サブタイトルは「社会的選択理論とは何か」。単純な多数決の問題点を指摘し、その代替案、さらには多数決に依拠している現在の政治のこれからのあり方を問う非常に面白い本になっています。
 個人的にこの本が素晴らしいと思った理由は2つあって、それは(1)社会的選択理論を初歩から丁寧かつ明晰に説明している点、(2)明晰であるがゆえに著者との根源的な政治観や人間観の違いが明らかになって政治に対する認識がより深まった点、の2点です。
 
 まずは(1)の部分から。
 社会的選択理論の入門書というと、佐伯胖の『「きめ方」の論理』あたりが有名だと思いますが(佐伯胖の本では「社会的決定理論」となっている)、さすがにもう35年も前の本ですし、何よりも300ページ近い、それなりに専門的な本です。
 また、社会的選択理論に触れた本の中には、いきなり「アローの不可能性定理」などを紹介して「民主主義の不可能性!」のような話を持ち出すものも目につきます(ちなみにこの本の「アローの不可能性定理」の説明は非常に良いと思う)。

 その点、この本は全体で180ページほどにまとまっており、しかも、ボルダやコンドルセといった「社会的選択理論の祖」といった人物の考えから丁寧に紹介されており、何が問題で、どのような解決方法が模索されてきたのかということがよくわかります。
 
 単純な多数決の問題の実例として、この本では2000年のアメリカ大統領選挙をとり上げています。
 ブッシュとゴアの大接戦で、フロリダ州での票の数え直しなどにまでもつれこんだ大統領選挙でしたが、著者は第三の候補ラルフ・ネーダーの登場が選挙結果を歪めたのではないか?ということを問題視します。
 ラルフ・ネーダーは社会活動を熱心に行ってきた弁護士で、既成政党を批判するために出馬しましたが、ブッシュ、ゴアの両者と比較すると政策的には明らかにゴアに近く、ラルフ・ネーダーが出馬しなければその票の多くはゴアに流れたでしょう。つまり、ラルフ・ネーダーの出馬は、ブッシュに漁夫の利を与えることになってしまったのです。

 ラルフ・ネーダーの支持者の多くは「ラルフ・ネーダー>ゴア>ブッシュ」という選好を持っていたと思うのですが、結果的にラルフ・ネーダーに投票することがブッシュという最悪の選択肢を浮上させてしまう。これこそが多数決の大きな問題点の一つだというのです。

 そして実はこの問題を解決する方法はいくつか見い出されています。
 例えば、革命前のフランスで多数決に関する研究を行ったボルダの提唱したボルダルールです。ボルダルールでは選択肢が3つあった時、投票者は1番の選択肢に3点、2番めの選択肢に2点、3番目の選択肢に1点を投じます。
 細かい説明はこの本を読んで確かめて欲しいのですが、これによってペア敗者(2択になれば負けてしまう者)が勝つ可能性がなくなります。つまり、先程の例だと、「ゴア対ブッシュ」ならゴアが勝つが、「ゴア対ブッシュ対ラルフ・ネーダー」だとブッシュが勝ってしまうということがなくなるのです。

 この本では、このボルダルール以外にも、さまざまな方法の長所と短所が検討されています。
 特にボルダルールを拒否したコンドルセの解決方法が、1988年にペイトン・ヤングによって定式化されたという話は学問のダイナミズムを感じさせるもので非常に面白いです。
 そして、さまざまな方法を提示するだけではなく、著者がボルダルールを「推している」というのも、この本の特徴の1つでしょう。

 次にこの本の後半の議論と(2)の部分について。
 この本の後半の主人公はルソーです。ルソーは「一般意志」による政治を目指しましたということは知られていますが、この「一般意志」というのは謎めいた概念でもあります。
 近年、東浩紀重田園江がこのルソーの「一般意志」をめぐって興味深い議論を行っていますが(この本での「一般意志」の捉え方は重田園江のものに近い)、ここでは基本的に個々人の私的利害を取り去ることで浮かびががるものとして「一般意志」を捉えています。
 つまり、「一般意志」こそが、政治的問題における「正解」なのです。

 「正解」という表現は強すぎるかもしれませんが、著者は第3章の冒頭で60%の確率で正しい判断ができる陪審員がいるとすれば、その数が増えれば増えるほど正しい判断ができるようになるという「陪審定理」を紹介し、次のように述べています。
 つまり自分は「有罪」を投じたが、多数決の結果が「無罪」であったときには、自分の判断は高い確率で間違えていたというわけだ。自分の意に沿わない、気に入らない結果が出たと考えるべきではない、自分が間違えていたわけだから。(67p)

 著者はこの「陪審定理」が政治の世界でも基本的に通用すると考えています。
 「個人が特殊的な「私」の次元から一般的な「公」の次元へと思考を移すという、熟議的理性の行使」(76p)によって、「一般意志」を見出す、つまり「正解」を見つけることが可能であると考えているのです。
 こうした態度はこの本において一貫しており、最後の第5章では國分功一郎『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)でもとり上げられている、都道328号線の問題をとり上げながら、著者の専門でもある経済学のメカニズムデザインの知見を活かして、「建設すべきか/すべきでないか」という問題に答えを出す方法を提示しています。

 確かに、「陪審定理」には納得しますし、そこから憲法改正のルールにおいて単純な多数決よりも3分の2以上の賛成が必要なルールのほうが優れているという話も納得できます
(著者は現在の衆議院がある一定の得票で多くの議席を獲得できてしまう小選挙区中心である以上、国会の発議だけではなく国民投票にも3分の2以上の賛成が必要であるべきだと考えている)。

 ただし、政治において「正解」がない場面が多いのも事実でしょう。
 例えば、外交などでは相手国のアクションに対して短い時間で決断を迫られる時があります。「正解」がわからなくても、その時点で「最善」だと思える手を打たなければならない場面は数多くあるはずです。
 陪審では過去に起こったことについて判断を行うわけですが、政治においては未知の未来に対する判断を迫られることもあるのです。

 その点で、著者やルソーは人間の理性にあまりに多くのことを期待しているように思えます。
 「私」と「公」の区分にしても、例えば「公」の範囲をどう設定するかで結論は変わるはずですし(「公」が日本なのか全世界なのかで結論の違う問題は多いはず)、結局はどこかで問題を切断しなければ、あるいは複雑性を縮減しなければ、答えを出せない問題は多いはずです。

 これは著者の推すボルダルールについても言えて、確かに選択肢が3〜6くらいのときはボルダルールが優れていると思いますが、選択肢が増えて2桁になればだんだんきちんとした順位は付けられなくなると思います。例えば、2002年のフランス大統領選挙では16人が立候補していますが、この順位付けは有権者にとって大きな負担となるでしょう。

 著者の前著『マーケットデザイン』(ちくま新書)でも感じましたが、著者、というか社会的選択理論の想定する人間像というのは現実の人間とはずれているのではないかと思います(佐伯胖『「きめ方」の論理』では推移律に疑問を呈している部分があった)。

 と、批判めいた事も書きましたが、それでも、というかそれゆえにこの本は素晴らしいと思います。
 これだけ政治や人間について考えさせられたのは、この本の記述が明晰かつ一貫しているからであり、それだけ興味深い問題を扱っているからです。
 政治、あるいは社会科学に興味がある人は必読の本といえるのではないでしょうか。


多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)
坂井 豊貴
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