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2024年04月

小泉悠『オホーツク核要塞』(朝日新書) 8点

 世の中には知っておいたほうが良い知識と、知らなくてもおそらく大きな問題はない知識があると思いますが、本書が扱っているのは後者だと思います。
 もちろん、日本の安全保障を考える上でSLBMを搭載したロシアの原子力潜水艦の存在は外せないことではありますが、一般の人にとって本書に書かれているほどの知識は必要ないでしょう。

 ただ、それにもかかわらず本書は面白いです。
 これは著者のオタク的な知識とわかりやすい語り口のなせる技だと思いますが、海の中で繰り広げ荒れていた米ソの軍拡競争、ソ連崩壊後のロシア海軍の凋落、凋落後の核戦略の練り直し、そしてウクライナ戦争が極東の海に与える影響など、非常に面白く読めます。
 テーマ的には新書で出すようなものではないかもしれませんが、それが1冊の面白い新書に仕上がっています。

 目次は以下の通り。
はじめに 地政学の時代におけるオホーツク海
第1章 オホーツク海はいかにして核の聖域となったか
第2章 要塞の城壁 
第3章 崩壊の瀬戸際で
第4章 要塞の眺望
第5章 聖域と日本の安全保障
おわりに─縮小版過去を生きるロシア

 ウクライナ侵攻のような暴挙があっても各国が簡単にロシアに対して軍事的な制裁を行うことができない大きな理由が、ロシアが核保有国であり、全世界に核ミサイルを打ち込む力を持っているからです。
 そうした戦略核の3分の1程度がSSBN(弾道ミサイル搭載型原子力潜水艦)に搭載されていると言われています。
 そして、このロシアのSSBNが配備されている海域がオホーツク海なのです。

 まず、通常の潜水艦と原潜の違いです。通常の潜水艦は浮上時はディーゼル機関で、潜水中はバッテリーで動きます。バッテリーは長くは持たないので、しばらくしてディーゼル機関を回す必要が出てきます。シュノーケルを使って空気を取り入れるやり方も開発されましたが、敵に探知される可能性は高まります。
 一方、原潜は何ヶ月でも潜航し続けることができます。また、普通の潜水艦が数ノットで航行するのに対して、原潜は25〜30ノットで航行することが可能で、普通の潜水艦とは別の兵器だと言えます。

 この原潜の中で、弾道ミサイル搭載型をSSBNといい、巡航ミサイル搭載型をSSGNといいます。主に魚雷を使う原潜をSSNといいますが、近年ではほぼ何らかのミサイルが搭載されるようになっており、SSNとSSGNの区別は薄れつつあります。
 ロシアの核戦略の中心となるのはSSBNで、たとえ相手から先制核攻撃を受けても、このSSBNから発射されるミサイルで報復するが可能になります。

 第2次世界大戦後、ソ連は千島列島とサハリン(樺太)を占領します。スターリンは日本の軍事的な復活は時間の問題だと見ており、ウラジオストクに加えて、サハリンの対岸にあるソヴィエツカヤ・ガワニとカムチャッカ半島南部のペトロハヴロフスク・カムチャツキーの軍港機能を強化し、それぞれの港を鉄道で結ぶことを計画していました。
 
 スターリンの死後の1950年代半ばになると、ソ連でも核戦力が整い始め、1957年には初のICBM発射実験にも成功します。フルシチョフはミサイルの整備に重点を置くことで、兵力を削減し、ソ連の経済を発展させることを目論みました。
 歴史的にみてロシアはランドパワーの国で、海軍はアメリカに到底対抗できない状況が続いていましたが、核ミサイルを原潜から発射できる技術が開発されると、対アメリカの切り札としてSSBNが期待されるようになります。
 ただし、当初のSSBNから発射できるミサイルの射程は短く、アメリカ本土に近づいてから発射する必要がありました。そして、その必要もあってカムチャッカにSSBNが配備されました。

 ソ連の原潜がアメリカ本土に近づいて作戦を遂行しようとするときの大きな障害となったのが、米海軍が世界中の海洋に敷設した海底設置型水中聴音機(ソナー)ネットワーク、SOSUSです。
 音波が深い海の底に沿って数百キロ、場合によっては1000キロ以上届くことに気づいた米海軍は、このような音波を捉えて敵の位置を割り出すシステムの構築に着手します。
 これによって1970年代のアメリカはソ連のSSBNが母港を出て、アメリカの沖合の待機海域に来るまでの動きをほぼ完全に補足していたと言います。
 ソ連側はこれに気づいておらず、1967年にウォーカーという米海軍下士官が金に困って潜水艦に関する機密データをソ連に売り渡すようになってからでした。

 1970年代前半、ソ連に667B型(NATO名デルタⅠ型)というSSBNが登場します。最大の特徴は搭載ミサイルがR-29SLBM12発に変更されたことで、その射程は7800キロにも及びました。
 つまり、ソ連のSSBNはアメリカ本土に近づかなくても、ソ連の近海からミサイルを発射できることになります。ここから本書のテーマであるオホーツク海の「聖域化」という動きが出てきます。
 また、667B型は北極海の氷の下から氷を割って浮上し米本土に向けてSLBMを打つことも可能でした。

 1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻し「新冷戦」が始まると、アンドロポフはアメリカからの核先制攻撃に怯えるようになります。
 こうした中でソ連太平洋艦隊の潜水艦部隊は着々と強化されていきます。オホーツク海と日本海を「聖域」とすることで、アメリカの核攻撃に対する抑止力を保持しようとしたのです。

 陸上であれば陣地を構築するのですが、海上ではそれはできません。そこでソ連がとった方法は巨大な高速対艦ミサイルによって米艦艇の接近を阻止する方法です、これが要塞の「外堀」と言えます。
 ヨーロッパではバレンツ海の外側のノルウェー海がこれに当たり、グリーンランド・アイスランド・ブリテン島を結ぶラインが1つの防衛戦と考えられました。
 一方、カムチャッカに関しては接近する米海軍が必ず通る場所は想定できないので、おおよそカムチャッカから1000カイリ(約1800キロ)あたりが防衛ラインと設定されていたとのことです。
 日本海については、防衛ラインを敷こうと思ってもそこに存在するのは日本や韓国といったアメリカの同盟国であり、「外堀」をつくることはできませんでした。

 また、太平洋艦隊の水上艦艇の多くがウラジオストクやその近傍のフォーキノを基地としていましたが、これらの艦艇が北太平洋や東シナ海で活動するには、対馬・津軽・宗谷の三海峡のいずれかを突破する必要がありました。
 そのためソ連は強襲揚陸艦を太平洋艦隊に配備し、稚内などの海峡の要地を占領する計画をもっていたとも考えられます。
 ベトナム戦争後の1978年にはソ越友好条約によりソ連はカムラン湾の基地施設を25年間感咀嚼できることになり、ソ連海軍は東南アジアへも展開します。これによって三海峡を突破せずに活動することが可能になりました。

 オホーツク海という「要塞」を考えるときに「内堀」として重要なのが千島列島です。千島列島は比較的狭い範囲で島嶼が存在しており、通過できる海峡は限られているために、敵を待ち受けるにはもってこいの地形でした。
 しかし、無人島やほとんど人のいない島に大規模な部隊を駐留させるためには施設を一から作らねばならず、部隊の配備は進みませんでした。大規模な部隊が駐屯していたのは、日本が残したインフラを使えた択捉島や国後島に限られました(その部隊も1960年にはほとんど引き揚げてしまう)。

 ソ連が千島列島の防御に力を入れ始めたのは、カムチャカのルィバチー基地にSSBNが配備された1974年以降になります。
 千島列島南部に部隊が展開するようになり、1979年には色丹島でも駐屯地の建設が始まりました。さらに千島列島中部のシムシル島でも基地の建設が進み、地対艦ミサイル部隊も配備されました。

 ちなみにアメリカ側はこのSSBNを守るための「要塞」という概念はなかなか理解できなかったといいます。基本的に自軍の海軍は攻勢的な任務を帯びており、そのミラーイメージから、自国の近海で守られながら行動すえうSSBNを想像しがたかったからだといいます。
 それでも1980年代になると、ソ連がオホーツク海に「要塞」を築こうとしているという認識は共有されるようになり、日本の防衛戦略もソ連に三海峡のポイントを占領されないためのものへと変化していきます。 
  
 しかし、着々と整備されてきたオホーツク海の「要塞」は、1991年のソ連崩壊によって大打撃を受けます。ソ連の太平洋艦隊はロシアに引き継がれましたが、経済危機に見舞われたロシアにそれを維持する力はなく、多くの艦艇を退役させざるを得ない状況に追い込まれます。
 ソ連崩壊前から、米ソの軍備管理条約であるSALT‐Ⅰに基づいて旧式のSSBNの退役は進んでいましたが、ソ連崩壊後は総崩れとも言える状態になります。
 カムチャッカの潜水艦部隊は2/5に縮小し、沿海州からはSSBNの部隊がいなくなり、ウラジオストクを母港とするSSK(原潜ではない戦術潜水艦)の部隊だけが残りました。
 海軍軍人の給与も低迷し、海軍の備品を売り払うなども汚職も増えました。人員の質の低下も深刻で、新兵の1/3は使い物にならなかったといいます。

 水上艦艇も次々と退役していき、海峡をこじ開けるために配備された強襲揚陸艦も退役しました。北方領土に配備された陸上部隊も1/3程度になり、色丹島の部隊も撤退しました。
 シムシル島の基地も1994年に閉鎖され、配備されていた対艦ミサイルも姿を消しました。オホーツク海の「要塞」を守る内堀も崩壊しつつありました。

 原潜の解体も進みますが、ロシアは核兵器と原潜を手放そうとはしませんでした。軍の予算が削減される中で、核兵器だけがロシアにとって有効な抑止力という状態になったからです。
 ロシアの極右思想家であるドゥーギン(2022年8月に何者かに爆殺されかかった)も核兵器を重視しており、彼は「縮小版でもよいから『超大国』であり続けること」(207p)と考えていましたが、「超大国」であるために必要なものこそが核兵器なのです。

 1998年のロシア通貨危機時の国防相であったセルゲーエフは、通常兵器の開発や調達をほぼ停止する代わりに、新型のICBMとSLBMに予算を集中投下する方針を打ち出します。
 戦略ロケット軍をロシア軍の中核に据えようとするセルゲーエフの方針は陸軍・海軍双方から批判を浴び、軍の内部では激しい論争となります。一方、この論争の中で軍の方針が定まらなかったこともあり、カムチャッカの原潜基地は維持されました。
 大統領となったプーチンはこの論争について痛み分けに近いかたちで決着を付けます。オホーツク海の基地につては廃止の提案もあったそうですが、プーチンは最終的にこれを拒否しました。著者はその要因の1つとしてプーチンの「大国主義」志向を見ています。

 2000年、ロシア下院でSTARTⅡが批准されます。この条約は核弾頭の数を制限するだけでなく、ICBMへの複数個誘導再突入体(MIRV)搭載が禁止されたのが大きなポイントでした。
 MIRV化ICBMは比較的少ないミサイル数で多くの標的を破壊することが可能であり、「それならば撃たれる前に撃ちたい」という判断を誘発するものとして問題視されていました。
 ただし、SLBMについてはMIRVの搭載が認められました。これによってSLBMを搭載したSSBNは再注目されることになります。
 このSTARTⅡについては、アメリカが弾道ミサイル迎撃弾条約から脱退したことに伴ってロシアの下院が破棄を議決しました。これによってICBMのMIRV化が可能になり、オホーツクのSSBN部隊とその基地に関しては再び存廃が議論されるようになります。

 2010年前後になると、ロシアの経済状況も好転し、軍人の給与も大幅に引き上げられます。ロシア太平洋艦隊の活動も活性化しました。
 テロ対策などで西側諸国と協力する場面も増えましたが、2014年のウクライナへの軍事介入をきっかけに、ロシアと西側諸国は再び緊張関係に陥ります。
 ロシア軍の演習も対テロ的なものから、西側との戦争を意識したもになります。2014年の「ヴォストーク2014」では領土問題を抱える極東の仮想国家「ハリコンヤ」との間に軍事紛争が勃発し、そこにNATOで中心的な役割を果たしている「ミズーリヤ」が介入してくるというシナリオだったようで、日本とアメリカを想定したものでした。

 2015年にはカムチャッカに最新鋭の995型SSBNが配備され、翌年にはもう1隻配備されました。さらに2022、23年には改良型の995A型のSSBNがそれぞれ太平洋艦隊に配備されており、さらにもう1隻の配備が予定されているといいます。
 2022年にはカムチャッカのルィバチーに魚雷も巡航ミサイルも発射できる885M型という多用途原潜も配備されており、オホーツク海の外堀を再整備する動きが見られます。
 内堀に関しても、カムチャッカ〜千島列島に新しい地対艦ミサイルの配備が進められています。また、核魚雷、あるいは無人潜水艇などの母艦となる特殊任務原潜のベルゴロドがカムチャッカに配備されとの話もあり、この地域での軍事力の整備が活性化しています。

 さらに著者は衛星写真を分析して、ルィバチーの基地の様子やロシアのSSBNの行動パターンの解析なども行っていますが、これについては本書をお読みください。

 このようにオホーツク海のSSBNの「聖域」は近年になって再整備されつつあったのですが、そこに大きな影響を与えたのが2022年のウクライナへの侵攻です。
 ウクライナとオホーツクは遠く離れていますが、NATO諸国がウクライナ側に立って参戦することを阻止するために威嚇として核を使うというオプションを持っていると考えられます。そのときにどのような核が使われるかはわかりませんが、オホーツク海のSSBNからSLBMを発射し北極海のどこかで爆発させるような方法も想定できるといいます。

 一方、オホーツクの「要塞」の守りは低下しています。
 もともと、太平洋艦隊におけるSSBN以外の潜水艦や水上艦艇の数はソ連時代と比べて大きく減少しており、さらに2021年に択捉島と国後島に配備されたS-300V4防空システムが2022年の秋頃には撤去されたことが衛星写真から確認されているといいます。おそらくウクライナ方面やロシア本土の防衛に転用されたものと思われます。
 太平洋艦隊隷下にある海軍歩兵旅団もウクライナに送られており、また、北方領土に駐屯していた第18機関銃砲兵師団もウクライナに投入されており、この地域の陸上部隊の防御力は著しく低下していると考えられます。

 ロシア海軍は近年、カリブル長距離巡航ミサイルをあらゆる艦艇に搭載する「カリブル化」を進めているといいます。
 これには、カリブルによって相手の重要拠点を攻撃することで相手の開戦意図をくじく狙いがあると言われています。このカリブルを搭載した艦艇は太平洋艦隊でも配備が進んでいます。
 現在のところ、ロシアに日本を攻撃する理由などは見当たりませんが、万が一、NATO諸国との全面戦争になりそうなときに、オホーツクの核要塞を脅かす可能性のある日米の航空戦力に対する能動防御型攻撃という可能性あります(ただし、著者もそうした可能性は仮定を積み重ねた話だとしている)。
 著者はプーチン政権が続く限り、日露関係は「冷たい平和共存」のような現状維持を続けていくしかないと見ています。

 最後に著者はドゥーギンの「縮小版超大国」という言葉を引いて次のように述べています。
 「縮小版超大国」とは、核兵器の持つ究極的な破壊力によって縮小版の過去を再現し、その中で生きる国であると言えるかもしれない。(中略)
 だが、そうであるがゆえに、ロシアと現在の世界の間には常にすれ違いが生まれる。ロシアがもはや超大国ではないこと、ウクライナを含む旧ソ連諸国が自由意志を持つ独立国家となったこと、剥き出しの力の行使は長い目で見てロシアの衰退をもたらすこと。こうした現実をロシアは認めようとしない。その結果が2022年に始まったウクライナへの侵略であり、これによって西側との関係は取り返しのつかないほど悪化した。(344p)

 そして、核兵器の抑止力を支えているのがSSBNであり、だからこそ「オホーツク要塞はこれからも日本の北に存在し続ける」(345p)というのです。

 このように本書は「オホーツク核要塞」というマニアックな対象を語りつつ、世界情勢の今後や日本の安全保障のあり方などを考える材料も与えてくれます。
 ただし、本書の面白さはこのまとめではとり上げなかった数々のエピソードにもあり、読み物としても楽しく読めると思います。著者の強みが存分に活きた本です。


老川慶喜『堤康次郎』(中公新書) 6点

 堤康次郎は西武グループを一代で作り上げた人物であり、また、当選回数13回を誇り、衆議院議長も務めた政治家でした。本書はそんな堤康次郎の評伝になります。
 ただし、最初にも断っているように政治家としての活動には触れず、事業家としての堤康次郎を追っています。また、堤康次郎といえば多数の愛人との間に多くの子どもをもうけたことでも有名ですが、そうしたスキャンダラスな面も触れていません。
 基本的には事業展開を追っているために、堤康次郎という人物については最初はやや見えてこないのですが、最後に後継者となった堤清二と堤義明について述べた部分から、堤康次郎という経営者の特徴が浮かび上がってくる形になっています。

 目次は以下の通り
第1章 八木荘村から早稲田大学へ
第2章 軽井沢・箱根の開発と箱根土地会社
第3章 箱根土地会社の東京進出
第4章 箱根土地会社の開発事業と経営
第5章 武蔵野鉄道の支配と経営
第6章 西武鉄道の成立と戦中・戦後の諸事業
第7章 西武百貨店と西武鉄道
第8章 戦後の開発事業
終章 事業の継承

 堤康次郎は1889年に滋賀県愛知郡八木庄村で生まれています。農業の傍ら麻仲買商を営む家に生まれましたが、康次郎が4歳のときに父が亡くなってしまい、康次郎は祖父母のもとで育てられました。
 康次郎は高等小学校の成績もよく、滋賀県立第一中学校への入学資格がありましたが、孫の一人暮らしを心配した祖父が反対し、康次郎は家で農業に従事することになります。
 また、康次郎は農業とともに肥料の販売や農地の区画整理にも取り組みました。

 その後、康次郎は京都の海軍予備校で学び、愛知郡の郡役所の雇員となっています。
 1907年に祖父が死去すると、康次郎は上京を決意し、農地などの財産を処分し、1909年に早稲田大学高等予科に入学しました。
 康次郎は早稲田大学に入学すると、柔道部と雄弁会に所属し、人脈を広げました。雄弁会の活動を通じて、桂太郎、後藤新平、大隈重信、永井柳太郎らと知り合っています。
 大学部では永井柳太郎に師事し、『日露財政比較論』という本も出版しています。

 その一方で株で儲けた資金で郵便局を買って経営し、それ以外にも鉄工所の経営にも手を出すなど(失敗)、20代のときからさまざまなビジネスに手を出しています。
 その後、大隈重信が主宰する雑誌『新日本』の編集、さらには新日本社の経営を任されました。
 さらに千代田護謨の専務取締役になり、さらに東京護謨の設立に関わりました。海運業や人造真珠の養殖、石炭の採掘など、失敗した事業もありましたが、『新日本』に載った野澤源次郎の論説から康次郎は土地に注目していきます。

 野澤が有望だと指摘したのは、都会から離れた田園都市になり得る場所であり、その野澤が開発に着手していたのが軽井沢でした。康次郎は、この軽井沢と箱根に注目し、開発にのめり込んでいきます。
 
 康次郎が初めて軽井沢を訪れたのは1917年、30歳のときでした。すでに避暑地、別荘地としてそれなりに開発は進んでいましたが、康次郎は沓掛区有地の買収を申し入れ、沓掛遊園地会社を設立します。
 また、翌年の1918年には箱根に目をつけています。19年には強羅に10万坪の土地を買って開発に着手し、さらに仙石原、箱根町でも土地買収を行っていきました。
 1920年には箱根土地会社を設立しますが、この会社が康次郎の事業の中心的な存在になっていきます。

 康次郎は、イタリアやスイスなどの実例から、「風景が一国の有力な財源であり、之が開発は埋没して居る鉱物を採掘するに均しい」(55p)と考えており、日本においてその可能性のある地域が箱根でした。
 軽井沢にしろ箱根にしろ、別荘を持っていたのは一部の富裕層でしたが、康次郎はこれを一般民衆にまで広げることが重要であり、そこにビジネスチャンスがあると見たのです。
 
 箱根でも軽井沢でも、康次郎は別荘だけではなく、ホテルやテニスコート、共同浴場などをつくることで幅広いレジャーが楽しめる場所をつくろうとしました。
 また、分譲地を最初は安く売り出して別荘を作ってもらい、第2期、第3期の販売で販売価格を引き上げていうという手法もしばしばとられています。この手法はのちの都市部での住宅地の分譲でも使われており、1つのパターンとなっています。
 軽井沢の千ヶ滝遊園地の「文化村」の開発では、1920年に東京府に1万坪の土地を無償で提供し、翌年までに別荘をつくることを条件に希望者に分譲するということも行っています。

 1920年の下半期になると景気は後退し、箱根でも交通の不便な土地は売れなくなります。そこで、康次郎は東京市郊外での開発に動き出します。
 箱根土地会社は22年下半期から東京での土地取引を活発化させますが、23年に関東大震災が起こると、下町の地価が下落する一方で、山の手から郊外にかけての土地は高騰していきます。
 康次郎は、震災を抜きにしても、エネルギーが石炭から電気へと変わっていく中で工場は必ずしも下町のような船着場の近くに立地しなくても良くなると見ており、山の手や郡部の安価な土地の将来性を見込んでいました。

 まず、康次郎は豊多摩郡落合村の土地を買い集め、さらに高田村にあった高田農商銀行を支配下に置きます。
 1922年になると目白文化村の開発を始めていきます。開発規模としてはそれほどのものではありませんでしたが、ガス・水道・下水などのインフラが整備され、テニスコートなどもつくられました。この文化村は若い夫婦の憧れだったといいます。

 このころ大正デモクラシー期の新思想を受容した青年家族の間で、東京の住宅難を解決するために自らの所有する邸宅地を売却する動きが起こります。
 箱根土地会社はこうした土地を購入し、住宅地として分譲していきました。
 また、震災後に渋谷道玄坂百軒店をつくり、下町の多くの店を入居させて客を集めました。しかし、関東大震災からの復興が進むと、次第に渋谷の店は流行らなくなり、学園都市建設の資金調達の必要もあって売却されています。

 関東大震災後に康次郎が力を入れたのが学園都市の建設です。康次郎は武蔵野鉄道沿線の大泉村、中央線沿線の小平村と谷保村で学園都市の建設を企てました。
 大泉村では東京商科大学(現・一橋大学)の誘致が図られましたが、途中で小平や谷保も移転先の候補に上がり、大泉では核となる学園がはっきりしないままに学園都市の建設が進みます。
 康次郎は石神井公園駅と保谷駅の間に東大泉駅(現・大泉学園駅)をつくって武蔵野鉄道に寄付し、分譲を始めます。その売り出し方も派手で、歌舞伎役者の沢村宗十郎と芸術座の水谷八重子を呼んで「大泉学園都市林間舞踊大会」なるものを催しました。
 しかし、分譲自体は順調だったものの、住宅はなかなか建てられなかったといいます。

 小平では明治大学の誘致が計画されていました。箱根土地会社の社長の藤田謙一は明大の理事でもあり、震災で被害を受けた神田駿河台の土地を売却して小平の土地を買い、その差額で校舎などを整備する話が持ち上がったのです。
 しかし、この計画は明大の商議委員会で否決されてしまいます。それでも小平に商大予科を誘致することに成功します。
 さらに康次郎は、商大を谷保村に移転させることにも成功します。康次郎はこの地域の土地の買収を大々的に進めます。国鉄に土地を寄付して国立駅も開業させました(「国立」の由来については「国分寺と立川の間だから」という説以外にも、康次郎が「ここに新しい日本という国がはじまる ― 即ち国が立つ」(124p)と言って名付けたという説があるとのこと)。

 国立は、駅から真っ直ぐ南に広い通りが伸び、さらに東西45度に放射線状の道路があるという整然とした街並みが特徴で、後藤新平が満州でつくった都市の影響が指摘されています。この国立には、東京高等音楽学院も移転してきました。

 1924年、康次郎は衆議院総選挙に滋賀県第5区から出馬して当選し、永井柳太郎の斡旋で憲政会に入ります。
 しかし、その一方で箱根土地会社の経営は悪化しつつありました。25年下半期までは6%の配当を維持していましたが、これは蛸足配当であり、26年上半期から無配に転じます。箱根土地会社は外部負債で事業を拡大させてきましたが、資金繰りに苦しむようになったのです。
 1926年、箱根土地会社は社債の償還に失敗します。受託会社の神田銀行が担保権の行使へと動きますが、折からの金融恐慌で観だ銀行が破綻し、最悪の事態は免れます。
 
 箱根開発では、小田原電気鉄道の経営を握ろうとしましたがうまくいかず、駿豆鉄道を取り込みつつ、熱海〜箱根の自動車専用道路をつくろうとしました。
 1932年8月に十国自動車専用道路が開通し、「箱根は安くて早い熱海から」のキャッチフレーズとともにバスを走らせました。さらに駿豆鉄道と箱根遊船を合併させます。
 1936年には箱根が国立公園に指定され、箱根の人気はさらに高まりました。37年には日中戦争が始まりますが、駿豆鉄道は36〜42年にかけて大きな利益を上げています(154p表4-2参照)。
 戦争が始まっても伊豆温泉地方への遊覧客は一向に減らなかったからです。

 戦時下のおいても人が来たのは軽井沢も同じで、日中戦争以降も箱根土地会社は別荘地を大々的に売り出していました。
 ただし、配給が始めると、別荘居住者への配給が問題になります。箱根土地会社は事務職員を派遣して配給の手続きを代行しましたが、43年に別荘居住者に向けて出した「御知らせ」には食油、マッチ、石鹸、塵紙などと2〜3日分の食糧を持参するように呼びかけています。

 1931年、武蔵野鉄道の経営が悪化し払込失権株式が売りに出されると、康次郎はこれを競落し武蔵野鉄道の経営を掌握します。
 経営状態はなかなか上向かず、33年には東京電灯から電力の供給を停止されるという事態にまで至りますが、なんとか債務の整理に成功し、38年下半期以降は営業赤字が解消していきます。
 山口貯水池、天覧山などへの遊覧客の誘致に務め、さらに沿線開発が進み、新興キネマ大泉撮影所ができたことなどによって旅客数も増えました。また、吾野からの石灰石の輸送なども行っています。

 さらに国分寺〜村山貯水池の多摩湖線の経営にも乗り出します。これに対して武蔵野鉄道は西所沢から、西武鉄道が東村山から村山貯水池への路線を建設し、遊覧客の奪い合いとなりました。
 商大の予科が小平学園に移転したことで、多摩湖線の平日の利用者も増えますが、他の電車が動いていると速度が出ないといった有り様で、1935年5月にはその不便さに不満を持った予科学生による多摩湖鉄道車輌襲撃事件も起きています。
 康次郎が武蔵野鉄道の経営を掌握したことから、多摩湖鉄道は40年に武蔵野鉄道に合併されています。

 康次郎が経営を掌握した武蔵野鉄道と競合していたのが(旧)西武鉄道でした。
 西武鉄道は埼玉県西武の有力者が出資し、大宮戦(川越久保町〜大宮)、新宿線(新宿〜荻窪)、川越線(国分寺〜川越)という相互に連絡のない3線を営業していました。
 1927年、村山線(東村山〜高田馬場)が開通すると、川越〜高田馬場間の直通運転が可能になり、旅客数も増えましたが、その増加は1930年頃に頭打ちになり、その業績は悪化しました。

 一方、この村山線の開通は武蔵野鉄道との間に深刻な問題を引き起こしました。所沢駅を共同使用していたのですが、西武鉄道の駅員が駅務を管理する中で、西武鉄道の切符を買いながら武蔵野鉄道に乗り込む客が続出したのです。
 その他にも西武鉄道の駅員が武蔵野鉄道の急行を止めて車掌を殴打する事件が起こったり、武蔵部鉄道の幹部が駅員を連れて所沢駅に乗り込み西武鉄道の駅員を排除しようとしたりしました。

 1938年に交通事業調整法が制定され、交通事業調査委員会が設置されると康次郎は臨時委員として参加します。
 この委員会では東京の私鉄のブロックごとん小合同が主張され、武蔵野鉄道は西武鉄道や東武東上線とともに第2ブロックに指定されました。当初、西武鉄道は東武に合併される形で話が進みましたが、東武の主な路線は第3ブロックにあり、ここに経営資源を集中させる必要があったのか、武蔵野鉄道が西武鉄道を合併する形で話が進むことになります。

 戦時中も康次郎は時局を巧みに捉えた経営を行っていきます。食糧増産のために他社が嫌がる糞尿輸送を引き受け、帰りには野菜を都内に運び入れました。
 また、空襲で流れ出した隅田川の流木を引き揚げ、輸送する仕事を、流木を使用できる条件で引き受けました。1944年には、箱根土地会社の名称を国土計画興業にあらためています。

 1945年、武蔵野鉄道と西武鉄道は合併して西武農業鉄道になりました(翌46年11月に「農業」をとって西武鉄道になる)。武蔵野鉄道が西武鉄道を吸収する形でしたが、康次郎は旧西武鉄道の社員が劣等感を持たないように西武の名前を残しました。
 また、43年に康次郎は故郷の滋賀県の近江鉄道を買収しています。戦後に八日市鉄道も買収し、タクシー会社やバス会社を吸収して地域の交通を握る会社となりました。

 戦後になると、康次郎は復興社を通じて砂利・砕石事業に力を入れ、さらに復興社は建築にも乗り出していきます。さらに復興社は狭山湖の湖畔につくられた西武園のおとぎ電車、西武拝島線(日立工場の専用側線を買収して改良)の建設にも携わりました。また、復興社は池袋の再開発などの不動産事業に携わっています。
 また、康次郎は肥料の生産にも力を入れていますが、このあたりも時流に乗った動きと言えそうです。

 康次郎は戦争末期から池袋で土地買収を進めていました。康次郎のもとには銀座松屋の買収も持ちかけられたといいますが、康次郎は池袋に百貨店を開くことを選びます。
 池袋から伸びる沿線の人口が増えていたこともあり、池袋には西武百貨店の他にも三越、東横、丸物、東武といった百貨店が進出しましたが、西武百貨店は売り場面積で他社を圧倒していました。
 西武百貨店は1956年に100%子会社の西武ストアー(のちの西友ストアー)も設立しています。

 西武線沿線では、ニュータウン新所沢、ひばりが丘団地などがつくられたことで人口が増加します。
 それに合わせるように、康次郎は西武園、ユネスコ村、狭山スキー場などの開発を行ってレジャー施設を充実させ、豊島園の整備にも力を入れました。
 西武鉄道はこうした開発のための資金を借り入れや社債によって賄ってしましたが、これを可能にしたのが西武鉄道の持つ土地の膨大な含み資産でした。

 康次郎のエピソードとして有名なのが小田急傘下の箱根登山鉄道と駿豆鉄道との間に繰り広げられた「箱根山戦争」です。小田急は東急を率いる五島慶太の支配下にあり、箱根山戦争は堤康次郎と五島慶太の間の対決としてさまざまなメディアでとり上げられました。
 箱根周辺のバス路線をめぐって両者は激しく争い、訴訟合戦となります。両社は芦ノ湖の湖上輸送をめぐっても対立しました。
 特に駿豆鉄道が所有する自動車専用道路の使用をめぐって対立は激化しますが、1960年、神奈川県の内山岩太郎知事は康次郎に自動車専用道路の神奈川県への譲渡を申し入れます。
 株主総会では買収に反対することになりましたが、康次郎は政治家としての内山知事を評価する立場から譲渡を決めます。このあたりは政治家としての康次郎を本書は描いていないので、ややわかりにくい部分かもしれません。

 軽井沢は占領下において米軍関係者のお気に入りの場所となり、さまざまなレジャー施設が作られます。
 その後、占領軍が引き上げると康次郎は再び開発に乗り出していきます。特に冬季の需要を生み出すために、三男義明のアイディアをもとに千ヶ滝にスケートセンターをつくります。これが人気を呼び、軽井沢は冬場でも人を集めるようになりました。

 滋賀でも伊吹山のスキー場などを整備し開発を進めていきます。康次郎は湖という存在を非常に重視していたようで1961年に池田首相の特使として欧米を歴訪したときに、大津はジュネーブのようになり得ると書き送っています。
 ただし、湖西・湖南の交通は京阪が押さえており、開発は点としてのものになりがちでした。

 1964年4月、康次郎は心筋梗塞で亡くなります。75歳でした。
 本書は後継者であった堤清二と堤義明についても触れています。清二は西武百貨店を引き継いで流通グループを形成し、義明は国土計画興業と西武鉄道を引き継ぎました。
 著者は、義明は堤家の「家産」としての「事業」を継承し、父と同じような経営を行ったのに対して、清二は父の理念的なものを引き継いだと見ています。康次郎には「中産階級も別荘などを持てるようにする」などの理念がありましたが、そうしたものを清二は引き継いでセゾングループでライフスタイルを提案するような事業を展開したというのです。
 しかし、清二の事業はバブル崩壊後行き詰まり、義明は総会屋への利益供与で辞任し、株の虚偽記載やインサイダー取引で逮捕されています。

 このように本書では堤康次郎の展開した事業についてかなり網羅的に述べています。資本の状況や経営陣などについても説明しており、康次郎が展開した事業の実態についてはよく分かると思います。
 ただし、本書は堤康次郎のスキャンダラスな部分や暴君的なエピソードなどをほぼ書いておらず、堤康次郎という人間の実像を知りたい人にとってはやや物足りないかもしれません。ただし、最後の清二と義明についての部分で、この2人を合わせたような康次郎の姿が浮かび上がってくるような形にはなっています。

田原史起『中国農村の現在』(中公新書) 9点

 中国農村へのフィールドワークによって中国農村の姿を明らかにしようとした本。非常に貴重な記録で抜群に面白いです。
 中国の農村と都市の格差については、NHKスペシャルなどで熱心に農民工の問題をとり上げていたので知っている人も多いと思います。彼らが村に帰ると、そこは都市部に比べて圧倒的に貧しく、お金を稼げそうな仕事もないわけですが、そうした中で農民たちの不満は爆発しないのか? と思った人もいるのではないでしょうか。
 また、中国の農村は日本の農村のような地縁による強固な共同体ではなく非常に流動性が高いといった説明がなされますが、「農村」という言葉を日本の農村でイメージする私たちにとって、なかなか流動性の高い農村というイメージはつかみにくいと思います。

 こうしたさまざまな疑問に答えてくれるのが本書です。詳しくはこのあと書いていきますが、本書を読むことで中国の農村についての多くの疑問が氷解していきます。
 そして、最初に「貴重な記録」と書きましたが、このような外国人によるフィールドワークは習近平政権になってからかなり難しくなり、現在はほぼ不可能になっています。そういった意味でも非常に貴重な記録です。

 さらに、農村のあり方から、中国における代議制の難しさ、習近平政権の農村政策の狙いといったものも見えてきます。
 中国を理解するうえでも必読と言える本ではないでしょうか。

 目次は以下の通り。
序章 中国農村の軌跡
第1章 市民との格差は問題か?―農民の思考様式
第2章 農村はなぜ崩壊しないのか?―村落生活の仕組み
第3章 なぜ村だけに競争選挙があるのか?―農村をめぐる政治
第4章 中国農村調査はなぜ失敗するのか?―「官場」の論理
第5章 農村は消滅するのか?―都市化政策と農村の変化
終章 中国農村の未来

 中国を日本やヨーロッパと比べると、その大きな違いは封建制が紀元前3世紀ごろまでには終わっている点です。
 その後も唐代までは官僚が世襲的な貴族によって担われていましたが、それも科挙官僚の登用によって消えていき、早い時期に身分制まで解体されました。
 それもあって中国の農村統治は比較的緩やかでした。

 19世紀になると中国も近代化の波に飲み込まれます。20世紀になると農村は治安が悪化し、荒廃しますが、そうした中で農村を基盤に力をつけて政権を奪ったのが中国共産党です。
 共産党は人民公社という形で農民をまとめ管理していきました。公社制度が再調整された1961年以降だと、公社が2000〜3000戸、大隊が200〜300戸、生産隊が20〜30戸という形になっています。
 それまでの中国では飢饉が起こると農民たちは土地を棄てて移動しましたが、人民公社のしくみは農民を農村から逃さないものであり、これもあって大躍進政策では多くの餓死者が出ました。
 中国政府は農民を農村から移動させずに、都市人口は全体の20%以内、農村人口が80%以上という割合を守り、農村の余剰を用いて重工業化と軍備のための資本蓄積を進めました。

 1980年代初頭、人民公社が解体されていきます。このとき、土地を分配したのですが、その分配の仕方は平均主義的で、各家の人数に応じて分配しました。かつては各家が保有する土地の広さが違い、それが貧富の差に結びついていましたが、一連の流れの中で格差がリセットされたため、「どんぐりの背比べ」的な状況の中での再スタートとなりました。

 中国の地方行政は次のようになっています(【 】の中はかつてのあり方)。
 省―市(州)【地区】―県(市)ー郷・鎮【人民公社】ー村民委員会(行政村)【生産大隊】ー村民小組【生産隊】
 県は日本の都道府県よりも下のレベルでだいたい人口50万くらい。中心には県城という小都市があり、都市と農村を含んだ単位になります。行政村は2016年時点で、平均規模は394戸、1483人、ほぼ「顔見知り社会」になります。
 
 村民委員会は農村の住民組織であり、村の公益事業や揉め事の調停、社会治安の維持などを担う組織です。村民委員会は現在は5年に1度の選挙で選ばれています。また、この行政村には共産党支部委員会もあり、1つの行政村に数十人の共産党員がいます。
 中国の村には独自の課税・徴税権がなく、また、地方交付税のようなものもないために、村の運営費はほぼ「自力更生」で賄われてきました。
 2005年までは農業諸税と各種費用が農家から取り立てられていましたが、2005年に「税費」が全面的に廃止され、政府が農村から税を吸い上げて都市部へと回すことがなくなりました。農村が工業化や都市を抱える構造は21世紀になって大きく変わったのです。

 では、中国の農村の特徴はどこにあるのでしょうか? その1つが「家族主義」だと言われます。
 日本では「家」というものがあり、場合によっては奉公人までが「家」に含まれ、その「家」を守っていくことが重視されますが。中国で重視されるのは「家」ではなく「血の流れ」です。
 ですから、日本では嫁いできた女性の姓が変わりますが、中国では変わりません。嫁は「血の流れ」の中にはいないからです。
 
 しかも、中国では兄弟の間で財産が均等に分割されるために、「本家」と「分家」のような関係も生まれません。
 「血の流れ」が重視されるために、共同祭祀や葬儀は重要で、演劇性を帯びたものになります。
 血の流れを絶やさないことももちろん重要で、これと現世における家の発展を期待する家族主義が合わさってくるので子供への期待は大きくなります。
 
 このような家族主義が発展した背景には、もともと流動性の高い社会であったことと、身分性が早くに解体し、科挙という個人の実力が問われる社会では、日本の「家」のような身分の入れ物が必要なかったことなどがあげられます。

 1990年代の終わりごろから内陸の農村から沿海部の年に出稼ぎに出る農民工が増えましたが、これもこうした農村の背景から理解できるといいます。
 50〜60代の人は各世帯に均等に分配された農地を経営しています。これがあればとりあえず飢える心配はありません。一方、その子どもたちは出稼ぎに行きます。農地は狭いので労働力はそれほど必要ないからです。
 出稼ぎですから、旧正月や農繁期などには家に帰ってきます。高度成長期の日本の集団就職は基本的に移住でしたが、中国の農民工は人的な「還流」と言えるといいます。リーマンショック時も解雇された農民工はそのまま農村に帰ったため、大きな混乱は生じませんでした。

 出稼ぎは農民にとっては生きていく術を増やすものであり、本書で紹介されている江西省の赫堂金という男性は基本的には農村の暮らしが好きで、出稼ぎに行くのは農閑期のみです。ただし、妻は年間を通じて福建に出稼ぎに出ています。
 堂金の家の農地は2畝ほどで7か所に分散していますが、利用しているのは3か所だけであとは放置しているそうです。これは家庭内の人手が足りないからで、妻が帰ってくればすべての土地を領するのでしょうが、出稼ぎのほうが稼げるので放置されているのです。
 このように、例えば子どもの学費が必要なら農地を放置して出稼ぎに行き、必要がないならむらに帰って農業をするような自在性があります。

 出稼ぎによって農民たちは豊かな都市の暮らしも見てくるわけですが、農民の「公平さ」の感覚は都市と農村ではなく農村内部ではたらいており、都市に住む人々と自分たちを比べても意味がないという傾向があるといいます。

 その代わりに農村内部では競争意識がはたらきます。著者が農村に行くと、2000年以降になるとコンクリートづくりの3階建て、さらに10年代になると4階建ての家を目にするようになったといいます。
 しかも、3階部分や4階部分はコンクリート打ちっぱなしで内装はてつかずのまま放置されていることも多いのです。これは本来使う必要がないのに周囲との競争でより大きな家をつくろうとしたからです。
 こうした見栄の張り合いは、村の中での付き合いが希薄化したところでよく見られるそうです。よその家の状況がわからないこそ、家で見栄を張り合うのです。

 このような家族主義が強い中国の農村に凝集力はあるのでしょうか?
 日本だと「村」には一定の領域があり、そこに強い凝集力がはたらくのですが、中国では特定の人物から関係が伸びるような形でまとまりがつくられています。
 もともと中国、特に南方の村では、血縁者が移住して村を開き、その男系の子孫が徐々に人口を増やしながら拡大するといった形で村が形成されました。そのため、村の住民はだいたい血縁や姻戚関係にあり、その関係の濃淡によって普段の付き合いなども決まってきます。
 
 こうしたことから家の敷居は低く、著者の農村調査でも泊まる家は決まっているものの、食事をする家は毎晩違ったりするといいます。子どももさまざまな家を移動しており、だからこそ「留守児童」の問題も深刻化せずにすんでいます。血縁関係が強いため、日本にあるような「村八分」もないといいます。
 このような関係性重視の村を、人民公社の時代は地縁でまとめあげようとしました。ただし、一番末端の生産大隊のレベルでは、家族を一回り大きくした血縁集団と重なることも多く、だからこそそれなりに持ちこたえたとも考えられます。

 ただし、北方に行くと社会主義的地縁共同体の要素が現在でも色濃く残っているといいます。
 北京から車で1時間ほどの村では、いまだに「大隊」という言葉が残っており、拡声器を通じてさまざまな放送がなされています。村民の呼び出しが多く、また、投票の呼びかけなど、村幹部からのさまざまな呼びかけが拡声器を通じてなされるといいます。
 華北の農村では家々が真ん中に集中する形態が多く、このような拡声器による呼びかけが効果的なのです。

 現在の中国の農村を支えているのが基層幹部です。基層幹部はフォーマルな政治・行政組織の代表として政府・国家との関係をうまく処理し、村落コミュニティのさまざまな問題を解決し、同時に自らの家の発展を図る必要があります。

 本書では、北京近くの農村の女性の基層幹部である孫記平の仕事ぶりが紹介されています。
 2000年前後に婦人主任をつとめていた記平は、一人っ子政策推進のために二人目を妊娠してしまった女性に堕胎を説得したりする仕事をしていました。
 この村は野菜の栽培で成功していましたが、販路の開拓などにはやはり幹部が村民を導くことが必要だったと記平は語っています。
 農村の課題はさまざまですが、水や電気の確保、道路の整備などはこうした基層幹部がリーダーシップを取りながら行われていきます。

 このような問題を解決するために、基層幹部に富者が選ばれることも多いです。富者は汚職をせずに自らの資金で問題を解決してくれると期待されているのです。
 また、自分が裕福になれた人でないと村を裕福にはできないという考えもあります。自分の家を豊かにできない者が村を豊かにできるわけがないというわけです。また、問題がビジネスとして解決されるケースもあります。
 ただし、基層幹部の負担は大きく、辞めたいが上のレベルから辞職を許されないようなケースもあるといいます。
 
 第3章は「なぜ村だけに競争選挙があるのか?」。漠然と「とりあえず下から民主化を進めてみたけど、やはり共産党の一党支配を揺るがす危険性があるので村レベルで止まった」というような認識だったのですが、本書を読むともっと深い狙いも見えてきます。

 民主化は村に大きな変化をもたらしました。当初はセレモニー的な色彩が強かった選挙も、00年代なかばになると大量の立候補者が現れ、今までの村の幹部が落選するような事も起こります。
 本書で何回も登場する孫記平も2004年の選挙で落選してしまいました。この選挙のときから村幹部の給与が国家財政から支給されるようなこともあって、村幹部を目指す者が増えたのです。

 孫記平の村では2007年には「ヤクザ者」タイプが村民委員会主任に選出され、その他、まったく学歴のない幹部が選出されたりしたそうです。
 こうした状況に対して政府は、」「大学生村官」という形で大学卒業した人物を村幹部の助手として派遣しています。

 このようにあまりうまくいっているようには見えない村の選挙ですが、そこには中国の伝統の影響しているといいます。
 まず、村幹部は「政治家」や「議員」というよりは「官」の色彩が強いです。これには以下のような理由もあります。
 中国(農村)には特殊な社会集団としての「官」だけがいて、「代議員」や「政治家」に当たるような人間累計が存在しない。なぜだろうか?
 一つには、政治家が生まれるためには選出される母集団のようなものがはっきりしていないといけない。しかし、中国の場合、それがはっきりしない。「人民代表」といわれる人たちも、自分がいったい何を代表しているのかがよくわからず、ただ漠然とした名誉職といった意味合いが強い。(156p)
 
 現在の議会政治の源流となったヨーロッパの議会では、身分や自治都市などの代表者が集まりましたが、身分制が早くに解体された中国では代表すべき中間集団が存在しません。
 これは昔から意識されてきたことで、清末の思想家章炳麟は封建制の残っていない中国では代議制は不可能であると論じていました。
 著者はインドの農村も調査したことがあるのですが、インドではカーストが中間集団お役割を果たしており、それが選挙を機能させているといいます。

 それにもかかわらず、政府はなぜ村幹部の選挙を続けるのでしょうか?
 著者は、そこに政府が農村の基層幹部を重視しつつも、彼らが土着勢力化し地方のボスになることを防ぎたいという意図があったとみています。3年ごと(2018年からは5年ごと)の選挙によって基層幹部を交代させ、彼らが地方のボスになることを阻止する狙いです。
 ただし、選挙で敗れることは幹部がメンツを失うことを意味します。今まで村の公共性を担っていた彼らが「脱政治化」することの影響はまだよく見えていません。

 第4章では著者の失敗談が紹介されています。ここも面白いのですが、ここでは簡単に触れるに留めます。
 失敗は「習近平以前」と「以後」に分けられて紹介されています。
 習近平以前の失敗は、なにかのきっかけで「官」に目をつけられてしまったタイプが多いです。村の幹部たちはとにかく厄介事を嫌がるので、調査者は官に目をつけられているとなると、警戒され協力は得られません。
 習近平以後も基本的にはそうなのでしすが、以前にはあった自由の隙間のようなものも失われてしまい、外国人の調査というだけでにべもなく断られるという形になっています。

 第5章では農村の将来が展望されています。
 習近平政権の重要政策が「新型都市化政策」です。これは都市戸籍取得のハードルを緩和しながら、沿海部ではなく中部や西部の都市に農民たちを移動させていくというものです。
 
 ここで著者は「県域社会」というものに注目しています。県は都市と農村を含んでおり、その県の中心都市が県城です。新型都市化政策は農村の住民をこの県城で吸収していくことだといいます。

 農村でネックになるのが子弟の教育です。そこで子どもがいる世代は子どもの教育のために県城に移住します。一方、その親の世代は農村に残ります。また、子どもは学校に通うために県城に住みますが、片方の親は教育資金を稼ぐために出稼ぎに出ることもあります。
 それでも、本当にトップレベルの子どもはさらに上の地区級市や省城の学校に進学してしまい、県城の学校からトップレベルの大学への進学は難しくなっています。
 二流大学に進学した子どもは公務員などになるために県城に戻ってくることが多く、また、帰郷してビジネスを始める者もいます。県城に戻ってくる子どもは女性が多く、そのために一般的なイメージとは違って、県城では女子の結婚難があるそうです。

 また、政府が貧困対策のために県城や鎮に集合住宅を用意し、そこに移住させるという政策も進んでいます。
 このように人が集められている県城ですが、著者の観察によれば、そこは「まったり」とした世界だといいます。農村では家の発展のために競争が繰り広げられていましたが、県城では現状維持的なムードが漂っているというのです。
 そして、この現状維持的なムードは政府にとって都合の良いものだといいます。少し前までは貧しい農村から大都市に人が殺到するというイメージで、どこでも熾烈な競争が繰り広げられていたイメージでしたが、この県城というクッションができたことによって、現状肯定的なイメージを持つようになり、それは習近平政権にとって非常に都合が良いことなのです。

 この他にもコラムでは中国における酒と宴席の話がとり上げられており、付き合いのために飲む「社会的飲酒者」なる面白い概念が出てきたりするのですが、このあたりは本書をお読み下さい。また、このまとめではとり上げることができなかった著者の経験した面白いエピソードもたくさんあります。
 中国の農村におけるフィールドワークによって中国の農村の特徴を明らかにするとともに、そこから社会主義の経験の意味や、中国の政治のあり方、今後の社会の動向までさまざまなことを考えさせてくれる面白い本です。

萬代悠『三井大坂両替店』(中公新書) 8点

 副題は「銀行業の先駆け、その技術と挑戦」。書名と副題だけではそれほど面白そうだとは思わない人も多いかもしれませんが、三井に残された金を貸す際に行った信用調査の記録をもとに三井のビジネスモデルと当時の大坂の町人のあり方を掘り起こした本というと、「それは面白そうだ」と思う人もいるでしょうし、実際面白いです。

 本書と同じ中公新書の小島庸平『サラ金の歴史』や青木雄二『ナニワ金融道』などを読んだ人であれば、金貸し業にとっていかに貸金を回収するかが重要だということはわかっていると思いますが、これについては江戸時代の金貸しも同じです。
 特に信用情報のデータベースがない、司法制度が不十分という中で江戸時代の金貸しはうまく立ち回る必要がありました。
 本書を読むと、三井は幕府から認められた特権と、人を使った地道な信用調査によってこの問題に対処していたことがわかります。
 また、史料から浮かび上がってくる当時の大坂の人々の様子も興味深く、歴史に興味がある人、経済に興味がある人の双方にとって楽しめる本になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 事業概要
第2章 組織と人事
第3章 信用調査の方法と技術
第4章 顧客たちの悲喜こもごも
第5章 データで読み解く信用調査と成約数

 三井の歴史は元和8(1622)年に伊勢の松坂で生まれた三井高利に始まっています。高利は8人兄弟の末子で、江戸で兄の店を手伝い、その後、松坂に戻って金貸し業を行っていました。
 兄の死後、再び江戸に進出し、「店前売り」「現金。掛け値なし」で有名な三井呉服店で成功します。「店前売り」「現金。掛け値なし」は必ずしも高利の発明ではなかったようですが、これをうまく軌道に乗せました。

 高利と息子たちは、呉服の仕入れを円滑に進めるために為替・両替・融資業務を行う両替店の設立も進め、江戸、京都に続き、元禄4(1691)年に大坂両替店を開業しています。
 三井大坂両替店の中心は融資業務でした。大名貸で有名だった鴻池屋善右衛門家や加島屋久兵衛家に比べると年間利息収入の面ではやや見劣りがするのですが(8p図1参照)、三井はより少ない管理職で、また、家法で禁じられていた大名貸を原則的には行わずに利益を上げていました(それまでの経緯から藩に貸さざるを得なかったケースもあった)。

 三井大坂両替店にも業績の浮き沈みはありましたが、江戸時代を通じて大坂の商業金融の中心的な存在でした。
 この三井大坂両替店の業績を支えたのが述為替(のべかわせ)貸付というやり方です。

 元禄4(1691)年、三井は幕府から御為替御用を請け負いました。この基本業務は大坂から江戸へ幕府公金を送金することです。
 この業務を請け負ったのは三井だけではなく、御為替組と呼ばれた両替屋が複数でグループをつくって共同で幕府公金を預かることが多かったといいます。三井組は御為替組が預かる公金の32〜42%程度を預かっていたとされ、一事業主としてもっとも多いものでした。

 御為替御用の仕事は、基本的には大坂で幕府から貨幣を預かって江戸でそれを幕府に納めるというものでしたが(本書にはもっと詳しい説明がある)、その大きな特徴として大坂で幕府公金を預かってから江戸城の御金蔵に納めるまでの期限が90日間もあったことでした。
 
 この90日という期間を活用して貸付を行うことが可能になります。
 もっとも90日間という期間は短いので、公金を長期で貸し出しつつ他の資金で幕府に金を納めることになりますが、幕府は金さえ納めればその運用については黙認していました。
 ただし、ストレートに貸すんは体裁が悪いということもあって、顧客から為替を買い取りという形で融資を行っています。こうした融資方法を延為替貸付といいました。

 この延為替貸付には体裁を整える以外にもメリットがありました。顧客の滞納で訴訟となった場合に、大坂町奉行が幕府公金の保護の観点から優先的に返済命令を出したのです。
 当初はこの仕組みを利用するために、どのくらいの為替を買い取ったかを大坂町奉行に報告する義務があったのですが、18世紀後半以降、この義務も曖昧になり、三井大坂両替店は預かった公金以上の融資をすることができるようになりました。
 このような保護を受けていた融資でしたが、借りる側からすると金利が低いというメリットがありました。

 貸付には他にも不動産を担保とする家質貸(かじちかし)と動産を担保とする質物貸(しつもつかし)がありました。
 延為替貸付は強力な武器でしたが、唯一対抗できなかったのは先取特権と呼ばれる優先弁済権で、これがついた不動産や動産は延為替貸付よりも先に引き渡されました。
 ですから、借主の担保が魅力的であった場合は、延為替貸付にせずに家質貸や質物貸にして、先取特権を設定することもありました。
 それぞれの割合を見ると、18世紀末から19世紀初頭にかけて質物貸が延為替貸付に迫っていた時期もありましたが、全体的には延為替貸付が中心で、特に1820年代以降は圧倒的な中心となりました(35p図7参照)。

 第2章の前半では、当時の大坂の街の様子や、江戸時代を通じた大阪の地位の再検討などが行われていますが、ここでは奉公人についての部分から紹介したいと思います。
 奉公人には、店表(たなおもて)という営業部門と、台所という炊事や接客以外の単純作業を行う2種類がおり、すべて男性で構成されていました。台所は基本的に短期勤務が前提となっており、本書では店表の奉公人について解説しています。

 店表の奉公人は10〜13歳で入店します。親元から離れた子どもたちは約5年の住み込みで手代に昇進できました。
 手代になると初元として3年くらい務め、初元4年目で平の手代となります。平を6年、入店して16年ほど26再前後で役づきの手代に昇進します。さらに33歳前後で住み込みの最上位として店を統括する支配に昇進し、勤続30年目、40歳前後になると別宅手代に昇進します。彼らはこの時点でようやく妻を迎え、家族を持つことができました。
 中途採用もいましたが、基本的には年功序列の人事が行われています。

 しかし、男だけの共同生活には厳しい面もあったようで、大坂両替店における奉公人の状況を見ると、10年以内に退職するものが多く、別宅手代まで勤め上げたものは8%だったといいます(67p表3参照)。
 退職の理由としては、相続などが理由になっている者が多いですが、これは家庭を持つことを夢見て辞めたものが多かったと考えられます。また、横領などによって辞めさせられた者もいたようです。

 給与についても奉公人の職階と勤続年数によって決まっていました。
 1860年代の基本給を見ると、子どもは年銀150匁、初元1年目が銀250匁、役づきの組頭の初年は銀600匁、支配格になると銀1350匁といった具合です。また、元文4(1739)年のものと比べると、初元の給与は変わらないものの、その後の傾斜が急になっています(69p表4参照)。
 さらに年褒美という退職や別宅の際に支給される餞別金や、割銀というボーナス、合力銀・望性銀(もうしょうぎん)と呼ばれる退職金もありました。
 退職金は勤続24年目前後で跳ね上がるようになっており、多くの奉公人はここまで頑張って退職金を元手に独立することを目指したと思われます。
 昇給カーブは最初は緩やかで途中から急になっており、三井としては不適格者には早めに辞めてもらい、一定期間勤めたものにはできるだけ長く勤めてもらいというという意図があった考えられます。
 
 三井大坂両替店の奉公人の給与や待遇は他に比べてよかったといいます。それでも、男性だけの共同生活にはストレスがたまることもあったようです。
 奉公人の反省文が残っているのですが、そこでは給料の前借りが問題になっています。
 なぜ前借りが必要だったかというと、遊所通いにハマる奉公人がいたからです。遊所通いは禁止されてはいませんでしたが、店側もその問題点は認識しており、指定の芝居茶屋などをつくってそこに誘導するようなこともあったようです。
 芝居茶屋は特定の遊女を抱えるのではなく付近の茶屋から遊女や芸妓を呼んでおり、特定の馴染の遊女をつくらせないために芝居茶屋が都合が良かったといいます。

 第3章では三井大坂両替店が行っていた信用調査の内容が紹介されています。
 信用調査は「聴合」と呼ばれており、「聴合帳」と呼ばれる記録が残っています。特に経営不振に陥った18世紀後半以降は詳細な調査が行われています。

 借入希望者は、三井大坂両替店を自ら訪問するか、金融仲立人と呼ばれる仲介業者が代理として訪問することになります(全体の約半数が金融仲立人経由だという)。
 この申込みに対して手代が契約の可能性があると判断すると信用調査が行われます。信用調査は若手の手代が行い、役づきの手代に対して報告する形でまとめられます。
 基本的に判断するのは役づきの手代でしたが、見込みがない場合は若手の手代の判断で断っていました。
 こうした信用調査は他の金貸しも行っていましたが、113p以下で紹介されている実例を見ると、所有する不動産、家族構成、親類、商売の状況など、事細かに調べていることがわかります。 

 まず、ポイントになったのが不動産です。
 江戸の不動産について下総の干鰯問屋喜多村壽富(ひさとみ)の家訓が残っています。それによると、収益(地代・家賃)、と支出(町内諸雑費)のバランスのほか、立地は商売に向く角地が良いこと、賃貸形態では貸家形態ではなく土地のみを貸す貸地形態を選ぶように言っています。
 貸地よりも貸家のほうが利回りは高いのですが、火災時には再建費用がかかり、これが家主の大きな負担となったのです。

 大坂でも角地は有利な物件でしたが、形態としては貸家形態が多く貸地形態は少なかったといいます。
 本書では、三井大坂両替店の残した史料から大坂家屋敷の時価の分布図もつくっていますが(125p図17参照)、北船場や堂島、天満などの地価が高くなっています。
 信用調査を見ると、角地の他にも橋筋などの人通りの多いところを評価しており、逆に人通りの少なさや借家人の質の悪さなどが問題視されていました。また、周囲の空室の具合や建物の状態なども確認しています。

 次に動産についてです。これについては1780年前後に三井大坂両替店が不振に陥ったときに三井家から出された掟書が参考になります。
 これによると、その商人が平生取り扱っている商品なら良いが、平生取り扱っていない商品の場合は断るべきだと書いてあります。また、たとえ担保掛目が低くても人柄が不確かであれば融資すべきでないとしています。
 さらに、藩の蔵米は担保としてよいが商人が買い集めた納屋物はよくないとしています。これは蔵米が藩による検査を経ているのに対して、納屋物は質の保証がないからです。米以外のものについても蔵物を評価しています。
 ただし、蔵者の印を偽造するケースもあり、信用調査ではそこを見極めることも求められました。

 第4章では、史料に現れるさまざまな顧客が紹介されています。
 詳しくは本書を読んでほしいのですが、強制隠居されられた当主、住友家の相続争い、不品行のために母親に財布を握られている男、独身なのに愛人を3,4人囲っている干鰯商人などが登場します。
 これらの人物への融資はいずれも避けるべきだとされています。最後の干鰯商人などはやり手だったのでしょうが、家が揉めている、あるいは、独身で家がしっかりしていないというのは、当時としてはかなりのマイナス要素だったことが見えてきます。
 
 ギャンブル癖なども問題になりますが、特に当時の大坂で問題として上がっているが米相場への参加です。少ない元手で大きな取引ができる米相場はギャンブル性の強いものであり、三井大坂両替店は基本的に米相場に手を出している人物への融資を断っています。
 また、公金の使い込みや横領が噂される客との取り引きも断っています。真偽はともかくとしてそうした噂が立つこと自体が問題だったのです。

 他にも、当時の商人は「館入(たちいれ)」と呼ばれる大名(蔵屋敷)に出入りできる立場を目指して無理をすることがありました。三井大坂両替店の信用調査ではこうした情報もチェックしています。
 遊所通いもチェックされており、信用調査ではマイナス要因でした。本書では、本人がやり手でも養子が遊所へ通い銭使いが荒っぽかったケースや、大夫を700両で身請けして愛人にしたものの逃げられてその後は改心したケースなどが紹介されていますが、いずれも融資は行われませんでした。

 第5章ではデータから三井大坂両替店の融資を見ていきます。
 まず、融資の回数の多かった相手は基本的には財力のある豪商や上層商人です。1回の融資のランキングを見ると薩摩藩や加賀藩、久留米藩といった藩の名も見えます(210p表13)。基本的に大名貸を行わなかった三井ですが、薩摩藩からは蔵屋敷を、加賀藩や久留米藩からは米などを担保にとって融資していました。
 上位には鴻池屋などの名も見えますが、このクラスになると信用調査は行わずに融資を行っていたそうです。

 信用調査を行った顧客の職業を見ていくと、質屋、酒造、薬屋が上位で、4位に無商売、6位に各国荷受け問屋が見えます(214p表14)。
 質屋は貸付元で金の確保、酒造は原料の米の確保、薬屋は高価な薬種の仕入れが必要だったためと考えられます。無商売は金貸しか地主だと考えられ、一定の資金が必要でした。荷受け問屋も自分で仕入れるのではなく荷主から不断に仕入れる形だったので手元資金が必要だったと考えられます。
 ただし、荷受け問屋の成約数は少なく、三井大坂両替店は荷受け問屋をかなり浮き沈みのある仕事だと見ていたのでしょう。

 三井大坂両替店が信用調査を行った顧客3825人のうち人柄についての記述があるのが902人いるそうですが、著者はこれを人柄が良い◯、評判が悪い✕、どちらとも評価しにくい△に分けて分類しています。
 「不品行」、「人柄よろしからず」、「派手」、「山師」、「強欲・虚言癖」などの悪い評価をつけられたのは172人で、成約したのは21人。そのうち13人は「派手」で、品行が悪いと成約することが難しかったことがわかります。また成約した21人の多くに連帯保証人がつけられています。

 全体を見ると成約率は15〜25%程度であり、信用調査によってかなりの割合がはじかれていたことがわかる。一方、常連客との契約更新も多く、この常連客への融資が事業の中心であったことも見えてきます(226p図20参照)。
 幕末になると、特に新規の契約が減っており、社会の混乱を見ながら常連客との取り引きで利益を確保していた様子もうかがえます。
 三井大坂両替店は、大名貸で有名な鴻池屋善右衛門や銭屋佐兵衛を上回るような利益をあげていますが(235p図21参照)、これは信用調査を経たことによる貸し倒れの少なさが効いています。
 さらにエピローグでは、三井銀行への変身や、三井大坂両替店の信用調査が結果的に大坂の商人に品行方正な生き方を強いたのではないかということが指摘されています。

 このように、本書は三井大坂両替店の史料を通じて三井大坂両替店の経営と当時の大坂の街の様子を明らかにしています。
 特に三井大坂両替店の組織や経営のやり方を明らかにしている部分と、史料から明らかになる顧客の姿の部分が面白いですね。
 顧客の遊所通いを問題視しながら、自分の店の奉公人の遊所通いは一種の必要悪としてそこにも気を配っていた部分など、矛盾ではありますが、同時に究極のメンバーシップ型雇用のようでもあり興味深いです。
 まず、素材の面白さがありますし、その素材から広がっていく面白さもある本になっています。
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