山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2018年12月

二松啓紀『絵はがきの大日本帝国』(平凡社新書) 8点

 観光地や展覧会などに行くと、よく絵はがき(ポストカード)が売っています。絵はがきはそこに行った記念になり、投函することで他人にそこに行ったということを伝えることができます。
 しかしそれだけではなく、明治~昭和の戦前期にかけて、絵はがきはさまざまな出来事を伝えるメディアでもありました。テレビやネットのない時代、絵はがきが事件や戦争を伝え、企業の広告を担ったのです。
 この本は、日本に関連する絵はがきの収集を続けるラップナウ夫妻のコレクションを中心に、さまざまな絵はがきとともに明治維新とともに生まれた大日本帝国の歴史をたどっていきます。
  
 著者は同じ平凡社新書の『移民たちの「満州」』が非常に面白かった二松啓紀。本職は京都新聞の記者ですが、立命館大学の客員研究員も務めており、日本の近現代史のさまざまな側面に目を配った内容となっています。
 
 ただし、カラーで495ページというかなりのボリュームで、お値段も税抜き1400円と新書にしての規格をはみ出すようなものとなっています。
 絵はがきをよく見せるといった点からすると判型はもう少し大きいほうがいいと思うのですが、新書でなければ自分も買っていたかどうかわからないわけで、なかなか難しいですね。

 目次は以下の通り。
序章 絵はがきと「大日本帝国」のイメージ
第1章 勃興する島国―北清事変から日露戦争へ
第2章 広がる帝国の版図―台湾・樺太・朝鮮
第3章 極東の覇者―第一次世界大戦とシベリア出兵
第4章 近代日本の可能性―産業発展と豊かさ
第5章 破綻する繁栄―関東大震災の「前」と「後」
第6章 二つの帝国―満蒙特殊権益と満洲の軌跡
第7章 戦争か平和か―「昭和」という名の振り子
第8章 欺瞞と虚栄―日中戦争と太平洋戦争
補章 ラップナウ・コレクションから見た「大日本帝国」

 目次を見てもわかるように、この本の内容をはじめから順に追っていくと、日本近代史の流れをそのまま追うことになってしまうので、このではこの本の中からいくつかの興味深い部分を拾っていきたいと思います。

 まず、北清事変から日露戦争のころのものとして紹介されているのは、欧米人の描いた風刺画的なものが多いです。中国をはじめ日本やロシア、あるいは他の欧米列強を人物や動物などに見立てた風刺画は数多く描かれましたが、こうした風刺画は絵はがきにもなっています。
 さらに日露戦争が始まると、日本人の手による日本の戦勝をアピールするような絵はがきも登場します。また、戦勝だけではなく松山にあったロシア人の捕虜収容所を描いた絵はがきも数多くあります(64-65p)。日露戦争において日本が国際社会を意識して捕虜を丁重に取り扱ったという話は比較的有名ですが、捕虜たちのリラックスした様子がヴィジュアル的にも示されています。また、ロシア兵の捕虜には中立国のフランスを通じて給金が支払われており、この購買力によって松山の町も潤いました。捕虜に対する厚遇にはこういった背景もあるのかもしれません(68-69p)。

 日本は日清戦争で台湾を日露戦争で南樺太を獲得し、さらに日露戦争語に韓国を併合しました。日本は植民地をもつ「帝国」となったのです。
 台湾に関しては原住民に関する絵はがきが目につきます。台湾総督府は絵はがきの中で原住民たちが「教化」されている様子をアピールしていますが、こうした「教化」の一貫として、原住民の指導者たちに内地を観光させる「台湾蕃人観光団」というものもあり、それを写した一枚の絵はがきが93pに紹介されています。彼らの不安げな姿が印象的です。

 樺太に関しては、ポーツマス条約の結果、北緯50°を境にして南は日本領、北はロシア領となったのですが その国境線は森林を10メートル幅で伐採することによって示されました。この「材木線」と呼ばれる国境を写した107pの絵はがきは興味深いです。
 樺太にはアイヌ、ギリヤーク(ニヴフ)、オロッコ(ウィルタ)と呼ばれる人びとが暮らしていました。樺太庁は彼らを集住させ保護しましたが、それは「観光村」ともいうべきもので、彼らは観光客が訪れると洋服から民族衣装に着替えて記念撮影に応じたそうです(117p)。

 また、朝鮮支配に関しても、133pに載っている「朝鮮の現住人口」、「朝鮮の貿易」という絵はがきも、明治期から昭和初期にかけて朝鮮の人口が増え、貿易も伸びていることを誇るような絵柄になってて興味深いです。
 さらに朝鮮で百貨店を展開した三中井の京城店の絵はがきが138pで紹介されていますが、次の139pには満洲の新京の三中井百貨店の絵はがきも紹介されています。新京の街並みもわかってこれは興味深いですね。

 第3章では第一次世界大戦のころの絵はがきがとり上げられていますが、まず目につくのが、ドイツで発行された絵はがきです。ここでは日本はドイツを背後から描く卑怯者として描かれており、また、「ドイツの難局」という絵はがき(155p)では、ドイツがハリネズミ、イギリスがライオン、ロシアがクマ、フランスがニワトリなのに対して日本は蜘蛛として描かれています。
 この第一次世界大戦のさなかにシベリア出兵が行われましたが、ご存知のように日本は長期間出兵をつづけ得るものもなく撤退しました。もっと早く撤退できたとも考えられますが、この本を読むと尼港事件に関するセンセーショナルな絵はがきが数多く発行されていたことがわかります(虐殺された死体を写した「尼港黒龍江より引き揚げたる日本軍民の死体」(188p)、挑発的な犯人の姿を写した「パルチザンの首領トリヤピーチン女参謀長ニーナその他の幹部」(191p)。こうした絵はがきなどによって沸き立った世論が撤兵を難しくしたのでしょう。
 他にも日本にやってきたポーランド孤児や、ロシアからの難民の姿を写した絵はがきもあり、第一次世界大戦のインパクトの大きさを感じさせられます。

 明治以降、日本の産業は大きく発展しました。そんな様子を紹介しているのが第4章です。
 まず、インパクトがあるのは212pの「(筑前八幡)豊山公園より製鉄所中央機缶を望む。実に壮観」という絵はがき。林立する煙突からもうもうと立ち込める黒煙は今なら公害としか思えませんが、当時は文明の証だったのでしょう。
 一方、文明化の闇となっていた部分も存在します。フランスのキリスト教使節団が出した「日本の癩村」(216p)、「日本、御殿場のハンセン病患者楽団」(218p)には差別を受けていたハンセン病患者たちの姿が写っています。
 この他にも、この章では三越の様子を描いた絵はがき(226-227p)、カルピスを売り出すために行われた国際懸賞ポスターの作品(239p)なども興味深いです。ちなみに有名なカルピスの黒人の図案はこのときの3位のものでした。

 第5章は関東大震災前後の時代をとり上げていますが、まず目を引くのが「多民族だった「大日本帝国」」とキャプションがつく1920年の兵庫県臨時国勢調査部の絵はがき(258p)。旭日旗を背景に日本人、白系ロシア人、アイヌ人、朝鮮人、台湾の漢族系住民、南洋諸島の島民が描かれています。
 また、1921年に行われら皇太子裕仁親王のヨーロッパ歴訪も、絵はがきだと着色されているぶん、くっきりとしたイメージを伝えています(266-267p)。

 そんな大正時代の日本を襲ったのが関東大震災でした。絵はがきには倒壊した建物や火災の様子(278pの「猛火の中を右往左往に逃げんとする避難民の実景」のように後から炎と煙が描き足されたようなものもある)、死体や白骨の山などが描かれています。286pの皇居前に林立するテントを写した「宮城前の天幕張バラック」の絵はがきもインパクトがあります。
 この震災からの復興を内外にアピールするために行われたのがオリンピックの招致でした。304pには五輪招致を盛り上げるために1935年頃に発行された絵はがきが紹介されています。
 
 第6章では主に満洲に関する絵はがきがとり上げられています。
 満洲は大豆の一大産地で、大豆粕が肥料として日本に大量に輸入されました。また、人口が希薄な満洲には山東省から出稼ぎ移民を押し寄せていました。314pには大連の埠頭に積み上がった大豆や大連駅で乗車を待つ出稼ぎ移民の姿を写した絵はがきが紹介されています。そして、これの物資と人が満州鉄道の経営を支えたのです。
 もちろん、満鉄には軍事面での重要性もあるわけで、322pの「奉天駅における皇軍装甲列車の偉容」は、『天空の城ラピュタ』に出てきた装甲列車を思い出させます。
 
 この満洲において日本は満洲事変を起こし満洲国を建国するわけですが、332-333pに載っている満州鉄道の路線図の絵はがきを見ると、満洲事変以降に満鉄が拡大していく様子がわかります。
 また340-341pにはハルビンの様子を写した絵はがきも紹介されていますが、昭和初期のハルビンはロシア人が多く、「東洋のパリ」と呼ばれ、日本人にも人気の観光地でした。
 特にロシア人の女性ダンサーは男性に人気だったようで「ハルビン新市街と露国美人のダンサー」、「享楽の国際都市ハルビンを味ふ」と題された絵はがきもあります。
 しかし、ハルビンのロシア人は日本とソ連の関係の中で次第に居場所を失い、強制収容所送りになった人も多いといいます。

 一応、独立国家の体裁をとったといっても満洲国は日本に依存した国家でした。それは、例えば350pの「満州帝国対外貿易趨勢図」の絵はがきに描かれたグラフからもわかります。貿易相手は圧倒的に日本でした。
 また、日本から満洲への移民の送り出しも始まりますが、そのために満洲の素晴らしさを強調する絵はがきもつくられました。354pには笑顔の母親と赤ん坊を写した写真の絵はがきが紹介されていますが、その絵はがきは「子どもは太る(湖南営日本村にて)」と題されており、当時の日本の厳しい状況もうかがえます。

 第7章では戦争へと突入していく昭和期の様子がとり上げられています。
 日露戦争は日本の軍にとって輝かしい勝利でしたが、1915年の10周年も、1925年の20周年も一般の盛り上がりはいまいちでした。ところが、1930年の25周年、1935年の30周年となると大きな盛り上がりを見せるようになります。368-369pには日露戦争30周年を記念して発行された絵はがきが紹介されており、時代の移り変わりがうかがえます。
 また、旅順は「聖地」となり、その戦跡をめぐるツアーが流行し、またそれらを紹介した絵はがきも発行されました。
 戦時ムードが強まるに連れ、絵はがきにもその影響が出てきます。378-380pには第一次上海事変で活躍した「爆弾三勇士」の絵はがきが紹介されていますし、385pには関東防空演習を題材に関東防空演習防衛司令官の林仙之中将、荒木貞夫陸軍大臣、大角岑生海軍大臣、牛塚虎太郎東京市長の肖像写真が並べてある絵はがきも載っています。

 一方、まだ海外から観光客を呼び込もう、国際的なイベントを成功させようという考えもありました。先述の東京オリンピックだけでなく、1940年には日本万国博覧会も行われる予定であり、398-399pにはその絵はがきが紹介されています。その中の「日本万国博覧会会場」と題された絵葉書には東京湾の埋立地につくられた会場の様子が描かれており、今の東京オリンピックの湾岸エリアの開発とタブって興味深いです。
 他にも「反共」を訴える絵はがきもあって(409p)、「消化せぬ悪食」という言葉とともに「共産主義」「マルクス」「クロポキン酒」と書いてある食事が並んだものなどがあります。

 第8章は日中戦争と太平洋戦争期。日中戦争の初期においては429pの中国人の子どもに飴玉を渡す日本軍兵士を写した「子供と遊ぶ我が兵士」のような「明るい」戦地をアピールするような絵はがきもあります。
 一方で漫画家松本かつぢの描く少女漫画的な少女が「銃後は私の手で」と訴える絵はがき(437p)や、農作業をする婦人たちの写真に「兵隊さんは命がけ 私たちは襷がけ」とのスローガンを配した絵はがき(440p)など、女性に向けて戦争協力を訴えるような絵はがきもあります。
 
 太平洋戦争が始まると緒戦で日本は大勝しますが、徐々に形勢は不利になっていきます。そうなると、今度はスパイを警戒せよとの絵はがきが登場します。横山隆一のフクちゃんを使った絵はがき(458p)や、「知っても言ふな」という大きな文字と、「まさかと思って漏らした一言 スパイは何処にも居る!」とのセリフが書かれた絵はがき(459p)など、絵はがきにも閉塞感が溢れてきます。
 そして、敗戦を迎え、大日本帝国は解体されるのです。

 このように絵はがきを使って大日本帝国の歴史をたどったのがこの本ですが、何といってもその魅力は紹介されているさまざまな絵はがきになるので、この文章を読んで少しでも興味が出た人は本屋でパラパラとめくってみてください。
 それなりに日本の近現代史に詳しい人でも「こんなのがあったんだ」、「こういう感じだったのか」と思うような絵はがきがあると思います。
 また、日本の近現代史についてそれほど詳しくない人にとっては、絵はがきを導きとした通史としても読めると思います。
 最初にも述べたように新書という形がベストなのかどうかはわかりませんが、日本近現代史についてさまざまなイメージを喚起し、多くことを教えてくれる本となっています。

2018年の新書

 去年、「2017年の新書」というエントリーを書いてから、51冊の新書の感想をあげました(実はもう1冊、二松啓紀『絵はがきの大日本帝国』(平凡社新書)を読んでいるのですが、いつものルーチンと違う形で読んだので感想が書けてない。でも、面白い本なので、できれば年末年始に紹介したいと思います)。
 今年も新書は豊作だったと思います。去年は中公の「一強」と書きましたが、今年は岩波新書が80周年ということで年間を通して強力なラインナップを並べてきましたし、ちくまも夏くらいまで非常に良かったと思います。また、講談社現代新書も歴史系に復活の兆しがあり、面白いタイトルが出たと思います。その分、上記以外のレーベルに関しては読みきれなかった感もあります。

 では、とりあえず上位の5冊と+5冊ほどを紹介したいと思います。

清水克行『戦国大名と分国法』(岩波新書)


 『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ)、『耳鼻削ぎの日本史』(洋泉社歴史新書y)などで、現代とは異なる価値観を持つ中世の人々のありようを史料を通して面白く描いてきた著者が、戦国大名の分国法を紹介し、その中身と意義を探った本。
 「結城氏新法度」というほぼ当主の愚痴という分国法から始まり、伊達氏、六角氏、今川氏、武田氏の分国法を見ていくこの本は、内容、構成、結論とどれをとっても面白く刺激的なものとなっています。「分国法=先進的」というイメージを一新するとともに、中世の人々の意識や戦国大名のあり方も考えさせる内容です。
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梶谷懐『中国経済講義』(中公新書)



 幾多の「崩壊論」を乗り越えて成長を続けてきた中国経済。今年は米中の対立が本格化し、今後の状況が不透明になってきましたが、それでも中国が欧米や日本とは異質な形で経済成長を成し遂げているのは確かなことだと思います。
 この本は中国のマクロ経済が専門ながら、『「壁と卵」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』で経済を軸に思想や社会問題を含めた形で中国と日本を論じた著者が、現在の中国経済が状況と直面している課題を論じたもの。
  経済学の概念を使ってかなり本格的に論じているために、前半の章を中心にやや難しく感じる部分もあるかもしれませんが、本格的に論じているからこそ、今この瞬間の問題点だけではなく、中長期的な問題というのも見えるようになっていて非常に読み応えがあります。
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西山隆行『アメリカ政治講義』(ちくま新書)



 一昨年の『移民大国アメリカ』(ちくま新書)が非常に面白かった著者によるアメリカ政治全般の解説書。このような概説書的な本はどうしても制度の説明+αとなりがちで、なかなか読んでいて面白いという形にはなりにくいのですが、この本は面白いです。
  アメリカ政治のニュースに接していて感じる疑問、例えば、「民主主義がさかんな国なのになぜ投票率が低いのか?」、「「小さな政府」にもかかわらず常に減税が主張されるのはなぜか?」、「銃規制が進まないのはなぜか?」などに沿う形で、うまくアメリカの政治制度の説明を織り込んでいます。アメリカ政治に対する新たな見方を提供してくれる本です。
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岡本隆司『世界史序説』(ちくま新書)



 新書だけでも、『李鴻章』『袁世凱』(ともに岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)など精力的に著作を発表している著者ですが、今作は、近年流行しているグローバル・ヒストリーに対し、東洋史の立場から「もう一つの世界史」を提示するという野心的な内容となっています。
  正直なところ、著者の描き出す世界史像がどれだけの実証性を備えているものなのかはわかりませんが、地中海→大西洋→グローバルといった形で描き出される ことが多い「西洋史」からの「世界史」ではなく、農耕民と遊牧民が混ざり合うユーラシアから描き出された「世界史」は非常に刺激的です。壮大かつ、教科書に載っている、あるいは「グローバル・ヒストリー」と銘打つ本とは一味違う「世界史」が描き出されています。
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柏原宏紀『明治の技術官僚』(中公新書)



 副題は「日本近代をつくった長州五傑」。伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の長州五傑(長州ファイブ)に焦点を当て、日本の近代国家形成、技術官僚制の成り立ち、さらに政治における専門性を考えさせる内容となっています。
 同じ明治期の官僚を扱った新書の名著に清水唯一朗『近代日本の官僚』(中公新書)がありますが、あちらが官僚たちの「立身出世」の物語だったのに対して、コチラはある意味で、近代国家の確立とともに官僚機構から押し出されてしまった者の物語でもあります。
 そして、その中で明治国家の頂点に立ったのが伊藤博文なのですが、その伊藤が数々の失敗にもかかわらず明治政府の中で重きをなしていったのかがわかる内容にもなっています。
 テーマとしては地味ですし、叙述もやや入り組んでいるのですが、明治国家の形成、政治や官僚、政官関係、そして人事の話が好きだという人には強くお薦めできます。
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 上記の5冊につづくのが、読んだ順で、吉田裕『日本軍兵士』(中公新書)、清水真人『平成デモクラシー史』(ちくま新書)、伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』(岩波新書)、高槻泰郎『大坂堂島米市場』(講談社現代新書)、瀧澤弘和『現代経済学』(中公新書)といったところです。

 また、『大坂堂島米市場』以外にも経済史や社会史の分野で面白い本が多かったのも今年の特徴で、 藤田覚『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)、横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書)、早島大祐『徳政令』(講談社現代新書)、松沢裕作『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)など読み応えのある本がたくさん出ました。
 あとは対象のダメな部分を容赦なく描いた評伝・竹中亨『ヴィルヘルム2世』(中公新書)が面白かったですね。

 あと、今年は岩波新書80周年記念の『図書』増刊号「はじめての新書」に寄稿させていただいたのも良い記念となりました。来年も面白い新書を読んでいきたいものです。

佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』(中公新書) 6点

 宗教改革の後、イエズス会をはじめとしたカトリックの宣教師のグループが新大陸やアジアに向かい、キリスト教を広めました。日本にやってきたフランシスコ・ザビエルについては多くの人が知っているでしょう。
 そんなキリスト教の異世界への宣教を追うことで「キリスト教の世界化」について改めて考えてみせたのがこの本。
 構成的にややわかりにくい部分もあるのですが、宗教改革のインパクトや、宣教師たちの情熱、日本での宣教の構造など、興味深く読める部分も多く、この問題に興味のある人であればいろいろな面白い知識が得られると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 燃えさかる宗教改革の火の手
第2章 カトリック改革とトレント公会議
第3章 イエズス会の誕生と成長
第4章 托鉢修道会の動き―フランチェスコ会とドミニコ会
第5章 イエズス会のアジア進出
第6章 新大陸のキリスト教化
第7章 イエズス会の日本宣教
第8章 日本宣教の構造
第9章 キリスト教の世界化

 第1章は宗教改革について。ルターやカルヴァン、さらにイギリスの宗教改革がどのように行われ、どのような影響を与えたかということが書いてあります。
 基本的にはそれぞれの宗教改革の簡単な記述にとどまっているのですが、ドミニコ会、フランチェスコ会、アウグスティノ会などの托鉢修道会士たちがルターの思想を広めたこと、一方で領主権力は宗教改革によって教会や修道院の財産の没収を狙っていたことなどは注目すべき点です。

 第2章はカトリック側の対抗宗教改革について。宗教改革に対して、1522年に教皇に選ばれたオランダ人のハドリアヌス6世は教会の混乱が教皇庁と高位聖職者の腐敗にあることを認め、教会改革を目指しますが、1523年に亡くなってしまいます。歴史家のマルク・ヴナールは「もしハドリアヌス6世が存命であったなら、すべてが違っていただろう」(37p)との言葉を残しています。
 ハドリアヌス6世の跡を継いだメディチ家出身のクレメンス7世は危機感が薄く、1527年には神聖ローマ帝国軍によるローマ劫略を許します。

 1545年にはじまったトレント公会議も、プロテスタント側の出席はなく、少ない人数での始まりとなりましたが、1563年の閉会時には(18年もかかった!)多くの出席者が集まり、カトリック勢力の結集を印象づけました。
 この会議で原罪、秘跡、聖餐、聖職ヒエラルキーといったカトリックとプロテスタントの教義上の違いが整理され、カトリック側の規律が強められていったのです。

 第3章ではイグナティウス・ロヨラを中心にイエズス会の誕生が描かれています。
 イグナティウス・ロヨラは小貴族の家に生まれ、騎士になるための教育を受けましたが、大砲で右足を負傷して騎士道を断念し、信仰の道へと入りました。
 イグナティウスはパリで学びながら、フランシスコ・ザビエルをはじめとする7人の仲間と意気投合し、のちにイエズス会を結成します。
 彼らは教皇に直接従属する会派を結成して宣教に出ていくことを決意し、1540年に教皇パウルス3世にそれが認められると、早くも翌年にはザビエルがインドに向けて出発しました。

 イエズス会ではイグナティウスの経験に基づいてつくられた『霊操』と呼ばれる会士になるためのイニシエーションが重視され、宗教改革と同じく神と個人の関係が大切なものとされました。
 イグナティウスは1556年に亡くなりますが、この頃には会士は1000人を超え、1581年には5000人、1615年には1万3000人を超えました(77-78p)。この背景にはイグナティウスのあとを継いだ総長の手腕と、教育制度の充実などがあります。

 第4章は、フランチェスコ会とドミニコ会の活動が取り上げられていますが、時代がさかのぼります。今までが宗教改革とその影響という形の叙述だったので、ここはややわかりにくく感じます。
 遠いアジアへの宣教は大航海時代以前から試みられてきました。13世紀にモンゴル帝国がその勢力を拡大させると、モンゴルはキリスト教に理解があるとの噂が広まり、アジアへの宣教に期待がかけられたのです。

 こうした中でアジアへと向かったフランチェスコ会の修道士がモンテコルヴィーノです。モンテコルヴィーノは1289年にイタリアを出発し、1293年に北京に着いています。到着直後にクビライが亡くなり、モンゴル王室のキリスト教化という目的は達せられませんでしたが、クビライの子の成宗テムルはモンテコルヴィーノを手厚くもてなしました。
 モンテコルヴィーノはいち早くこの地域に広がっていたキリスト教ネストリウス派と対立し、内蒙古のオロン・スムに移動して、ここに教会を建てています。
 その後、モンテコルヴィーノはイラン系の遊牧民族であるアラン人の改宗や、ギリシア正教徒の改宗に成功しますが、教皇庁の反応の鈍さや後継人材がすばやく決まらなかったこともあり、モンテコルヴィーノの布教は単発的なものに終わりました。

 第5章はイエズス会のアジア進出について。ポルトガルの商業活動は商人だけでなく王権によっても担われており、特に15世紀末から16世紀前半に王位にあったマヌエル1世はエルサレムのイスラーム教徒から奪回を夢見ていました。
 このポルトガルのインド進出に乗ずる形で、イエズス会の宣教活動も進んでいきます。イエズス会はゴアにコレギウムと呼ばれる学校をつくり、宣教活動の担い手を育成していきます。
 また、マテオ・リッチはその知識を生かして中国語を習得し、中国人の知識人の間でキリスト教を広めてきいきました。中国では明から清への王朝交代などもあり、布教が順調に進んだわけではありませんが、イエズス会は中国の宣教師の50%、教会と礼拝堂の85%を占めたといいます(125p)。

 第6章は新大陸での布教について。コロンブスによる「発見」の後、スペインが中心となってこの大陸を支配することになります。そして、フランチェスコ会やドミニコ会などの修道士たちがキリスト教の宣教のために、新大陸へと渡って行きました。
 メキシコでは、フランチェスコ会はメキシコ高原の南と北西メキシコ、ドミニコ会は南部とメキシコ・シティ周辺、イエズス会は北西部からカリフォルニアといった具合に、それぞれの修道会は地域を分け合うような形で布教を行いました。
 南米では旧インカ帝国の領土にまずドミニコ会が入り、ついでフランチェスコ会、イエズス会が入っていきます。
 また、北米においてもフランスの植民地を中心としてフランチェスコ会やイエズス会、カプチン会などの宣教師が宣教活動を行いました。

 第7章はイエズス会の日本宣教について。1548年、ザビエルがイエズス会の会士に宛てた手紙には、日本という大きな島があること、日本人は知識欲が旺盛であること、アンジロウという日本人に出会ったことなどが書かれています(165ー166p)。
 この手紙の影響を受けたのか、イエズス会は日本に優秀な宣教師を送り込みました。日本に派遣されたイエズス会士の82%が最高度の教育を受けていたといいます(166ー167p)。
 
 1549年、ザビエルは鹿児島に上陸します。イエズス会はポルトガル商人と結びついており、ポルトガル船の入港を条件にキリスト教の布教を大名に認めさせようとしましたが、逆にそれは布教が戦国大名の権力争いに巻き込まれることも意味しました。
 そこでザビエルは京での布教を目指しましが、これもうまくいかず、山口や豊後を中心とする九州北部での布教に集中していきます。
 
 ザビエルがインドの管区長に任命されて日本を去ったあとも布教は停滞しました。キリシタン大名である大友義鎮が治める豊後を中心に布教を行ったものの、大名が洗礼を受けたからといって配下の武士が自動的に入信したわけではなかったからです。
 そこでイエズス会は布教の中心を長崎へと移し、そこから天草や五島列島で信者を獲得していきました。

 イエズス会が信者を増やしていくのは1580年代になってからです。1579年にヴァリニャーニが来日し、日本の風習に合わせる「順応政策」をとり(例えば、身分高い人の前では絹の服を身につけるなど)、コレジオやセミナリオといった教育機関を整えると、堺や安土などの畿内にも宣教師が配置されました。
 1587年に秀吉が伴天連追放令を出しますが、平戸に集められた120人のイエズス会士のうち、実際に日本を離れたのは3人のみであり(181p)、宣教活動は続きました。
 しかし、江戸幕府の成立後、徐々に幕府権力とキリスト教の摩擦が起きるようになり、また、大阪の陣でイエズス会などが豊臣方の勝利を願ったことなどもあって、1614年には禁教令が出されるのです。
 
 第8章では、イエズス会の日本布教の構造とイエズス会以外の動きについて触れられています。
 まず、イエズス会の財源ですが、ポルトガル王や教皇庁からの支援があったものの、送金が船の沈没などによって途中で失われることもあり、十分なものとはいえませんでした。
 そこで、イエズス会はポルトガル商人の助けを借りたり、また自ら貿易に乗り出します。ヴァリニャーニは生糸の貿易に投資をしたり、日本の大名から預かった日本の銀を中国で金に換える取引を行うことなどによって活動資金を捻出しようとしました(194ー195p)。
 しかし、こうした商業活動に関してはイエズス会内部からの異論もありました。

 ヴァリニャーニは日本人にキリスト教の一体性を確信させるためにも、イエズス会による独占が望ましいと考えていましたが、1590年代になるとスペインと結びついたフランチェスコ会が日本に入ってきます。
 フランチェスコ会は施療院をつくって布教を進めようとしましたが、イエズス会との対立もあり、あまりうまくはいきませんでした。
 
 第9章は「キリスト教の世界化」と題し、まずはチマルパインというキリスト教徒となったインディオの知識人の手記が紹介されています。彼は家康の使者としてメキシコにやってきた田中勝介一行も目にしており、彼らの様子を観察し、「彼らは髭を蓄えることをせず、肌がスベスベして滑らかで青白いところから、その容貌は女のようである」(217p)とった記述を残しています。
 また、日本での二十六聖人殉教についても書き記しており、日本人がキリスト教徒になることを願っています。
 アジアと新大陸の間をキリスト教によって媒介するグローバルなつながりが生まれていたともいえるのです。

 いろいろと端折った部分もありますが、以上のような内容になります。
 ここに書いたこと以外にも、キリスト教宣教の背景となる歴史的な出来事の説明は丁寧にしてありますし、事項索引、人名索引がついているのも便利です。
 ただ、最初にも述べたようにやや全体の構成がまとまっておらず、内容を追いにくい面もあります。部分部分は面白いだけに、少しもったいない気もします。


若尾政希『百姓一揆』(岩波新書) 7点

 タイトルから百姓一揆を網羅的に解説した本を期待する人もいるかもしれませんが、そうやって読み進めると途中で少し混乱するかもしれません。『太平記』の話などが出てきて、「百姓一揆物語」と『太平記』の類似点の指摘などが行われるからです。
 このタイトルは「百姓一揆」ですが、むしろ「百姓一揆物語」としたほうが内容をよく表しているかもしれません。「個々の百姓一揆が実際にどのようなものであったか?」ということよりも、「百姓一揆がどのように語られてきたか?」ということをテーマにした本になります。
 著者は『「太平記読み」の時代』で、江戸時代のイデオロギーというと朱子学を想定しがちだが、実際には『太平記』とその太平記について講釈した「太平記読み」、そして特に注釈書である『太平記評判秘伝理尽鈔』(以下『理尽鈔』)こそが江戸時代の政治思想と実際の政治に大きな影響を与えたということを主張しましたが、今回は百姓一揆物語を題材に江戸時代に「仁政イデオロギー」がいかに成立し、解体していったかを辿ろうとしています。

 目次は以下の通り。
第1章 近世日本はどんな社会だったか
第2章 百姓一揆像の転換
第3章 百姓一揆を読む
第4章 百姓一揆物語はなぜ生まれたか
第5章 『太平記評判秘伝理尽鈔』がひらいた世界
第6章 百姓一揆物語とは何だったのか
終章 「近世的世界」の終焉

 第1章と第2章では、研究史を整理しつつ、近世社会像と百姓一揆像が近年いかなる展開を遂げたかが述べられています。
 かつて、近世は領主権力が暴力を独占し民衆をとことんまで収奪した社会だと考えられていました。そして、それに対するやむにやまれぬ抵抗が百姓一揆であり、それはマルクス主義的な「階級闘争」にも通じるものと考えられていたのです。
 
 しかし、深谷克己や宮沢誠一らが1973年に「仁政イデオロギー」という「領主は百姓が生存できるように仁政を施し、百姓はそれに応えて年貢を皆済すべき」との相互的な関係意識を指摘すると、徐々にそれが受け入れられていくことになります。
 それとともに百姓一揆も、「体制打倒」をめざす「階級闘争」的なものではなく、一定の公共的存在として認められた百姓が仁政の回復を求めたものとして認識されるようになっていくのです。実際に、綱吉が5代将軍に就任した1680年に老中堀田正睦の名で出された代官向けの「条々」に「民は国之本也」との文言があり(62p)、これに呼応するかのように百姓が数々の訴状を出したこともわかっています。
 
 また、一方で近世における儒学の捉え方も変化していきました。以前は、徳川家康に仕えた林羅山によって朱子学が幕府に取り入れられ、やがてそれが官学として江戸幕府の支配的なイデオロギーとなっていったというように理解されていましたが、実は朱子学の教えは幕藩体制とは適合的ではなく、朱子学がその地位を確立していくのは18世紀末と江戸時代も後期になってからのことでした。
 「仁政イデオロギー」は朱子学によって生まれた考えとは言いがたいのです。

 このように近世社会像の転換とともに百姓一揆の研究も変化してきているのですが、この研究には難しさもあります。
 まず、島原・天草一揆を最後に「一揆」という文言はほとんど使われなくなるといいます。領主が使ったのは「徒党」「強訴」「逃散」という言葉でした(43p)。
 また、教科書でも一揆の類型としてとり上げられている代表越訴型一揆(代表例は佐倉惣五郎や磔茂左衛門)に関しては史料の上では確認できないといいます(48p)。
 さらに一揆というと竹槍と蓆旗(むしろばた)ですが、農民の持った得物のメインは竹槍ではなく鎌や鍬などの農具で、旗は木綿のものが多かったといいます。竹槍と蓆旗は自由民権運動の頃につくられたイメージらしいのです(52p)。

 第3章では百姓一揆に関する史料についてとり上げています。百姓一揆については、藩庁や村役人のなどの実務的な記録と一揆についての記録作品が残っています。そして、研究の進展により一揆ついての記録作品については物語性・フィクション性を含んでいることもわかってきました。
 となると、信頼できるのは実務的な記録ということになりますが、ところが、こちらに関しても一揆の訴状には雛形(テンプレート)があり、そこで訴えられている窮状が必ずしも実際のものではないことも明らかになってきました(71p)。

 そこで著者は物語性があるからといって一概にその史料性を否定するのではなく、その物語性の中から当時の人々の考えを読み取ろうとしていきます。
 例えば、1739年(元文4年)に鳥取藩で起きた一揆を題材とした『因伯明乱太平記』では、一揆勢の行動を「秀吉公の発向もかくやと思ひやられて」(83p)と喩えたり、藩主の池田宗泰を「楠正成智信勇を備へ給ふ」(87p)と評するなど、軍書的な表現が見られます。また、悪い郡代を藩主が処分することで仁政が回復するという仁政イデオロギーに沿った展開となっています。

 第4章では、第3章でとり上げた一揆物語について網羅的な分析を行っています。
 104ー109pにかけて63の一揆物語が表形式で紹介されています。17世紀中に成立したものはなく、多くは18世紀の半ば以降に成立しています。
 タイトルは「太平記」の名がついたものが11種類と多く、内容面でも『太平記』の影響を受けたと思われる表現が随所に見られます。他にも軍書にみられるような表現も目立ち、作者や読み手が軍書に通じていたことが窺えます。
 
 18世紀の日本は商業出版が勃興してきた時期にあたりますが、そこで大きなシェアを持ったのが『太平記』をはじめとする軍書でした。著者によると「一揆を見聞きした者が、軍書の叙述スタイルを借りて作り出した歴史叙述が、一揆物語だった。その意味で、一揆物語は新たに作られた軍書ともいえるの」(124p)です。

 その軍書の中でもメジャーだったのが『太平記』なのですが、『太平記』がストレートに読まれたわけではなく、その注釈書である『太平記評判秘伝理尽鈔』(以下『理尽鈔』)が意外な影響力を持っていました。
 『理尽抄』は『太平記』の各人物の行動に論評を加えたもので、そこで戦に長けた忠義の士という評価だけでなく、農政に長け百姓の支持を受けた名君として描かれるのが楠正成です。
 
 そして、この『理尽抄』が池田輝政や前田利常といった藩主らに受け入れられたこともあって、『太平記』の世界は「仁政イデオロギー」を支えるものとなっていきます。
 『太平記』のエピソードは「太平記読み」と呼ばれる講釈師によって民衆にも広がり、歌舞伎や浄瑠璃にも取り入れられていきます(「忠臣蔵」も初演の頃は太平記の世界を借りている)。
 さらに『理尽抄』自体もかなり幅広く読まれたようで、川崎の名主を務め徳川吉宗にも登用された田中丘隅にも『理尽抄』の影響が見えるといいます(151ー152p)。
 こうした『太平記』や『理尽抄』の広がりが、身分の違いを超えて理想の政治のイメージを形成したと考えられるのです。

 第6章は再び一揆物語について。ここの議論はやや錯綜していて追いづらいのですが、まず、著者は改めて、一揆物語における『太平記』と『理尽抄』の影響の強さを指摘して次のように述べています。
 興味深いことに、共通語を持たない近世社会において、北は東北から南は九州まで日本各地で一揆物語が作られたが、それらは非常に似通っている。特にその語り口は、固有名詞を抜いて語ったとすれば、どこの地域でも通用するのではとさえ思われるほどである。(175p)

 また、一揆物語と同じく、18世紀半ばあたりから作られ始めたものとして、「明君録」があります。これは実際にいた理想的な君主を顕彰し、それに習おうとするものです。
 徳川吉宗や池田光政といった人物が「明君」とされ、彼らの言行が集められます(もちろんすべてが事実とは限らない)。これも仁政イデオロギーのあらわれといえるでしょう。

 終章では「「近世的世界」の終焉」と題して、仁政イデオロギーの限界を見ています。
 一揆によって君側の奸が討たれ秩序が回復されるというストーリーは、今ある社会の形を温存する形で問題が解決されることを意味しますが、19世紀に入るとそうはいかなくなってきます。
 一揆には無宿人などの「悪党」が加わって庄屋や米屋を打ちこわすようになり、対する領主側もその鎮圧に鉄砲などの武器を用いるようになります。仁政イデオロギーの世界は維持することが難しくなっていくのです。
 一方、佐倉惣五郎の芝居などが流行し、各地で「義民」の物語が作られたのもこの頃でした。実際には百姓の間で貧富の差が拡大し、その一体性は崩れていましたが、「百姓を一体のものとしてつなぎ合わせるために、義民を主人公とした一揆物語が作られたと言え」(219p)るのです。

 このようにかなり複雑なことを論じた本で、議論を追うのが大変な部分もありますが、なされている議論は刺激的で面白いと思います。人々が出来事をどう捉えて、どう語ってきたのかという歴史の重要なポイントを再認識させてくれます。
 ただ一方で、実証的にわかっている部分をもう少し示してくれても良かった気がします。一揆物語に『太平記』の影響があり、一揆を起こす農民たちの意識の中にも『太平記』からくる仁政イデオロギーの影響があるとしても、実際に一揆が起きる要因(凶作・悪政など)というのはあるはずです。そのあたりも示しつつ、『太平記』の影響も示すことができれば、もっとタイトルにふさわしい総合的な内容になったのではないかと思います(もちろん、それは非常に難しいのでしょうが)。
 

波多野澄雄・戸部良一・松元崇・庄司潤一郎・川島真『決定版 日中戦争』(新潮新書) 7点

 2006年から始まり2010年に報告書の一部を公表した「日中歴史共同研究」。いわゆる歴史問題の解消のために設置されたものでしたが、やはりなかなか難しいものがあったようです。この本は、その研究に日本側の委員として参加した波多野澄雄、戸部良一、庄司潤一郎の3人が、その後、中国史の川島真、財政史の松元崇を加えた5人による勉強会を開き、議論を重ねた成果の一部になります。
 タイトルに「決定版」という言葉があるため、日中戦争の経過を詳細にたどったものを想像する人もいるかもしれませんが、この本は日中戦争を日中双方の視点や多国間の外交、あるいは財政とともに考えていくような内容になっています(戦闘の経過などはあまり触れられていない)。
 目次は以下の通り。

第一章 日中戦争への道程(戸部良一)

第二章 日中戦争の発端(戸部良一)

第三章 上海戦と南京事件(庄司潤一郎)

第四章 南京/重慶国民政府の抗日戦争(川島真)

第五章 第二次上海事変と国際メディア(庄司潤一郎)

第六章 「傀儡」政権とは何か──汪精衛政権を中心に(川島真)

第七章 経済財政面から見た日中戦争(松元崇)

第八章 日中戦争と日米交渉―事変の「解決」とは?(波多野澄雄)

第九章 カイロ宣言と戦後構想(川島真)

第一〇章 終戦と日中戦争の収拾(波多野澄雄)


 第一章では、張作霖爆殺事件から満洲事変、そして33年の塘沽停戦協定を経て日中関係が小康状態となった1935年までの動きを扱っています。
 張作霖爆殺事件も満洲事変も、ともに関東軍が満洲における日本の権益確保をめざして起こしたものでした。ご存知のように張作霖爆殺事件はそこから軍事行動にはつながらなかった一方、満洲事変は満洲国という国家の建設に行き着きます。独立政権ではなく独立国家を目指した理由としては、地方政権とは条約を結ぶことができず、また地方政権は必ず軍閥化するとの考えがあったといいます(24-25p)。

 一方、中国側は日本政府による関東軍の統制に期待をかけ、また長江の大水害の影響などもあって不抵抗方針でのぞみます。そして、日本政府の統制が効かないとみると排日ボイコットと国際連盟への提訴に踏み切りました。
 結局、リットン調査団が日本にそれなりに配慮した報告書を出したにもかかわらず、日本は国際連盟を脱退します。
 しかし、日中関係はこれで破綻したわけではなく、33年の塘沽停戦協定の後、35年の1月には蒋介石が匿名の雑誌論文で日中の連携を訴え、広田外相もそれに応えるような演説を行います。5月には大使交換も行われ、6月には国民政府が排日運動を禁止するのです。

 第二章は日中戦争の勃発まで。先述のように1935年には小康状態となった日中関係ですが、それを破壊したのが陸軍の華北分離工作でした。陸軍、特に関東軍にとって対ソ戦の前に背後の驚異を除去することが必要であり、それは中国に対して強く出れば可能だと考えられていたのです。
 一方、中国側は35年11月に幣制改革を断交し、国民政府はその基盤を強化します。さらに36年には綏遠事件と西安事件が起こります。蒙古の王族・徳王を利用して内蒙古進出を狙って失敗した綏遠事件、蒋介石が張学良に監禁された西安事件、いずれも日中関係に大きな影響を与える出来事でしたが、日本側は迅速に政策を転換させることができず、37年に盧溝橋事件が勃発します。
 日本側はあくまでも現地で解決することを志向していましたが、中国側は現地での解決を認めずに政府同士の決着を求めました。
 日本側も日本の北平・天津地域攻略が一段ランクしたあとに、元外交官の船津辰一郎を中国に派遣する「船津工作」によって和平を試みましたが、8月に起こった第二次上海事変によってその構想は吹き飛んでしまします。

 第三章は第二次上海事変と南京事件について。この本では日中が全面戦争へと突入した分岐点を盧溝橋事件ではなく第二次上海事変においています。そしていまだに大きな歴史問題となっている南京事件もこの流れの中にあるのです。
 第二次上海事変は海軍陸戦隊の士官と兵士が殺害された事件(大山事件)をきっかけに起こっていますが、これが大きく拡大したのは中国側が上海近辺で決戦を行い、有利な状況で国際的な干渉を求めるという対日戦のプランを持っていたからでした(62p)。
 海軍は当初、日中戦争の拡大に反対の立場でしたが、軍令部では日中全面戦争の作戦も検討しており、それが第3艦隊の旗艦「出雲」への中国空軍の攻撃をきっかけに動き出します。海軍は南京や南昌などへの本格的な爆撃を開始するのです。上海では石原莞爾に言わせれば「海軍が陸軍を引き摺って行った」(66p)のです。
 一方、蒋介石は自軍に空軍をはじめとする自信を持っており、また中ソのルートや国際社会の支持に期待をかけて上海にこだわりました。9月に入り、海軍が上海に飛行場を整備したことで、南京の制空権は日本が制し、中国側は不利な状況に陥りますが、それでも蒋介石は退却を選びませんでした。
 
 11月、日本の第10軍が杭州湾に上陸し、中国軍は総退却を始めます。蒋介石は遷都を行って長期抗戦を行うことを決めますが、南京は放棄せず、徹底抗戦を行うことも命じました。
 絶望的な状況で南京の死守を命じた背景としては、蒋介石がソ連の参戦に期待していたということがあるといいますが(78p)、これが南京事件を引き起こす一因となります。
 その南京事件に関しては、日中で見解の分かれる犠牲者数などについては諸説をあげ、虐殺の起こったいくつかの要因を指摘するにとどめています。

 第四章は抗日戦争における国民政府の動きについて。南京を脱出した蒋介石は38年3月~4月の山東省南部の台児荘で日本軍を撃退すると、ちょうどその頃開かれた国民党の臨時全国大会で蒋介石が新たに設けられた国民党総裁となり、ここに蒋介石の党内での地位が確立しました。
 38年8月、武漢が陥落すると蒋介石は湖南に撤退し、12月には重慶に移りました。国民政府は四川省内で直接支配を拡大し、四川省が国民政府を支えました。知識人も四川省に移り、「その結果、中華民族論であるとか、パンダを含めた辺境地域を意識した新たな中国シンボルの形成など、新しいアイデンティティが掲載されていくことになった」(105p)のです。

 日中の和平工作は何度か試みられましたが、「蒋介石は単独で日本に勝利するというよりも、日本が欧米列強と対立することによって、大局的に勝利することを想定して」(105p)おり、和平交渉も国際情勢を背景として行われました。
 結局、日本は中国を屈服させることができず、援蒋ルートの遮断などを目的とした仏印進駐によって対米関係を悪化させ、41年12月に対米英戦に踏み切ります。国民政府もこれに合わせて日本とドイツに宣戦しますが、蒋介石に日記に「これこそ、抗戦四年半の最大の効果であり、また唯一の目的であった」(115p)と書き記しています。

 第四章までは時系列的な記述と言えますが、第五章以降はそこから離れ、さまざまな角度から日中戦争を検証しています。まず第五章は国際メディアと宣伝戦についてです。
 盧溝橋事件勃発当時は比較的冷静だった国際メディアも、第二次上海事変になるとはっきりと中国に好意的になっていきます。中国軍機による上海租界への誤爆などもあり、当初は中国側を批判する声もあったのですが、泣き叫んでいる赤ん坊などの写真を効果的に使うことで、中国側は国際メディアを味方につけていきました。
 また、蒋介石夫妻、特に婦人の宋美齢が流暢な英語を使って対外宣伝のシンボルとなりました。上海での戦いで敗北しても蒋介石夫妻のイメージが損なわれることはなかったのです。
 一方、日本はそもそも宣伝戦に力を入れておらず後手後手にまわり、アメリカでは反日的な世論が形成されていくことになります。

 第六章は満洲国や汪兆銘政権(この本では汪兆銘は中国で一般的な汪精衛表記になっている、以下汪精衛)をはじめとする日本の「傀儡政権」について述べられています。
 中国ではこれらの政権は「偽」政権と呼ばれ、その協力者は「漢奸」と呼ばれています。この章では、なぜ中国人が傀儡政権に協力したのか、そして汪精衛政権の再評価などを試みていますが、それほど深くは展開されていない感じです。

 第七章は経済財政面から見た日中戦争。緊縮財政を行っていた濱口・若槻の民政党政権の退陣と満洲事変によって、日本は一気に軍事費を増大させていった印象を持っている人もいるかもしれませんが、高橋是清が大蔵大臣にいた頃には軍事費の膨張には歯止めがかけられていました。
 また、満洲事変によって日本は昭和恐慌から脱出したというイメージもあるかもしれませんが、未開の地である満洲を発展させるには多額の資金が必要で、満洲の発展は日本の国内経済を犠牲にして達成されたものでした。
 しかし、それでも大きな反発が起きなかったのは日本の経済が好調だったからです。高橋是清による金融緩和の影響で、二・二六事件の起きた1936年の日本経済は絶好調で、藤山一郎の「東京ラプソディー」が大ヒットしたのもこの年です。

 しかし、二・二六事件で高橋が暗殺されると、軍事費の膨張が始まり、37年の盧溝橋事件以降は歯止めがかからなくなります。
 また、当時の日本経済の対英米貿易依存度は輸入で50~60%、輸出で30~50%と大きなものでしたが(189p)、日中戦争によって両国との関係は悪化していきます。そして、多くの機関が経済的に無謀だとした対英米戦に突入してしまうのです。

 第八章では日中戦争と日米交渉の問題が取り上げられています。ご存知のように日本は真珠湾攻撃の前にアメリカと交渉を行っているわけですが、そこで大きな問題となったのが中国に関するものでした。
 38年の近衛による東亜新秩序生命は必ずしも排他的なブロックを志向していたわけではありませんでしたが、日独伊三国同盟の成立などによって、徐々に日本は自給自足経済圏の建設を目指すようになっていきます。
 39年に第二次世界大戦が勃発しますが、それは必ずしも中国にとって有利な展開ではありませんでした。イギリスの余裕がなくなり、ソ連は対日宥和の方針をとったからです。また、アメリカも戦争準備のためには時間が必要でした。
 ここに41年4月から日米交渉が始まることになります。当初はアメリカ側も譲歩の姿勢を見せましたが、6月には満洲国の否認や中国からの撤兵、枢軸同盟からの脱退を求める厳しい提案を行い、日本の軍の一部では「南方戦争」以外にないという認識が生まれます。
 
 結局、陸軍が中国への駐留にこだわったことが交渉の大きな障害となりましたが、この駐兵問題以外にも、国際的な枠組みの中で解決を求めるアメリカ側と、局地的解決にこだわる日本側との認識の違いもありました。日本はアメリカの仲介によって日中特設交渉を実現しようとしたのに対して、アメリカは「中国を含む太平洋全域における「無差別待遇の原則」適用による「新秩序」建設の否認」(209p)を求めており、その溝は埋まらなかったのです。

 第九章はカイロ宣言と戦後構想について。1943年の12月1日に発表されたカイロ宣言は戦後に大きな影響力をもった重要な文書ですが、実は文書自体はコミュニケとしてプレスにリリースされたものであって首脳の署名もありません(243p)。また、外交文書が十分に保存されておらず「研究者泣かせのテーマ」(247p)だともいいます。
 しかし、このカイロ宣言がポツダム宣言の基盤となったこともあり、その後の日中の領土の確定などに非常に大きな影響を与えました。例えば、中国が琉球を領土として要求しないことなどが決まっています(一方、ローズベルトが蒋介石に対して中国による琉球の領有を求めたという話もある(247p))。

 第十章は戦争の収拾について。太平洋戦線では日本は敗北を重ねましたが、中国戦線では日本軍が優勢で中国にいた将兵にとっては「負けた気がしない」敗戦でした。また、終戦の詔書でも日中戦争については触れられていません。
 支那派遣軍総司令官の岡村寧次は「弱体の重慶軍」(257p)に武装解除されることに難色を示しましたが、この日本軍の武装解除に関しては国民政府と共産党がそれぞれ独自に動こうとしました。
 一般人の引揚げに関しては、終戦当時の日本政府が海外在留民の「現地定住」を方針としたこともありスピーディーには進みませんでした。日本政府は国内の食糧事情や、蒋介石の「以徳報怨」演説などから現地定住が可能だと考えたのです。
 しかし、現実的にそれは難しく、また中国において日本の影響力が残ることを懸念したアメリカの意向などから1946年1月には全居留民を帰還させることが決まります。ただし、技術者に関しては中国側が残留を望み、1949年の段階で1万6700人あまりの流用日本人が存在していました。また、山西省では閻錫山が共産党と闘うために日本軍将兵をそのまま受け入れました。
 最後に、中国側の寛大な態度は蒋介石の「以徳報怨」の考えに集約されがちですが、「中国は大戦末期には、国連創設に力を尽くすなど戦勝国としての立場の確立に努めたが、内戦のなかで著しくその国際的地位を低下させ、戦犯や賠償問題で責任追及の先鋒に立ち得なかった」(275p)と指摘しています。

 このように日中戦争を多角的な角度から検証した内容になっています。特に日本側の事情だけではなく、中国側の事情や国際政治の情勢なども織り交ぜながら分析を行っているところが本書の特徴といえるでしょう。
 「「決定版」という割には南京事件以降の日本の作戦や、日本軍の行ったとされる南京事件以外の残虐行為に触れられていない」といった批判は当然あるでしょうが、日中戦争だけでなく、日中関係や歴史問題を考える上でもさまざまな材料を与えてくれれ本といえるでしょう(もちろん、抜けている部分もありますが)。


井手英策『幸福の増税論』(岩波新書) 6点

 「幸福の増税論」とは、「税務署がやっている書道作品のキャンペーン(「正しい納税」とか書かせるやつ)でも、さすがにここまでは言わないぞ」というなかなかインパクトのあるタイトルですが、「自己責任社会」から「助け合う社会」への転換を増税によって成し遂げようとする構想を語った本になります。
 増税を語る本というと、「日本の借金は世界一」、「国民一人あたりの借金は~」、「高齢化で社会保障制度が破綻する!」といった形で危機を煽る本がほとんどですが、著者はそういったロジックを使わずに、あるべき社会の実現のために増税を説いています。

 著者は民進党のブレーンとして政治にも関わり、その後あっさりと民進党が消滅してしまうという悲劇も経験しているのですが、それでもこうした本を書いて変革を訴えており、その信念や誠実さといったものは疑い得ないものでしょうと。
 ただし、歴史や政治を学んできた自分からすると、著者の構想は革命か戦争でも起きない限り不可能な構想にも思えます。

 目次は以下の通り。
第1章 鳴り響く「一億総勤労社会」の号砲
第2章 中の下の反乱―「置き去りにされた人たち」の怒り
第3章 再分配革命―「頼りあえる社会」へ
第4章 貯蓄ゼロでも不安ゼロの社会
第5章 財政の転換をさまたげるもの
終章 選択不能社会を終わらせる

 第1章では「勤労と倹約」という日本で長らく美徳とされていたものが問い直されています。
 「勤労と倹約」は、それこそ江戸時代から尊ばれていたものですが、松沢裕作『行きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)を読むと、それが明治になって「通俗道徳」として広がり、自己責任を厳しく問う社会を生み出したことがわかります。
 この本ではそうした議論を援用しながら、この「勤労と倹約」の精神が戦後の右派と左派にも受け継がれていることを指摘し、それがシングルマザーや高齢者を勤労へと追い立て、一般の人にも将来に備えて貯蓄を強いる状況を生み出しているといいます。近年では所得の低下により、貯蓄をする余裕のない人が増えているにもかかわらずです。

 第2章では現状の分析が行われてます。
 まず、経済成長率は低下傾向にあり、高度成長のように「経済成長によって貧しい人も豊かになれる」という考えは成り立たないといいます。アベノミクスにより多少景気に明るさが出てきたとはいえ、設備投資が大きく増えているわけでもなく、外国人労働者を大規模に入れない限り生産年齢人口は減少し、サービス産業化が進む中で生産性の大幅な向上は難しいからです。

 そうした中で国民の所得は伸び悩んでいるわけですが、貧しい人を助けようとする風潮は後退しています。「世界価値観調査」において、「国民の収入が平等になるように国が統制する」に賛成した人は60カ国中55位、「国際社会調査プログラム」の「所得の格差を縮めるのは政府の責任である」に賛成した人は42カ国中36位と、いずれも低い順位になっています(48-49p)。
 一般的な他者や政治家、政府に対する信頼も低く、共在感や仲間意識の薄い社会となっているのです。
 こうした状況が、実際には「下」に近いが自分たちを「中の下」と思いこんでいる人々による、弱者へのバッシングを生んでいるといいます。人々は自ら貧しさを認めずに生活保護受給者などをバッシングするのです。
 著者は神奈川県の小田原市に住んでおり、「生活保護ジャンパー問題」(市職員が受給者を蔑視するような文言の書かれたジャンパーを着ていた問題)の検討会議の座長を務めることになったそうですが、市に寄せられた声の55%が市を批判する一方、43%がよくやったと激励するものだったといいます(57p)。
  
 第3章では、ではどうしたらいいかという道が示されます。
 私たちは「共通の利益や目的」をもって社会を営んでいるはずであり、この「「共通の利益」や「共通のニーズ」、これらをみたしあうために作られた社会的・国家的連帯のしくみ、それこそが「財政」」(77p)です。この財政を強化することによって分断社会を乗り越えようというのが著者の基本的なアイディアになります。

 著者が提唱するのは普遍的な福祉、「ベーシック・サービス」です。今まで福祉というと貧しい人が受けるものというイメージがありましたが(実際にはほとんどの国民が福祉の恩恵を受けているにもかかわらず)、こうしたイメージを覆し、所得に関係なく誰でも福祉を受けられるようにしようというのが、このベーシック・サービスの考えです。
 イメージ図が87pに載っていますが、これによると年収200万のAさん、年収600万のBさん、年収1000万のCさんから一律25%の税を取ります。税額はそれぞれAさん50万、Bさん150万円、Cさん250万です。そして、この450万の税収でそれぞれに150万円分の福祉の給付を行います。これによって再分配がなされ、格差を縮小するのです。そして、この税として想定されるのが消費税です。
 
 第4章では、日本において根強い「租税抵抗」を乗り越えるために道が模索されています。
 戦後の日本では基本的に減税が中心的に行われ、純粋な増税というのはあまり行われてきませんでした。97年の消費税の3から5%への引き上げも、その前に行われてきた減税の穴埋めであり、そう考えると2014年の8%への消費税引き上げは久々の純粋な増税だったといえます。
 しかし、この増税は景気の後退をもたらし、消費税の10%への引き上げは二度にわたって延期されました。
 この消費税の引き上げは「社会保障・税一体改革」の一環として行われたわけですが、著者はこのほとんどを財政再建の費用としてしまったことが大きな失敗だったといいます。消費税が8%に引き上げられた2014年度では増収分の9割が借金の穴埋めにあてられており(116p)、人びとが社会保障の充実を実感することはなかったのです。

 それでも、著者は「税と貯蓄とは同じコインの裏表」(118p)だといい、税の強化の必要性を訴えます。
 人は老後や病気に備えて貯蓄をします。けれども、年金が充実すれば、医療費が無料になれば貯蓄は少なくてすむはずです。つまり、福祉が充実すれば貯蓄分を納税してもよいはずなのです。

 では、どれだけの増税を受け入れれば安心した社会保障制度が構築できるのでしょうか?
 消費税を1%引き上げると約2.8兆円の税収となります。もし、幼稚園・保育園の利用料、大学の授業料、病院での窓口負担、介護の利用料、障がい者福祉などの利用料を無料にしようすると、12兆円程度の財源が必要になり、保育士や介護士の給与の改善なども考えると7%強の消費税増税が必要になります。さらに現在の財政収支を均衡させようとすると3%強の消費税増税が必要です。つまり、最大で11%の引き上げを行えば(現在の8%と合わせると19%)、以上のサービスが無料で受けられる(もちろん社会保険料は払っているのですが)社会が実現するのです(120-123p)。
 この消費税19%という数字はヨーロッパの国々と比較すると決して高いものではありません。
 
 もちろん、著者は消費税だけではなく、所得税、法人税、金融資産課税、相続税などの増税も検討しています。
 例えば、富裕層の所得税を5%引き上げれば7000億円、法人税率を30%に第二次安倍政権以前の水準の30%に戻せば3.4兆円、相続税の平均税率を5%上げれば5000〜6000億円の税収が得られると試算しています(130p)。しかし、これは消費税の引き上げ幅を1.5〜1.8%ほど圧縮できるに過ぎず、やはり増税の本命は消費税です。
 さらに、30歳で所得の少ない健康な単身世帯といった福祉サービスの恩恵をあまり受けない人のことも考え、消費税の軽減税率をやめて住宅手当を創設することも提言しています(134p)。

 第5章は予想される批判への反論です。
 まず、消費税の逆進性に対してはそれは給付によって相殺可能だといいます。付加価値税の高いスウェーデンもこのやり方です。景気への悪影響に関しては、短期的には景気対策を行えばいいし、前回の14年の引き上げが15年以降の消費を停滞させたという説に関してはチャイナショックなどの要因だっただろうといいます(ここは疑問符がつく)。
 一方、著者は政府債務残高を理由に消費税の増税を訴える議論も否定しています。対GDP比236%の負債、国民一人あたり840万円以上というと「今すぐ何とかせねば!」と思う人も多いとかと思いますが、20年近くにかけて返すことを考えると20年分のGDPに対する政府債務比率は11.8%になりますし、政府に資金を貸し付けているのは国民です(168ー170p)。
 日本では政府が債務を増大させている反面、企業の債務は縮小しており、その合計は家計の純資産の枠内に収まっているのです(171p図5−3参照)。
 それならば国債発行でいいじゃないかという声もあるでしょうが、「所得=消費+貯蓄」であり、国際の原資は国民の貯蓄です。著者によれば、個人の資産が貯蓄を経由して政府に向かうのか、税という形で直接政府に向かうのかという違いに過ぎないのです(179ー180p)。

 さらに「ベーシック・インカムではだめなのか?」という批判に対しては、必要な財源が巨額なこと、「究極の自己責任社会が生まれるのでは?」という危惧から否定的です。

 終章では歴史を振り返りつつ、ウォンツ(欲望)ではなくニーズ(必要)に注目し、それをいかに保障していくかということを考察しています。
 近年は「官から民へ」という合言葉とともに、社会的ニーズを個人的ニーズに切り替える動きが続いていましたが、これからは自助だけではなく公助と共助を強化していくことが必要だといいます。ただし、それは90年代に流行った福祉多元主義ではなく、あくまでも公共部門が責任を果たした上で、その周辺の部分を民間などが埋めていく形のものです。
 そして、このような変革を今すぐ始めるべきだと呼びかけて本書を閉じています。

 ここから以下は本書への評価になりますが、なかなか難しいです。
 単純にこの本を理想的な社会のモデルをスケッチした本として読むならば、それほど批判を加える必要はないかもしれません。この本の訴える、高い税金の代わりに国が質の高いベーシック・サービスを供給する社会というのは魅力的なものであり、日本の今後を考えていく上でもひとつのモデルとなるものです。
 しかし、「おわりに」にも書いてあるように、この本は実際に「政治」を動かし、今すぐにでも日本社会を変えていこうとするマニフェスト的な本でもあります。そう考えると、やはり無理があるアイディアだと思わざるを得ません。

 本書に書かれている数字に特にごまかしがあるとは思いませんが、数字だけで社会を動かすことはできません。社会には制度があり、その制度のもとで人びとはさまざまな予想を抱いて日々の生活を営んでいます。この本はそこへの目配せがやや欠けていると思います。

 例えば、小田原市でもし各世帯が年に1000円払えば8100万の財源が生まれ、「年収400万円で20人の若いソーシャル・ワーカーを雇用できる」(227p)と書いています。「社会保険料をどう考えているんだ?」という突っ込みはさておき、自分も公務員の増員には賛成ですが、実際にこれはなかなか通らないでしょう。
 現在の地方公務員制度のもとでは、年収400万の若いソーシャル・ワーカーは、30年後には年収700万くらいの管理職になると人々は予想するだろうからです。もちろん、非正規公務員という形で雇う方法もありますが、それでは不安定な境遇の人間を生み出すだけでしょう。著者の考えを実現するためには地方公務員の給与の仕組みを変える必要が出ています。

 また、改革を行う場合にはどこから手を付けるのかということも大きなポイントとなります。ボウリングのセンターピンはどこなのかという問題です。
 著者は消費税の増税こそがそのセンターピンだと考えているのでしょう。「税と貯蓄とは同じコインの裏表」であり、消費税の増税によって人びとが貯蓄する余裕をなくしても、その代わりにベーシック・サービスを充実させれば問題ないからです。
 しかし、現実には貯蓄ができない世帯も増えています。この本には「所得=消費+貯蓄」という式が出てきますが、貯蓄ゼロに世帯に増税が行われれば消費を減らす以外に道はありません。消費税が11%引き上げられれば破綻してしまう家計は多いでしょう。

 ただし、この本には住宅手当の創設も盛り込まれており、この制度設計いかんによっては賃貸で暮らす人(自分もそうですが)は増税を受け入れるかもしれません。
 けれども、日本では人びとは新築の住宅を買うようにさまざまな制度で誘導されています(砂原庸介『新築がお好きですか?』参照)。住宅ローンを抱えていっぱいいっぱいの生活を送っている世帯の家計は破綻してしまうでしょう(住宅ローンの支払も補助する制度なら別ですが、それは難しいでしょう)。
 
 著者はすべての人が救われる社会をつくりたいと考えていますが、おそらく、この改革はかなりの人が犠牲になっても仕方がないと思われるような状況、例えば戦争や革命でも起こらない限り実現は難しいと考えます。
 普遍的な福祉を実現していく道としては、個人的には佐藤滋・古市将人『租税抵抗の財政学』で示されていた「所得税の立て直し」が好ましいと思います。もちろん、所得税だけで普遍的な福祉を実現させることはできませんが、最初の一歩としては消費税の大幅増税よりも明らかに現実的だと思います。
 「理想には共感するが手段には納得しない」、この本への評価はこんなところになります。


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