自力で歩んだ人間の強さ。大変だったとは言わず、そうだったのよと言い放つことの出来る淡々とした感覚。一度はパリに来るのをやめてしまおうかと思ったけれど、来てよかった、この人に会えてよかった、それが私のパリ滞在の始まりで、サン・ルイ島のアパートメントとの関係だった。
彼女は。彼女はどうだっただろう。パリで何をしたいのかと訊かれて、何の計画もない、ただ路地を歩きたい、時々足を止めて写真を撮りたいと言った私に、落胆しなかっただろうか。彼女が説明してくれるまでサン・ルイ島の歴史を全く知らなかった私を残念に思いやしなかっただろうか。しかし一日置いてから彼女が写真美術館に行くと良いと言ってくれたこと。彼女なりに私に気にかけてくれていた証拠だったかもしれない。
サン・ルイ島に在る建物は皆どこか歪んで見える。自分の目が間違っているのか、自分の体が曲がっているのか、それとも本当に建物が歪んでいるのか。道を歩きながら相棒に電話をして伝えると、記憶に間違えが無ければ100年程前にセーヌ川が洪水で大変だった筈だと教えてくれた。成程、それならわかる。それで地盤が歪んだのだろう。それで何百年も立て直しせずに存在するサン・ルイ島の建物がどことなく曲がって見えるのだろう。そんな建物の部分を見つけながら、それでもこの場所に愛着を持って暮らす人たちがいることを嬉しく思った。小さな島だ。うっかりすると橋を渡って他の場所に行ってしまう程の。特別なものはないけれど、味のある路地がある。サン・ルイ島に居たらそれだけで十分楽しい。フランス屋の店主と妻が言っていたことをふと思い出して、ああ、このことだったのか、と思った。

住み慣れた私のボローニャに戻ってきて嬉しい筈なのに、目を覚ましたら窓からサン・ルイ島の眺めが無いのが残念だった。ボローニャに帰ってきて嬉しいのか嬉しくないのかと、相棒に窘められたが、実のところ、私にも、分からない。


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雨音を聴きながら

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パリに着いて初めての雨。案外、木曜日まで雨が降らずにいるかもしれないと考えていたが、そもそも予報が出ていたのだ、昨晩から雨が降るだろうと。それが今夜まで降らずにいたのだから、運がよかったと言うべきだろう。久しぶりに聞く雨音。雨音はボローニャだってパリだって同じ筈なのに、やはり違う。屋根のすぐ下にあるこの部屋は雨がもっと近くに感じる。ぽつんぽつんと、まるで木琴を静かに叩くような音。それから最上階のこの部屋からは雨雲がもっと近くに見える。どうして雨など降らしたのかと空に問いかけたらば、返事が戻ってきそうな近さである。旅先では雨すらも、違って感じる。不思議なものだ。昨晩のレバノンレストランで話をしたアメリカ人の彼女は、雨が嫌いだといった。この雨ではきっとパリ郊外にある自宅に閉じこもっているに違いない。何処へ行くにも自転車を使うといった彼女だが、流石に自転車でパリにひとっ走りするのは無理だろう。

今朝、初めて住人を見た。小さな中庭でばったり会った。相手は70歳手前と思える男性。とても元気そうでよい体格の持ち主だった。髪はすっかり白くなっていて、まさか此処で私に会うとは思っていなかったから、目を丸くして驚いていた。おはようございます、ムッシュー。先手を打って挨拶をすると、彼は驚いたのを恥じたかのようにはにかんで、おはようございます、マダム、と返してくれた。彼はどの階の住人だろうか。話によれば、幾人かの住人は郊外にも家を持っていて、此処にはたまに来るだけだといっていたけれど、彼もそのうちのひとりだろうか。
今日は写真美術館なるものに足を運んだ。アパートメントの持ち主が、其処に行くとよいと勧めてくれたのだ。色んな展示があったけれど、あまり興味が無いものだった。ただ、1960年代後半から80年代のアメリカの写真に酷く惹かれた。それは私がまだ見たことのない、しかし、多分映画や本などから知ったアメリカとぴたりと重なっていた。まさかパリでこんな写真を見るとは思ってもいなかったので、不意打ちを打たれたような感じでショックだった。それにしたってそうしたものをレンズに納めた人がいたと言うことも、驚きであり、羨ましくもあった。今日、この写真を見ることが出来てよかったと思った。多分、これからの私の考え方に大きく影響するに違いない。
夕方、早めに帰ってきたのは今にも雨が降ってきそうだったから、そしてあまりに寒くて疲れてしまったからだ。寒くて疲れるだなんて、まるで冬のよう。いや、ボローニャに暮らす私にしてみたら、此れは立派な冬の気候だった。アパートメントから100メートルも行かないところにチーズとワインの店がある。私は初日にその店で、上等な赤ワインとチーズを購入したが、なかなか良いものだった。良いのは店主の若い男性もそうで、とても素敵な笑顔の持ち主だ。心なしか若い女性客が多いのは、多分そうした理由だろう。兎に角、ボローニャで猫とふたりで留守番している相棒に、何か美味しいものを持っていきたくて、再び店にやって来た。私と相棒は、コンテ、と言う名のフランスのチーズが大好きだ。この店には3年間寝かせた良いものがあって、今回は此れを購入した。そしてトリュフが入ったものも。大奮発。でもたまには良いだろう。それに美味しいものは生活を豊かにすると言うではないか。だから、良い買い物をしたと言うことになる。うん、そういうことにしておこう。レバノンレストランの前で店主の声を掛けられた。昨晩の食事は美味しかったかい。うん、とても美味しかった、有難う。見た目はごつい体格で強面の彼だが、本当はとても気のよい男性なのだ。

雨は止むだろうか。明日の朝にはこのアパートメントから去る。ボローニャの、いつもの生活に戻れるのが嬉しく思うような、まだパリを去りたくないような。でも、分かったのだ。来ようと思えば何時だって来れる距離なのだと、パリという街は。小さな鞄を持って、ひょいと来ればいいだけのことだ。


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魅力

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私が借りているアパートメントがあるサン・ルイ島はセーヌ川の真ん中に存在するからなのか、朝晩冷たい風が吹く。昔ながらの窓枠は趣があり、鍵のメカニズムや取っ手にしても大変私好みであるが、最新のガラスではないから風でかたかた鳴る。私はそれが好きで、風で揺れてガラスが鳴ると、一瞬耳を澄まして聴き入る。ああ、風が吹いている。そんなことを思いながら、白いシーツの上に横たわり、知らぬ間に深い眠りに陥るのだ。

マレ界隈、と言う名をパリに来る前に知人たちから何度も聞いた。それから借りたアパートメントの持ち主も、マレ界隈には沢山の路地が在って面白いからと勧めた。それではと足を運んでみたのはサン・ルイ島から歩いてすぐ其処だと思ったからだ。パリの地図は危険だ。何処も近くそうに見える。地図をポケットに突っ込んで歩き始めたは良いが、どうも分かりにくい。道が酷く入り組んでいる。そのうち自分が何処に居るのか判らなくなってしまった。パリに来てからいつもこんな風だ。街歩きは大の得意。地図を読むのも大の得意。方向感覚があるから、知らない街だって全然問題ない。私は今までずっとそう思っていたのに、全く自信が無くなってしまった。その反面、私はこの界隈が酷く気に入って、毎日のように足を運ぶ。この辺りにはアトリエあり、ギャラリーあり、衣類を売る店あり、雑貨店あり、カフェあり、食料品店あり、手早く言えば何でもありだ。それがどれも小洒落ているので、ここを訪れる人は後を絶たない。ひと頃の私ならば、それらをひとつひとつ覘いてみたくなっただろう。ところが最近嗜好が変わり、本当に関心のある店にしか入らなくなった。おかげで散在することも無く、店のウィンドウのセンスを堪能したり、店の窓枠や壁、扉の色を楽しんだりするだけだ。色。そうだ、この街の色には本当に脱帽だ。ボローニャの何処を探したってこんな色合いは存在しない。そもそも街が許可しないだろうから、存在しないのも不思議ではないけれど。街の調和と言うか、何と言うか。ピアノーロに住居を購入した時、アパートメントの住人たちと相談して外壁を塗ることになった。それで何色にするかと言う段になったら、まずは市に許可を得なければならないと知った。市に指定されたのは橙色、もしくはそれに近い色。それで柔らかい橙色を選んだが、塗ってみたら酷く赤くて頭を抱えた。まさか、市から塗りなおしの通告がでるのではないだろうかと。結局そのままで良いと言うことになったけれど、周囲との調和の欠片もなくて、近所の話題の種だった。パリではそんなものは関係ないらしい。濃い若草色に塗られた店もあれば、紺色の店もある。そうした自由な空気が、芸術家をこの街に集めたのかもしれないと思った。パリの魅力に嵌った人々。パリに集まった芸術家。名を上げた人だけでなく、まだ磨く前のダイヤモンドのような人達も含めて。ただの石ころやガラス玉の人だっているかもしれないけれど、私はそんな人達でさえ眩しく見える。自分の才能を信じて今日を生きる人、明日へと歩む人は、それだけで美しく、それだけで価値があるのだと思うから。明日のことなど誰にも分からない。今日まで価値を認められなかったものが、明日は素晴らしいと、新しいと言って褒め称えられることだってある。だから前に進む力を捨てないで欲しい。私はいつも彼らにそう願うのだ。道を歩いていたら仕立て屋さんを見つけた。小さな店で酷く地味だった。外から中を覘いてみたら、奥で女性が縫い物をしていた。そういえば私には昔から小さな夢があった。自分で、ひと針ひと針、心をこめて、いや、愛情をこめて、上質のカシミアで自分用の冬のコートを縫いたいと。自分にぴったりの、シンプルでクラシックな形の、一生着続けることが出来るようなコート。厚みのあまり無い、軽くて暖かいカシミアコート。襟に手縫いのステッチが見えるような。奥にいる女性を眺めながら、そんなことを思い出した。そして気の向くまま歩き始めたら、案の定何処に居るのか判らなくなった。街角に記されている道の名前と地図を照らし合わせるが、分からない。結局また、通りかかった人に助けて貰った。親切な人が多い。それがパリの印象のひとつだ。

アパートメントのすぐ隣の建物に、レバノン料理の店がある。割と高い店だ。夕食をとれば軽く50ユーロは飛びそうなほどの。前を通るといつもいい匂いがして、私の鼻を刺激する。今夜は思い切って立ち寄ってみた。小さなひとり分の持ち帰りを頼んだら、快く引き受けてくれた。料理が出来る間、店の中で待った。店の中にはひとり髪の長い若い女性がいた。アメリカ人らしかった。彼女は私に不意に話しかけて、今日はインド製のスカーフを3枚も購入してご機嫌なこと、彼女は週末だけこの店でダンスをしていること、今夜は気が向いて立ち寄ったこと、パリの南に住んでいて、この寒い中、自転車で突っ走ってきたことを、訊ねてもいないのに次から次へと話してくれた。私の言えることといったら、まあ、そうなの、くらいなものだった。それにしても、彼女はどうしてパリに住んでいるのだろう。きっと、彼女も、パリの魅力にとりつかれて此処を離れられなくなったひとりなのかもしれない。


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普段のパリの顔

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同じ階の誰かが朝早く扉を閉めて出て行ったのが聞こえた。仕事だろうか、学校だろうか。まだ、この建物の住人とは会ったことがないけれど、確かに人が住んでいるようである。時計を見るとまだ7時だった。いつもの私なら既に朝食を終えて、猫の世話をしている時間だ。月曜日のそんな時間に、私はまだ掛け布団の中に潜ぐっていて、近所の人の物音に耳を傾けてはまだ朝早いのになどと思っている。月曜日だというのに、まったく。それもこれもパリの日の出は遅いからだ。8時だ。ボローニャと比べたら30分ほど遅い。朝日が昇らないと頭と体のエンジンが掛からないなどと言ったらば、相棒はきっと笑うだろう。朝日が昇ってもエンジンの掛かりが悪いくせにと。

今朝は酷く寒かった。10時になっても8度だった。メトロの駅を出たところで、はーっと息を吐いてみたら白い煙のように空に上っていった。今日の目的地はオランジュリー美術館。パリに着いてからと言うもの、私はこの広さに加えて土地勘も掴めなくて歩く方向を間違えてばかりいる。こんな寒い日に方向を間違えてはならぬ、と、その辺に歩いている人に訊ねる。あっちのほうだと指で示す。私の想像どうりだった。少し慣れてきたのかもしれない。まだ早い時間とあって人は少なかった。此処に来たのはモネの睡蓮の連作があるからだった。昨晩、ふと思いついたのだ、観に行ってみようかと。本物のこの絵を初めて観たのは私がまだ10代の半ばだった頃のことだ。当時の私は絵に夢中で、月に幾度も美術館に足を運んだ。私が両親から月に貰う小遣いは恐ろしく少なかったが、美術館へ行く為ならば、両親は喜んでお金を与えてくれた。私の両親は、それほど私が美術に夢中なことを喜んでいたのかもしれない。それでモネの連作だが、前に見たのはもう随分前のことなのに、その時の喜びは記憶に新しく、何がそれほど私を喜ばせたのかを確かめたくての訪問だった。部屋に入るといきなり4つの連作があった。絵の前に長々と並ぶ長椅子に座った。私はこんな風に絵の前に座ってゆっくり鑑賞するのが好きなのだ。館内の全ての絵を観る必要は無い。好きな絵を幾枚か時間を惜しまずに眺めることが出来たら、それで充分なのだ。私の隣にはまだ高校を出たばかりのような瑞々しさを持った学生。モネの連作を模写していた。それをこっそり覗き込みながら、私もそんな学生のひとりだったことを思い出して、胸が一杯になった。私はやめてしまったけれど、君はやめないで夢を追いかけてね。そんなことを無言で語りかけてみたけれど、それが伝わる筈もない。次の部屋にも連作があった。絵でも音楽でも、人には好みと言うものがある。だから絵を鑑賞した感想も、人と同じである必要は無い。100人居たら100通りあって、それで良いと思う。それで私にとってモネの睡蓮は、好みとか何とかを超えた、私の心をかきたてる、夢のようで、くすぐったくて、懐かしくて、恋焦がれるようなもの、それでいて穏やかな感じ。もし私がパリに暮らしていたら、時々此れだけを観る為に此処に足を運ぶだろう。それは多分10代の半ばの頃とは違った気持ち。安堵を求めるような気持ち。美術館の傍にある丸い池。その周囲に若草色の椅子が不規則に置かれていて、ここを訪れる人達が思い思いに腰を下ろすらしい。そういう感覚がこの街らしいと思い、それがこの街の良いところなのだと思った。

19時半を過ぎた頃、急に人の声が聞こえなくなった。サン・ルイ島のこの辺りは、土、日曜日と大変な賑わいで遅くまで人が街を徘徊していて声が聞こえたと言うのに。平日のパリは、案外こんな風に静かなのかもしれない。これが普段のパリの顔だとしたら、私はパリと上手くやっていけるような気がする。


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パリへ

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目を覚ましたらいつもと様子が違うことに気付いた。そうだ、私はパリに居るのだ。少し前には全てを中止してしまおうかと思ったが、気分転換したら元気が出るよ、と相棒が背中を押してくれて、私はひとり、重い荷物を持ってボローニャを出た。

重い荷物。多分昨年の私には大して重く感じなかったに違いない荷物。でも今の私には酷く重く感じる。パリの空港に到着して、人に助けられながらアパートメントの前に到着した時には正直言ってほっとした。列車に乗って、メトロに乗って、最寄り駅から歩いての道のりは長く、早くもパリの大きさに圧倒されていた。そして人の多さにも。荷物が重くて途中の乗り換えの階段を上れなかった私を助けてくれたのは20歳くらいの女の子。私が持ってあげる。ううん、重いのよ。マダム、大丈夫だから。そんな言葉を交わして、女の子が階段の天辺まで持って行ってくれた。本当、重かった、と彼女が正直に言ったときには思わず顔を見合わせて笑ってしまった。可愛い、パリの女の子だった。私が借りたアパートメントはサン・ルイ島の1600年代に建てた建物の一番上にある小さな部屋。小さい、しかし狭いといった感じは無く、小さくて居心地がよく、私には全く丁度よかった。それに部屋の持ち主がこの島や、この建物や、この部屋にまつわる話を聞かせてくれて、それからパリと言う私には知識ひとつ無い街の話を聞かせてくれて、この部屋を借りたことを幸運と思った。
一息ついて外に出た。着いたばかりで右も左も分からない。それに何の知識も蓄えてこなかった。地図を片手に歩き始めたが、あっという間に迷路のように鏤められた路地に吸い込まれて自分の所在が分からなくなった。何と言うことだろう。街歩きは大の得意の筈なのに。私が道に迷うなんて。地図を広げて探すが分からない。何しろ驚くほど沢山の道が存在するのだから。それにしても魅力的で、道に迷ったと言いながらも、また更に路地へと吸い込まれていく。そのうち風は冷たくなって、気が付いたら3時間も歩いていた。帰り道が判らなくて困ったが、親切な人は何処にでもいるものだ。君が居る場所はここ。最寄のメトロの駅はここ。そんな風に教えてくれる。私はパリに着てから人に助けて貰ってばかり。案外悪くないな、この街は。助けてくれた人達に沢山の幸あれ。

それにしても今朝は寒い。午前10時の気温は9度。日曜日の朝はゆっくりが基本の私だけれど、首に襟巻きを巻きつけてヴァンヴの蚤の市を目指す。セーヌ川の風が冷たい。帽子を持ってこなかったことを心底後悔しながらメトロの駅へと急いだ。


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