Buon natale.

昨晩からアフリカからの南風が吹き荒れている。吹き荒れる、そんな言い方がぴったりだ。生温い風が窓ガラスを揺さぶる音に耳を傾けながら、まるで春の始まりのようだと思う。数日前まで昼間にして氷点下9度だったのが嘘のようだ。美しく晴れた空。居間の大きなガラス窓から温かい光が差し込むと暖房など要らないくらいだった。ガラスの向うに見える樹々が南風に大きくなびいているのを眺めていたら、ふと懐かしい気分になった。日本の冬のようだった。私が育った田舎の町は冬になると空っ風が吹いた。そんな風が吹く日は大抵快晴で、冷たい大風をよそに太陽の日差しで家中が暖まり、昼間は暖房など不要だった。まるで温室のように温かくて、時々半袖を着て過ごした。ところが母が言うのだ。風邪を引くから長袖を着なさい、と。今考えれば尤もな母の意見であったが、何しろ私は思春期だった上にはねっかえりだったから、そんな言葉に耳を貸さなかった。でも母の言葉には耳を貸すものだ。私は忠告を守らなかったばかりに熱を出して寝込むのが常だった。大人になって物事の良いこと悪いこと、正しいこと正しくないことが分かるようになった今、あの当時の私はどうしようもない子供だったと我ながら思うのだから、父も母も私には手を焼いたに違いなかった。もう何処を見ても雪の姿は無い。と思っていたら一日中陽の当たらない林の中で見つけた。でも、これも時間の問題。明日には消えてなくなるだろう。夕方ボローニャ市内へと車を走らせ、路上のデジタル温度計が17度を示しているのを見た。12月らしくないこの気候に、人々は当惑しながらも内心喜んでいるのではないだろうか。少なくとも私は手放しで喜んでいる。こんな風に今年を終えることが出来たら素敵だ。12月25日。遠くに暮らす私の家族や友人達、それから小さなつながりを持つ沢山の人達はどんな風に過ごしているのだろう。
Buon Natale. この聖なる日を私は喜びに満ちた気持ちで過ごしたいと思う。

小さな幸運

暫く零下の毎日だったボローニャに雨が降って雪騒動に一段落がついた、ような気がする。道に張り詰めていた氷は溶けた。まだ路肩に雪は残っているが、滑って転ぶこともなくなるだろう。張り詰めていた氷と一緒に私の神経も張り詰めていたらしく、冬休みを迎えて肩の力をやっと抜いた。それで久し振りに旧市街を歩くことにした。何を見たいわけでも何をしたいわけでもなかった。ただ、町を歩き回りたかったのだ。多分、冬休みに入る私流儀式みたいなものかもしれなかった。町行く人たちは一様に店の名前の入った紙袋を手に提げて、足早だった。家族や恋人、友人達への贈り物を買ったのだろうか。それとも自分への贈り物かもしれない。何にしろ先を急いでいるような雰囲気だ。私のように当てもなく、こんな日のこんな天気の午後に散策を楽しんでいる人など居ないらしい。しなくてはいけない事があり過ぎない私の生活は、考えようによっては幸運だ。そうだ、物は何んでも考えようだ。幸運なのだ。そう言葉にして繰り返してみたら気分がとても良くなった。元気に歩けるのも幸運、家族がいるのも幸運、お喋りする友人が居るのも幸運。探してみれば小さな幸運は沢山あるのだな、と改めて驚く。Via Ugo Bassi の菓子店ガンベリーニに立ち寄った。店は混み合っていた。カフェが欲しいから、甘いものを摘まみたいから、というよりはいつもの店に立ち寄ってカフェをして顔なじみの店の人にクリスマスの挨拶をしたい人が大半だった。この店にはそんな客が沢山居る。私がここに立ち寄ったのは別に店の人に挨拶をしたかったからではない。私はそんな常連客ではない。せいぜい月に8回も立ち寄ればよい方だ。言うなれば普通の客の部類である。私が今日ここに立ち寄ったのは、美味しい菓子を今晩姑と一緒に頂こうと思いついたからだった。甘く煮た洋ナシを包むようにして焼いたチョコレートのトルタが私の一番の気に入りだった。旧市街に行くことのない年老いた姑だがボローニャに生まれて育った彼女がこの店を知らないわけが無く、ふとした拍子に店の名前が私の口から零れると目を大きく見開いて輝かせた。そうか、彼女はこの店が好きだったのか。長いこと彼女と付き合っていながら初めてそれに気がついたのはつい最近のことだ。ところが店に例のトルタの姿は無く、どれも生菓子のチョコレートやクリームで美しく飾られたものばかり。訊いてみるとこの時期は無いそうだ。クリスマスの時期がすっかり終わるまで。仕方がないなあ。それで美味しい手土産は1月まで延期になった。折角立ち寄ったので、小さな菓子とカップチーノを注文した。菓子の中にはザバイオーネがたっぷり入っていた。ザバイオーネというのは卵黄に砂糖を加えてねっとりとするまで掻き混ぜたちょっとお酒の入ったかなり濃厚なクリームだ。このままスプーンですくって食べることもあれば菓子の中に入っていることもある。この名前を初めて知ったのは十何年も前に読んだ小説の中だ。ドナウ川に沿って旅する人々の人間模様や心、姿を綴った情緒豊かな小説のかなり初めのほうに書かれていた。ねっとりとした恐ろしいほど甘いザバイオーネ。頭が痛くなるほど甘い。そんな風に書かれていたはずだ。だからボローニャに来て初めて目の前に出された時は、ああ、これがあの甘い奴か、と酷く構えたものだ。ところがである。その甘い奴はとても美味しかったのである。何でも試してみるものだ。そんなことを思い出してにやけながら小さな菓子を丸ごと口に放り込んだ。私は嬉しそうな顔をしていたのだろうか、店の若い人が私の顔を覗き込んでいた。照れ隠しに言い訳のひとつもしたかったが、口の中が一杯で話が出来なかった。先程より更に店が混んできた。長居は無用だ。店の人に声を掛ける。有難う。それじゃあ、またね。Auguri(おめでとう)。 すると店の何人かが明るい声で返事をしてくれた。Auguri, お嬢さん。   え。お嬢さんだって? 今日はかなり幸運だ。

12月

寒い週末だった。雪は止んだが道という道が凍りつき、窓辺から見ているだけでも寒そうだった。先週から変な習慣がついた。翌朝のことが心配で夜中に何度か起きては窓の外を窺う習慣。雪が降っていないだろうか、雪が積もっていないだろうか、そんな心配から来る習慣だ。雪が嫌いだ。見ている分には美しくも、その中を歩くのも運転するのも苦手だ。何よりも寒いのが嫌いだから、雪を好きなはずが無かった。そんな雪の中を喜んで走り回る友人の犬。顔中を雪で白くしながら走っては止まり、雪を食べる。何も食べさせていないと思われるではないか、と友人は犬を叱り、犬はまた走り出す。冷たい真っ白の雪の上に寝転ぶ犬。いつだったか犬は雪が好きだと聞いたことがあるが、どうやら本当のことらしい。私は動物で言えば猫に違いない。暖かいところに静かに丸まっている猫。クリスマスが目前にやって来た。この時期になると必ず思い出すこと。アメリカに暮らし始めて初めて迎えた12月のことだ。全てが新鮮に見えたアメリカ生活の一年目の中でも12月の様子は新鮮であり心が躍った。クリスマスを迎える為に人々はショッピングに繰り出し、町は平日も休日も大変な賑わいだった。質素な生活をしていた私は美しいクリスマスカードのセットを買って家族や友人達に心をこめてクリスマスのお祝いの言葉をしたためた。50枚にもなるとカード代も切手代も馬鹿にならなかったけど、そんな風にして家族や友人達と良い関係を保っているのだと思えば、それは私にとっては嬉しい出費であった。24日の午後になると嘘のように町が静かになった。そして25日はまるでゴーストタウンのように静まり返った。皆家族の所に行ってお祝いしているのだろう。そんなことを考えながら私はひとりで人ひとり、犬一匹歩いていないあの賑やかだった町をさまよい歩いた。私が見たこの町の一番静かな1日だった。ボローニャの12月25日もまた、家族がひとつになって祝う1日。昼食時は町を歩く人など居ない。ところが午後3時も過ぎると食後の運動とばかりに町を散歩する人達が沢山。何しろ本当にご馳走なのだから。店は何処も閉まっているが、美しくディスプレイされた店先を眺めながらそぞろ歩きする人々。その様子を見てはまた思い出す。あのゴーストタウンのように静まり返った町をひとりさまよい歩いた日のことを。

雪の朝

昨日夕方から降り出した雪。ボローニャではこの冬3度目の雪で今週3度目の雪だった。粉雪がふわふわと舞い飛んでいるだけで降っては闇の繰り返し。コートの上に降り落ちてはあっという間に溶けていくような儚い雪だった。だからそのうち止むさとか、どうせ積もりやしない、と誰もがたかをくくっていた。夜も遅くなった頃、雪は先程のような軟弱なものではなくて真剣みを増した。歩行者も車もいない無人の白い世界を見て、美しいと思い、さてどうしようかと途方に暮れた。土曜日の昼過ぎに大切な客人が来る予定だったからである。この分だと中止になるかもしれない。この訪問を楽しみにしていた相棒は、何てついていないんだ、と何度も呟いては誰にもぶつけられない怒りを抱えてご機嫌斜めであった。物音のしない世界。雪が全てのもの音を吸い込んでしまっているかのようだった。おかげであっという間に眠りに落ちた。朝早く目が覚めたのはいつもと違う物音のせいだった。土曜日なのに勘弁してよ。眠い目をこすりながら外を見ると大雪だった。大雪と言っても1メートル積もったわけではない。たったの20cmだ。しかしこの辺りの人々を脅かすには充分であった。近所の人々は頭の先から足の先まで重装備して雪掻きに忙しい。そうでもしなければ家から一歩だって出られないからだった。車道には除雪車が前回の雪の日のような交通麻痺があってはならぬとでも言うように、何度も往復していた。これだ、この音だ、私の安眠を妨害したのは。テラスの植物ときたらこんな様で、寒い寒いと訴えている。さて、今日は客人も来ないだろう。1日雪掻きとテラスの手入れでもするとしよう。それにしてもこの冬は雪が安易に降りすぎるねえ。窓の外から近所の人の声が聞えて、窓越しにそうだそうだと頷きながら同意した。
それで客人は相棒の心配をよそに雪にも負けずに来てくれた。たまにはこういうことがあると嬉しい。ついている! 先程から何度も連呼している相棒の機嫌は上々だ。

記憶の引き出し

朝起きると窓の外が真っ白になっていた。夜中に一度目を覚ました時には無かった雪。いったい何時頃降り始めたのだろう。雪が枯れ枝に積もる様を眺めるのが好きだ。地面に積もった雪につけられた、幾つかの足跡とタイヤの跡。まだ近所の人はあまり出歩いていないらしい。窓の隅からそんな様子を眺めながら、二日前の朝見たお腹の黄色い小さな鳥が木の枝にとまって何かを一生懸命啄ばんでいたのを思い出した。この寒い時期を過ごす為に充分な食料を収穫しなくては。そんな感じだった。彼は今日雪が降るのを知っていたのかもしれない。それから先週のある朝、家から車で5分ほどの丘の途中でキツネを見たのを思い出した。小さな美しいキツネだった。じっと私の方を見ていた、ような気がした。彼女は何が言いたかったのだろう。もう直ぐ本当の冬が来ると言いたかったのだろうか。彼女、今ごろ何処かの穴倉で温かく過ごしていると良いけれど。私の頭の中はいつもそんな小さなことで一杯だ。小さな些細な、他の人から見ればあまり大切でないようなことばかり。頭の中の壁という壁一面に小さな引き出しが嵌め込まれていて、時々思い出したようにそれを開ける。そのうちどの引き出しも一杯になって、しまう事が出来なくなるのかもしれない。最近そんなことを時々考える。ある日、旧市街の地味で目立たない界隈で、リトグラフをみつけた。道に面した大きなガラスの直ぐ向うにリトグラフはあった。作品はLa memoria(記憶)というタイトルがつけられていた。頭の蓋を開けて色んなものを詰め込んでいるところなのか、それとも中に詰まっているものを時々引っ張り出してこんな風に書き留めたりするのか。それにしても色んなものが詰まっているのだな。ほら、手をこまねくニヒルな表情のペンギンも、古い写真やブーツ、小さな女の子や空に浮かぶ白い雲、美しい月までも。彼女の頭の中も私の頭のように沢山の引き出しがあるのだろう。何か共感を覚えて色々質問したくなったので店に入ろうとしたところ、店内の照明はついているくせに扉には不在のメモが貼ってあった。18時に戻ります。18時かあ。と呟いていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと青年が2人立っていた。彼らもまた店に来たら閉まっていてがっかりしているのだと言った。私はあの作品を指差して、あれがとても気にいって話を聞きたかったのだと言った。それではひと回りして時間を潰して、また18時にここで会おう、そういって青年達は歩き出し、私もまた反対方向に歩き出した。18時まであと3時間あった。暫くぶらついたが急に冷え込んできて、私は遂に店に戻ることなく通り掛ったバスに乗ってしまった。今度は遅い時間に訪れてみよう。今度こそあの作品のこと、作者のことを訊きださなくては。

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