山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2020年12月

荒木田岳『村の日本近代史』(ちくま新書) 9点

 なんとなく我々は、鎌倉時代以降に成立した自治的な組織である惣村が、人々の共同体として江戸時代に受け継がれ、それが明治期に行政単位として再編されていったというイメージを持っています。江戸時代には共同体としての「自然村」のようなものがあったと想定されがちです。
 しかし、本書ではそうした自然村は一種の幻想であり、村というのはあくまでも支配のための「容器」であったと主張します。そして、そのことを証明するためにあくまでの支配者の目線に立ちながら、太閤検地以降の村の変遷を追っていくのです。
 このように書くとなかなか硬そうな内容ですし、実際に硬い本なのですが、全体を通して非常に刺激的な議論が行われています。
 私たちは権力者が制度を制定すれば、その通りに物事が運ぶと考えがちですが、そうはならなかった部分を丁寧に見ていくことで、今までとは違った歴史が立ち上がってきます。

 目次は以下の通り。
序章 村概念の転換
第1章 村の近代化構想―織豊政権期
第2章 村の変貌と多様化―幕藩体制期
第3章 村の復権構想とその挫折―明治初期
第4章 土地・人・民富の囲い込みと新たな村の誕生―明治中期
終章 「容器」としての村

 一般的に「村」というと、一定の領域があり、その中で共同生活が営まれているとイメージされます。
 しかし、歴史的にみると支配者が把握しようとしたのは「人」であり、「領域」ではありませんでいた。律令制における戸籍制度や税制などを思い浮かべると、そうだったことがわかると思います。
 では、村を「領域」として把握しようと考え始めたのはいつのなのか? 著者によれば、それは秀吉の太閤検地からになります。

 この時代は大航海時代でもあり、スペインとポルトガルは世界を「分割」しようと考えました。地球の有限性が認識されるとともに、世界を「分割」して「囲い込む」動きが起こったのです。
 著者は太閤検地をこうした流れの中に位置づけます。秀吉はいわゆる「天下統一」を成し遂げ、戦争や紛争を全面的に違法化していくのですが、それを実現するための政策が石高制にもとづく土地政策になります。
 
 信長は一部の家臣に領国の自由裁量を委ねる全権を与えましたが(これを「一色進退」という)、秀吉は領知権(貢租収納権)と所有権を分離し、前者を領主に、後者を百姓に与えました。
 これによって、その土地を先祖代々受け継いできた領主はあくまでも一時的な領知権を持つ当座の領主となりました。秀吉は全国の領主を交換可能な「石高官僚」にすることを狙っていたのです。そのために、所有権を百姓に与えるという思い切った方針がとられました。
 しかし、それを行うには領地が交換可能ではなければなりません。そこで、その交換可能性を担保するのが石高制です。度量衡を統一して、全国の耕地を測り、全国の土地を「石高」という数字に換算することで、例えば、近江10万石の大名を遠江10万国に転封することが可能になるのです。

 ただ、現実には難しい部分もあり、「石高」という言葉一つとっても、生産高として使われている所もあれば、年貢高として使われている所もあります。実際に集めた年貢高から逆算して生産高としての石高を求めたような所もあったとのことです。
 またこの時、同時に村を再編成し、その領域を確定する「村切り」も行われましたが、どちらかというと年貢高の確保が優先されたために、この「村切り」は不徹底に終わったようで、この後も境界紛争は頻発しています。
 当時は村請制が広がりつつあり、実は村請制がしっかりと機能している限り、村の中の実際の耕地のありようや、村境の問題は放置していても年貢は徴収できます。現場では実測ではなく、村との交渉の中で石高が決まっていったケースも多かったのでしょう。ただし、これによって百姓は課税に同意したともとれます。

 この時期には刀狩りも行われています。これは農民から完全に武器を奪い取るものではありませんでしたが、これによって身分の違いがよりはっきりするようになりました。さらに人掃令も出されたことで、武士と奉公人が峻別され、城下に住む家臣(士)と村々の地侍(兵)が分離されました。
 領主には領知権のみを認め、一定期間で転封させる。そのときには家臣(士)のみがついていき、百姓はその土地にとどまって次の領主の支配を受ける。これが秀吉の狙いであり、著者はこれに「近代化」という言葉を当てています。

 しかし、この「近代化」は未完に終わります。
 まず、江戸幕府が成立してしばらくすると転封があまり行われなくなり、秀吉の目指した全国の領主を交換可能な「石高官僚」にする計画は頓挫します。幕府の社会全体の安定のために「末期養子の禁」を緩和するなど、領知権も次第に相続されるものとして認識されるようになります。
 各地の検地では独自の間尺が使われるようになり、度量衡の統一も崩れます。さらに新田だけで独自の間尺が使われるようなケースもあり、統一的に土地を把握するという太閤検地の目論見は崩れていきます。
 関所や湊での口銭の徴収も見られるようになりますが、これらは信長や秀吉が廃止しようとしたものであり、権力の分散化を示すものと言ってもいいかもしれません。

 江戸時代においては、城下には武士と町人がそれぞれ決められた区域に住み、百姓は村方に住むことになっていました。
 ところが、江戸では人口増加によって町は拡大していきます。また、武士の中には町人に屋敷を貸すものや、町人地・百姓地を買って賃貸する者が現れます。幕府はさんざん禁令を出していますが、決まった石高を相続する武士の暮らしは時代を減るごとに厳しくなっており、生きるために不動産収入に頼らざるを得ませんでした。江戸時代末期になると薩摩藩主・島津斉興が町並抱屋敷を自らの名義で購入し、自らの名義で年貢・町入用を収めています(76p)。年貢などの税さえ納めればその内実は問われなくなっていくのです。

 さらに都市化の進行によって百姓地が蚕食されていきます。江戸時代にもスプロール現象のようなものが起きていたのです。
 江戸時代の初期に「田畑永代売買御仕置」が出され、田畑の売買は罰則付きで禁止されていたはずでしたが、実際の取り締まりは緩く、藩によっても売買を認めているところがありました。
 こうした売買とともに、江戸の周辺では町人地が拡大していきます。人別は町方で、土地・高方は村方で扱うという変則的なケースも出始め、さらに村方に従来どおり貢租を負担する条件で新町の建設が認められたりもしていきます。
 「人別は町方、土地・高方は村方」というややこしい形ができたのは、貢租収納の手数料などを受け取っていた村役員らの抵抗があったためと考えられます。

 さらに「村」も所有権の移転や新田開発等で変化を迫られます。
 もともと、太閤検地のときでさえ、村を「領域としての村」として定義したはずなのに、「入作」の記述が見られます。複数の村にまたがって耕地を持っている場合、その人物は複数の村のメンバーになるのではなく、あくまでも他の村に本籍があるイレギュラーな存在でした。ここでは「人間集団としての村」の性格が現れています。
 また、太閤検地当時の日本ではどこの村にも属さない山野河海が広大にありましたが、時代が下るにつれてこうした地域にも新田開発の波が押し寄せます。
 特に江戸時代初期には大名の関与などを得て沖積平野の新田開発が行われます(領主が転封が行われないという前提で投資していたということでもある)。江戸時代初期には新しい村を創設する「村立開発」、元禄期以降は既存の村に石高を付け加える「持添新田」という形が多かったですが、これらの動きも村の再編を促します。
 特に「持添新田」においては、新田は村と地続きで開発できるものとは限らず、各地で飛び地が発生しました。また、新田開発奨励のために貢租が低く抑えられたこと、石高も低めに抑えられたこともあって、統一的な石高制は形骸化していきます。さらに大規模な検地が行われなくなったことから、各地で隠田、切添(耕地の脇を開墾したもの)、切開(許可を得ず原野を開墾したもの)が発生し、明治期には約4割の耕地が検地帳から漏れていたといいます(99p)。
 こうして石高以上の米が生産されるようになり米価は低迷していきます。そして、石高制の根幹を揺るがすようになっていくのです。

 転封が実施できなくなると、飛び地の形でしか論功行賞にもとづく加増を行えなくなります。結果として、譜代大名や旗本の分散知行が進行し、本拠地よりも飛び地の方が大きいという足守藩のような藩も現れます(107p)。数字の帳尻を合わせるために村までもが細切れになり、1つの村に複数の庄屋・名主が置かれたりもするようになります。
 村の分割と言っても、あくまでも領主が違うだけで村の一体化は保たれたケースもあるようですが、一方で、村の祭りを1日違いで行うなど、村の中に村ができたようなケースもあるようです。さらに、河川の流路変更などによって飛び地が生じるケースもありました。
 こうした飛び地や分散知行は非効率であり治安の面でも問題でした。そこで天保の改革では上知令が出され、三方領知替えが試みられるのですが、これは現地の領民の抵抗もあって失敗します。秀吉の掲げた理念はもはや通じなくなっていたのです。

 明治維新で成立した新政府は、当初は幕府領だけで運営されており、財源の拡大が急務でした。そこでまずは旗本領の上地を試み、さらに各藩の飛び地を近接の府県に還納させようとします。しかし、飛び地整理に対する抵抗は大きく、行き詰まります。
 1871年5月に交付された統一戸籍法では身分別の人民の把握が放棄され、居住地編成主義に取って代わられます。先程述べたように、これは崩れつつあった町方・村方の区別に対応したものでしたが、これが土地と人間の関係に大きな転換をもたらすことになりました。
 71年の8月には廃藩置県が断行されます。これによって飛び地の整理は用意になり、機械的に府県が統合されていきます。今までは「村(あるいは細分化された村)」を集めて石高をつくり「藩」とするような形で支配体制が組み上げられましたが、今度は国をいくつかの府県に分割し、さらにそれをいくつかの郡に分割する形で支配体制が上からつくられていくことになったのです。

 こうなると問題になるのは末端の村です。新政府は、当初、飛び地や分散知行などを解消することで旧来の「村」を復活させて行政を担わせようとします。
 ところが、同じ「村」といってもその性格はばらばらで、一町村あたりの平均戸数は長崎県が321、香川県が259に対して、若松県は31、酒田県は38と、地域によってその規模も全く異なっていたのです。村役人の選出法などを含めて考えると、「地域によってまったく性格の異なる「村」を、同じ名前で読んでいた可能性がある」(153p)のです。
 そこで新政府は「区」をつくって、そこに戸長を置き、行政事務に当たらせます。

 1872年3月、明治政府は田畑永代売買の禁を解きます。これは現実を追認したものと言えますが、新政府にはこれとともに地券を発行し、それをもとに課税を行おうという意図もありました。また、同時に武家地や町人地からの税の徴収も行われるようになります。
 当初、地券の発行は検地帳の記載内容に基づいて行われるはずでしたが(つまり実際のものとは相違があることは仕方がないと考えていた)、検地帳がない、検地帳への記載がないなど、地券の発行は困難を極めます。
 1873年7月に地租改正がなされますが、ここでも土地の調査などは行われず、秋田県の場合でもまずは地租目標額を決め、地租米の4倍を収穫米として、そこから村との交渉などによって地価を算出していきました(175p)。結局、個別の地価をどうするかは村に任された部分もあったようです。
 また、この過程で石高制が廃止され、土地は面積というわかりやすい指標で把握されることになりました。度量衡の再統一も進んでいます(ただし75年までは基準を統一せずに作業が進められていた)。

 1881年に改租の作業が終了しますが、326万444町であった旧反別は、改租後には484万8567町となりました(185p表3参照)。つまり、耕地は1.5倍近く増加したのです。これは江戸時代に開発されていた土地がそのまま検地帳などへ載っていなかったということです。
 地租改正への抵抗の1つはこの隠していた耕地が露見することへの抵抗だったのでしょう。実際の税負担に関しては、徴税目標額が変更されたわけではなかったので、土地あたりの税率としては減税になったはずです。
 また、誰のものでもない土地(山林など)が官没され、政商などに払い下げられていきました。

 さらにこの地租改正作業の中で町村合併が進んでいきます。これは飛び地の存在や境界の問題などの解決が困難だったために、それらの問題を打開するために合併が行われたと考えられます。飛び地の編入は村高の変更も伴うために厄介なものだったのです。
 また、大蔵省は土地台帳を完成させるために調査を行いますが、この調査の結果、45万町あまりの土地が新たに出てきます。326万444町だった土地は1890年末には543万1418町にまで拡大しました(199p)。土地台帳の整備も進み、飛び地なども少しずつですが解消されていきます。
 土地の登記に関する問題の管轄は戸長から裁判所へと移されるようになります。それまでは土地売買に戸長が関与していましたが、それが原因で戸長が訴えられるケースもあり、村請制が解体される中で土地売買に村が容喙する必要性はなくなったのです。

 1888年に市制町村制が制定されますが、そこで「村」は行政を担うための単位として位置づけられ、疆土(明確な区域)、人民、「十分ノ資力」が存立条件とされました。この要件を満たすために既存の村は合弁を迫られます。基準としては300〜500戸、町村税総額800円以上という基準が設けられますが、この基準を満たしていた村は全体の1割以下であり、多くの町村で合併が行われることとなりました。
 あらゆる土地を余白なき帰属させるためには境界をはっきりさせることが必要ですが、入会地の帰属などはそう簡単に結論が出るものではなく、その問題を合併によって解決した面もありました。新しい村は行政単位を整備するための切り分けの結果としてできたものでもありました。
 明治の町村大合併により7万1314あった町村は1万5820市町村へと1/5にまで減ります。これとともに「住民」という言葉が出現し、村請制の解体とともに存在感を失いつつあった村は、行政単位として再生するのです。そして、村は国家の下請け的な役割を果たしながら「自治体」とも呼ばれるようになっていきます。

 終章にあるように本書は「村」を「容器」として捉えます。そしてその「容器」が「村」の内実をつくり上げた面もあるだろうというアプローチです。もちろん、「村」の共同体的な性格を否定するものではありませんが、例えば福武直が『日本農村の社会的性格』で述べたように、「属人的な中国の村と境界がはっきりした日本の村」という対比は果たして成り立つのか? と疑問を呈しています(236−237p)。

 このように本書は、「村のあり方」という比較的地味なテーマを扱いながら、私たちの歴史、あるいは日本社会のイメージを書き換えようとする大胆な本です。テーマや方向性は松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』(これも面白い本)と重なるところがあり、少し違う捉え方をしている部分もありますが、『町村合併から生まれた日本近代』を面白く読んだ人なら、本書も楽しめるのではないかと思います。
 日本史に興味がある人にはもちろん、「自治」について考えたい人にもお薦めできる本です。


2020年の新書

 去年の「2019年の新書」のエントリーからここまで51冊の新書を読んだようです。冊数としては去年と同じなのですが、今年に関してはちょっと言い訳しなければならないことがあります。
 例年だと、その年の11月にまで出た新書を年内に読み終えて、「本年のベスト」という形で紹介しているのですが、今年は夏から秋にかけての面白そうな新書のリリースラッシュによって、11月出版のものには手がつけられませんでしたし、10月出版のものでも読もうと思っていたものが1冊残っています(河合信晴『物語 東ドイツの歴史』(中公新書))。
 また、ベストの中には去年の10月に出たものも混じっており、「2020年の新書」というタイトルからは少しずれたものになってしまいました。

 全体としての印象は「飛び抜けたものはなかったかもしれないが、良書は多かった」というもので、特に先程にも書いたように夏から秋にかけて面白い本がたくさん出たと思います。「あとがき」を眺めていると「コロナ禍で書き上げることができた」といったことを書いているものもあり、この特異な状況も影響しているのかもしれません。
 レーベルとしては中公、岩波、ちくまが相変わらず強かったですが、講談社現代新書が少し盛り返していた印象があります。
 では、まず上位5冊と、それに続く5冊を紹介します。

永吉希久子『移民と日本社会』(中公新書)



 1位は迷いましたがこの本で。「移民と日本社会」というタイトルに沿う形で、移民が日本社会に与える影響をさまざまな角度から検討した本ですが、この「さまざまな角度」の充実ぶりが素晴らしいです。大量の先行研究に目を通しており、移民をめぐるさまざまな実態と論点を知ることができます。また、最後に出てくる「移民問題」というわかりやすい看板の下で、社会の本質的な問題が隠されているのではないかという視点も良いと思います。
 何か著者にしかない独自の主張がなされている本ではありませんが、新書というボリュームの中にこれだけの論点を盛り込めているのは素直にすごいと感じますし、コロナで一旦ブレーキが掛かったものの、これからまた浮上するであろう移民問題を考える上での基本書となるでしょう。




中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』

 
 本書は実は2019年の10月に出版されたもので、「2020年の新書」ではないのですが、間違いなく通史の傑作と言えるでしょう。 
 〈シリーズ アメリカ合衆国史〉の第3巻になり、20世紀の幕開けから1970年代までを取り扱っています。大統領でいうとセオドア・ローズヴェルトからニクソンということになりますが、「この間にはウィルソンもフランクリン・ローズヴェルトもケネディもいるのに、果たして新書の1冊に収まるのだろうか?」と思う人もいると思います。
 ところが、本書は250ページほどで見事にそれを語りきっています。本書を読めば、BLM運動の背景もわかりますし、トランプ大統領を生んだアメリカの政治風土の大きな転換も見えてきます。 歴史の本であると同時に現代のアメリカの問題を考える上での基本書の役割も果たしうる本です。 
 このシリーズに関しては第4巻の古矢旬『グローバル時代のアメリカ』も読みましたが、これもまた面白い本でした。






小林道彦『近代日本と軍部 1868-1945』(講談社現代新書)



 こちらも通史になりますが、こちらは軍部に焦点を絞った上で、明治維新から太平洋戦争終結までを、8章仕立て550ページを超えるボリュームで語る構成になっています。 
 今までの見方とは違った視点から歴史が再構成されるさまを見ることは、歴史学の本を読むときの醍醐味の1つですが、本書はまさにそれを味わえる本です。山県有朋が政党の影響力を排除するためにつくった参謀本部や軍部大臣現役武官制、これらが「軍部」というアンタッチャブルな領域をつくり出し、それが昭和に政党政治を飲み込んでいった、というようなわかりやすい「政党」vs「軍部」というイメージをさまざまな史料を用いて覆していきます。





末近浩太『中東政治入門』(ちくま新書)



 中東政治に関する入門書ですが、歴史的な経緯を追うのでもなく、国別の状況を説明するのではなく、「国家」「独裁」「紛争」「石油」「宗教」といった項目を立て、そこから中東の各国の政治を分析しています。
 例えば、中東と言えば「石油」のイメージがありますが、ほぼ石油中心の経済を持つサウジアラビアやクウェートのような国もあれば、石油は出るけどそれ以外のウェイトも大きいイランやアルジェリア、ほぼ石油が出ないヨルダンやレバノンといった国もあるわけです。本書は、そうした国同士の比較を通じながら「石油」が中東の政治に何をもたらしているのかということを明らかにしていきます。
 こうした国同士の比較を通じて政治のはたらきを明らかにしようとする政治学の一分野を比較政治学と呼ぶのですが、本書はまさにその手法が取られており、中東政治の入門書であるとともに比較政治学の入門書的な役割も果たしています。中東の実情を知ることができると同時に「政治学」における1つの手法を教えてくれる本でもありますね。





春木育美『韓国社会の現在』(中公新書)



 0.92という先進国の中でも圧倒的に低い出生率、高齢者の貧困問題、ジェンダー・ギャップなど韓国はさまざまな問題を抱えていますが、同時に大胆な対策も取られています。ただし、その大胆な政策がうまくいくとは限らず、むしろ副作用に苦しんでいる面もあります。
 本書はそんな韓国社会の取り組みを明らかにすることで、同時に同じような問題に直面する日本に対するヒントも与えてくれる内容になっています。韓国社会を知りたい人はもちろん、日本の少子化問題や教育問題、ジェンダー問題などに興味がある人が読んでも得るものは大きいでしょう。
 韓国が抱える問題は日本と似ているのですが、課題に直面したときに、「理想」と「現実」の間で日本では「現実」が勝利するのに対して、韓国では「理想」が勝利するというイメージを受けました。それが社会の良くも悪くもダイナミックな動きにつながっていて、非常に興味深いです。





 次点は、<シリーズ 中国の歴史>の1冊で、中国の南部・江南の歴史をその文明の始まりから南宋までたどりつつ、同時に中国社会の特徴を鮮やかに描き出した丸橋充拓『江南の発展』(岩波新書)、この新型コロナウイルスの流行の中で「病と国際政治」という非常にタイムリーなテーマを扱ってみせた詫摩佳代『人類と病』(中公新書)、さまざまな問題を抱える技能実習生制度に関して、日本での待遇だけでなく現地(ベトナム)の送り出し側まで取材して、その構造的な問題を明らかにした澤田晃宏『ルポ 技能実習生』(ちくま新書)、日本近代史における暴動・暴力に注目して、暴力を奮った民衆側の論理を明らかにしようとした藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)、なかなかメディアで取り上げられることが少ないアフリカ経済の問題点を幅広くとり上げた吉田敦『アフリカ経済の真実』(ちくま新書)といったとこでしょうか。

 企画としては岩波の<シリーズ 中国の歴史>と<シリーズ アメリカ合衆国史>は好企画で、今までの岩波の日本史のシリーズ物に比べるとシリーズの意図が明確で各巻のつながりが見えるように構成されていたと思います。<シリーズ アメリカ合衆国史>の第1巻と第2巻は未読ですが、<シリーズ 中国の歴史>は全巻面白く読めました(上にあげた『江南の発展』以外だと、檀上寛『陸海の交錯』が特に面白かったですね)。

 一応、冊数としては去年と同じだけ読めましたが、主要レーベル以外のタイトルをあまり手に取ることができなかったのが今年の反省点。ほぼ週1冊のペースなので仕方がないですが、来年はもっといろいろと発見していきたいですね。
 あと、今年の後半になって、明らかに分厚いものではなくても定価が税抜で1000円を超える本がみられるようになってきて、「そういう時代になったのだな」と思いつつ、これだと学術系の新書は新潮選書あたりと競合するようになるのではないかとも思いました。

宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書) 8点

 日本学術会議の問題でも注目を集めた著者による「民主主義」の入門書。まさに絶妙なタイミングで出版されることになりましたが、著者の本をこの本で初めて読んだ人にとっては、「なぜこの本の著者が拒否されるのか?」と思うでしょう。非常に王道的な本であり、特に過激なところはないようにみえます(読み終えるとラディカルな部分もあるのですが)。
 ただし、王道的な流れの中にも刺激的な内容が含まれているのが本書の魅力で、古代ギリシャ、ルソー、トクヴィル、J・S・ミル、ダール、ロールズといった王道的なラインナップを並べているにもかかわらず、そこから一歩踏み込んだ議論を展開しています。民主主義の歴史について一通り知っていると思っている人にも「なるほど」と思わせるのが本書の魅力であり、著者の力量ということになるでしょう。

 目次は以下の通り。
序 民主主義の危機 
第1章 民主主義の「誕生」 
第2章 ヨーロッパへの「継承」 
第3章 自由主義との「結合」 
第4章 民主主義の「実現」 
終章 日本の民主主義 
結び 民主主義の未来

 冒頭には「民主主義とは多数決なのか?」「民主主義とは選挙なのか?」「民主主義とは制度なのか理念なのか?」という問が掲げられています。
 良識的な答えとしては、「多数決だけではなく少数者の権利が重要である」「選挙だけでなくデモなども民主主義の手段である」「制度であって理念でもある」ということになるでしょうし、実際に「結び」で提示される答えもそういったものです。

 つづいて、民主主義の危機として、ポピュリズム、独裁的指導者の増加、第4次産業革命とも呼ばれる技術革新、コロナ危機の4つをあげていますが、ここでも背景にある格差の拡大の指摘、AIの発展に伴って人間の主体的な判断が失われていくことへの懸念などを含めて、問題設定としてはある意味で平凡だと思います。
 ですから、本書は「答え」よりも「過程」が重要な本と言えるでしょう。

 本書は民主主義の「誕生」を古代ギリシャのポリスに求めています。このあたりも西洋中心主義的に思えますし、古代ギリシャ以外にも民主主義の源流を求める近年の動きからするとやや古臭く感じる面もあるかもしれません。
 しかし、著者は古代ギリシャが民主主義に対して徹底的で、なおかつ自覚的だったところに独自性を見出します。
 そして、同時に古代ギリシャの民主主義が現在の民主主義とは少し違ったものであったことにも注意を向けます。例えば、現在では民主主義といえば選挙ですが、古代ギリシャにおいては公職を選ぶときは抽選が基本で、選挙は「優れた人選ぶ」という点から貴族政的であると見られていました。古代ギリシャではオリエントの帝国にあった官僚制と職業制を廃し、「平等な市民」(もちろん女性や奴隷は排除されているわけですが)による政治を追求したのです。古代ギリシャにおける「政治」とは、「自由で相互に独立した人々の間における共同の自己統治」(49p)のことでした。
 開かれた公共の議論によって意思決定が行われ、市民がそれに自発的に服従する、この2つが古代ギリシャの民主主義の特徴でした。

 ただし、古代ギリシャの民主主義は自然に生まれたというわけではありません。中小農民が貧窮から債務奴隷に転落する状況に対処するためにソロンの改革が行われ、その後、クレイステネスの改革によってアテナイの民主主義は確立しました。クレイステネスは人為的な部族の設定によって従来の貴族の力を削ぎ、民主主義の基盤をつくったのです。
 この背景には軍事的な理由もありました。当時のポリスの軍事力の中心は重装歩兵であり、中小農民の没落は軍事力の弱体化にも繋がります。軍事的な貢献と政治での発言権が結びつくことで、アテナイは繁栄を築きました。

 このアテナイの民主主義に対しては批判もあります。デマゴーグが登場し、スパルタとの覇権争いに敗れたとの説明はよく聞くことですし、師のソクラテスを多数派によって死に追い込まれたと考えたプラトンは民主主義を否定し、「哲人王」による政治を理想としました。
 しかし、アテナイの民主主義は一方的に衰えたわけではなく、復活して「違法提案に対する公訴(グラフェー・パラノモン)」といった新たな制度(現在の違憲審査権に少し似ている)も生んでいます。アテナイの民主政はマケドニアに屈服するまで続いたのです。
 その後のローマでは君主政・貴族政・民主政をミックスした政治のスタイルが「共和政」として確立していきます。以降、民主主義は否定的に語られることが多くなり、その状況は18世紀まで続いていきます。

 この後、11世紀以降のイタリアでコネームと呼ばれる都市国家が発展し、民主主義的な政治が試みられますが、この政治は貴族独裁へと変化していきます。
 また、17世紀以降、イギリスで議会政治が発展していきますが、著者はこれを「民主主義」とみなすことにためらいをみせています。イギリスの議会はこの時点では特権者のための組織だったからです。

 そこで、まず重点的にとり上げられるのがアメリカ独立革命なのですが、ここでも独立当初のアメリカが「民主主義」であったかということに関して著者は留保をつけています。まずは黒人奴隷の存在がありましたし、「建国の父」たちは民主主義に対して懐疑的であり、エリートによって公共の利益が追求される「共和政」が前面に打ち出されました。
 ただし、アメリカの「建国の父」たちが、直接参加の民主政は小規模な都市にしか適用できず、大国では派閥の弊害を派閥をぶつけることによって緩和できると考えたことが、その後の民主主義に与えた影響は大きく、近代国家で可能な「民主主義」=「代議制民主主義」という考えが通説になっていくことになります。
 一方、アメリカの中に動かしがたい平等化の趨勢を見出し、それに人々の思考法や暮らし方を含めて「デモクラシー」という名を与えたのがトクヴィルです。

 フランス革命も革命勃発当時は立憲主義的な王政が目指されており、必ずしも手放しで「民主主義」が主張されたわけではありませんが、革命の進行とともにジャコバン派が権力を握ったことで過激化していきます。
 この一連の動きの背景にあったのがルソーの思想です。ルソーは貧富の差を批判し、支配と服従の契約を批判するなど古代ギリシャの民主政を思わせる議論を行うと同時に、「一般意志」という謎めいた考えを残しました。「一般意思」を具体的にどう導くのかということに関してはよくわからないことが多いのですが、派閥同士の対立という多元的な代議制民主主義とはまた別の形の民主主義をスケッチしたものと言えるかもしれません。

 18世紀以降しばらく、立法権こそが重要であり、議会こそが民主主義の中心だと考えられていました。
 法は一般的なものであり、それに基づいて行われる行政は特殊的なものです。当然ながら、一般的な法こそが重要であり、行政はその従属物のように考えられていたのです。その結果、政治においては議会が重視されます。
 そうした中で政党が注目されるようになります。古代においては否定されていた党派は、最初は消極的に認められ、やがて積極的に認められるようになっていきます。ヒュームは利害に基づく党派こそが害のないものだと主張し、バークは政党を積極的に位置づけます。
 ルソーもまた立法こそが政治の役割だと考え、主権を人民が持つ、つまり人民が立法を行うことが重要だと考えましたが、一方で、小説『アドルフ』などでも知られるバンジャマン・コンスタンは、主権の在り処よりもむしろ主権の適用される範囲が重要だと批判しました。

 一方、トクヴィルの「デモクラシー」という言葉の使い方はやや独特で、それは制度というよりは理念、あるいは人々の日々の営みを指しています。特にトクヴィルが注目するのはコミュニティレベルの自治活動で、この身近な政治からの積み重ねに大きな可能性を見ました。そして、さらに「デモクラシー」の中に平等への趨勢と、共同体中心の考えから「個人主義」への転換を見ました。

 トクヴィルとも交友関係のあったJ・S・ミルは代議制民主主義について考察し、『代議制統治論』という本を出版しています。この本で、ミルは代議制民主主義こそ最善の政治体制であると指摘しました。
 ミルは代議制民主主義の2つの良い点として、「国民の徳と知性を促進する」「機構それ自体の質」という2つの点をあげました。専制君主のもとでは国民は政治について関心を持ち考える必要はありませんが、民主主義では政治について関心を持ち考える必要があり、それが国民を向上させます。また、ミルは優秀な官僚を国民の代表者がが監督するというスタイルがもっとも優れた政治体制であると考えていました。
 ミルは大卒以上の有権者に2票以上与えても良いなど、今の感覚からするとエリート主義的な考えも持っているのですが、女性参政権を主張し、比例代表制の導入も訴えています。

 民主主義にとって、すべての市民の参加が重要であるならば、それが実現したのは20世紀初頭ということになります。この時期に多くの国で普通選挙制が導入され(男子のみのところも多かったが)、エリート以外が政治に参加できるようになります。
 ただし、この時代の民主主義に対しては懐疑の目を向ける人も少なくありませんでした。マックス・ウェーバーは無力な議会と政治的教育を受けていない国民を前にして、強力な大統領に期待をかけました。
 普通選挙によって、エリートではない人々=大衆も選挙権を得ましたが、それとともに彼らを動員するシステムが作られ、政党の幹部が大衆の預かり知らぬところで様々なことを決めていきます。民主化の進展がかえって非民主的な事態をもたらすことになったのです。
 ウェーバーの影響を受けたシュミットは、民主主義の本質を「同質性」だと考え、その同質性を維持するためには「異質なものの排除あるいは殲滅」(186p)が必要だと考えました。シュミットは権力分立や議会における討論などを自由主義的なものと考え、民主主義にはそうしたものは必ずしも必要ではないと考えたのです。
  
 こうした中で、新しい民主主義観を提示した人物の1人にシュンペーターがいます。古典的な理解では、民主主義は人民が自らの意志を実現するために代表者を選び公共の利益を実現するものとされていましたが、シュンペーターは代表者を選ぶことに重点を置き、公共の利益のようなものはその代表者が考えれば良いと考えました。政治家は選挙に勝つために競争し、有権者はそれを見て優劣を判定し、政治を任せればよいと考えたのです。
 ロバート・ダールもまた競争を重視した人物ですが、その競争は政治家同士の票を巡る競争ではなく、多様な利益集団によるものであり、そこに多元性が生まれると考えました。ダールは政治への参加の度合い(包括性)とともに、政治に対して異議申し立てができることを重視し、「ポリアーキー」(複数の支配)という概念を打ち立てました。

 ただし、いかに政治参加の道が万人に開かれていても、経済的な不平等が大きいのであれば、それは絵に描いた餅に過ぎないのかもしれませんし、また、政治的な帰属意識を持てないという問題も生まれています。
 アーレントが『全体主義の起源』で描いたのは、階級からこぼれ落ちてしまった「モッブ」の存在であり、誰にも代表されていないという感覚を強く持つ彼らは議会制民主主義を激しく攻撃しました。
 ロールズは、社会契約の考えと「無知のベール」のアイディアを使って格差を是正する政策の正当性を主張すると同時に、自らの価値観を「無知のベール」のもとで導き出された正義の原理と照らしわせることで、多様な価値観の調停をはかることができることができると考えました。また、一般的にロールズの正義の原理は福祉国家を正当化するものだと考えられていますが、ロールズ自身はさらに踏み込んで「財産所有の民主主義」(すべての人に一定の財産を保証する)を主張しています。
 
 本書は第5章で日本の民主主義についても触れています。日本の民主主義の出発点をどこに置くかは難しい問題ですが、本書では五箇条の御誓文に求めています。ペリー来航以来、日本では武士の中の身分の壁を超えた議論が起こりますが、それが五箇条の御誓文の「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」という考えに結実していきます。
 戦前の民主主義は、大正期に大きく盛り上がったものの、広がる格差や経済問題などに政党が有効に対処できず、消え去ってしまいます。
 しかし、戦争とその後の敗戦によるによる平等化や、今までの支配層がその地位を去ったことによって、民主主義の基盤が整い、それが戦後民主主義につながっていきます。この状況を生かした政治家の1人が田中角栄なのですが、著者は彼の立法活動に注目しつつも、その立法が一般的なものというよりは個別の利益を追求したものであったことを指摘し、そこからその後の政治へとつづく問題点をみています。

 「結び」の部分では、冒頭の問に対する著者による答えと、4つの危機に対する展望が述べられています。
 その上で、最後に私たちが信じていくべきものとして、「公開による透明性」、「参加を通じての当事者意識」、「判断に伴う責任」の3つをあげています。昨今の問題を考えるといろいろ考えさせられる並びではありますね。

 はじめにも述べたように、基本的に王道的な流れなのですが、読み進めていくと、やや古代ギリシャの民主主義に寄った視点から、著者ならではの形で民主主義の形がまとめられています。そして、古代ギリシャの民主主義に寄った分、現状の民主主義に対する批判的な視点を内包するものとなっています。
 同じように「民主主義」を正面から扱った新書としては、待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書)が思い浮かびますが、『代議制民主主義』がラディカルな語り口で現実的な民主主義を示した本だとすると、本書は穏健な語り口でややラディカルな民主主義を示した本だと言えるかもしれません。


アンドレアス・レダー『ドイツ統一』(岩波新書) 8点

 原書は、ドイツの出版社C・H・ベックの「ヴィッセン(知識)叢書」の1冊。訳者は『アデナウアー』などの著作があるドイツ政治を専門とする政治学者ですが、この叢書シリーズの翻訳である『ニュルンベルク裁判』(中公新書)の訳者でもあります。

 本書は訳者解説などを除けば179ページとかなりコンパクトですが、ドイツの統一を、東ドイツの体制の崩壊、ドイツ統一という2つの局面にわけて非常に手際よく描き出しています。ベルリンの壁が崩壊したとき、自分は中学生で、なんとなく壁が崩壊からドイツ統一までは必然的な流れとして見ていたような記憶がありますが、本書を読むと、そこにさまざまな予測不能なドラマがあったことがわかります。

 著者は、CDUの熱心な党員であり、メルケルのもとで中道化したCDUの保守回帰を訴えた「保守派」なのですが、そのあたりも含めて訳者解説ではこの本の立ち位置が解説されており、バランスのとれた視点を持てるようになっています。


 目次は以下の通り。

第1章 革命前夜
第2章 平和革命
第3章 国民をめぐる転換
第4章 再統一と世界政治  なぜ迅速な再統一が可能だったのか
第5章 編入による統一
結語――歴史のなかのドイツ統一

 本書では、東ドイツにおけるSED(ドイツ社会主義統一党)による支配の崩壊と東ドイツの西ドイツへの編入という2つの局面を合わせて「ドイツ革命」と見ています。

 このドイツ革命のきっかけとなったのがソ連におけるゴルバチョフ書記長の登場です。ゴルバチョフは社会主義共同体の利益のためには個々の社会主義国の主権は制限されるという、いわゆるブレジネフ・ドクトリンを放棄することを明言しましたが、これはソ連の勢力下にあった中・東欧諸国に大きな影響を与え、ポーランドやハンガリーでは既存の支配体制が崩れ始めました。

 

 そんな中で、ホーネッカー率いる東ドイツ政府は変革を拒み続けていました。71年にホーネッカーが書記長に就任して以来、SEDは国民の生活状況を改善させる社会政策を重視することで、国内を安定させようとしていましたが、80年代から原油価格の高止まりやソ連の同盟国への石油供給の抑制によって外貨不足に陥ります。

 東ドイツは外貨を獲得するために製造原価を無視した西側への輸出を行いましたが、それによって設備投資は滞り、東ドイツの生産設備は完全に時代遅れになりました。

 こうした中、東ドイツ政府は社会政策と国家保安省(シュタージ)の力を用いて、国民の不満、特に西ドイツと比較したときの不満を抑えようとしていました。


 しかし、体制に対する反対派も存在しました。彼らは89年5月の地方議会選挙の開票状況を監視し、それは粉飾されたものだと知ると小規模なデモなどを起こしました。そして9月には「新(ノイエス)フォーラム」と呼ばれる反対派知識人のプラットフォームが設立されます。

  反対派のグループは西側メディアの支援も受けながら、市民の間に賛同者を広げていき、政治参加や自由を求めました。ただし、これはあくまでも素人の運動と見られており、体制を直接脅かすようなものとは認識されていませんでした。

 こうした中で89年の夏にホーネッカーは手術のために3ヶ月近く職務を離れます。SEDの幹部は改革に応じることもしませんでしたし、これが脅威になるとも考えていませんでした。シュタージも反対派の運動を監視するために運動に参加し、かえって運動を勢いづけたようなところもありました。


 しかし、東ドイツの崩壊をもたらす動きは国外でも起きていました。ハンガリーを通じた出国です。ハンガリーが89年5月からオーストリアとの国境のバリケードを撤去し、さらに8月に国境沿いの街で「パンヨーロッパ・ピクニック」が開催されたことによって、東ドイツ国民がハンガリーを通じて出国する動きが起きました。ハンガリー政府は越境を取り締まり、収容所をつくりましたが、その収容所には続々と東ドイツ国民が集まってきました。

 ハンガリー政府は東ドイツ政府に対応を求めたものの、東ドイツの反応は鈍く、ハンガリーは9月11日に国境を解放します。ここから9月末までに3万人が西ドイツに移住しました。出国ラッシュはチェコやポーランドにも及び、東ドイツ政府はチェコやポーランドとの国境を閉鎖する動きに出ますが、それは大きな反発を生みました。


 国外への出国を止めると、今度は国内での反体制運動が活発化します。東ドイツ政府は国家人民軍を動員し武力弾圧も辞さずの構えを取りましたが、結局、責任者たちは武力行使に尻込みをしました。一方、デモの中からは「われわれこそが人民だ」との声が湧き上がり、SEDは事態を収集する術を失っていきます。

 10月17日にはホーネッカーが失脚しますが、最後に彼が自分を解任しても「何も静まることはない」(44p)と述べたように、トップが変わってもSEDが体制を立て直すことはありませんでした。

 新しく書記長に就任したエーゴン・クレンツはSED支配を「対話」によって救済しようとしましたが。これは反対派の土俵に乗ることでもあり、SEDは主導権を失います。この過程に関して本書は次のように述べています。

 東ドイツにコミュニケーションや利害の調整を可能にする期間が存在しなかったことは特別な意味をもった。この住民と政治制度のあいだに存在していた真空は、40年にわたって体制の安定を保証してきたものだったが、それがいまや体制の崩壊に拍車をかけることになった。というのも、そうした公共性を担う組織が欠けていたために、反体制グループが、必要な「対話」のパートナーとして、直ちに有意義な存在になることができたからである。言い換えれば、反対派は、調停機関を経由して力を削がれることなく、自らの影響力を直接かつ即座に発揮することができたのである。(48p)


 11月4日には東ベルリンで大規模デモが行われ、7日は閣僚評議会(内閣)が総辞職、市民運動が完全な勝利をものにするかに見えました。

 しかし、ここで予想外の動きが起こります。東ドイツからの出国問題に対するSEDの対処がベルリンの壁の崩壊をもたらしたのです。チェコへの出国問題への対処として打ち出さた方針が、東ドイツ政府が国境管理を放棄する政策を打ち出したという形で伝わったのです。文書によるプレリリースもない中で行われた会見によって「東ドイツが自国の国境を開く」という情報が伝わり、ブランデンブルク門に殺到した人々によって壁は崩壊しました。事態をコントロールすることが完全にできなくなったSEDによる支配体制は崩壊し、クレンツも7週間で書記長の座を去ることになります。


 こうして反対派の勝利に終わるかと見えた東ドイツ情勢ですが、問題は東ドイツ市民には新体制に「参加」する以外に西ドイツに「離脱」する道もあったということです。反対派は「第三の道」、つまり民主化された社会主義を模索しましたが、東ドイツには西ドイツと再統一して資本主義化するという道もあり、SEDを打倒した人々は、今度は東ドイツという国を守ろうとする者と西ドイツと一体化しようとする者に分裂しました。

 反対派はSEDの中央円卓会議に参加し改革を模索しますが、西ドイツとの格差が明らかになるにつれ、ますます多くの人々が東ドイツを去りました。


 一方、西ドイツに目を向けると、統一に向けた準備が整っているとは言い難い状況でした。長期的な目標として「統一」を支持していても、それがすぐに実現するとはほとんどの人が思っていなかったのです。

 ボンの西ドイツ政府もベルリンの壁が崩壊するまでは統一のことは考えておらず、壁の崩壊は「完全に不意打ち」(77p)でした。受け身だった西ドイツのコール首相は、11月28日に統一に向けた見通しを語りましたが、その期間は5〜10年と見積もられていました。


 しかし、国外からの反応は厳しいものでした。ソ連はコールの態度に激怒し、イギリスやフランスは強い留保を示しました。サッチャーもミッテランも過去を例に引き、強い警戒感を示したのです。そんな中で、アメリカだけが第二次大戦の戦勝4カ国の中で唯一ドイツ統一を支持しました。


 東ドイツでは11月13日にモドロウ政権が成立し、「第三の道」を模索する姿勢を見せますが、シュタージが文書の破棄を始めると、各地で市民らがシュタージの建物を選挙し、90年の1月15日には市民によってシュタージの本部が占拠されました。

 生産の低下はつづき、年が明けても東ドイツからの脱出は止まりませんでした。住民の流出が東ドイツの先行きを暗いものとし、さらなら住民の流出を生みました。

 モドロウ政権は反対派に入閣を求めて体制の立て直しを図りますが、もはや憲法改正なども市民にとっては魅力を持つものではなくなり、統一を求める声に埋もれていきます。


 こうした中で2月6日、コールは東ドイツに通貨同盟の提案をします。これは実質的に東ドイツに金融・通貨政策の主権の放棄を求めるものでした。

 3月には東ドイツの人民議会選挙が行われましたが、ここでも中心となったのは西ドイツの政党でした。西ドイツのCDUの支援を受けた「ドイツのための同盟」、FDPを模範にした「自由民主主義者同盟」が生まれ、東ドイツの社会民主党(SDP)も西ドイツのSDPの立場を目指すようになりました。一方、「新フォーラム」は草の根民主主義的なオルタナティブを目指して「同盟90」を結成します。

 この選挙は、400議席中192議席を「ドイツのための同盟」が獲得します。SPDが88議席、SEDの後継だったPDSは66議席でした。「ドイツのための同盟」と「自由民主主義者同盟」で過半数、SPDを加えると改憲可能な2/3を占め、東ドイツの意思は統一だとはっきりしました。


 先程述べたように、米を除く各国は性急なドイツ統一に反対であり、特にソ連が統一を簡単に認めるとは思われていませんでした。

 ところが、ソ連の状態も厳しさを増していく情勢の中、ゴルバチョフは方針転換をし、2月10日は西ドイツの代表団に対して、「統一にはイエス、NATO帰属にはノー」という立場を伝えます。ここに問題の中心は統一ドイツのNATO加盟に移りました。

 90年2月13日、オタワで東西ドイツ+米ソ英米の「2+4プロセス」の開始が発表されます。これによって統一に懐疑的だったソ連を取り込むことに成功します。

 2月末にコールはキャンプデーヴィッドを訪れ、ブッシュ大統領やベーカー国務長官と会談をしますが、ここで西ドイツとアメリカの統一に向けた分業が決まりました。西ドイツが統一の遂行とソ連に対する経済的な支援の段取りを整え、アメリカが国際的ないし安全保障政策的なレベルでの責任を引き受けることが決まったのです。


 このアメリカのバックアップは、ドイツとポーランドの国境問題(オーデル=ナイセ線問題)でも発揮され、ブッシュが西ドイツとポーランドを仲介しました。

 さらにアメリカがNATO加盟問題でも突破口を開きます。5月31日のワシントンでの米ソ首脳会談でブッシュがすべての国には自らの同盟帰属を選ぶ権利があると尋ねると、ゴルバチョフはこれに同意したのです。

 このゴルバチョフの突然の方針転換を確実なものとするために、西ドイツ政府はソ連への経済支援へと動きます。ソ連の財政窮乏に対して50億マルクの短期金融支援を用意し、7月2〜12日のソ連共産党大会が終わるのを待ちました。

 そしてゴルバチョフは党大会を乗り切ると、コールらをコーカサスの彼の故郷に招待します。ここで統一ドイツのNATO帰属、ソ連の部隊の撤退、統一ドイツの兵力を37万人にすることなどが決まります。その代わりに西ドイツはソ連に対する120億マルクの支援と30億マルクの5年期限の無利子のクレジットを用意しました。


 一方でヨーロッパ統合も加速します。以前から通貨同盟に積極的なフランスと慎重な西ドイツの緊張関係がありましたが、それがドイツの統一問題とリンクしたのです。また、ドイツが統一されることで、ドイツがヨーロッパ政策への関心を失うのではないかという懸念もありました。

 結局、コール首相の譲歩によって通貨同盟が実現し、一方で政治同盟に関してはやや曖昧なままで決着が付きました。ドイツ統一はヨーロッパ統合のプロセスも加速させることとなったのです。


 1990年9月12日にモスクワで「ドイツに関する最終規定条約」が調印され、10月3日に統一が完成することになりますが、その前からさまざまな形で統合は進んでいました。

 通貨統合に関しては、東ドイツマルクの評価が問題となりましたが、最終的に一定額までの現金と預貯金、そして賃金に関しては一対一の比率となります。これは東ドイツ経済の実力を考えると過大評価でしたし、東ドイツ経済にとどめを刺したとも言える措置でしたが、同時に政治的には不可避とも言えるものでした。

 また、東ドイツの国有企業を民営化するために信託公社が設けられ、この民営化の収益が統一のコストを負担するはずでした。しかし、東ドイツの企業の製品に西側の企業と競争できる力はなく、コメコン諸国との貿易も縮小したために東ドイツ経済は崩壊していきました。信託公社は6000億マルクの収益が期待されていましたが、結局は2300億ドルの赤字で終わります。


 95年までは建築ブームが続き建設業が活況を呈しますが、この頃になると東ドイツ経済のキャッチアップは行き詰まります。03年には東ドイツ地域の失業率が20%を超え、その後も西ドイツ地域のおよそ2倍の失業率が続きます。

 ただし、他の東ヨーロッパの社会主義国と比べると東ドイツの生産性は伸びており、環境問題でも大きな改善が見られました。

 東ドイツの産業構造の転換も進み、89年から96年にかけて、農業従事者は97万6千人から21万人に減少し、製造業の被雇用者も439万人から214万人に減少、公務員も220万人から140万人に減少しました。2/3近くの被雇用者が職場の移動を経験し「オスタルギー」と呼ばれる東ドイツへの郷愁を表す言葉も生まれました。

 

 ただし、著者はこの統一以外に選択肢はなかったし、また、基本的にこの統一は成功だったとみています。何よりも今回は19世紀のドイツ統一とは違って平和裏に統一を成し遂げることができたのです。


 以上が本書の内容ですが、さらに訳者の解説で、本書のスタンスや寄せられた批判にも触れています。日本の読者には気づきにくい著者の立ち位置にも注意を向けており、有益な解説だと言えるでしょう。


 本書の面白さの1つは、あまりに早い情勢の動きに東ドイツ政府はもちろん、反対派も西ドイツ政府もついていけていない様子を活写していることです。人々が大きな石を動かしていったというイメージのあったドイツ統一ですが、本書を読むと、途中からは石が止まらなくなって政治家たちが必死についていき、ときに吹き飛ばされていることがわかります。また、外交を描いた部分も面白く、再選に失敗したために印象の薄いブッシュ政権も、外交に関しては優れた判断力を発揮していたことがわかります。

 歴史のダイナミズムをコンパクトに味わえる本ですね。


伊藤亜聖『デジタル化する新興国』(中公新書) 7点

 近年、デジタル化に関しては中国が日本の先を行っており、〜Payなどのサービスやシェア自転車など、中国で発達したサービスが日本に輸入されることも珍しくなくなりました。また、インド人プログラマーがたくさんいたり、エストニアでは行政のIT化が進んでいるという話を聞いたことのある人もいると思います。デジタル化に関しては、新興国が先進国を追い抜いているような事例も見られるのです。
 本書は、そんな新興国のデジタル事情を探りながら、その可能性と脆弱性を探っています。著者は中国経済を専門とする研究者ですが、さまざまな国に実際に足を運んで調査しており、アフリカの事情などもとり上げられています。また、基本的には経済分野が中心ですが、後半ではデジタル化がもたらす「監視国家」の問題にも言及しており、経済以外の分野に興味を持つ人が読んでも面白い内容を含んでいます。

 目次は以下の通り。
序章 想像を超える新興国
第1章 デジタル化と新興国の現在
第2章 課題解決の地殻変動
第3章 飛び越え型発展の論理
第4章 新興国リスクの虚実
第5章 デジタル権威主義とポスト・トゥルース
第6章 共創パートナーとしての日本へ

 デジタル化は、新興国だけではなく先進国でも求められていますし、進行していますが、著者は特に新興国に注目する理由として次の3つをあげています。
 まず、第一に売り手と買い手を仲立ちする「プラットフォーム」の登場が新興国に先進国以上の大きな変化をもたらすという点です。今まで新興国では信頼の欠如から取引が円滑に進まないケースが多くありましたが、それを劇的に変える可能性があるのです。
 次に、デジタル化が新興国に元来あった「可能性」と「脆弱性」の双方を増幅させる可能性があるという点です。デジタル化は新興国の人々を自由にするかもしれませんが、同時に自由や権利が侵害されるリスクももたらします。
 最後に、デジタル化には今まで語られてきた工業化と似ている面と違った面がある点です。これは今後の途上国の経済発展などを考える上でも重要な視点です。
 ちなみに本書では「新興国」を「先進国以外」という意味合いで使っており、現代のデジタルから見た「発展途上国論」といった趣もあります。

 IT技術やネットサービスは以前から注目されていましたが、それが先進国以外にも大きく広がったのは2010年代以降です。2009年にOECD諸国のネットユーザーの割合が50%を切り、それ以降、ネットユーザーは先進国以外で大幅に増加しています、また、ネット以上に新興国に普及したのが携帯電話で、2017年には下位中所得国でも携帯電話の契約数が人口100人あたり97人となっており、もはや1人1台が当たり前になりつつあります(22−24p)。
 
 デジタル経済の特徴として、シャピロとバリアンは次の3点をあげています。まず、コンテンツの複製コストと流通コストが低下することによって限界費用が低くなり、個人ごとにサービス内容を変えることが用意になること。次に利用者がサービスを切り替えるのにコストがかかるため、ロックイン効果が生じること。最後により多く利用者を集めるサービスの利便性がさらに高まること(ネットワーク外部生)になります。この特徴からいわゆる一人勝ちが起こりやすくなります。
 
 この特徴は新興国でも同じだと考えられます。今までは、いかに工業化するのか、あるいは、いかに市場をつくり上げるかといったことが新興国の課題でしたが、今度はデジタル化にどう対応していくかが問われることになります。
 80〜90年代には韓国・台湾・香港・シンガポールが「後発性の利益」を活かしながら急速な工業化に成功しましたが、このデジタル化の局面でも新興国が「後発性の利益」を活かして長足の進歩を遂げる可能性があります。一方、デジタル化は格差を拡大させるかもしれませんし、権威主義体制を強化するかもしれません。デジタル化は新興国の「可能性」と「脆弱性」の双方を増幅させる可能性があるのです。

 第2章では新興国における具体的な事業展開を見ていきます。
 まずはマレーシアで創業されたグラブという企業がとり上げられています。この企業の出発点は「なぜ安全に車に乗る手段がないのか?」というものです。日本ではまったくピンとこない問いですが、新興国ではタクシーはわざと遠回りしたり料金のボッタクリを狙ったりというケースがあり、運転手に安心して任せられないこともあります。
 グラブは利用者と運転手の取引を成立させるプラットフォームとなり、運転手の評価を蓄積していくことで問題のある運転手を排除することに成功しています。中国のアリペイなどもそうですが、新興国では信頼のない者同士の取引を仲介するしくみをつくることに大きなビジネスチャンスがあるのです。
 
 デジタル化は大きな設備投資が必要ではなく小さく始められるのも特徴です。本書では、エチオピアの病院のIT化を支援する企業、南アフリカのドローンで撮影した画像をもとに果樹の管理などを行う企業などが紹介されています。
 また、新興国では日本のような完璧なサービスが求められないことも1つの特徴で、例えば中国の宅配業者はラスト・ワンマイルの問題を解決するために各地にステーションをつくって、そこに「取りに来てもらう」という戦略をとっています。

 さらにデジタル化は社会問題の解決のためにも使われています。各地で携帯電話などを使った小口の決済サービスや小口の融資の仕組みなどが登場していますし、インドでは生体認証IDの導入によって複雑な行政手続きを簡素化し、貧困支援などにつなげようとしていいます。アフリカでは女性の起業家を応援する賞である「ミス・ギーク・アフリカ」があり、妊婦の健康状態をモニタリングする事業などが受賞しています。新興国が抱える様々な問題が、デジタル化によって解決されていくかもしれないのです。

 第3章では、いわゆる「後発性の利益」に注目しながら、デジタル化で新興国が先進国を追い越す局面を見ています。
 未上場にもかかわらず企業価値が10億ドル以上と推定されるユニコーンの企業は1位こそアメリカですが2位は中国、4位はインド、7位にブラジル、9位にインドネシアと新興国がランクインしています(95p図表3−1参照。日本はランクインせず)。この背景にあるのがネットビジネスの持つネットワーク外部生で、ランクインしている人口大国では大きな発展が望めるのです。
 また、ネットサービスは後追いがしやすいのも特徴で、いわゆる「タイムマシン経営」のように先進国のネットサービスを自国で展開することで成功の足がかりがつかめます。
 
 新興国ならではの現象が「スーパーアプリ」と呼ばれる統合的なスマホアプリです。中国のテンセントの微信(ウィーチャット)、アリババの支付宝(アリペイ)、東南アジアのゴジェックやグラブ、インドのPaytm(ペイティーエム)などがこれにあたります。
 例えば、ウィーチャット自体はLINEに似た機能を持つアプリですが、これに資産運用、タクシーの配車、さまざまなチケットの予約購入、公共料金の支払などの機能が加わり、社会のインフラの一部となりつつあります。
 先進国ではネット企業が事業を拡大する場合に、リアルの事業者がライバルとして現れますが、新興国ではそうしたライバルが弱いために、次々と機能を拡張し、その利便性でもってシェアを奪うことができるのです。

 また、例えば中国ではアメリカのグーグルやアマゾンをブロックすることで自国のネット企業が育ちました。幼稚産業を保護するやり方は、工業においては時代遅れの考えとされがちですが、ネットサービスに関してはそうではないのかもしれません。ちなみに中国とインドは対照的で、中国は工業部門では開放政策をネットでは閉鎖的政策をとったのに対して、インドは工業では閉鎖的政策をネットでは開放的政策をとっています。
 ただし、中国企業をみると別に政府の特別の保護を受けて育ったというわけではありませんし、中国の風土にあったサービスを中国企業が生み出せたという側面も大きいです。

 近年、新たなサービスの普及のために、時限的あるいは地域的に規制を緩和して実験を行う「規制のサンドボックス」という政策アプローチが注目されていますが、改革開放以来の中国は、この「規制のサンドボックス」的な部分があったとも言えます。
 とりあえずグレーゾーンであっても経済発展に資するならば事後的に認められるといった風潮がさまざまなネットサービスを育てたとも言えます。
 現在、新興国は巨大な実験場とも言える存在になっており、さまざまな試行錯誤の中から先進国に逆輸入されるようなものも現れているのです。

 第4章では新興国におけるデジタル化のリスクが検討されています。
 まず、デジタル化において新興国が強いのはアプリケーション層であり、OSや部品などのミドルウェア層、通信ネットワークや物理サーバやCPUなどの物理層は先進国がアドバンテージを持っています。中国を除けば、先進国が築いた土台の上で成長している段階です。
 
 また、デジタル化は雇用を奪う懸念もあります。工業化は多くの雇用を生み、幅広い人々の所得を底上げしましたが、デジタル化でそのような雇用が生まれるとは限りませんし、自動化は工場から労働者を追い出すかもしれません(本書では完全な自動化はないだろうと予測している)。
 一般的に情報通信技術産業が生み出す雇用はそれほど多いものではなく、例えば、インドでは情報通信技術産業が付加価値の6.3%を生み出していますが、雇用は全雇用の0.9%に過ぎません(147−148p)。
 どの程度自動化が進むのかということに関しては、研究者によって意見が違いますが、セルフレジは日本よりも人件費が安いはずの中国で急速に普及しているなど、人件費だけではなく、どの程度のサービスを求めるのかという問題も関わってきます。
 
 おそらくデジタル化が進展すれば、自動化によって失われる雇用もありますし、新たな技術の登場にともなって生まれる雇用もあります。一般的にデジタル化では、プログラマー、クリエイター、そして、宅配などに代表されるラスト・ワンマイルの人材が求められると考えられます。
 しかし、このラスト・ワンマイル人材の多くは非正規であったり、あるいはギグワーカーとも呼ばれる単発の仕事を請け負う存在だったりして、その待遇は良いとは言えません。こうした労働者の置かれた境遇はケン・ローチの『家族を想うとき』でも告発されていました。
 ただし、この「痛み」は新興国ではあまり感じられないかもしれません。そもそも新興国ではインフォーマル雇用が多く、アナログなインフォーマル雇用がデジタルなインフォーマル雇用に置き換わるだけかもしれないのです。
 また、新興国では財閥がデジタル分野に進出しているケースも多く見られます。そうなると、ロックイン効果も相まって健全な競争が損なわれるかもしれません。

 第5章では、「デジタル権威主義」とも呼ばれる政治の動きをとり上げています。
 2011年に本格化した「アラブの春」はネットを使った民主化運動の先駆けと見られましたが、その後は中国に見られるようにネットを使って権威主義的な支配を強めようという動きも目立ってきています。 
 デジタル化は人々を自由にする面もありますが、監視のために便利なツールにもなります。監視カメラだけではなく、中国で普及が進む信用スコアなども、権威主義国家が国民を監視するには便利なツールであり、権威主義をより盤石なものにするかもしれないのです。

 このデジタル技術の進歩は先進国の政治にも大きな影響を与えています。国家の監視はともかくとして、先進国でも巨大IT企業が膨大なプライバシー情報を握っていますし、ネットではフェイクニュースが跋扈しています。単純にアクセスを集めたいがためのでっち上げもあれば、意図的にライバルを抽象するための偽情報もあります。
 このフェイクニュースに関しては何らかの取締が必要だと感じる人も多いでしょうが、フェイクニュースの取締法を制定したのが、タイ、マレーシア、シンガポール、ロシアなどという話を聞けば、権力者が自分にとって都合の悪いニュースを「フェイクニュース」として取り締まる事態も十分に考えられます。

 そんな中、トランプ政権のもとでは米中対立がエスカレートし、米中のデカップリングという所まで取り沙汰されるようになりました。
 中国はそのデジタル技術を同じ権威主義体制の国に輸出しており、特に国際的な経済・貿易体制へ統合されていない国に関してはますます中国の影響力が強まってくると考えられます。

 第6章で、コロナ以降の動きと日本の課題がとり上げられています。
 新型コロナウイルスの流行は、デジタル技術の重要性を再認識させました。リモートワークの普及等だけでなく、感染者の追跡などにもその威力を発揮しました。そうした中で今までとは逆に中国からプライバシーを危惧する声があがったりもしました。
 日本に関しては、デジタル化において先を走っているは言い難い状況ですが、デジタル化がもたらす脆弱性を最小限にする取り組みなどを意識しつつ、新興国との共創を目指すべきだというのが著者の主張になります。

 以上のように、非常にタイムリーな話題を扱った本になります。もともと『中央公論』における連載がもとになっていることもあり、きっちりとした構成というよりは、その都度話題が広がっていくような形で書かれていますが、そうした中に今後の社会を考えるヒントが詰まっています。
 また、最後にコロナのことが出てきますけど、現在の状況ではもはや世界の新興国を飛び回るようなことはできないわけで、そうした点でもタイムリーだった本と言えるかもしれません。


園田茂人『アジアの国民感情』(中公新書) 7点

 近年はすぐに「親日/反日」といった言葉が使われますし、米中対立の激化によってアジアでも「その国はどちら側なのか?」といった具合に、ある国を二項対立で位置づけることはしばしばなされています。
 しかし、当然ながらそんな単純ではないわけです。中国に対する警戒感には国によって随分ばらつきがありますし、他国に対する印象でも「関係が薄いから好印象」「関係が深いから印象が悪い」といったケースもあります。

 本書は大規模な調査を通してアジアの国民感情を読み解こうとした本です。今までに行われたさまざまな国際的な世論調査の他に著者らが行った「アジア学生調査」を使うことでアジアのかなり広い地域の国民感情を明らかにしようとしています。
 もちろん、「学生(大学生)」に対する調査のため、基本的にはエリートに近い人達の意識が現れている調査になっていますが、それでも国ごとの違いが様々な面に出ていますし、時系列的な変化もある程度追えます。現在と今後のアジア情勢を考える上で興味深い知見を与えてくれる内容です。

 目次は以下の通り。
序章 なぜ国民感情なのか―対外認識を可視化する
第1章 台頭中国への錯綜する視線―何が評価を変えるのか
第2章 ASEANの理想と現実―域内諸国への冷めた目
第3章 東アジア間の心理的距離―厄介な近隣関係
第4章 アジア各国・地域の特徴とは
第5章 影の主人公アメリカ―米中摩擦とアジアの反応
第6章 日本への視線―アジアからの評価、アジアへの目
終章 国民感情のゆくえ

 国際的な世論調査というと、アメリカのピュー・リサーチ・センターなどが行っていますが、アジアに関しては対象国も限られていますし、どうしても大国に関する評価が中心です。
 また、一口に「アジア」といってもイメージする範囲は国によって違います。「アジア」について、中国やベトナムの人は狭く、日本人は広く捉える傾向があります。
 本書が依拠する「アジア学生調査」は、インド・ミャンマー・カンボジアが入っていないものの、アジアのかなり広い地域に関して同じような調査を行っており、これを使うことでアジアの相互イメージを確かめることが可能です。

 ただし、単純にデータを並べただけでは数字の羅列になってしまうので、本書では、どのようなフレームに基づいて(特に中国の台頭について)認識しているのかというフレーム仮説、相手の考えが自分のもつイメージに跳ね返ってくる相互予期仮説、ソフトパワーが国民感情に影響を与えるというソフトパワー仮説、友人や知り合いがいるとその国のイメージが良くなるという接触仮説、冷戦時の対立構造がアジアでは今も持ち越されているというポスト冷戦仮説の5つを検証しています。

 第1章では台頭する中国への評価がとり上げられています。
 まず、A「中国の台頭は私たちに多くのチャンスをもたらしている」との問いへの答えを見ると、ベトナムと日本が他国と比べて賛成の割合が低く(それでも日本は2019年の調査で「大いに賛成」+「賛成」で48.6%)、ベトナムを除く東南アジアの国々は賛成する割合が高いです。香港や台湾でもこの問に関する賛成の割合は高いです。
 一方、B「中国は興隆しているが、アジア各国との関係を平和的に保つだろう」という問いへの賛否を見ると、台湾や韓国、さらにはフィリピンの賛成の割合も低くなってきますが、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシアは高いままです。
 C「中国の台頭は世界の秩序を脅かしている」との問に対しては、日本よりも台湾、香港、ベトナム、フィリピンといった国で賛成の割合が高くなっています。
 D「経済的には急速に成長しているものの、中国は政治的に不安定である」との問いに関しては、日本、韓国、台湾といった東アジア諸国で賛成が高めに出ています。

 どの問に対する答え(フレーム)が中国への評価に影響を与えているのかは、はっきりとしない部分もあるのですが、2018〜19年の第三波調査を見ると、Bの問に肯定的に応えている人はもちろん、Aの問に肯定的に答えている人の間でも中国への評価は高いですが、Dに肯定的に応えている人の中国への評価は東アジア圏を中心に低いです。民主主義体制の国では、中国への体制への違和感を持つ人が多く中国を否定的に見ているということでしょう。
 また、中国の友人知人の存在は中国への評価を押し上げているケースがありますが、逆に中国語の能力が高いほど中国への評価を押し下げているケースもあります。中国のソフトパワー戦略はあまりうまくいっていないようです。

 さらに54p以下では、中国と中国系2世、そして日本人の比較も行っていますが、中国人は中国の平和的台頭や中国の体制の盤石さを疑っていないのに、2世になると、そのあたりに疑問を持つようになっています。

 第2章ではASEAN諸国がとり上げられています。
 ここでは、各国の印象を点数化し(「よい」5点、「どちらともいえない」3点、「悪い」1点)、社会的結合についても点数化しています(相手国の出身者を「友人に持っている」3点、「知人に持っている」2点、「どちらもいない」1点)。さらに留学・就職の希望先も見ています。

 まず、ベトナムですが、印象が良いのが日本、シンガポール、韓国(以下すべて基本的に第3波調査をとり上げます)、悪いのが中国、北朝鮮ですが、ベトナム戦争を戦ったアメリカが上から4番目に位置しています。社会的結合でももっともスコアが高いのがアメリカで、ベトナム難民の影響などもあり、意外と関係が強いことがうかがえます。一方で、ASEAN諸国との社会的結合はそれほど強くありません。
 フィリピンも、社会的結合に関してはアメリカが第1位ですが、印象では低迷しています。好印象は日本、シンガポール、韓国、悪いのは北朝鮮、中国。2013年に比べて18年ではアメリカ中国ともに数値は悪化しています。
 タイで印象が良いのが日本、韓国、中国。3点以下の国は北朝鮮だけであり、全体的に評価が高いのですが、ASEAN諸国に関してはシンガポール以外それほど点数は高くありません。
 マレーシアで印象が良いのが日本、オーストラリア、シンガポール。印象が悪いのが北朝鮮とミャンマーです。北朝鮮は金正男暗殺事件の影響なのか2014年から18年にかけて数値が悪化しました。社会的結合ではインドネシアが1位ですが、インドネシアの印象は下から3番目です。
 シンガポールで印象が良いのが日本、オーストラリア、韓国。印象が悪いのが北朝鮮です。社会的結合ではマレーシアが1位ですが、マレーシアの印象は下から3番目です。
 インドネシアで印象が良いのが日本、シンガポール、韓国。悪いのが北朝鮮。社会的結合の1位はマレーシアですが、印象は下から2番目です。ちなみにインドネシアとマレーシアに共通するのがアメリカの印象が他の国に比べて悪いことで、これはムスリムが多いことと関係しているのかもしれません。

 すべての国で日本が1位と、日本人にとってはうれしくなるような結果ですが、留学先としては英米、ついでオーストラリアとカナダで、日本はシンガポールと並ぶ第3位グループです(日本に関してだけ第6章で別立てでとり上げられていて、ややわかりにくい)。

 第3章では韓国、中国、台湾、香港、日本という東アジアの国・地域の対外認識を分析しています。
 まず、韓国ですが、印象が良いのがアメリカ、ベトナム、オーストラリア。印象が悪いのが北朝鮮、中国、日本。全体的に点数が渋いのが特徴で4点以上の国はありません(ベトナムは5つある)。社会的結合はアメリカ、中国、日本の順。学生調査ということもあって北朝鮮は下から2番目です。
 中国で印象が良いのがロシア、シンガポール、オーストラリア。悪いのがフィリピン、アメリカ、北朝鮮。中国も点数が渋く、日本は下から6番目ですが点数は2.88と3を切っていますし、3位のオーストラリアも3.33と高い数字ではありません(今年になってからの政府間の関係悪化を見ると次の調査では点数が下がる可能性が高いでしょうし)。社会的結合はアメリカ、台湾、日本の順。
 台湾で印象が良いのが日本、オーストラリア、アメリカ。悪いのが中国と北朝鮮で、特に中国は2.19と断トツの低さです。社会的結合では中国が1位なのですし、中国の台湾に対する印象も悪くはないのですが、とにかく中国に対する強い警戒感がうかがえます。
 香港で印象が良いのが日本、台湾、シンガポール。悪いのが中国と北朝鮮です。社会的結合は中国、台湾、アメリカの順。台湾に対する印象の高さが1つの特徴で、やはりある種の連帯意識があるのかもしれません(台湾の香港に対する印象は選択肢にないのでわからない)。
 日本で印象が良いのがオーストラリア、台湾、シンガポール。悪いのが北朝鮮、ロシア。3点以上ありますが韓国は下から3番目です。ただし、2013年から19年にかけて韓国と中国に対する印象は改善されています。社会的結合は中国、韓国、アメリカの順です。

 こうした東アジアの国同士では一部で相互予期仮説が成り立ちます。2008〜13年にかけて日本と韓国、それぞれで相手国への印象が悪化しています。一方、13〜18年にかけて双方の印象は改善しています。お互いに「相手が嫌うから嫌う」という関係がありそうなわけです。
 さらに本章では、東アジアだけでなく、アジア全域での相互印象もピックアップしていますが、お互いに印象が悪い同士(印象で下位5カ国に入っている)の組み合わせとして、日本と韓国、韓国と日本、中国とベトナム、中国とフィリピン、マレーシアとインドネシアの5つの組み合わせがあります。
 いずれも隣国同士であり、本書では特に強調されてはいませんが、領土問題を抱えている(いた)国同士の関係というのは難しいことがわかります。

 第4章では、いくつかの特徴的な現象をピックアップしていますが、ここではその中からさらにいくつかピックアップして紹介します。
 まず、タイですが、タイは対中感情がよく、さらに子どもに中国語を習わせたいという意欲も高いです。ところが、回答者の中国語の能力は高くなく、華人社会があるものの、ほぼタイ化してしまったタイならでは状態となっています。
 インドネシアも対中感情は悪くないのですが、「中国人」に対しては厳しい認識を持っており、「中国人観光客の増加は益より害が多い」との問に対して、大いに賛成と賛成の合計で7割を超えます。華人が経済を牛耳っていたこと、9.30事件まで中国共産党の影響力が強かったこともあるのでしょう。
 中国の将来に関して、当然かも知れませんが中国と香港において中国の将来について見方は大きく違います。中国の学生は8割以上が中国の将来を楽観しているのに対して、香港の学生で楽観しているのは23.4%にすぎません(165−166p)。また、香港ではフィリピン人に対する印象が悪く、「自国から出て行ってほしい」という人が11.3%もいるわけですが、これは多くのフィリピン人が香港に家政婦として出稼ぎに来ているからだと考えられます。

 第5章ではアメリカをとり上げています。アメリカはアジアの国ではありませんが、アジアに大きな影響力を持つ国です。 
 まず、「中国はアジアにおける影響力という点で、アメリカに取って代わるだろう」という文言への賛否を見ると、日本でも「大いに賛成」と「賛成」で50%を超え、台湾では70%超え、ベトナムでも55%超えと、中国に良い印象を持っていない国でも、アジアの覇権は移行するという見方が強いです。
 基本的に中国を除くアジアの国はアメリカの影響を肯定的に見ていますが、トランプと習近平の比較だと、日本、韓国、台湾、香港、ベトナムはトランプの方を信頼できるとしていますが、フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシアは習近平の方を信頼しています(トランプの方を信頼すると答えた国はそれだけ対中警戒心が強いと言える)。

 アメリカ人に対する評価に関しても悪くないですが、ムスリムの多いマレーシアとインドネシアは「自国から出て行ってほしい」が10%以上、また、ベトナムは国としてのアメリカを評価する一方で、アメリカ人には距離感を感じさせる調査結果が出ています。
 また、英語のアニメやドラマを見る、英語の歌を聴く頻度は、中国語のアニメやドラマを見る、歌を聴くと比べて圧倒的であり、留学や就職でもアメリカが選ばれています。覇権に関しては移行があるかもしれないと考えていても、だからといって中国という大きな波に乗ろうという動きは鈍いようです。
 また、ベトナムのように、中国の評価とアメリカの評価が天秤のようになっている国もありますが(中国への印象が下がるとアメリカの印象が上がる)、米中双方をともに評価する国が多いのもアジア地域の特徴です。

 第6章は日本について。今までとり上げてきたように中韓を除けば日本に対する評価は高いです。
 一方、留学に関しては興味を持つ人が多いものの、日系企業に就職したいという人は少ないです。一時期の経済大国のイメージは薄れているのかもしれません。
 日本語のアニメやドラマの視聴の頻度は台湾、タイ、マレーシア、フィリピンなどを中心にかなり高いです。
 また、中国に関しては日本語のアニメやドラマの視聴頻度が高まると日本の影響を好意的に評価する傾向が見られますし、多くの国で日本語のアニメやドラマの視聴頻度と留学への関心に関連が見られます。このあたりはソフトパワー仮説がある程度成り立っていると言えるでしょう。日本語に関しては、それほど話せる人は少ないですが、中国に関して言うと、日本語ができる人ほど日本の影響を好意的に評価する傾向が見られます。ちなみにこのソフトパワー仮説は韓国についてもある程度成り立つとのことです。

 さらに終章ではコロナ禍を受けての、日本における対中感情の問題などがとり上げられ、本書のまとめがなされています。

 このように本書は非常に面白いデータが詰まった本です。最初にも述べたように調査対象が大学生ということで一般化できない面もありますが、本書を読むと改めて、東アジアと東南アジアの違い、東南アジアの中での違いなど、アジアの多様性が見えてくるでしょう。また、各国の対中認識も興味深いです。
 データの解釈などについても、もっと領土問題などを考慮に入れてもいいのではないかとも思いましたが、そこはデータを見て自分で考えればいいわけで、さまざまな思考を刺激する本になっています。


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